中山優は、明治二十八(一八九五)年、熊本県来民町笹本(現熊本県山鹿市鹿本町来民笹本)で生まれた。熊本県立鹿本中学を経て、大正四(一九一五)年秋に東亜同文書院政治科に入学している。
『上海・東亜同文書院─日中を架けんとした男たち』を著した栗田尚弥氏は、「東亜同文書院の入学者には、大陸に〈志〉を抱く豪傑タイプの青年が多かったが、中山の豪傑ぶりはそのなかでも抜きん出ていた」と書いている。後に中山は書院時代を振り返り、「学生時代、私はあまり授業に出ずに、酒を飲んだりテニスをしたり上海の街に先輩を訪れたり、全くいま考えれば厄介千万な学生だったに違いない」と語っている。実際、中山は何度か停学処分を食らっているが、そんな中山を愛したのが院長の根津一だった。中山も根津を尊敬し、他の授業をさぼっても、根津の『大学』講義だけは欠かさず聴講したという。ただ、出席日数が足りなかったため卒業できず、大正八(一九一九)年夏、中退を余儀なくされた。ところが彼は、大阪朝日新聞に入社することができたのである。
根津が同社社長の上野理一宛に推薦状を書き、「やむなく退学させるが卒業以上の実力をもつ男」と太鼓判を押したからだ。こうして朝日新聞に入社した中山は、北京特派員となった。ところが、彼は結核を患い退社、大正十二(一九二三)年、郷里へ戻った。中山にとってどん底の時代だ。結核は妻と長男にも感染、残念ながら長男は死去した。五年におよぶ闘病の末、中山夫妻は奇跡的に病気を克服した。以来、中山は日中問題に人生を捧げるのである。彼は、昭和三(一九二八)年から東亜同文会機関誌『支那』などに、中国時事評論を寄稿するようになった。中山は同年七月の『支那』に「動く支那と動かざる支那」を発表し、強い言葉で日本人に警告を発した。
「今日に於ける支那の日本人の支那観の堕落は、同時に日本自身の堕落を語る。……日本は今や岐路に立つてゐる。即ち、西洋と共に、支那を敵とする乎、或は、小事実に拘泥せず、東洋として、支那全体と握手するかである。支那人に対する過度の軽視、支那の新勢力の将来に対する冷眼と蔑視は、世界に於ける最大の生活難に悩む今日の日本人にとりて正に自殺的態度である」
こうした日本人の支那観に対する厳しい批判は、石原や木村に通ずるものだった。中山は昭和五(一九三〇)年に外務省嘱託となった。中山が石原と出会うのは、その二年後の昭和七(一九三二)年のことである。奉天のホテル・瀋陽館で、中山は石原とソ連問題について意見を交わしたのだ。以来、二人は度々面談し、大陸問題に関して意見を交換する仲となった(『上海・東亜同文書院』)。そして、昭和十二(一九三七)年頃から彼は東亜同文会会長であった近衛文麿のブレーンとなったのである。
栗田氏は、中山の中国論の背景には、王道思想を生み出した儒教文化に対する尊敬の念があったと指摘している。ここで再び注目すべきが、宮島詠士である。すでに第一章で書いたように、木村武雄は詠士に特別な思いを抱き、笠木良明も詠士を崇拝していたが、中山にとっても詠士は特別な存在だったのである。
中山に関わる写真を分析した、愛知大学東亜同文書院大学記念センター研究員の石田卓生氏は、南京で撮影されたと推測される一枚の写真に注目する。そこには「望郷廬」という文字が映っている。東京郊外の狛江にあった中山の自宅にも、望郷廬の一軸がかかっていた。これこそ、詠士の書だったのである(石田卓生「中山優写真資料について」『同文書院記念報』二十三巻)