山県大弐の墓は、東京都新宿区舟町11番地の全勝寺にもある。大弐の遺骸は、妻の斉藤左膳姉が葬られている全徳寺に埋葬されたが、後に全徳寺が廃寺になり、現在の全勝寺に移された。そのため、墓所には「斉藤氏」と彫られている。
全勝寺には大弐の記念碑もある。これは、市井三郎、鶴見俊介等が発起人となって造立されたもので、大弐の肖像レリーフは愛知教育大の近藤鎰郎の作品。「明治維新の思想的・実践的先駆者であった山県大弐の没後200年を祈念して明治100年の年大弐の命日にこれを建つ
1967年9月3日 日本人民有志」とある。
「明日のサムライたちへ」カテゴリーアーカイブ
山崎闇斎墓所
平成24年8月、『月刊日本』の新連載「明日のサムライたちへ 志士の魂を揺り動かした十冊」の二冊目(浅見絅斎『靖献遺言』)の取材のために、金戒光明寺を訪れ、絅斎の師・山崎闇斎のお墓参りをした。
三重塔(国・重要文化財)を目指して階段を上り、塔の前を左に曲がり、最初の通路を右に折れてしばらく進むと、闇斎のお墓がある。
浅見絅斎墓所
『日本外史』巻五新田氏前記①
「明日のサムライたちへ 志士の魂を揺り動かした十冊」折り返し点通過
山鹿素行『中朝事実』、浅見絅斎『靖献遺言』、山県大弐『柳子新論』、本居宣長『直毘霊』、蒲生君平『山陵志』、平田篤胤『霊能真柱』、会沢正志斎『新論』、頼山陽『日本外史』、大塩中斎(平八郎)『洗心洞箚記』、藤田東湖『弘道館記述義』。志士の魂をゆり動かした以上の10冊を取り上げるというコンセプトで、『月刊日本』平成24年8月号から連載「明日のサムライたちへ 志士の魂を揺り動かした十冊」を開始しました。
それから1年10カ月。ようやく『中朝事実』、『靖献遺言』、『柳子新論』、『直毘霊』、『山陵志』の5冊を完了し、折り返し点を通過しました。
平成26年5月号から『霊能真柱』に入ります。初回は生田萬の乱を取り上げました。
坪内隆彦「『靖献遺言』連載第7回 崎門学派の志と出処進退」(『月刊日本』平成25年6月号)
御用学者・林羅山
慶長十(一六〇五)年四月、若き林羅山は徳川家康と初めて対面しました。二度目の会見の際、家康は羅山に「後漢の光武帝は漢の高祖の何代目であるか」、「前漢の武帝の返魂香(伝説上の香)はどの書に出ているか」、「屈原の愛した蘭の品種は何か」と尋ねました。羅山はいずれの質問にも正しく回答しましたが、これらの質問は儒学の本質と関わりのない愚問です。
『林羅山』を著した堀勇雄氏は、「この難問・愚問はこの後の家康と羅山との関係─聖賢の道を求める師と弟子との関係ではなく、学問知識の切売りをする雇傭関係を表徴するといえる」と書いています。
さらに、堀氏は、家康は天下の覇権を握り政治を行うために、羅山の該博な知識を利用しようとしただけであり、いわば百科事典代わりに羅山を側近に置こうとしたのであると書いています。
当時、幕府の官職に儒者を登用した先例はありませんでした。そこで、家康は羅山を僧侶の資格で登用することにしたのです。慶長十二年、羅山は家康の命によって剃髪し、名を道春(僧号)と改めました。堀氏は「廃仏を唱える羅山が剃髪したのは、聖人の道を行おうとする実践的精神を放棄して、単に博学と文才を売物とする職業的学者の立場を選んだことを意味する」と批判しています。家康に取り入った羅山は、家康の権力によって収集された貴重本の充満した書庫を管理するようになり、慶長十五年には幕府の外交文書を起草するようになりました。 続きを読む 坪内隆彦「『靖献遺言』連載第7回 崎門学派の志と出処進退」(『月刊日本』平成25年6月号)
坪内隆彦「『靖献遺言』連載第3回 死生利害を超えて皇統守護の任に当たる」(『月刊日本』平成25年2月号)
対外的危機意識が生んだ国民的自覚と伊勢神道
日本的自覚、国体への目覚めのきっかけは、対外的危機認識の高まりと密接に関わっています。本連載第二回(平成二十四年九月号)でも、永安幸正氏の主張を援用しながら、隋唐国家の膨張期(五八一~九〇七年)に続く、第二の危機の時代として蒙古襲来の時代を挙げました。文永の役(一二七四年)、弘安の役(一二八一年)と二度にわたる蒙古襲来こそ、日本的覚醒の大きな引き金となり、神道思想においても一大転換をもたらしたのです。
その象徴が伊勢神道の台頭です。それまで、わが国では仏教優位の神道思想が力を持っていました。その有力な思想が、「日本の八百万の神々は、様々な仏が化身として日本の地に現れた権現である」とする「本地垂迹思想」です。仏を主、神を従とした本地垂迹思想に対して、神を本とし仏を従とする教理を体系化したのが、伊勢神道(度会神道)だったのです。
久保田収氏によれば、伊勢神道には密教や老荘思想も吸収されてはいますが、鎌倉新仏教の台頭や、蒙古襲来という未曽有の国難から、神道の宗教的立場と国民的自覚を明らかにする主張が盛り込まれました。
伊勢神道の「神道五部書」(『宝基本記』、『倭姫命世記』、『御鎮座次第記』、『御鎮座伝記』、『御鎮座本記』)は心身の清浄を説き、正直の徳を神道の主要な徳目として強調しました。ここでいう「正直」は、現在我々が使っている意味とは異なり、「神から与えられたままの清浄潔白な姿」を意味します。 続きを読む 坪内隆彦「『靖献遺言』連載第3回 死生利害を超えて皇統守護の任に当たる」(『月刊日本』平成25年2月号)
国学と水戸学の関係
維新の原動力となった国学と水戸学。両者は対立しつつも、相互補完的な関係にあった。この論点に言及した、『月刊日本』平成26年1月号に掲載した「現在も続く直毘霊論争」の一部を紹介する。
〈本居宣長は、強いて神の道を行おうとすると、かえって「神の御所為」に背くことになると主張していました。『玉勝間』においては、中国の古書はひたすら教誡だけをうるさく言うが、人は教えによって善くなるものではないと書いています。これに対して、水戸学の会沢正志斎は次のように批判しました。
「仁政の要を知らざれば、人の上たること能はず、臣として君徳を輔佐すること能はず、義を知らざれば、元弘、延元の世の如きにも、去就を誤る類のものあり。礼を知らざれば君に事へ、人に交るに敬簡の宜を得ず、譲を教へざれば争心消せず、孝悌、忠信を教へざれば、父母に事へ、人と交て不情の事多し。多人の中には自然の善人もあれども、衆人は一様ならず、教は衆人を善に導く為に施す也」 続きを読む 国学と水戸学の関係
山県大弐の放伐肯定論に対する鳥巣通明先生の批判
山県大弐『柳子新論』利害(第12)には、湯武放伐論を肯定した箇所があります。この問題について、『月刊日本』平成25年10月号(9月22日発売)で言及しましたが、『日本学叢書 第6巻 奉公心得書・柳子新論』(雄山閣、昭和14年)において、鳥巣通明先生が詳しく論じていますので関係箇所を引いておきます。
〈勿論、大弐の説くところは、幕府の存在を正当化せんが為めに御用学者によって唱道された放伐肯定と区別さるべきであり、彼が武家政治を否定し、主観的には皇政復古を目ざしたことも亦認めらるべきであるが、その革新の原理、立場は……不幸にも未だ儒学思想を完仝には脱却してゐなかつたのである。……政治の要諦として彼が「正名」を説き「得一」を主張し、「大体」を論ずるのは確かに傾聴すべき卓見である。然しながら、それは志向態度の正しさであつて、「正名」「得一」「大体」等が如何なる実質的主張内容をもつかは自ら別問題である。こゝに見る如く、柳子新論は、その点を検討することによつて破綻を暴露するかに思はれる。「其間忠義ヲ奮ヒ命ヲ殞シ節ニ赴ク者アリドモ、君臣ノ義ニ於テ錬達講磨スル所或ハ精シカラザレバ心私ナシトイヘドモ、義ニ悖リ忠ヲ失フ者皆是也」とは浅見絅斎先生の語であるが、(靖献遺言講義上)、心私なく、真摯国を憂へ、勇敢に時弊を解剖し、その革新に邁進した山県大弐は、君臣の義に於て錬達講磨するところ精しからざりしが故に、換言すれば、国史を云為しつゝも革新の原理を外国思想に求めしが故に、無意識の中に大いなる過誤を犯し、義に悖り忠を失つたものであらう。まことに傷ましき悲劇。吾々としては巌正に然も同情を以てこの点柳子新論を弁析すると共に、今日の問題として深思すべきであらう。……国民生活の安定を目的とする場合、革命も亦仁となすと説くもの。特に与民同志を放伐論是認の根拠となす点、民本思想があらはである。正名第一の章の結びに於て、「若能有憂民之心。名其不可正乎。」と述べし理由が、今こそ肯かれる。これ明らかに支那思想であり、直接には、安民を「先王の道」と解した徂徠学の影響であらうが、かゝる考は、明治維新の志士によつて、根柢的に批判せられた。その代表的な例として、吾々は平野国臣の「大體辯」をあぐることができる。「我 皇国は君臣の大義を主とし、利民を次とすれども、万世不易、千古一統の 君ゆへ、万民親服し、列聖亦た憐を垂れ、上下能く和合して相恨みす、利を利とせざれども、大義の和にて自ら民を利するの実にもかなへり。」然もかゝる考へ方は明治維新の成就するや問もなく忘れ去られ、今日に於ては再び安民が革新の最後の目標として諭ぜられてゐる。猛省すべき危険がそこにある〉