国学派ネットワークの情報拠点・中津川
明治維新に至る尊皇攘夷運動における国学の影響を考える上で、島崎藤村晩年の大作『夜明け前』は重要な資料となる。二部からなる同書は、ペリー来航の嘉永六(一八五三)年前後から明治十九(一八八六)年に至る激動の時代を、中山道の宿場町であった信州木曾谷の馬籠宿(現在の岐阜県中津川市馬篭)を舞台に、主人公青山半蔵の生涯を描いた作品である。半蔵のモデルとなったのが、藤村の父正樹だ。
馬籠で本陣・問屋・庄屋を代々の家業としてきた家に生まれ、その家業を継いだ半蔵は、平田派の国学に傾倒して王政復古を願った。しかし、明治維新は彼が描いたものとは別のものとなっていく。絶望した半蔵はついに狂い、座敷牢に生涯を終えた。 続きを読む 『夜明け前』と平田国学
「は行」カテゴリーアーカイブ
百田尚樹氏をアメリカが「非常識だ」と批判─対米自立覚悟の時
2014年2月8日の共同通信の報道によると、百田尚樹氏が都知事選応援演説で、アメリカによる東京大空襲や原爆投下を「大虐殺」とした上で、東京裁判を批判したことについて、同日、在日米大使館報道担当官は「非常識だ」と批判した。これは、アメリカ政府の公式の統一見解としている。
「安倍首相は戦後レジームからの脱却を断念?─対米自立派と対米追従派の分岐」(2014年1月31日)で、「日本が戦後レジームから脱却することをアメリカは許さない」というメッセージが、再び強く発信されようとしているのだろうかと書いたが、もはやそれは確実と見なければならない。
いまこそ、戦後レジームからの脱却を目指す者は、アメリカからの圧力をはねのけて対米自立に突き進む覚悟を決めるときではなかろうか。
忘却された経済学─皇道経済論は資本主義を超克できるか 二
二、神からの贈り物と奉還思想
「君臣相親みて上下相愛」する国民共同体を裏付けるものは、わが国特有の所有の観念である。皇道経済論は、万物は全て天御中主神から発したとする宇宙観に根ざしている。皇道思想家として名高い今泉定助は、「斯く宇宙万有は、同一の中心根本より出でたる分派末梢であつて、中心根本と分派末梢とは、不断の発顕、還元により一体に帰するものである。之を字宙万有同根一体の原理と云ふのである」と説いている。
「草も木もみな大君のおんものであり、上御一人からお預かりしたもの」(岡本広作)、「天皇から与えられた生命と財産、真正の意味においての御預かり物とするのが正しい所有」(田辺宗英)、「本当の所有者は 天皇にてあらせられ、万民は只之れを其の本質に従つて、夫々の使命を完ふせしむべき要重なる責任を負ふて、処分を委託せられてゐるに過ぎないのである」(田村謙治郎)──というように、皇道経済論者たちは万物を神からの預かりものと考えていたのである。
念のためつけ加えれば、「領はく(うしはく)」ではなく、「知らす(しらす)」を統治の理想とするわが国では、天皇の「所有」と表現されても、領土と人民を君主の所有物と考える「家産国家(Patrimonialstaat)」の「所有」とは本質的に異なる。 続きを読む 忘却された経済学─皇道経済論は資本主義を超克できるか 二
忘却された経済学─皇道経済論は資本主義を超克できるか 一
一、肇国の理想と家族的共同体
「人民の利益となるならば、どんなことでも聖の行うわざとして間違いない。まさに山林を開き払い、宮室を造って謹んで尊い位につき、人民を安ずべきである」(宇治谷孟訳)
『日本書紀』は、肇国の理想を示す神武創業の詔勅をこのように伝える。皇道経済論では、国民を「元元」(大御宝)として、その安寧を実現することが、肇国の理想であったことを強調する。
山鹿素行の精神を継承した経済学者の田崎仁義は、皇道の国家社会とは、皇室という大幹が君となり、親となって永遠に続き、親は「親心」を、子は「子心」を以て国民相互は兄弟の心で相睦み合い、純粋な心で結びついている国家社会だと説き、それは力で社会を統制する「覇道の国家社会」とも、共和国を指向する「民道の国家社会」とも決定的に異なるとした[i]。
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蒲生君平墓表に刻まれた藤田幽谷の撰文
ああ君蔵は、いつも関東の処士をもって任じ、このため生活は困窮を免れなかったけれども、なお天下の奇男子と称賛するに値する。どうして、かの翩々たる俗儒が、先生といわれているのと同列に扱われようか。私が聞くところでは、君蔵は最期に臨んで、なお天地の正気を称し、三宝の説を述べたという。すなわち、たとえ瞑没するとも、精神は天地の間にとどまって、その正気を意中の人に授けるであろうと。ここにおいて、古人が謂う『死して亡びない者』(『孝経』三十三章)とは、君蔵のことをいうのであろうか。ああ、もはやこのような人傑とは、幽明境を距ててしまった。この私は、誰と語り、誰に従ったらいいのだろうか。
(撰文の結語、安藤英男訳)
佐藤文雄と維新派言論機関『大気新聞』
松村介石、満川亀太郎、大川周明らの思想的影響を受けて、独自の興亜・維新運動を展開した佐藤文雄は、大正15年4月に宮城の気仙沼で大気社を創設、『大気新聞』を発刊した。言論機関としての高い志は、創刊号の次の一文に示されている。
「現代文明社会に於て社会教育機関として又報道機関として新聞紙の必要なることは吾人の今更論ずるまでもない所である。然しながら現今公にせられてゐる新聞を見るに其の何れもが新聞本来の目的から遠ざかり徒らに一方に偏し情実にとらはれ、営利のみ目的とし公明を失してゐる、殊に地方に横行する新聞の如きに至っては其の低劣なるに吾人の等しく遺憾とする所である、かかる現状を黙視するに忍びず決然として起ち……真の文明なる理想の社会建設の為に全力を傾注するのは吾が同人の大気新聞である」
「大気」と命名した理由を、佐藤は次のように説明している。
「藤田東湖先生の正気歌の劈頭に『天地正大気、粋然として神州にあつまり秀ては不二岳となり巍々として千秋に聳え』云々とあるが、此の気ありてこそ日本は常に最高の善に向ひ創造されつつあるのである。……天下に峻徳を明らかにし、人類を一様に慈み養ふの象徴は、我が地球を普く包む大気に於て明かに現され、所謂吾人は此の大気の潤徳により生を続け、然かも日に日に新らたなる己を造りゆく事が出来るのである。日に新らたなる己を造るということは新日本を創造するの所以である。即ち此の理想的新日本建設の第一歩として地方人の英気を養ひ地方文化の向上と産業発達のために、敬愛する我が同郷の各位と一致協力、大気仙沼建設のため一大貢献をなさんとするものである。これ我が同人が『大気』の名を選び、世のあらゆる不義非道に対して宣戦を布告するの覚悟、即ち筆を投ずるの覚悟を以て新聞を発刊した所以である」
『大気新聞』は綱領として、
一、宗教的生活の実現 一、精神生活に於ける自由の実現 一、政治生活に於ける平等の実現 一、経済生活に於ける友愛の実現 一、地方文化発達の実現 一、産業交通政策の確立──を掲げ、次のように宣言した。
〈「大気新聞」は筆を投ずるの覚悟を以て刊行するものであります。筆を投ずるの覚悟とは即ちあらゆる世の不義非道に対する宣戦を布告するの覚悟であります。平等を欠ける現在の政治は特権階級擁護の政治であります。友愛の精神なき経済生活は幾多同胞を死滅せしめんとして居ります。更らに精神生活に自由を失へる日本国民は真実の意味に於ける奴隷であります。日本は今や国民的にも国際的にも奴隷解放の陣頭に起つ秋が来たのであります。日本は何時までも同じ日本ではありません。日本は現に造られつつある国であります、即ち最高の善に向って突進する国でなければなりません、国家は国民の魂を基礎とし且つ国民の魂を以て組立てられた家であります。故に日本を創造しつつある者は吾人お互の魂なのであります。孔子は三千年の昔に於て「明徳を天下に明にせんと欲する者は先づ其国を治め共国を治めんと欲する者は先づ其家を斉ふ其家を斉へんと欲する者は先づ其身を修む」と説示して居るではありませんか。所謂吾人其者を救ふは日本国家其者を解放するの所以でなければなりません、日本国家の解放は、やがて大亜細亜の解放であります。大亜細亜の解放は、やがて人類の解放であります。即ち我が日本は人類解放戦の大使徒たることを信じなければなりません。吾人「大気新聞」同人は其力小なりと雖も以上の理想実現のため渾身の努力を続けんとするものであります。即ち其第一歩としてお互国家中心勢力たる地方人の天地正大の気を養ひ地方文化の向上と産業交通発達のため一大貢献をなさんとするものであります〉
佐々木実氏「国家戦略特区は『1%が99%を支配するための政治装置』だ」
『日刊ゲンダイ』(2014年1月21日付)「構造改革派が支配 竹中平蔵が牛耳る『国家戦略特区』の実態」に、佐々木実氏のコメントが載っている。以下、『月刊日本』2月号に掲載された佐々木氏インタビュー記事の一部を転載する。
〈いよいよ今年から国家戦略特区が動き出します。『市場と権力』(講談社)で竹中平蔵氏の実像に迫ったは、特区法の成立と特区諮問会議の設置によって構造改革派が政策決定を牛耳る仕組みができあがってしまったと警鐘を鳴らしています。特区の危険性について、佐々木氏に聞きました。
竹中平蔵氏の復活が意味するもの
── 国家戦略特区諮問会議の民間議員に竹中平蔵氏が就任しました。
佐々木 特区を実質的に主導してきたのが竹中氏であることは明白です。特区構想は、2013年5月10日に開催された「第1回国家戦略特区ワーキンググループ」から本格的に動き始めましたが、その1カ月ほど前の4月17日の産業競争力会議で、竹中氏が「立地競争力の強化に向けて」と題するペーパーを用意しました。そこには、「経済成長に直結する『アベノミクス戦略特区』(仮称)の推進」が打ち出されていたのです。
新藤義孝・地域活性化担当大臣が5月10日の会合のために用意した「世界で一番ビジネスのしやすい環境をつくる」というペーパーは、まさに竹中氏の主張に基づくものだったのです。新藤氏は、これまでとは次元の違う特区を創設し、総理主導の下、強力な実行体制を構築すると明記し、総理を長とし、民間有識者が参画する諮問会議の設置などを提案したのです。しかも、新藤氏が用意した資料には、参考として竹中氏の「アベノミクス戦略特区」構想がわざわざ添付されていたのです。 続きを読む 佐々木実氏「国家戦略特区は『1%が99%を支配するための政治装置』だ」
電力自由化がもたらす悲劇
脱原発を掲げて都知事選に立候補した細川護熙氏と、それを支援する小泉純一郎氏が話題になっているが、細川陣営の田中秀征氏は「電力自由化・原発ゼロ」を掲げるみんなの党を支持してきた人物。
いま、電力自由化に向けた動きが着実に進められていることに注意すべきなのだ。2014年1月15日、茂木経済産業大臣は、政府が進める電力システム改革について、「限られた供給の中で効率的な電力消費が行われる社会を作りたい」と述べ、政府として新規参入を促し、電力小売りの全面自由化を推し進める考えを示した。
電力自由化がいかなる状況を招くかはすでに先進国で実証済みだ。英米の電力自由化の問題点を取材したシャロン・ビーダー氏は『電力自由化という壮大な詐欺─誰が規制緩和を望んだか』(草思社、2006年)で次のように指摘している。
「電力自由化が実施された地域の大半では、家庭用、小企業用の電気料金が上がり、それも劇的な値上げとなることもしばしばあった。なかでも、取引市場が整備され、有力な大手電力会社が多数存在する地域で市場操作がおこなわれており、日本でも、ひとたび取引市場が始動すれば、こうした現象が起こらないと考える理由はない。…自由化され、民営化された電カシステムのなかでは、世界的に見ても、サービスと信頼性が低下してきた。というのも、規制下にあった電力会社の負っていたサービス責任が、短期的な営利目標に取って代わられたからである。…競合する民間企業が達成できると思われた効率向上は、多くの場合、短期のコスト削減によってもたらされた。それには、サービスの質やレベルを落とすことも含まれており、より安い費用で同一レベルのサービスを提供するわけではなかった。サービスの料金を値上げすることで投資収益率を上げることもあった。しばしばコスト削減は、従業員にたいする報酬と労働条件の切り下げによって達成され、何千という電気労働者が解雇された。…コスト削減のもうひとつの安易な方法は、近視眼的ではあるものの、安全、保守管理、トレーニング、開発研究などにかかる費用を切りつめることである。古くなった設備でも、定期整備したり、故障が起こるまえに交換したりしない。その結果、事故や設備に関連した停電が増加したし、配送電網の保守点検と開発の計画立案と責任は市場優位性を与えられなかった」
坪内隆彦「『靖献遺言』連載第7回 崎門学派の志と出処進退」(『月刊日本』平成25年6月号)
御用学者・林羅山
慶長十(一六〇五)年四月、若き林羅山は徳川家康と初めて対面しました。二度目の会見の際、家康は羅山に「後漢の光武帝は漢の高祖の何代目であるか」、「前漢の武帝の返魂香(伝説上の香)はどの書に出ているか」、「屈原の愛した蘭の品種は何か」と尋ねました。羅山はいずれの質問にも正しく回答しましたが、これらの質問は儒学の本質と関わりのない愚問です。
『林羅山』を著した堀勇雄氏は、「この難問・愚問はこの後の家康と羅山との関係─聖賢の道を求める師と弟子との関係ではなく、学問知識の切売りをする雇傭関係を表徴するといえる」と書いています。
さらに、堀氏は、家康は天下の覇権を握り政治を行うために、羅山の該博な知識を利用しようとしただけであり、いわば百科事典代わりに羅山を側近に置こうとしたのであると書いています。
当時、幕府の官職に儒者を登用した先例はありませんでした。そこで、家康は羅山を僧侶の資格で登用することにしたのです。慶長十二年、羅山は家康の命によって剃髪し、名を道春(僧号)と改めました。堀氏は「廃仏を唱える羅山が剃髪したのは、聖人の道を行おうとする実践的精神を放棄して、単に博学と文才を売物とする職業的学者の立場を選んだことを意味する」と批判しています。家康に取り入った羅山は、家康の権力によって収集された貴重本の充満した書庫を管理するようになり、慶長十五年には幕府の外交文書を起草するようになりました。 続きを読む 坪内隆彦「『靖献遺言』連載第7回 崎門学派の志と出処進退」(『月刊日本』平成25年6月号)
天誅組総裁・藤本鉄石と黒住教、そして崎門
吉村寅太郎、松本奎堂とともに天誅組総裁として維新の魁となった藤本鉄石は、黒住宗忠が開いた黒住教の影響を受けていた。天保十一年、鉄石は二十五歳のときに脱藩して、全国行脚の途についた。延原大川の『黒門勤皇家列伝』には、「この天保年間は、宗忠の説いた大道が備前の国を風靡した頃で、鉄石も早くより宗忠の教説人格に接触して、大いに勤皇精神を鼓舞されたものと思われる」と書かれている。
さらに同書は「彼は常に自筆の天照大御神の御神號並に、宗忠七ヵ条の大訓を書して肌守となし、或は、宗忠大明神の神號を大書して人に与えし…」とある。宗忠七ヵ条とは、
「日々家内心得の事
一、神国の人に生まれ常に信心なき事
一、腹を立て物を苦にする事
一、己が慢心にて人を見下す事
一、人の悪を見て己れに悪心をます事
一、無病の時家業おこたりの事
一、誠の道に入りながら心に誠なき事
一、日々有り難き事を取り外す事
右の条々常に忘るべからず恐るべし 恐るべし
立ち向こう人の心は鏡なり己が姿を移してやみん」
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