戦後保守を批判した『新勢力』

 令和七年七月二十日に行われた参院選での参政党の躍進について、筆者の周囲では「戦後保守勢力とグローバリストの時代の終焉ではないか」との見方もある。ここで言う「戦後保守勢力」とは、アメリカに過度に依存する結果、国家主権の喪失を是認するばかりか、本来の日本の姿を取り戻そうという気概を失ってしまった保守勢力を指しているのだろう。
 参政党の政策には、「『グローバリズム全体主義』に対抗して『自由社会を守る国民国家』を実現させる」と明確に書かれている。そして、参政党の政策は「國體・国柄・国家アイデンティティ」を柱の一つに掲げ、「男系(父系)による皇位継承」「日本人自らが自国の国家アイデンティティを確認し、国をまもり、日本の国柄を未来へと継承していくために、国民自らが憲法を創る『創憲』に向けた国民運動を推進」「戦後の教育政策により制限された神話教育を再評価」「柔道、剣道、弓道、相撲などの武道のほか、なぎなた、合気道などの普及を通じて、日本の精神文化と身体文化の継承を図る」などと述べている。

 ともあれ、七月二十日には戦後保守勢力が岐路に立たされていると感じる機会があった。日本安全保障フォーラム主催の講演会でのことだ。筆者は「GHQが封印した楠公精神」と題して講演させていただいたのだが、質疑応答では戦後保守勢力の限界を指摘する声も上がった。
筆者は、昭和維新運動の精神を引き継いで毛呂清輝らが昭和三十一(一九五六)年に創刊した『新勢力』のことを紹介させていただいた。『新勢力』の記事と本格的に向き合うようになったのは、三上卓門下の大愚花房東洋と出会ってからだと記憶している。三十年ほど前のことだ。
 毛呂は大正二(一九一三)年七月四日、京都府与謝郡岩瀧町字男山(現与謝野町男山)で生まれた。京都府立宮津中学校を卒業後、昭和五(一九三〇)年國學院大学に入学。弁論部に入って影山正治と交流、部長を務めていた哲学者・松永材教授の指導を受けることになる。毛呂は影山を介して内田良平の「大日本生産党」に入り、さらに津久井竜雄氏の「大日本青年同盟」にも関わるようになる。しかし、昭和八(一九三三)年七月、毛呂は神兵隊事件に連座することになる。
毛呂清輝

 神兵隊事件関係者は、戦後の民族派運動をリードした。一水会の鈴木邦男は、〈戦前の良質な右翼思想家のほとんどがかかわつたのが「神兵隊事件」だ。……僕らはこの先生方の指導を受け、大きな影響も受けた。だから、「神兵隊が新右翼を作った」といえるかもしれない〉と書いている(『右翼は言論の敵か』)。
 実際、神兵隊事件関係者の多くが戦後民族派運動のリーダー的存在になっている。「新勢力社」を率いた毛呂のほか、「救国国民総連合」の中村武彦、「大東塾」の影山正治、「青年講座」の白井為雄、「全有連」の片岡駿などだ。
 昭和三十一(一九五六)年、毛呂は中村武彦、小島玄之らともに設立した「民族問題研究所」から『新勢力』を刊行した。翌昭和三十二年十一月には自ら新勢力社を設立し、『新勢力』を同社の刊行物として発行することにした。既存の商業雑誌が戦後体制の枠の中での言論活動しか展開できないのとは対照的に、『新勢力』は昭和維新の精神を伝えるべく、堂々たる主張を展開し保守陣営に覚醒を促した。
 例えば、昭和三十五(一九六〇)年八月号に同誌は三上卓、影山正治、毛呂清輝の鼎談「維新運動の本流をさぐる」を載せている。ここで毛呂は次のように語っている。
 「戦後、いわゆる右翼団体というものが復活し、その団体の数も随分沢山あるようですが、維新運動とか維新陣営という名に値するようなものは未だ再建されていないと思うのです。……いつか、『新日本』の阿部源基氏(元警視総監)が昔は〝革新陣営〟といえば、〝愛国陣営のことを指した〟と云つていましたが今の愛国団体は、共産党のいう〝売国政党〟の院外団みたいな立場におかれて、一つの自主的立場を失つているように思うのです」
『新勢力
 『新勢力』の看板となり、多くの読者を獲得したのが葦津珍彦である。葦津の著作は保守論壇の注目を浴びたが、その多くが『新勢力』に掲載された原稿がもとになっている。
 戦後の民族派が親米に傾斜する中で、王道アジア主義に関わる葦津の論稿は強い光を放っていた。例えば、自らの興亜運動の体験に基づいて書いた「比島独立革命戦士 B・R・ラモス小伝」(昭和四十六年四月号)である。
 『新勢力』はまた、維新運動に関わる人物や事件の特集として、大川周明特集(昭和三十三年十一月)、神兵隊事件三十年特集(同三十八年)、高畠素之の思想と人間(同四十四年十月)、松永材先生追慕号(同四十四年十月)、三上卓追悼号(同四十七年二月)などを組んだ。
 毛呂は昭和五十三(一九七八)年十二月十九日に死去した。翌昭和五十四年四月、『新勢力』は「毛呂清輝追悼号」を編み、盟友の片岡駿が次のような追悼の言葉を残している。
 〈一切の営利栄達と世の常の歓びを求めず、ただ戦はんがためにのみ生きる維新の戦闘者にとって、貧困と孤独と試練はこれを避けることの出来ない宿命だ。さうした維新者の日日不断の生活において、若しその貧困や孤独や試練を克服し、没却せしめ得るほどの歓びがあるとすれば、それは『血盟の義』と『骨肉の情』を共に相備へた、文字通りの肝胆相照らす友のみである。私にとってさうした友が誰であったかは誰よりもよく君が知ってゐる筈だ。……日日不断に誓ひを固め心を寄せ合ひ、歓びも悲しみもみな互ひに頒ち合ふことの出来る戦友となってこそ、それがまことの維新の友であると云ふのが、君が平生の所信であった。そして君はそれを二十代の青年期から死ぬるまで一貫して実行した。生涯に亘る君の貧乏の原因がそこに在ることは、君を知るほどの人はみな知ってゐる。君が生前、身に着けたものは首から足の先まで凡て友人や先輩からの貰ひもので、躰にピッタリのものは一つも無かったが、私はそれを見る度に君の心の清々しさを感じ、またますらをの意気を感じた〉
(敬称略)

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