「日本と中国が同じ青写真を持たなければなりません。持たなければ又二十数年前の日中戦争をくり返す危険があるからです。その共通のアジア政策を作るものは、共通の思想運動、たった一つのものが孫文会なのであります」
王道アジア主義者・木村武雄が昭和四十六(一九七一)年十一月に「日中米三角関係の政治展望」と題して行った講演の中の言葉である。筆者は『木村武雄の日中国交正常化─王道アジア主義者・石原莞爾の魂』で、木村が日中国交正常化を使命として動いた背景に石原莞爾の王道アジア主義があったことを指摘した。そして、日中の国交を正常化させる際に、重要な意味を持ったのが、日本の在野の志士と孫文が王道アジア主義を共有した歴史である。しかも、孫文思想の共有は中台関係安定化の礎ともなりうる。
戦前、木村は石原莞爾の思想に共鳴し、東亜連盟協会を設立、王道アジア主義の旗を掲げて活動した。戦後、木村は日中国交正常化を模索した。昭和三十九(一九六四)年九月に訪中し、中国建国十五周年記念式典に参加、陳毅外交部長と会談した。木村と陳毅の間で、日中国交正常化についての議論が交わされた可能性もある。帰国後、木村は日中国交正常化への思いを次のように語っている。
「日本と中国は両方が好きだから嫌いだからといって如何ともすることが出来ない間柄です。日本は中国を嫌いだからといって、アメリカに引越すわけには参りません。中国が日本を嫌いだからといって、ソ連に引越すわけにも参らない隣り同志なのであります。
その隣り同志が、これから何年間、何十年間、否何百年間対立抗争してお互いにいがみあっておる苦痛よりは晴れやかに手を握って進む事がどれほど幸福だが知れないのであります。本当にこの隣り同志が平和のために手を握りあって古い文化に根ざして新しい時代に貢献してゆく、世界を道徳国家の競争へと導くために、世界一家をつくるために手を握って努力してゆく、これがこれからの日本の政治の方向ではなかろうかと私は思っております」(木村武雄『世界を動かす巨人に会って・中共を視察して祖国日本を想う』昭和三十九年十二月)
木村は、当初佐藤栄作総理を動かして日中の国交を正常化しようとした。そのために、佐藤の自民党総裁四選を敢えて支持した。昭和四十七年七月のインタビューで木村は次のように述べている。
「(佐藤四選に)保利(茂)くんも反対、そういう中でわたしと川島(正次郎)さんは四選すべしと訴えた。
なぜそうしたかと言うと、あの当時、佐藤体制というものは、日本の憲政史上を通じて最強だったわけです。……この強固な体制を利用して、国家的な事業をやらそうというのが、川島さんとわたしの考えだったんですよ」
ここで木村が語った「国家的な事業」とは何か。彼は次のように続ける。
〈日中と日ソの改善をやらせようとした。わたしが四選、四選と言うとるときに、佐藤総理が「お前はおれに四選してなにをやれと言うのか」ときくから、内政は保利くんにまかせて、あんたは外交をやれ。中国とソ連を相手にして男らしい外交をおやんなさい。そのために四選してほしいと言ってるんですよ、と話したんです〉(『週刊文春』昭和四十七年七月三十一日号)
一方、昭和四十六年七月十五日、ニクソン大統領は中国を訪問すると発表した。これを受け、木村をはじめ自民党議員の間でも日中国交正常化を急ぐ必要があるとの考え方が強まった。
「石原莞爾分骨記念碑」に刻まれた孫文の大アジア主義
木村は昭和四十六年八月十五日、米沢の御成山公園に「石原莞爾分骨記念碑」を建立した。昭和二十四(一九四九)年八月十五日に石原が亡くなると、木村は石原の遺骨を分骨し、米沢に持ち帰って埋葬していたのである。
令和四年八月、この分骨記念碑を訪れるため、大アジア研究会代表の小野耕資氏とともに米沢に赴き、木村武雄の次男莞爾氏、三男征四郎氏、孫の忠三氏の案内で車を走らせた。中腹の御成山公園からは米沢盆地を見渡せる。そこからさらに八百メートルほど山道に沿って登ると、重厚な記念碑が姿を現した。高さは五メートルほどもある。木村はこの記念碑を石原の故郷鶴岡に向けて建てたという。木村が撰した碑文には、彼の思いが凝縮されている。
「(石原)先生の思想は……岡倉天心のアジアは一なりの思想、孫文の大アジア主義と軌を一にする東亜連盟から世界最終戦争論にまで発展する。その総てが世界絶対平和を追求する石原先生の革命思想の発露である。……先生はアジアを直視して、アジアの独立と繁栄が、隣国を敵視反目する中国と日本の調整に始まるとした」
木村によるこの記念碑建立は、石原の霊に「日中国交正常化を必ず実現する」との誓い立てたことを意味する。
令和六年十月には「木村武雄伝承会」が米沢市で設立され、同月二十七日に「石原莞爾分骨記念碑」の前で顕彰祭が開催された。これに強く触発された筆者は、改めて記念碑建立当時の木村の動向を調査した。そこで改めて発見したのが、冒頭に紹介した木村の講演録「日中米三角関係の政治展望」だ。ここには日中国交正常化を熱望する木村の思いが明確に示されている。
「日本が独立国になっておる。中国も独立国になった。そして何百年に亘って虐げられて来たアジアが、アジアの各民族が簇々と独立したのであります。この時日本と中国が戦さをして両方が共倒れになり、両方が傷ついたならば再び欧米各国によって折角独立したアジアの弱い国々が又支配されない、蹂躙されない、植民地化されないと誰が云い切ることができますか。それでどんなことがあっても日中は相争うわけには行かないのであります。
そうでありますから、ニクソン訪中の前に日本の指導者が周恩来と会う必要があるのです。日本も新しい価値観を持ったのです。その価値観とは何だといえば、大正十三年孫文が北伐の途上わざわざ日本に立寄って、欧米の亜流は汲むなよ、欧米の物真似はするなよ、植民地行政はやるなよ、と言って孫文が日本に忠告したのです。それを日本は受止めないで、日本が欧米の流れを汲んで植民地行政をやってトドのつまりは戦争に突入して元も子も無くしてしまったのです」
このように孫文の忠告を受け入れなかった戦前の日本政府を批判し、王道アジア主義の理想を高らかに掲げた。
「アジアの経済を開発して、アメリカに優る平和、文明それを造ろうじゃないか、その相談を周恩来と毛沢東と日本の指導者と出来ない筈はありません。それをするには一日も早く日本と中国が国交調整しなければなりません」
その際、木村が頼ろうとしたのが、孫文の精神である。それは日中の絆だけではなく、中台の絆を力強く支える精神だ。そのような思いで、木村は孫文会の重要性を強調し、次のように述べた。
「日本の孫文会の会長には尾張の殿様の徳川義親さんがなっておいでになりましたが、今度、私がお引受けしたのであります。……孫文主義には台湾といえども異存がありませんです。今孫文の霊は毛沢東の手によって立派に南京の近郊の中山陵に祭られております。両国にまたがる運動をしてみたい。そして二度と日本と中国が衝突しない間柄を作ってみたい。そして両国の手によってアジア全体に揺ぎない平和、見事な繁栄を築き上げてみたい。それが私の念願であります」
やがて佐藤栄作総理では日中国交正常化は難しいと判断した木村は、自ら田中角栄総理を誕生させ、日中国交正常化を成し遂げたのである。正常化から四カ月後の昭和四十八(一九七三)年一月十八日、木村は北京を訪れ、人民大会堂で周恩来首相と会談した。周恩来は、典型的な夜型人間だった。木村との最初の会談も夜中の十二時にスタートし、午前三時まで続いた。さらに二回目の会談は同日午後九時から開始された。周恩来は、合計五時間もの時間を木村との会談に費やした。
周恩来が木村を特別な存在と見ていたのは間違いない。城山英巳氏は〈木村は、中国側からも「元帥」と呼ばれ、当時から自民党の若手議員を引き連れて訪中し、中国側から重視された〉と書いている(城山英巳『マオとミカド』)。
木村と対面した周恩来は、開口一番「今、日本の東亜連盟の同志はどうしていますか」と尋ねたという。五時間に及んだ周恩来との会談について、木村は多くを語っていないが、あるいは王道アジア主義によるアジアの新秩序についても意見を交わしたのかもしれない。
孫文会会長を務めた廖承志の母何香凝
この周恩来と木村の会談に同席していたのが、廖承志だった。国交正常化の影の主役は、日本側が木村、中国側が廖承志だったのである。
廖承志は明治四十一(一九〇八)年九月に東京の大久保で生まれ、暁星小学校で学んだ。大正八(一九一九)年に中国に帰国して国民党に入党した。廖承志の父廖仲愷は孫文の盟友だ。
廖承志は昭和二(一九二七)年に再び来日し、早稲田大学附属第一高等学院に入学している。翌昭和三年に中退して中国に帰国し、中国共産党に入党した。中華人民共和国成立後は、華僑工作などの責任者を務めていた。
昭和三十(一九五五)年四月十八日、インドネシアのバンドンでアジア・アフリカ会議が開催された際、経済審議庁長官の高碕達之助が日本代表として参加した。その際、高碕は周恩来と会談した。そこに、陳毅外交部長ともに同席していたのが廖承志であった。
バンドン会議から七年後の昭和三十七(一九六二)年十一月、日中両国は「中日長期総合貿易覚書」に調印した。これにより、民間友好貿易が半官半民の貿易へと拡大されることになったのである。両国の責任者の名前のイニシャル、廖(LIAO)の「L」と高碕(TAKASAKI)の「T」をとってLT覚書貿易と呼ばれるようになった。
徳川義親の後を継いで孫文会の日本側会長に就いたのが木村であり、当時中国側の会長を務めていたのが、廖承志の母何香凝であった。
このように孫文の精神には日中関係を支えるシンボル的意味がある。木村亡き後、孫文会は消滅してしまったように見える。いまこそ、令和の孫文会を設立し、アジア新秩序の構築に取り組むべきなのではないか。