頼山陽は、寛政八年、十七歳の時に「古今総議」を著している。これこそが、『日本外史』序論の底稿となった文章である。
〈天子、之れが将となりたまひ、大臣・大連は、之れが偏裨たり……[神武天皇より]三十世の後、外国の制に因り、八省、百官を立つ。五十世に至り、政権は世相[代々の首相]・外家[藤原氏]の竊む所となる。当時の制、七道[全国]を郡県にして、治むるに守・介[薩摩守・長門介の如き]を以てし、天下の軍国は、更はる〲六衛に役し、事あれぱ則ち将を遣はして之れを合し、事止めぱ其の兵を散じて、以て其の[兵]権を奪ふ。相家[世相・外家]の専らにするに及び、人[官吏]を流[家筋]に選び、文武、官を世にし、加ふるに鎮守府の多事なるを以てし、関八州の土豪にして、将家[武将]に隷[属]するもの、因習の久しき、君臣の如く然り、而して七十世に至り、綱紀ます〱弛み……兵力を挾んで、爵賞を[強]要するもの、平氏に始まつて、源氏に成り、遂に総追捕使の名に托して、私隷[家の子郎党]を六十州[全国]に碁布[配置]して、以て兵食の大権を収め、天下の大勢、始めて変ぜり。変じで未だ幾ぱくならず、その外家北条氏、陰かに人心を結び、以て其の権を竊み、之れを九世に伝へたり。朝延は其の民心を失へるに乗じ、以て旧権を収復せり…。又足利氏の横奪する所となり、而して大権の将家[征夷大将軍]に帰するもの、盆々定まり、少子を[関]東に封じ、功臣を分かつて世襲の守護と為し、而して天下の大勢、再び変じ、[以下、織田・豊臣氏に到り]大勢、三たぴ変ぜり〉(木崎好尚『青年頼山陽』)
山陽は、『日本外史』では次のように述べている。
「思うに、わが日本がはじめて国を建てたときは、政事向きのことは万事が簡略でたやすく、文官・武官というような区別もなく、日本国中の者はだれでもこぞってみな兵士であって、天子はその元帥(総大将)となられ、大臣・大連がその副将軍となっていたので、将帥という定まった官職があったわけではなかった。
だから後世のように、世にいう武門とか武士とかいうものはあるべきはずもなかった。天下が泰平無事であるならそれまでのこと、いったん有事の際には、天子はかならず自分で征伐の苦労をされた。もし天子がなにかの理由で出陣されないときには、皇子や皇后がその代理をされて、けっして臣下の者にうち委せてしまわれることはなかったのである。だから兵馬・糧食の大権は人手に渡ることなく、しっかりと天子の手の内にあって、よく天下を抑え従え、なおその余威は、国内ばかりでなく、延びて三韓(朝鮮南部の馬韓・弁韓・辰韓)や粛慎(シナ古代の北方民族)にまでも輝きわたり、これらの諸国はみな貢物を持ってわが日本へ来朝しないものはなかったのである」(頼惟勤訳)
こうした山陽の武家政権批判は、山県大弐の『柳子新論』「正名」(第一篇)や藤田幽谷の『正名論』にも通ずる。
「わが東方の日本の国がらは、神武天皇が国の基礎を始め、徳が輝きうるわしく、努めて利用厚生の政治をおこし、明らかなその徳が天下に広く行きわたることが、一千有余年である。……保元・平治ののちになって、朝廷の政治がしだいに衰え、寿永・文治の乱の結果、政権が東のえびす鎌倉幕府に移り、よろずの政務は一切武力でとり行なわれたが、やがて源氏が衰えると、その臣下の北条氏が権力を独占し、将軍の廃立はその思うままであった。この時においては、昔の天子の礼楽は、すっかりなくなってしまった。足利氏の室町幕府が続いて興ると、武威がますます盛んになり、名称は将軍・執権ではあるが、実は天子の地位を犯しているも同然であった」(『柳子新論』)
〈「鎌倉氏の覇たるや、府を関東に開きて、天下の兵馬の権専らこれに帰す。室町の覇たるや、輦轂(天子の御車のことで、天子の都の地である京都を指す)の下に拠りて、驩虞(覇者)の政あり。以て海内に号令し、生殺賞罰の柄、咸その手に出づ。威稜(威力)の在る所、加ふるに爵命(官位)の隆きを以てし、傲然尊大、公卿を奴視し、摂政・関白、名有りて実無く、公方(将軍家)の貴き、敢へて其の右に出づる者なければ、すなはち『武人、大君となる』に幾し〉(『正名論』)
唐崎定信は闇斎が「道は大日孁貴の道、教は猿田彦神の教」と説き、猿田彦神を祭ることとした教えにしたがい、竹原市本町にある長生寺に庚申堂を建てた。その時、定信に協力したのが、吉井半三郎当徳(まさのり)であった。
吉井氏の先祖は、豊田郡小泉村に住んでいた小早川氏の家臣吉井肥後に遡る。寛永の初め頃、その子源兵衛が竹原下市に移住し、米屋を営み、さらに質屋も営んで財を蓄えた。源兵衛は、慶安三(一六五〇)年、竹原に塩田が開かれると、いち早く塩浜経営に乗り出し、吉井家の基盤を築いたのである。明暦三(一六五六)年には、二代目米屋又三郎が年寄役に任ぜられている。これ以降、吉井家は代々年寄役を務めることとなる。
唐崎定信が闇斎に学び、竹原に戻った延宝四年頃、吉井家の当主は三代目の当徳であった。唐崎家と吉井家は、定信・当徳の時代から崎門学を通じた深いつながりがあったということである。しかも、定信の後を継いだ清継の妻は吉井家から嫁いでいる。
清継の子の信通や彦明、さらに孫の赤斎の遊学費用を、吉井家が負担していた。唐崎家は代々師について崎門学を学んだが、それは吉井家の支援があったからこそ可能だったのである。例えば、信通は、谷川士清や松岡仲良の塾に入門し、彦明は三宅尚斎の門に入り、赤斎もまた長期間に亘って谷川士清や松岡仲良に学んだ。
吉井家もまた、唐崎家を支援するだけではなく、崎門学を学んだ。一族の吉井正伴(田坂屋)は玉木葦斎に学び、葦斎の歿後は松岡仲良に学んでいる。また、同族の吉井元庸(増田屋)も松岡仲良に学んでいる。六代目米屋半三郎当聰は、十五歳の時から闇斎の高弟植田艮背に従学していた。だからこそ、当聰は赤斎の精神を理解し、庇護者として彼の活動を助けたのである(金本正孝「唐崎赤斎先生碑の建立と吉井章五翁」)。
唐崎定信が闇斎から授けられた「忠孝」の二字は、唐崎家の宝として受け継がれ、赤斎は、明和三(一七六六)年頃、礒宮八幡神社境内の千引岩(ちびきいわ)に、この「忠孝」の二文字を刻印したのである。
赤斎が自決する前年、寛政七(一七九五)年八月に仲村堅は「忠孝石碑並びに銘」と題して次のように書いている。
宋南遷の後国勢稍(やや)蹙(しゅく)す有り。天驕(てんきょう)(匈奴)日に横たう当に此時なるべし。恢復を欲し王室を張皇(ちょうこう)す。而して能く其事をする者。李綱・岳飛・文天祥・張世傑の数人の輩のみ。然(しかれ)ども其の義気忠烈は天祥の右に出る者無し。其の行状史書に載在(さいざい)す如し。是に以て贅(ぜい)に及ばず。我芸(げい)の鴨郡竹原。応皇の別廟有り。五十宮(礒宮八幡神社)と称す。前面は海。後は山を負う。巍々(ぎぎ)とした宮殿なり。鬱々(うつうつ)とした林木。真に以て奇勝と為す山麓に一巨石有り。信国公文天祥書す所忠孝二大字を刻む。祠官唐赤斎石工を使わして刻ましむ也。字大三尺許り。端厳遵勁後人(たんげんしゅうけいこうじん)の及ぶ所に非ず。蓋し信国公の忠烈然りと之使う所となすか。初め赤斎氏の祖父隼人京師に遊学し、闇斎先生の門に業を受く。高第の弟子に為る。先生嘗て某侯の門に遊ぶ。席上夫(か)の忠孝二字の真を観る。乃ち請う之の影書を。以て其家に蔵すと。隼人君師資の誼を以て、又請う之が影書を。扁額を作り、以て家珍に為す。既にして赤斎氏以為(おもえ)らく扁額之壊れ易し。石に刻めば之に勝りたるに如かず。是に於いて上石を遂ぐ。永(とこし)えに子孫に伝えて不朽ならん。嗚呼赤斎氏の挙。上(かみ)は志に父祖を継ぎ、下(しも)は謀 子孫に貽(のこ)す。延べば他人に及ぼし、是詩の謂う所の、孝子匱(とぼし)からず永く爾(それ)類(たぐい)を錫(たま)う者(こと)か。旦其端厳遵勁(たんげんしゅうけい)。覧者(みるもの)をして信国公の人となりを髣彿せしむ。千万世の下(もと)。則ち其功亦偉ならず哉。余郡の耳目官(じもくのかん)と為す。拝謁五十宮。此に於いて寓目に与る実感す信国公の忠烈を。且つ嘉(よみ)す赤斎氏の盛挙を。是に於いて記し以て贈と為す。作を遂げ銘し曰く。
応皇の鎮まる所 維(こ)れ海の浜 魚塩(ぎょえん)(海産物)利有り
茲に民聚(あつま)る 賈舶(こはく)岸に泊す 巨室(きょしつ)比隣す
維(これ)山の麓なり 盤石嶙峋(りんしゅん) 石工鐫(せん)する所
筆勢絶倫なり 此文公に況(たと)えん 宋の名臣に有り
遵勁(しゅうけい)にして飛動 端厳(たんげん)なる精神 名下(なのもと)に虚(むなし)からず
佳手珎なるべし 維れ此の唐氏 祖親の志を継ぐ
胎厥(たいけつ)(子孫)不朽 延べば他人に及ぼし 華表(鳥居)直立す
神宮奐輪(かんりん) 幾千万世 奉祀明神(ほうしめいしん)
蘇峰は、唐崎赤斎顕彰碑撰文をきっかけに崎門学に傾倒していった。大きな転機となったのが、竹原を訪問し、崎門学と竹原のゆかりを目のあたりにしたことである。
唐崎赤斎の祖先定信は礒宮八幡神社神官だった。定信は万治元(一六五八)年に、磯宮八幡宮を古宮山から現在の竹原市田ノ浦に移転建設した中興の祖と言われている。
この定信こそ、竹原に垂加神道を広めた最初の人であつた。定信は延宝年間(一六七三年~一六八一年)に上京し、山崎闇斎に師事し、垂加神道を学んだのである。定信が闇斎に宛てた誓文が残されている。
一 神道御相伝の御事誠に有難き仕合せ恩義の至り忘れ申す間敷事
一 以て其の人に非ざれば示すべからず堅守し此の訓を御許可無きに於いては猥りに口を開き人に伝へ申す間敷事
一 畏国の道習合附会仕る間敷事
右三ヶ条の旨相背くに於いては
伊勢八幡愛宕白山牛頭天王、殊に伊豆箱根両所権現、惣て日本国中大小神祇の御罰相蒙る者也
延宝三年乙卯十一月十九日
柄崎隼人藤原定信
山崎加右衛門様
定信は闇斎に自ら織った木綿布を贈った返礼に、闇斎から文天祥筆の「忠孝」の二大文字を授けられた。木綿布に対する闇斎の礼状も残されている。
「見事木綿壱疋御送給、遠路御懇意之到、過分二存候、我等弥無事可被心安下被」(見事な木綿壱疋御送り給い、遠路御懇意の到り、過分に存じ候、我等いよいよ無事、安心下さるべく候)
金本正孝は、闇斎のこの書状(縦十四センチ・横三十センチ)は、延宝四年に書かれたものと推定してゐる(「世に知られざる唐崎士愛の生涯」『芸林』第四十五号第二号)。
■なぜ蘇峰の父は「一敬」と号したのか
徳富蘇峰は、竹原の崎門学派・唐崎赤斎の顕彰碑碑文を撰したのをきっかけに、崎門学への思いを一層強めていった。やがて蘇峰は、横井小楠やその門人であった父一敬らについても、次のように書くに至る。
「世間では横井小楠を目して、陽明学派と称するも、彼は本来山崎学派にして、小学、近思録、大学或門、中庸或門輯略などは、彼自ら読み、且つ門人にも課した。而して其の門人たる吾が父及び其弟の如きも、闇斎を崇敬するの余り、闇斎の名たる敬義を分ち用ゐ、一敬、一義と称してゐた程であつた。又小楠の学友長岡是容、元田永孚の如きも、亦然りであつた。固より彼等は永く崎門の牆下には立たなかつたが、其の門戸は是れに由つた。されば元田永孚の 明治天皇に御進講申上げたる経書の如きも、彼が如何に山崎学に負ふところの多大であつたかは、今更之をくだくだしく説明する迄もあるまい。若し地下の闇斎先生にして知るあらば、吾道の明治聖代に際して、大いに世に明らかになりたるを、定めて思ひ掛けなき幸運として感謝したであらう」(「歴史より観たる山崎闇斎先生及び山崎学」『山崎闇斎と其門流』伝記学会編、明治書房所収)
この蘇峰の一文に誇張したところはない。崎門の楠本碩水が編んだ『崎門学脈系譜』付録には「私淑派」というカテゴリーが設けられており、そこには吉井正伴、吉井底斎、長岡温良(監物)、横井小楠、元田東野、徳富淇水、徳富龍山らの名前が記されているのだ。徳富の父徳富淇水は一敬と、淇水の弟龍山は一義と号していたのだ。また、平泉澄は『解説近世日本国民史』で次のように書いている。
〈蘇峰の晩年に、といふよりは最後に面談した時に、遺言として色々話があつた中に、淇水の諱一敬の敬も、龍山の諱一義の義も、また蘇峰の諱正敬の敬も、すべて是れは山崎闇斎の諱敬義の一字を貰つたのであると、私に語られた。また其の幼年時代に母の膝の上に抱かれながら、謝畳山(枋得)の詩「雪中の松柏いよいよ青々」を聴き覚えに覚えた事は、蘇峰自伝に見えてゐる。して見れば徳富家は、江戸時代かなり有力に肥後に伝はつてゐた山崎闇斎の学問を以て家学としてゐた事、明かである〉
すでに蘇峰は大正七(一九一八)年六月三日に『近世日本国民史』の執筆を開始していた。そのきっかけは、明治天皇の崩御であった。明治という時代の終焉に当り、蘇峰は「明治天皇御宇史」の著述を決意したのである。
大正十三(一九二四)年十一月四日には、崎門学派弾圧事件が発生した宝暦、明和の時代を扱った第二十二巻「宝暦明和篇」を書き始め、大正十四年二月十三日に脱稿している。同巻では、「尊王斥覇の思潮」の一章を割いて、以下のように述べている。
「国典の研究は、決して幕政の支持に有利ではなかつた。歌人は、万葉、古今の王朝を偲び、律令格式の学者は、朝政の盛時を慕ひ、歴史研究者は、皇祖肇国の大業を仰ぎ、何れの方面に於ても、慕古の思想を萌生し、而して慕古の思想は、やがて、復古の思想たらざるを得なかつた」
蘇峰は、「宝暦明和篇」起稿前年の大正十二(一九二三)年の八月には、「月田蒙斎」という随筆で次のように書いている。
「山崎派の本山とも云ふ可きは、京都の望楠軒であった。望楠軒の主盟は、若林強斎・西依成斎而して最後に梅田雲浜だ。若し夫れ九州に於ける山崎派の学統は、肥後の月田蒙斎より、肥前の楠本碩水に至り、延いて今日に及んでいる」(『第二蘇峰随筆』大正十四年所収)
■徳富蘇峰・平泉澄・有馬良橘が崎門学継承を強く意識した昭和三年
崎門学の継承において、蘇峰が果たした役割は極めて大きい。その活発な活動は、平泉澄との出会いによって拍車がかけられたように見える。
以下、高野山大学助教の坂口太郎氏の「大正・昭和戦前期における徳富蘇峰と平泉澄」(第十九回松本清張研究奨励事業研究報告書、平成三十一年三月)に基づいて、蘇峰と平泉の関係について紹介したい。
両者の好誼は、大正十五(一九二六)年から蘇峰が亡くなる昭和三十二(一九五七)年まで三十年以上にわたって続いた。
平泉は蘇峰を追悼した「徳富蘇峰先生」で、「私が先生より受けましたもの、又先生が私に対して示されました深い御理解、或は御愛顧といふものが、殆ど日夜咫尺して居ると異ならぬやうに私は感ずるのであります」と述べている。
蘇峰の『近世日本国民史』の連載が『国民新聞』で開始された大正七年、平泉は東京帝国大学文科大学の学生だったが、国民新聞に載った「国民史」の連載を切り抜いて読んでいたという。
両者の直接的に交流は、『国民新聞』が主体的に運営していた国民教育奨励会での活動を通じて始まっている。大正十五年八月に奈良県吉野山蔵王堂で開講された師範大学講座において、平泉は「国史通論」と題して講演したのだ。以来、平泉は蘇峰から講演会の講師として招聘されるようになる。
また、蘇峰は平泉の『神皇正統記』研究を支援していた。蘇峰は貴重な自らの蔵書である、『神皇正統記』の梅小路家本・登局院本を特別に平泉に貸し出している。
そして、昭和三年は蘇峰と平泉、さらには海軍大将の有馬良橘が崎門学の継承を強烈に意識する年となる。その年は、橋本左内の七十年忌に当っていた。左内の顕彰に注力していた平泉は、左内七十年忌に際して、盛大な講演会と展覧会を催すべく、蘇峰に講演を懇望したのであった。同年十月七日、東京小松原の回向院において、橋本左内の墓前祭が斎行され、その後、東京帝国大学仏教青年会館に場所を移して、記念祭典と講演会が開催された。「橋本左内先生」と題して講演を務めたのが蘇峰である(坂口太郎「大正・昭和戦前期における徳富蘇峰と平泉澄」)。
蘇峰は翌十一月、昭和天皇の即位御大典に際して京都に赴き、海軍大将の有馬良橘の案内で黒谷にある闇斎の墓にお参りしている。平泉が予てから尊敬していた有馬と出会うのは、翌十二月のことだ。平泉は、同月十四日に開催された、海軍の退役高級武官の親睦修養組織「有終会」主催の講演会で、「歴史を貫く冥々の力」と題して講演し、崎門学の真価を訴えたのである。平泉は次のように振り返る。 続きを読む 徳富蘇峰と崎門学 →
令和2年10月18日、崎門学研究会の有志で浅草海禅寺に赴き、梅田雲浜先生の墓参を行った。
雲浜先生は幕末尊攘派志士の領袖であり、安政の大獄で斃れた。今年で没後161年。
崎門学研究会の折本龍則代表が雲浜先生の『訣別』を墓前にて奉納した。
令和2年9月6日に都内で開催された崎門学研究会において、拙著『徳川幕府が恐れた尾張藩─知られざる尊皇倒幕論の発火点』について、同研究会の折本龍則代表にインタビューしていただいた。
★動画は崎門チャンネルで。
尾張藩は徳川御三家筆頭であり、明治維新に至る幕末の最終局面で幕府側についてもおかしくはなかった。ところが尾張藩は最終的に新政府側についた。この決断の謎を解くカギが、初代藩主・徳川義直(敬公)の遺訓「王命に依って催さるる事」である。事あらば、将軍の臣下ではなく天皇の臣下として責務を果たすべきことを強調したものであり、「仮にも朝廷に向うて弓を引く事ある可からず」と解釈されてきた。
この考え方を突き詰めていけば、尊皇斥覇(王者・王道を尊び、覇者・覇道を斥ける)の思想となる。その行きつく先は、尊皇倒幕論である。
義直の遺訓は、第4代藩主・吉通の時代に復興し、明和元(1764)年、吉通に仕えた近松茂矩が『円覚院様御伝十五ヶ条』として明文化した。やがて19世紀半ば、第14代藩主・慶勝の時代に、茂矩の子孫近松矩弘らが「王命に依って催さるる事」の体現に動くことになる。「王命に依って催さるる事」の思想がその命脈を保った理由の一つは、義直以来の尊皇思想が崎門学派、君山学派、本居国学派らによって継承されていたからである。
実は初代義直以来、尾張藩と幕府は尋常ならざる関係にあった。幕府は尾張藩に潜伏する「王命に依って催さるる事」を一貫して恐れていたのではないか。何よりも幕府は、鎌倉幕府以来の武家政治が覇道による統治とみなされることを警戒していた。 続きを読む 『徳川幕府が恐れた尾張藩─知られざる尊皇倒幕論の発火点』インタビュー →
令和2年10月18日、都内で第一回『天皇親政について考える勉強会』(崎門学研究会主催)が開催された。同研究会の折本龍則代表が、「天皇親政と天皇機関説の狭間で」と題して発表した。以下、当日配布されたレジュメを転載させていただく。
★当日の動画は「崎門チャンネル」で
■今日の皇室観
① 天皇不要論
社会契約論 共和革命論
② 天皇機関説 象徴天皇
親米・自民党保守 「君臨すれども統治せず」
Cf 福沢『帝室論』「帝室は政治社外のものなり」祭祀が本質的務め
③ 天皇親政論 圧倒的少数派
正統派 原理主義?
■天皇親政の三つの契機
① 正当性
天壌無窮の神勅
葦原千五百秋瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就でまして治らせ。行矣。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ。
『正名論』 『柳子新論』
資料)竹内式部の所司代での問答
② 決断主義
「自由主義なるものは、政治的問題の一つ一つをすべて討論し、交渉材料にすると同時に、形而上学的真理をも討論に解消してしまおうとする。その本質は交渉であり、決定的対決を、血の流れる決戦を、なんとか議会の討論へと変容させ、永遠の討論
によって永遠に停滞させうるのではないか、という期待を抱いてまちにまつ、不徹底性なのである。」(C.シュミット『政治神学』)→「例外状態」での決断
『国家改造法案大綱』
続きを読む 第1回『天皇親政について考える勉強会』(崎門学研究会主催) →
明治2年12月20日、太政官より「高山彦九郎ヲ追賞ス」との沙汰があった。
「草莽一介ノ身ヲ以テ勤王ノ大義ヲ唱ヘ、天下ヲ跋渉シ、有志ノ徒ヲ鼓舞ス、世ノ罔極ニ遭ヒ、終ニ自刃シテ死ス。其風ヲ聞テ興起スルモノ、少ナカラズ。其ノ気節、深ク御追賞在ラセラル。之ニ依リ、里門ニ旌表シ、子孫ヘ三人扶持、下シ賜リ候フ事」
玉木正英口述の「神学大意」(松岡雄渕筆記)には、以下のように書かれている。
「扨神籬と云ことは、皇天二組の霊をきつとまつり留められて、皇孫を始め奉り、万々世のすめみまを守護することの名ぞ。日と云は禁中様のこと、日つぎの御子で御代々日ぞ。其日様を覆ひ守らせらるる道の名ぞ。去によて代々御日様の御座る処はどこぞと云へば、禁裏の皇居が代々日様の御座所ぞ。(中略)とかく日本に生れたからは、善悪の別なしに朝家を守護しをほひ守ると云ことを立かひやり(ママ)、以て朝家の埋草ともなり、神になりたらば、内侍所の石の苔になりともなりて、守護の神の末座に加はるやうにと云ふことが、この伝の至極也」(カタカナをひらがなに改めた)
『維新と興亜』編集長・坪内隆彦の「維新と興亜」実践へのノート