以下、遠藤友四郎『国体原理天皇親政篇』(錦旗会本部、昭和8年)の目次を紹介する。
序文
序篇 世変の前兆たる世相と我等の危惧
一、 明治維新には王政復古の形式獲得・昭和維新には皇国日本への復帰完成
二、 世の大多数者は常に前兆を前兆として感知し得ぬ
三、 前兆は必ず心ある者をして危機を思はしむ
四、 罪人に対する昔の拷問・国民全部に与へられる今の生存苦
五、 我が日本には今や毎日平均百人以上の自殺者がある
六、 徳川時代の日本と仏蘭西と露西亜の虐政ぶり
七、 今の生存苦は果して社会的拷問に非ざる乎?
八、 学校はカントの倫理を教えて社会はマルクス指摘の通り
九、 恐るべき片手落ち!今の我が滔々たる外国化の風潮
十、 幕末の大義名分!日本にのみ有つて外国に無きもの
十一、 忠義の的は天子様の外に何者も無いと云ふ不動の信念
十二、 ああ「陛下の赤子」が「資本の奴隷」とは何事ぞ!
十三、 昭和維新そのものの前に先づ精神的に「日本人の日本」の獲得 続きを読む 遠藤友四郎『国体原理天皇親政篇』目次 →
日本企業の国際競争力強化という美名のもとに、大企業優先の税制を是認することが、國體観念に合致するのか。そもそも國體に合致した税のあり方とはいかなるものなのか。それを考える上で、大正から昭和初期に皇道経済論を称揚した出口王仁三郎の租税制度廃絶論には見るべきものがあるのではないか。
王仁三郎は、昭和9年10月に刊行した『皇道維新と経綸』(天声社)において、次のように書いている。
「皇道維新の要点は皇道経済の実施であり、租税制度の廃絶である。元来租税制度なるものは御國體の経綸的本義で無い事は、御遺訓の明白に的確に証明し給ふところである。租税徴収は実に蕃制の遺風であつて、又金銀為本を以て富国の要目と為し、生存競争を以て最終の目的と為す大個人主義制度である。然るに皇国の経綸制度なるものは、実に世界万民の幸福を目的とし給へる国家和楽の国家家族制度である。故に昭和の御代は、古今の汚らはしき租税徴収の悪性を根本より廃絶する事が神聖なる大日本天皇の御天職に坐します所の、経世安民の経綸を始めさせ給ひ、皇道経済を施行し給ふ第一歩たるべきものである」
以下は、昭和7年末に大日本生産党産業調査部が編んだ『日本新経済策 前巻』の目次。
第一章 總論
一 日本主義の發祥と國家社會主義/1
二 國民思想と經濟社會組織/3
三 資本主義經濟の行詰と經濟組織の改修より建設へ(附圖七頁、九頁)/5
四 企業經營合理化の要/10
五 國家管理に依る統制經濟社會の經營的矛盾性(附圖十三頁)/11
六 中小商工對策の根本問題/14
七 農村對策の根本問題/15
八 金融機關の國家管理の提唱/17
九 國營事業とすべき企業/18
十 我經濟社會の建設大綱(附圖二十頁)/19
十一 企業統制の眞意義と具體的手段/21
十二 產業統制機關の組織と機能 (附圖二十五頁)/24 続きを読む 皇道経済の施策─大日本生産党産業調査部編『日本新経済策 前巻』 →
二、神からの贈り物と奉還思想
「君臣相親みて上下相愛」する国民共同体を裏付けるものは、わが国特有の所有の観念である。皇道経済論は、万物は全て天御中主神から発したとする宇宙観に根ざしている。皇道思想家として名高い今泉定助は、「斯く宇宙万有は、同一の中心根本より出でたる分派末梢であつて、中心根本と分派末梢とは、不断の発顕、還元により一体に帰するものである。之を字宙万有同根一体の原理と云ふのである」と説いている。
「草も木もみな大君のおんものであり、上御一人からお預かりしたもの」(岡本広作)、「天皇から与えられた生命と財産、真正の意味においての御預かり物とするのが正しい所有」(田辺宗英)、「本当の所有者は 天皇にてあらせられ、万民は只之れを其の本質に従つて、夫々の使命を完ふせしむべき要重なる責任を負ふて、処分を委託せられてゐるに過ぎないのである」(田村謙治郎)──というように、皇道経済論者たちは万物を神からの預かりものと考えていたのである。
念のためつけ加えれば、「領はく(うしはく)」ではなく、「知らす(しらす)」を統治の理想とするわが国では、天皇の「所有」と表現されても、領土と人民を君主の所有物と考える「家産国家(Patrimonialstaat)」の「所有」とは本質的に異なる。 続きを読む 忘却された経済学─皇道経済論は資本主義を超克できるか 二 →
秘法「恵印三昧耶法」と精神障害治療
大石凝真素美が36歳の時に弟子入りした修験者・山本秀道とは、一体いかなる人物だったのか。
秀道は、文政10(1827)年2月16日に美濃国不破郡宮代村で正寿院秀道として生まれた。山本家は、江戸時代までは鉄塔山天上寺と称し、南宮山の一画に坊を構え、院号を正順院または正寿院と号する醍醐三法院に連なる修験の家であった。修験道は、寛政11(1799)年に光格天皇より「神変大菩薩」の諡号を受けた役行者、役小角(えんのおづの)を開祖とする。伝説によると、役小角は摂津国の箕面山の大滝で、インドの僧ナーガールジュナ(龍樹菩薩)の「大いなる法」を授けられたという。
役小角入滅後、醍醐寺開山の聖宝・理源大師(832~909年)が、大峰山を巡歴し、霊的相承によって役小角の秘法を受け、醍醐派修験道の秘法として後世に継承したとされている。この秘法は「恵印三昧耶法」(「恵印法流」)と呼ばれ、7段階の修法によって構成されている。
父正寿院秀詮は、83歳にして弟子数十名を率いて寒中の養老の滝に浴する事30日という強の人であった。彼は、「狂人を祈祷し至当乃道理を説得して其親祖兄弟姉妹親戚に至るまでを感伏せしめて前非を改良し将来を慎ましむ全快を得る者千有余人」と伝えられた。彼は、「山本救護所」の名称で加持祈祷による精神障害者収容施設を運営していたのである。
「伝統治療の豊かさと危うさ:滝、祈祷、温泉、迷信」もまた、「山本救護所」に注目している。梅村貞子氏によると、秀詮が精神病治療に用いたのは、修験道の中心的修法である「加持祈祷」と、山本家内の複雑な対人関係から生み出された家族調整の手段としての「説得」であった。
しかし、神仏分離令によって神仏習合の色合いが強い修験道は変容を迫られた。明治3(1870)年6月、鉄塔山天上寺は廃寺となり、山本家の宗教的基盤も修験道から神道へと移った。この結果、「山本救護所」の精神病治療も加持祈祷から生活上の実践へと変化した(梅村貞子「精神障害者収容施設山本救護所の歴史」『郷土研究岐阜』1976年12月、13~17頁)。
大石凝真素美は慶応末年に秀道に弟子入りし、俵佐村の勝宮(勝神社)で、鎮魂帰神法を実践していたとされる。山本白鳥氏は、大石凝の天津金木学は秀道との霊的な共同作業として、神人合一によって成就されたと指摘している。この作業には、太玉大観と名乗る木村一助が参加していたが、途中で木村が脱落したことで、「神業」は全体として未完に終わったという(山本白鳥「大石凝翁ゆかりの地を訪ねて」(大石凝真素美全集刊行会『大石凝真素美全集 解説編』1981年)、84頁)。
さて、秀道の思想として注目すべきは、その奉還思想である。彼は、明治17(1884)年12月、「我が所有の地所はじめ金銀財貨の類残らず大君へささげ奉ってくれ」と郡役所を通じて、県令に申し出た。これに対して、役所側は狂人のたわ言として、取り合わず放置した。その2年後の明治19(1886)年4月1日、山本家が火事になり、貴重な古文書等が失われてしまった。ところが、秀道はなんら頓着することなく、この火事を「物を私有仕り候故の天遣」と受け止めていたという(前掲81頁)。秀道は、その6年後の明治25(1892)年5月に死去している。
『維新と興亜』編集長・坪内隆彦の「維新と興亜」実践へのノート