「満川亀太郎」カテゴリーアーカイブ

民族派とヘイト

 国家安全保障の観点から日本国内に潜伏する海外テロリストに厳しく対処するのは当然のことである。また、日本の社会秩序、伝統文化を維持するためには、野放図な移民受け入れに反対しなければならない。しかし、民族派こそ排外主義やヘイトに陥ってはならないと思う。
 大御心にお応えするという崇高な志を抱いていた戦前の民族派は、外国人から尊敬される日本人であろうと努めていた。頭山満らの玄洋社は、時に国家権力と対峙しつつも、欧米列強の植民地支配に喘ぐアジアの志士たちを命がけで守った。
 中華民国の孫文、朝鮮の金玉均、インドのビハリ・ボース、フィリピンのアルテミオ・リカルテ、ベニグノ・ラモス、ベトナムのクォン・デ、ファン・ボイ・チャウ、ビルマのウ・オッタマらは、いずれも頭山の献身的な支援に助けられて活躍した。さらに頭山らは、中東・イスラム世界にも視野を拡げ、明治三十九(一九〇六)年六月に亜細亜義会を結成、アブデュルレシト・イブラヒーム、ムハンマド・バラカトゥッラー、アハマド・ファドリーらと連携した。
頭山満
 一方、善隣書院において緒方竹虎、河相達夫、中山優、安岡正篤、笠木良明といった人物を育てた宮島詠士は、日本が世界に誇る人種平等決議案の生みの親でもある。
 大正八(一九一九)年、牧野伸顕は第一次世界大戦後のヴェルサイユ講和会議に日本全権として参加するためヨーロッパに渡った。それに先立ち、牧野は詠士と会い、「日本としてこの会議で提言すべきことは何か」と尋ねた。
 すると詠士は、尊敬していた勝海舟に思いを馳せつつ、「(海舟ならば)来るべき会議に世界人類はその皮膚の色を超越して無差別平等であるべきことを強調せらるゝことと察せられます」と応えたのだ。牧野が会議で上程した「世界人類平等決議案」の裏に、詠士の助言が秘められていたのである(石川順「宮島大八と張廉卿」『海外事情』第五巻第十号)。

宮島詠士

 そして、民族派の先人たちは率先してヘイトと闘ってきた。『奪はれたる亜細亜』などの著作で知られる国士満川亀太郎は、黒人差別と闘った先駆者だ。満川は早くも中学時代から黒人差別の問題を意識していた。大正九(一九二〇)年夏、ジャマイカ出身の黒人民族主義の指導者マーカス・ガーベーの運動の盛り上がりを目の当たりにすると、満川は黒人問題についての日本人の認識を高めようとした。大正十五(一九二五)年には『黒人問題』を刊行している。クリストファー・スピルマン教授が指摘しているように、文藝春秋の記者をしていた昭和史研究家の片瀬裕氏によると、黒人の劇団が日本に来た際、満川は北一輝とともにそれを観に行った。劇団の独特な踊りを観た北が、「土人どもが」と馬鹿にすると、満川は烈火のごとく怒ったという。
 満川はユダヤ人差別とも果敢に闘った。当時、国内では鹿子木員信のようにヒトラーとナチスの動きを無批判的に礼賛する者もいたが、満川は人種平等の立場から、ヒトラーの人種差別主義を厳しく批判していた。いまだヒトラーが政権を握っていなかった昭和七(一九三二)年に刊行した『激変渦中の世界と日本』の中で、ナチスの反ユダヤ主義を「偉大なる錯覚」と酷評し、ドイツで行われているユダヤ人排斥の流行について「世界に対して恥ずかしき事実である」と述べたヒンデンブルグの言葉を引いていた。

満川亀太郎

 戦後の民族派たちもヘイトと闘ってきた。野村秋介もまた差別を憎んだ民族派の一人だ。
 野村は昭和三十八(一九六三)年に河野一郎邸を焼き討ちし、千葉刑務所に服役した。その時、朴判岩という同房の在日朝鮮人が毎日、看守に虐待されていた。寡黙で誠実な朴に心を打たれた野村は、刑務所の管理部長に訴えて、朴への虐待をやめさせたという(『汚れた顔の天使たち』)。
 昭和五十八(一九八三)年の衆院選では、石原慎太郎と同じ選挙区から出馬した新井将敬のポスターに、「一九六六年に北朝鮮から帰化」と記した中傷ステッカーが貼られるという事件が起こった。その後、ステッカーを貼ったのが石原の公設第一秘書だったことが判明すると、野村はこれに激怒し、石原の事務所に怒鳴り込み、「石原は、すべての在日朝鮮人に土下座して謝れ」と迫った。
 民族派、右派を名乗るのならば、こうした先人の行動の意味をよく学ぶ必要があるのではないか。

野村秋介

中国の民族的自覚を評価した行地社同人

 大川周明らは、大正十四(一九二五)年二月に行地社を設立した。ちょうどこの頃、上海の日系紡績工場では、幼年工虐待に反対するストライキが続いていた。そして、同年五月に同じ工場で組合弾圧に反対するストライキが起こった。しかし、労働運動の指導者顧正紅が射殺されてしまう。これに抗議する学生たちが逮捕され、五月三十日には、逮捕学生の釈放を要求する学生、市民、労働者のデモに租界のイギリス警官が発砲し、多数の死傷者と逮捕者が出た。五月三十日事件である。
 これに抗議して六月一日から上海の労働者二十数万人がストライキに入った。この時に組織されたのが、工商学連合会である。工商学連合会は、十七項目の交渉条件を提出し、責任者の処罰、損害賠償、労働者の権利保障などを要求した。ここで注目すべきは、同時に彼等が、領事裁判権の取消し、外国軍隊の撤退を要求していたことだ。
 こうした中国の動きについて、行地社同人たちが「民族的自覚の高まり」として肯定的に評価していたことは特筆すべきことだろう。例えば、満川亀太郎は同年七月に行地社機関誌『月刊日本』で次のように書いていた。
 〈予は、今支那に起つてゐる出来事に対し、之を単なる「暴動」とか「騒動」とかの名の下に片付けて行くことが出来ない。此の事件の底には深淵なる支那国民の思想的潮流が渦を成してゐる。然らば其の思想的潮流とは何であるか。そは要するに支那国民の民族的自覚である。……然るに二十年間日英同盟の夢尚覚めやらず、依然として英国に引ずられて行くならば、亜細亜に於る日本の立場は全然破滅の外にない。日本は敢然として思想的に英国より独立し、進んで支那国民の自覚と国家の改造とに対して同情と理解と後援とを有たねばならぬ〉(「亜細亜興廃の断崖に立つ日本」『月刊日本』大正十四年七月)。
 同じく行地社同人の長野郎は、『月刊日本』同号に次のように書いていた。
 〈国民自覚の運動は内外両方面に発展して来たのである。先づ外部に対しては、
 一、領土侵略に対する反帝国主義運動となつて現はれた。彼等は外交懸案が起る毎に声を大にして挙国一致を叫び檄を飛し、示威運動を試みた結果は、挙国一致の観念と支那の国家と云ふ感じを少からず支那人の頭に植へ付けたのである。一昨年反帝国主義聯盟が各地に組織されてから其運動は一層組織的な且つ深刻なものとなつた。
二、列国資本の争覇地となった関係上、列国資本侵略反抗の運動が盛んとなり、外貨の排斥や、外人経営工場の同盟罷業等頻々として起つて来た。……
三、列国の文化施設反対の運動である。列国の中で最も文化施設に力を尽したのは英米、殊に米国である。……彼らは欧米の文化施設を文化侵略と呼び、資本侵略の手先であると叫んだ。
 対外的運動は大要右の通りであるが、要するに彼等の目的は完全なる国家の解放を得やうとするのである。従て列国の圧力を押し除けるため、領土的、資本的、文化的の侵略に反抗すると共に、一切の不平等条約即ち租界地、租借地撤廃、領事裁判廃止、自主的関税制度等を要求して居る〉(「支那の興国運動」)
 大川は、大正十五年一月に「支那問題に対する一考察」と題して次のように書いていた。
 「道理は如何にもあれ、支那が日本に対して反感を抱くのは、少くも人情の自然ではある。……然るに大隈内閣の二十一箇条要求が、甚しく支那の自尊心を傷けた時に当り、世界戦による日本の台頭を不利とする欧米が、陰に陽に支那青年に支持を与へたので、茲に排外運動の第一着歩として、手近き日本を排斥し初めたのである。二十一箇条要求は、もと支那保全を本願とせるもの、……条約の精神其者は期せずして亜細亜主義の要件となつて居る。さり乍ら其の要求の時機、要求の方法等が、支那人に不快の感情を激発し、之を因縁として連年排日運動の甚しきを加へ来つたのは、また止むなき次第である」(「支那問題に対する一考察」『東方公論』大正十五年一月)
 このように、大川は対華二十一カ条要求について弁明しつつも、排日運動に理解を示していたのである。ただ、呉懐中氏は『大川周明と近代中国』で、次のように指摘している。
 「行地社は理念や組織の面において、猶存社を継承した超国家主義団体であった。ただ、この時点て国民革命の動向を含めた中国の動きを感知し、それに対して確実なパイプと方法で接近していたという点において、猶存社を含めた左右両翼の陣営を超えた観があった。……国民革命運動について長野や佐々木(到一)ほど、正面から高く評価してはいなかった。しかし、五・三〇事件や関税会議以来、初期北伐運動までの中国民族運動の実態を、大川はある程度認識していたはずと思われる」

アメリカ黒人問題研究の先駆者・満川亀太郎

 戦前の民族派は、抑圧されたあらゆる民族の解放を願っていた。その先頭に立とうとしたのが、北一輝、大川周明らと猶存社で活躍した満川亀太郎である。彼は、中学時代から黒人差別の問題を意識していたが、大正9年夏、ジャマイカ出身の黒人民族主義の指導者マーカス・ガーベーの運動の盛り上がりを目の当たりにして、黒人問題についての日本人の認識を高めようと考えた。
 黒人問題の全体像についての研究を推進、大正14年に『黒人問題』を刊行する。同書では、黒人に関する人類学的研究、黒人の人口分布に触れた上で、アメリカの黒人奴隷の歴史、黒人解放運動等について述べるとともに、「黒人共和国建設運動」に一章を割いて、ガーベーについて詳しく記述している。
 同書の巻頭に、満川がわざわざ掲載したのが、リンカーンと牧野伸顕が並ぶ写真だった。これは、アメリカの黒人家庭の部屋に飾られていたものである。満川はその光景を目の当たりにし、牧野が大正八年二月に日本全権として、国際連盟規約に人種的差別撤廃を入れるよう提案したことが、どれほど差別された有色人種の心に訴えるものがあったかを思い起こそうとしたのである。
 ちなみに、わが国の民族派にはアメリカの黒人運動の指導者となった人物もいる。黒龍会の中根中である。アメリカに渡った中根は、昭和8年、デトロイトの黒人街で活動を開始、「日本人は黒人と同じく有色人種であり、白人社会で抑圧されてきた同胞である。そして、日本は白人と戦っている」として黒人を扇動して、白人社会の打倒を訴えた。一時は10万人を動員して黒人暴動を多発させたという。

佐藤文雄と維新派言論機関『大気新聞』

 松村介石、満川亀太郎、大川周明らの思想的影響を受けて、独自の興亜・維新運動を展開した佐藤文雄は、大正15年4月に宮城の気仙沼で大気社を創設、『大気新聞』を発刊した。言論機関としての高い志は、創刊号の次の一文に示されている。
「現代文明社会に於て社会教育機関として又報道機関として新聞紙の必要なることは吾人の今更論ずるまでもない所である。然しながら現今公にせられてゐる新聞を見るに其の何れもが新聞本来の目的から遠ざかり徒らに一方に偏し情実にとらはれ、営利のみ目的とし公明を失してゐる、殊に地方に横行する新聞の如きに至っては其の低劣なるに吾人の等しく遺憾とする所である、かかる現状を黙視するに忍びず決然として起ち……真の文明なる理想の社会建設の為に全力を傾注するのは吾が同人の大気新聞である」
「大気」と命名した理由を、佐藤は次のように説明している。
藤田東湖先生の正気歌の劈頭に『天地正大気、粋然として神州にあつまり秀ては不二岳となり巍々として千秋に聳え』云々とあるが、此の気ありてこそ日本は常に最高の善に向ひ創造されつつあるのである。……天下に峻徳を明らかにし、人類を一様に慈み養ふの象徴は、我が地球を普く包む大気に於て明かに現され、所謂吾人は此の大気の潤徳により生を続け、然かも日に日に新らたなる己を造りゆく事が出来るのである。日に新らたなる己を造るということは新日本を創造するの所以である。即ち此の理想的新日本建設の第一歩として地方人の英気を養ひ地方文化の向上と産業発達のために、敬愛する我が同郷の各位と一致協力、大気仙沼建設のため一大貢献をなさんとするものである。これ我が同人が『大気』の名を選び、世のあらゆる不義非道に対して宣戦を布告するの覚悟、即ち筆を投ずるの覚悟を以て新聞を発刊した所以である」

『大気新聞』は綱領として、
一、宗教的生活の実現 一、精神生活に於ける自由の実現 一、政治生活に於ける平等の実現 一、経済生活に於ける友愛の実現 一、地方文化発達の実現 一、産業交通政策の確立──を掲げ、次のように宣言した。
〈「大気新聞」は筆を投ずるの覚悟を以て刊行するものであります。筆を投ずるの覚悟とは即ちあらゆる世の不義非道に対する宣戦を布告するの覚悟であります。平等を欠ける現在の政治は特権階級擁護の政治であります。友愛の精神なき経済生活は幾多同胞を死滅せしめんとして居ります。更らに精神生活に自由を失へる日本国民は真実の意味に於ける奴隷であります。日本は今や国民的にも国際的にも奴隷解放の陣頭に起つ秋が来たのであります。日本は何時までも同じ日本ではありません。日本は現に造られつつある国であります、即ち最高の善に向って突進する国でなければなりません、国家は国民の魂を基礎とし且つ国民の魂を以て組立てられた家であります。故に日本を創造しつつある者は吾人お互の魂なのであります。孔子は三千年の昔に於て「明徳を天下に明にせんと欲する者は先づ其国を治め共国を治めんと欲する者は先づ其家を斉ふ其家を斉へんと欲する者は先づ其身を修む」と説示して居るではありませんか。所謂吾人其者を救ふは日本国家其者を解放するの所以でなければなりません、日本国家の解放は、やがて大亜細亜の解放であります。大亜細亜の解放は、やがて人類の解放であります。即ち我が日本は人類解放戦の大使徒たることを信じなければなりません。吾人「大気新聞」同人は其力小なりと雖も以上の理想実現のため渾身の努力を続けんとするものであります。即ち其第一歩としてお互国家中心勢力たる地方人の天地正大の気を養ひ地方文化の向上と産業交通発達のため一大貢献をなさんとするものであります〉

晩年の満川亀太郎─惟神顕修会での修業

 北一輝、大川周明とともに猶存社三尊と呼ばれた満川亀太郎は、日本精神の把握を目指し、不断の努力を重ねた。猶存社解散後の大正13年秋には、民族派の同志、渥美勝、田尻隼人、澤田五郎や出雲大社教の千家尊建らとともに「聖日本学会」を結成していた。「日本精神を研究し、体現し、煥発し、以て神聖なる天壌無窮の皇謨、荘厳なる天業の恢弘を扶翼する」のが目的であった。ただ、同会の運営は軌道に乗らず、昭和3年11月には渥美が死去、やがてその精神は昭和8年2月に、大森曹玄、西郷隆秀らの直心道場に引き継がれた。満川は、再び聖日本学会の精神を再興すべく、昭和10年9月、自ら理事長となって惟神顕修会を旗揚げした。その趣旨を次のように謳った。
「……茲に相胥りて惟神顕修会を起し、広く天下同憂の士と相提携し、身心を清浄にして神前に跪坐し、神明に冥合し、以て皇国遠大の雄飛を庶幾せんとす。/吾人の念願は身を修むるに在り、魂を磨くに在り、惟神の路を践行し且之を弘宣するに在り」
惟神顕修会には、千家尊建、田尻隼人、澤田五郎、大森曹玄ら「聖日本学会」の同志のほか、雑賀博愛、鹿子木員信、草鹿龍之介らが参加し、顧問には、靖国神社宮司の賀茂百樹と、白川家第三十代の雅寿王の曾孫にあたる第33代白川資長子爵が就いた。 続きを読む 晩年の満川亀太郎─惟神顕修会での修業

長谷川雄一、福家崇洋、クリストファー・スピルマン編『満川亀太郎日記』の書評

以下、『月刊日本』2011年4月号に書いて、『満川亀太郎日記』の書評です。


敗戦・占領によって形成された自虐的な歴史観から脱却し、戦前の民族派・維新派の思想と行動に積極的意義を見出そうとする研究が進展する中で、そうした研究における実証的分析が要求されるようになっている。
特に民族派の思想形成過程や運動の実態を分析する上で、行動の記録である日記、日誌は重要な資料となる。大正期以降の民族派運動の中心の一つでもあった猶存社、行地社に関わる日記としては、これまでに『大川周明日記』(岩崎書店、昭和六十一年)、『北一輝 霊告日記』(第三文明社、昭和六十二年)などが刊行されているが、大川の日記が本格的に始まるのは昭和十一年六月からであり、大正期、昭和初期の分析には不十分である。こうした中で、猶存社、行地社の創立に際して中心的役割を果たした満川亀太郎の日記をまとめた本書の資料的価値は極めて高い。
猶存社は大正八年八月に結成された民族派団体であり、渥美勝、何盛三、笠木良明、鹿子木員信、嶋野三郎、西田税、安岡正篤といった人物が同人として名を連ねていた。その結成に当たり、上海にいた北を呼び戻して参加させようと提案したのは満川であった。彼は北、大川とともに猶存社の「三尊」とも称された。 続きを読む 長谷川雄一、福家崇洋、クリストファー・スピルマン編『満川亀太郎日記』の書評

長谷川雄一、今津敏晃、クリストファー・スピルマン編『満川亀太郎書簡集』の書評

以下、『月刊日本』2012年9月号に書いた、長谷川雄一、今津敏晃、クリストファー・スピルマン編『満川亀太郎書簡集』の書評です。


昭和七年の五・一五事件で三上卓らとともに決起した古賀清志は、翌八年三月十日、横須賀海軍刑務所における訊問調書で決起に至る自らの思想形成過程を次のように語った。
海軍兵学校第三学年の時、同じ佐賀中学を卒業した藤井斉から白色人種の横暴を説明され、将来日本が盟主となって亜細亜民族の大同団結を図り、白色人種と有色人種を対等にしなければならないという「大亜細亜主義」の説明を聞き、その実現のためには日本国家の改造を要すると力説された。そして、大正四年冬の休暇中に、藤井の勧めで東京市内宮城旧本丸内にあった「大学寮」に起居し、満川亀太郎、大川周明、安岡正篤らに会い、現代日本の行き詰まった情勢を聴いた。
大正八年に維新と興亜を目指す「猶存社」が設立され、大川と満川は北一輝とともに「猶存社」三尊と呼ばれるようになった。彼らは大正十三年以降、「行地社」を拠点に活発な維新運動を展開していくが、本書には北、大川の書簡も多数収められており、北、大川、満川三者の関係の変遷も読み取ることができる。
「大亜細亜主義実現のための国家改造」という満川ら興亜思想家の考え方が古賀清志らに与えていた影響の大きさを、本書に収められた書簡は如実に物語る。例えば、昭和二年一月十二日に古賀が満川に宛てて書いた書簡には、次のように書かれていた。
「多難であった大正の御代も去り新しく昭和の御代となりました。私等道に志す者の為すべき御代ではないでせうか。建実なる日本と亜細亜の確立、道義の世界。私はいつもあせりがちでいけません。事を為す迄には其だけの否より以上の基礎が必要ですが、其迄の修養や努力は一般の人とは大差がなければならないと思ひます。私も出来るだけ識見と謄力を養ふべく努力してゐます」(102、103頁)
編者のクリストファー・スピルマン博士が指摘しているように、古賀の書簡には「我等も時と場所とにより悪に対して天誄を加へることもあります」とも書かれており、国家改造のためにはテロも辞さないという覚悟が、五・一五事件の五年前から芽生えていたことを窺わせる。 続きを読む 長谷川雄一、今津敏晃、クリストファー・スピルマン編『満川亀太郎書簡集』の書評

満川亀太郎関連文献

書籍

著者 書籍写真 書名 出版社 出版年 備考
長谷川雄一、今津敏晃、クリストファー・スピルマン編 満川亀太郎書簡集―北一輝・大川周明・西田税らの書簡 論創社 2012/07
満川亀太郎著、長谷川雄一、福家崇洋クリストファー・スピルマン編 満川亀太郎日記―大正八年‐昭和十一年 論創社 2010/12
満川 亀太郎 ユダヤ禍の迷妄 書肆心水 2007/05
満川亀太郎著、長谷川雄一編・解説 三国干渉以後 論創社 2004 (論創叢書 4)
拓殖大学創立百年史編纂室編 下 滿川龜太郎 : 地域・地球事情の啓蒙者 拓殖大学 2001
拓殖大学創立百年史編纂室編 上 滿川龜太郎 : 地域・地球事情の啓蒙者 拓殖大学 2001
満川亀太郎著 三国干渉以後 伝統と現代社 1977
満川亀太郎著 三国干渉以後 平凡社 1935   続きを読む 満川亀太郎関連文献

玄洋社とムスリム

興亜論者とムスリム
世界の道義的統一を目指した日本人たちは、東アジアだけでなくイスラーム諸国に対しても特別な関心を払っていた。その中心にいたのが興亜論者であった。
彼らは、欧米に抑圧されるムスリムの惨状を我が事のように考え、欧米列強の植民地支配からの解放を目指して協力しようとしていた。  続きを読む 玄洋社とムスリム

王師会─青年将校の義憤

藤井斉が同志を糾合

 王師会は、海軍の王師会が昭和3年3月に海軍部内の青年士官中の同志を集めて組織した。藤井は、海軍兵学校在学中に休暇等を利用して、大学寮に出入りしていた大川周明、満川亀太郎、安岡正篤、西田税らと接触し、国家改造の必要性を痛感するようになっていた。 続きを読む 王師会─青年将校の義憤