いよいよ令和6年7月3日から、水戸学で固めた男・渋沢栄一の肖像を描いた1万円札が発行される。

坪内隆彦『水戸学で固めた男・渋沢栄一─大御心を拝して』(望楠書房、令和3年9月)
坪内隆彦『水戸学で固めた男・渋沢栄一─大御心を拝して』(望楠書房、令和3年9月
渋沢は「日本資本主義の父」ではとらえられない
【書評関係】
生活保護法も渋沢が実現させた?!(れんぢらう氏、令和3年10月18日)
「青天を衝け」第6話のあのシーンの意味(タコライス氏、令和3年10月18日)
水戸学の入門書としても(さちひこ氏、令和3年10月20日)
「渋沢栄一翁が語りかける言葉に、もっと耳を澄まさなければならない」(太田公士氏、令和3年10月29日)
国民福祉の父、渋沢栄一(愚泥氏、令和3年10月29日)
今まであまり描かれなかった渋沢栄一の側面(五十嵐智秋氏、令和3年11月14日)
『通信文化新報』令和3年11月22日付
「日本とは、日本人とは何か・・・」(浦辺登の読書館、令和3年11月23日)
「新刊紹介」(『日本』令和4年2月号、仲田昭一氏)
「ブックエンド」(『史』令和4年3月号)
渋沢栄一は「日本資本主義の父」と呼ばれている。しかし、そうしたとらえ方では彼の本質は見えてこない。渋沢を「水戸学で固めた男」ととらえることによって、大御心を拝し、聖恩に報いようとして生きた彼の真価が浮き彫りになる。それによって、戦後否定的にとらえられてきた水戸学の真髄も理解されるのではないか。

では、なぜ渋沢は「水戸学で固めた男」なのか。彼の生涯を振り返れば、水戸学信奉と密接に関わる言動の連続だったことが窺えるからだ。若き日の渋沢は、水戸学の國體思想を体現しようとする尊攘の志士だった。そして、最晩年に渋沢が書いた『論語講義』では、水戸学の代表的学者・会沢正志斎の『新論』を彷彿とされる堂々たる國體論が展開されている。「渋沢が水戸学を信奉していたのは若い頃だけだ」という誤解があるが、決してそうではない。終生彼は水戸学を信奉していたのである。
渋沢が四半世紀の歳月を費やして『徳川慶喜公伝』の刊行に心血を注いだのも、慶喜の行動に、水戸光圀(義公)以来の尊皇思想継承の尊さを実感したからに違いない。
渋沢は藤田東湖歿後七十年に当たる大正十一(一九二二)年十一月に開催された記念会では、東湖の『回天詩史』の一節を吟じている。この記念会では、渋沢が所蔵していた「水戸家の秘訓」(公武相合はさる時は寧ろ弓を宗家たる徳川幕府に挽くも朝廷の為粉身すべき旨)が展覧されている。彼がそれを所蔵していた事実は、義公の尊皇思想継承に彼がいかに深い感動を覚えていたかを物語っている。
筆者は、五十年以上も養育院の運営に携わったことをはじめ、渋沢の社会事業への献身を支えていたのは、大御心を拝しそれに応え奉らんとする彼の覚悟であったと思う。
渋沢は常に大御心を拝し、国家の存続と国民生活の安定に寄与するために、自分ができることをやろうとしたのではないか。生活保護法の前身である救護法実施のために命をかけた渋沢を支えていたのは、大御心に応えんとする情熱だった。

『維新と興亜』編集長・坪内隆彦の「維新と興亜」実践へのノート