「日本の真価」カテゴリーアーカイブ

隅田公園の碑が示す水戸の尊皇思想

 令和3年3月13日、嵐の中を大アジア研究会代表の小野耕資氏とともに、墨田区向島の隅田公園に赴きました。ここは、水戸藩の小梅藩邸(下屋敷)があった場所です。隅田公園には、水戸藩の尊皇思想を示すいくつかの碑が建っています。
 文政12(1829)年、徳川斉昭(烈公)が水戸藩第9代藩主に就任しました。烈公から絶大な信用を得ていた藤田東湖は、天保11(1840)年には側用人となり、藩政改革に当たりました。
 しかし、弘化元(1844)年5月、烈公は隠居謹慎処分を受け、東湖も失脚します。小石川藩邸(上屋敷)に幽閉され、同年9月には禄を剥奪されました。翌弘化2(1845)年2月には幽閉のまま小梅邸に移ったのです。この幽閉時代に東湖が作ったのが、漢詩「文天祥正気の歌に和す」(正気の歌)です。
 「正大の気、粋然として神州にあつまる。秀でては富士の獄となり、巍巍として千秋そびゆ。注ぎては大永の水となり、洋洋として八州をめぐる。発しては万朶(ばんだ)の桜となり衆芳ともにたぐいなし……」
 東湖は安政2(1855)年10月に発生した大地震に遭い亡くなりますが、正気の歌は幕末の志士を鼓舞し、明治維新の原動力となりました。

「天地正大気」の漢詩碑(隅田公園)
 水戸学の土台となったのは、徳川光圀(義公)以来の尊皇思想です。義公遺訓は、第6代藩主・治保(文公)から第7代藩主・治紀(武公)に伝えられ、さらに武公から烈公に伝えられ、さらに烈公から慶喜に伝えられました。義公遺訓は、慶喜の異母弟・徳川昭武にも伝えられていたと思われます。 続きを読む 隅田公園の碑が示す水戸の尊皇思想

渋沢栄一と水戸学①─水戸学派・尾高惇忠(藍香)の感化

 渋沢栄一の「論語と算盤」は良く知られていますが、渋沢の水戸学への傾倒や尊皇攘夷思想については、それほど知られてはいないようです。
 渋沢は、早くも5歳の頃から、父・市郎右衛門元助の指導で漢籍を学び、7歳の時には従兄の尾高惇忠(藍香)のもとに通って四書五経や日本外史を学んでいました。渋沢が藍香とその弟・長七郎から受けた影響は大きかったようで、例えば『渋沢栄一伝稿本』には、次のように書かれています。
 「先生をして更に憂国の志士たらしめしものは、尾高藍香と尾高長七郎となりき、藍香幼より文武に志し、早くより郷党の間に重んぜられしが、天保十二年徳川斉昭が水戸城外なる仙波ケ原に追鳥狩を催し、大に兵を練り武を講ずるや、藍香父に伴はれて之を参観し、いたく其勇壮なるを喜ぶと共に、いつしか水戸の士風を慕ふに至り、長ずるに及びて藤田東湖の弘道館記述義、常陸帯、会沢憩斎の新論等を愛読して、ますます其感化を受けたり」(『渋沢栄一伝稿本』)
尾高惇忠

 一方、三島中洲門下の山田準は、「儒学と青淵先生」と題して次のように述べています。
 「先生は又た王陽明の人物と学風に深き帰嚮も有つて居られる、其淵源は藍香翁から来て居るのではあるまいか。翁は水戸派の学問を修め一生愛読して傍から離さなかつた書は、常陸帯と新論と、王陽明の全集であつたと伝へられて居る。されば其感化が先生に及んだことは推知さるゝが、陽明の良知実行主義と簡易直截な学風とは、必ずや先生の心に契合する所があつたであらう」(『竜門雑誌』第481号、昭和3年10月)
 この山田準の文章からは、水戸学とともに陽明学の影響も窺えます。渋沢自身は、大正13(1924)年10月に開かれた東湖会で、次のように述べています。
 「水戸学が徳川幕府の末路に当りて国家の機運を作興して王政の復古を翼けたことは、今日更めて私の喋々を俟たぬのであります。而して水戸学の起源は水戸藩祖の尊王心より胚胎せられたものであつて、単に東湖先生のみを以て水戸学を論ずる訳には行きますまい。けれども天保以降嘉永・安政の頃に東湖先生が水戸に於て大義名分を唱道して皇室に対する幕府の態度に深い注意を払はれたことは、種々なる歴史が証明して居ります。惟ふに水戸は藩祖の威義二公、又は維新前には烈公等の各名臣が在らせられて、追々に其の御家風を発揚されたのであります。殊に外国関係の起つて以来、我が東湖先生は別して此点に注意されて、朝幕の間に在つて所謂大義名分を明にすることに力を尽されたお人と私は確信して居ります」(川崎巳之太郎編『東湖会講演集』大正13年10月刊)
 ただ、渋沢が尊攘思想を固めたのは、安政の大獄や桜田門外の変を経た文久元(1861)年に、江戸に出て、北辰一刀流の千葉道三郎の道場に入門し、剣術修行のかたわら勤皇志士と交わるようになってからのようです。幸田露伴は『渋沢栄一』で、「栄一は……千葉道三郎の門に入り、型の如く文武両道を受けたが、その受けたものはこれ等の先生の学問技術よりも、むしろその先生の周囲に群れていた時代青年等の雄偉峻烈なる意気の方が大きなものであった」と述べています。
 尊攘思想に目覚めた渋沢は、文久3(1863)年には、惇忠や、同じく従兄の渋沢喜作らと、高崎城を乗っ取って武器を奪い、横浜外国人居留地を焼き討ちにするという計画を立てています。明治45年2月に、その時のことを渋沢は次のように振り返っています。
 「丁度忘れも致しませぬ文久三年の亥年です、私が数へ年二十四の時、どうも堪らなくなつて一つ一揆を起さうと云ふ企てを致したのであります。今考へるとそれは余程乱暴なのです。……其時自身等はどうも前のやうな事にては手温い、気の毒ではあるが外国人をエライ目に合せてやるが宜い、外国人に罪があるか無いか知らぬが、何しろ日本は弱いから窘めやうと云ふだけではある、而してこれに対して偸安姑息の幕吏が悪い、併し悪いけれども直ちに江戸に兵を挙げると云ふ事は出来ないから、先づ百姓一揆を起して、さうして近所の一城を屠つて、それから横浜に押し出す、さうして横浜を焼打をする、焼討が出来れば国家は混乱になる、そこで徳川氏は維持が出来なくなる、其間には自分等の義挙を賞讚して諸侯が応ずるかも知れぬ、もし諸侯の応ずるまでに至らぬで己れは陳勝・呉広となつて倒れるかも知れぬが、必ず後に次ぐものがあるに相違ない、故に成功すれば素より幸福であるが、又倒れても尚且つ本望である」(「陽明学と身上話」『陽明学』第40号、明治45年2月)
 ただ、この計画に対しては尾高長七郎が強く反対し、大激論の末、計画は中止されました。

大アジア研究会代表・小野耕資氏の新作『大和魂の精神史』(望楠書房)、予約開始!

〈かつて日本人は清らかで美しかった。
かつて日本人は親切でこころ豊かだった。
日本人は美しい国土のもと、土着文化と共同体の中で暮らしを営んできた。美しい風土、美しい人情、美しい人々、それこそが日本のあるべき姿であった。
それがいまや、経済発展の美名のもと、国土は荒れ、人々はバラバラにされ、山河は失われている。それは、日本が失われているということだ。
いったいどうしてこんなことになってしまったのか。戦後のGHQによる日本弱体化政策の影響はあるだろう。だが、それだけではない。日本人自身が西洋化、近代化する過程の中でそうした誇りを見失っていった側面があったのだ。それは國體観の不在であり、国家観の不在である。経済力や軍事力といった国力にばかり目が向き、真に守るべき自然や文化、人々のつながりに目が向かなくなってしまった。いわば、国力重視の「政府主義」はあっても國體中心の「大和魂」がなかったのである。いままで両者は混然一体のものとして捉えられてきたが、分けて考えられるべきではないだろうか。
戦前戦後、大和魂を胸に抱き、現代の惨状に警鐘を鳴らす論考はさまざまな人物によって唱えられてきた。本書は、それらを参照しつつ、現代に求められる大和魂について論じていくものである。〉

小野耕資『大和魂の精神史』(望楠書房)

《目次》

はじめに
1 地理と日本精神 ―経済成長、国益、ナショナリズムに回収されない日本精神―
2 国粋主義の精神 ―「数値化できない国益」を追求する日本精神―
3 陸羯南の国家的社会主義
4 明治における忠臣蔵 ―福本日南と浅野長勲が掘り起こした忠臣義士の物語―
5 岡倉天心と霊性
6 儒学と日本精神
コラム 書評『歴史にとって美とは何か 宿命に殉じた者たち』(井尻千男)
7 澁川春海の尊皇思想
8 東洋の経済と西洋のエコノミー ―田崎仁義の皇道経済論―
9 アジア主義とは何か
10 橘孝三郎と柳宗悦 ―霊性と日本精神―
11 伊藤野枝と権藤誠子
12 渥美勝の「神政維新」論
13 蓑田胸喜の政治思想 ―国家は改造できない―
14 保田與重郎の『絶対平和論』を読む
コラム 書評『天皇とプロレタリア』(里見岸雄)
15 「神の目線」に立つな ―中島岳志『保守と大東亜戦争』批判―
16 官治・都市・成長の欺瞞と山河・民族・ふるさとの復活
17 皇室中心の政治論
18 伝統と信仰
19 平泉澄の歴史観
20 本土決戦と自主防衛 ―日本の針路を問う前に―
あとがき

徳川慶喜が伊藤博文に明かした水戸藩の遺訓継承

令和2年8月に『日本』(日本学協会発行)編集長の安見隆雄先生から、「水戸学と尾張学」というテーマで執筆する機会を頂戴いたしました。拙著『徳川幕府が恐れた尾張藩』を上梓したのをきっかけです。ところが、同年11月拙稿提出後、年が明けて安見先生が急逝したことを知りました。非常に大きなショックを受けるとともに、残念でなりません。心より、ご冥福をお祈り申し上げます。
 私が安見先生のご依頼に応え「知られざる尊皇思想継承の連携─尾張藩と水戸藩」と題して書かせていただいた原稿の結論は、尾張・水戸両藩における尊皇思想継承が一本の線でつながっているように見えるというものです。
 尾張藩初代藩主・義直の遺訓「王命に依って催さるる事」の継承と、義公以来の尊皇思想の継承とが連動していたのではないかとの仮説です。一つだけ例を挙げれば、水戸においては、義公の遺訓は第6代藩主・治保(文公)に継承され、さらに文公から第7代藩主・治紀(武公)に継承されましたが、『武公遺事』には「我等は将軍家いかほど御尤の事にても、天子に御向ひ弓をひかせられなば、少(いささか)も将軍家にしたがひたてまつる事はせぬ心得なり」と書かれています。
 この表現から直ちに想起されるのが、尾張藩における「王命に依って催さるる事」の継承です。尾張藩第4代藩主・吉通に仕えた近松茂矩が著した『円覚院様御伝十五ヶ条』には、「仮にも朝廷に向うて弓を引く事ある可からず」と書かれています。
 この表現の一致にとどまらず、水戸と尾張が尊皇思想の継承・展開で協力していたことを窺わせる事実もあります。

 さて、水戸藩における義公の遺訓継承を調べていた際に出会ったのが、渋沢栄一の『徳川慶喜公伝』です。渋沢が、かつて仕えた慶喜(江戸幕府最後の将軍)の伝記編纂を志したのは、明治26(1893)年頃とされています。明治維新に際して、慶喜がどのような考えで動いたのか、その真意を正しく後世に伝えたいという、熱い思いによるものでした。渋沢は、四半世紀もの歳月を費やして、ついに大正7(1918)年、『徳川慶喜公伝』全8巻を刊行しました。その第4巻には、義公の尊皇思想継承を伝える重大な記述があるのです。
徳川慶喜

 〈明治34年の頃、私、渋沢栄一が大磯から帰る汽車の中で、伊藤博文公爵と出会ったとき、伊藤公爵が次のような話をされました。
「渋沢さんはいつも徳川慶喜公を誉めたたえておられますが、私は立派な大名の一人くらいに思っておりましたが、今はじめて慶喜公という方は普通の人でない非常に優れた立派な方であると言うことを知りました」
 伊藤公は、なかなか人を信用し認めない方であるのに、いまこのように話されるのは、と疑問に思ったので、「なぜですか?」とたずねました所、「一昨夜、有栖川宮家で、スペインの王族の方を迎えて晩餐会があり、慶喜公も私も相客に招かれ、宴会が終わってお客が帰られた後、私は慶喜公に『維新のはじめに貴方が尊王というものを大事に考えられたのは、どのような動機からですか?』とたずねたところ、慶喜公は迷惑そうに『自分はただ昔からの家の教えを守ったに過ぎません。ご承知のように水戸は義公の時代から皇室を尊ぶということをすべての基準にしてまいりました。私の父、斉昭も同様の志しを貫いておりまして、常々の教えも、我らは三家(水戸藩・尾張藩・紀伊藩)三卿(田安家・一橋家・清水家)の一つとして、幕府をお助けすることは勿論でありますが、これから後、朝廷と徳川本家との間で争いが起きて、戦争でもするような大変なことにもならないとも限らないが、そのような場合には、水戸家はどんな状況になっても、朝廷に対して弓を引くようなことはしてはいけない。これは光圀公以来の代々受け継がれて来た教えであるから、絶対におろそかにしたり、忘れてはいけないものである。もしもの時のためにお前に言っておく。と教えられてきました。しかし、幼いときは、それほど大事な事とは考えていませんでしたが、二十に成り、(安政4年・1857)小石川の水戸家の屋敷に参りましたとき、父、斉昭は姿勢を正して、現在は黒船が来たりして大変な時代に成っている。この後、世の中はどのように変わって行くか分からない、お前も20歳になったのであるから、先祖から代々教え継がれて来た水戸家の家訓を忘れるではないぞ。と言われました。この言葉がいつも心に刻まれていましたので、ただそれに従ったまででございます』と慶喜公は答えられました。
 本当に奥ゆかしい答えではありませんか。慶喜公は本当に偉大な方です。と伊藤公が言われました。私は後に慶喜公にお会いした時に、このことを尋ねましたら、「そのような事があったなあ」とおっしゃいました〉(常磐神社社務所HP現代語訳)
 水戸では、この慶喜の発言を、水戸学の本義に関する重大事として重視し、慶喜に至る水戸藩における遺訓継承が探求されてきました。例えば、名越時正先生は昭和62年10月に『水戸史学』に書いた「徳川慶喜の大政奉還と義公の遺訓」(『水戸学の達成と展開』所収)で詳述しています。
 水戸藩と尾張藩でともに継承された遺訓「仮にも朝廷に向うて弓を引く事ある可からず」が、明治維新成就においていかに重要な役割を果たしのたかを、改めて考えるべきだと思います。渋沢と水戸学との関係については、別の機会に書きたいと思います。

壮行会御礼(令和2年12月12日)

昨日(令和2年12月12日)、国体政治研究会代表幹事の中村信一郎先生、玉鉾書院院長の森田忠明先生、展転社前社長の藤本隆之氏、崎門学研究会代表の折本龍則氏(浦安市議会議員)らの発起により、小生の壮行会を催していただきました。誠に有難うございます。
また、大東会館を使わせていただきました福永武代表に心より感謝申し上げます。
坪内隆彦壮行会
京都産業大学名誉教授のロマノ・ヴルピッタ先生、国家基本問題研究所副理事長・弁護士の髙池勝彦先生、桃の会副代表の小田内陽太氏、日本経綸機構専務理事の堀茂氏、神社本庁元総合研究部長の稲貴夫氏、板橋区議会議員の高沢一基氏、所沢市議会議員の佐野允彦氏、『宗教問題』編集長の小川寛大氏、大アジア研究会代表の小野耕資氏のほか気鋭の若手民族派の皆様にもご参加いただきました。また、國學院大學教授の菅浩二先生をはじめ、過分の差し入れを頂戴いたしまして、誠に有難うございました。
心より御礼申し上げます。

梅田雲浜先生墓参(令和2年10月18日、浅草海禅寺)

 令和2年10月18日、崎門学研究会の有志で浅草海禅寺に赴き、梅田雲浜先生の墓参を行った。
雲浜先生は幕末尊攘派志士の領袖であり、安政の大獄で斃れた。今年で没後161年。
崎門学研究会の折本龍則代表が雲浜先生の『訣別』を墓前にて奉納した。

古神道各派の呼吸法①─菅田正昭『古神道は甦る』

 菅田正昭氏は古神道各派の呼吸法について、以下のように述べている。
 〈伯家神道の系譜につながる教派神道の禊教では〈長息(ながよ)〉といって伯家の息吹永世の伝とまったく同じ呼吸法を、お祓いをあげるまえにおこなっているが、こうした呼吸法はもちろん伯家や禊教だけの専売特許ではない。他の古神道系、教派神道系教団にも、独特の呼吸法を伝えているところが多い。
 たとえば黒住教には、教祖の「天命直授(てんめいじきじゅ)」の体験をもとにした一種の丹田呼吸法がある。…黒住宗忠が重い病の床に臥しているとき、日輪が飛び込んだのを契機に全快したという故事にもとづいている。黒住教では、御陽気、すなわち太陽の気を吸うと称して、早朝の神拝のとき太陽を呑み込む仕草をしている。
 神理教には、真気=神気を吸って体内の邪気を吐く「長呼吸法」というのがある。同教団では、朝は朝日に向かって直立し、手を合せ、夜は床の上に正座し、合掌し、「わが心清々し、天在諸神(夜は、うぶすねの神)守り給え幸え給え」と唱えながら、大きく長く呼吸し、腹の底まで入れて吐きだす、と教えている。
 御嶽教の場合、朝、太陽に向かって立ったまま日拝と気吹をするのが重要な日課になっている。すなわち、静かに両足を揃え、太陽に向かって二拝二拍手一拝をしたあと、両足を大地に踏み開き、両手を斜め前から大空高くゆるやかに上げ、ゆっくりと気息を吸いこみ充分に胸を張るのである。そして、こんどはぐんと下腹に力を入れたまま、両手をゆるやかにおろしながら気息をはきだすのである。これを行なうと、前夜からの身心に充満していた汚れた悪気・毒気が吐きだされ、清浄な陽気=神気が全身にみなぎる。御嶽教では、これを攘禍行(じょうかぎょう)ともいっている。
 御嶽教にはこのほか、神前で正座をして行なう「神人感応行」とよばれるものもある。まず正座をして、腰をのばし、背骨を正し、顎をひき、目は半眼にする。二拝二拍手一拝のあと、福徳円満の手契(印)を結び、それを下腹部、すなわち臍下丹田のあたりにおく。この福徳円満の手契の結び方は、右手を下に、左手を上にするようにして掌を上向きに重ね、あたかも玉をもつように両手の親指で円を作るようにすればよいのである。こうしてから、御嶽教では「神威如嶽(しんいじょがく)、神威如嶽」と念じながら、ゆっくりと息を吸い込み、充分に息が入ったところで、神人一体の境地をもって、ぐっと下腹に力を入れ、こんどは神恩に感謝する気持で「神恩如海(しんおんじょかい)、神恩如海」と念じながら、ゆっくりと息を吐きだすのである。
 このように、伯家神道の永世と、他の神道の丹田呼吸法とでは、まず息は吐きだすのが最初か、吸うのが最初か、という相違があるが、二人以上で行なう場合、明らかに最初は息を吐いたほうが気が合いやすくなるし、心身の穢れを祓うという意味からも、最初は息を吐いたほうが良いと思う。ただし、伯家には〈神の息〉といって、まず口から吸って鼻から吐く、という呼吸法もあるが、これは永世を行じながら何かを祈念したとき、最後に一回だけ行なうものだという。さらに、伯家には、天津息吹といって、息を「ハッ、ハッ」と咳込むように、しかしまったく吸うことなしに息がつづくかぎり吐きだし、身体に付着した罪・穢れを一度にすべて吹きはらう、というのもあるようだ。
 いずれにせよ、多少の違いはあるものの、神道では丹田呼吸法を、鎮魂法として大切にしているのである。〉(『古神道は甦る』270-271頁)

『徳川幕府が恐れた尾張藩─知られざる尊皇倒幕論の発火点』インタビュー

令和2年9月6日に都内で開催された崎門学研究会において、拙著『徳川幕府が恐れた尾張藩─知られざる尊皇倒幕論の発火点』について、同研究会の折本龍則代表にインタビューしていただいた。
★動画は崎門チャンネルで。

坪内隆彦『徳川幕府が恐れた尾張藩─知られざる尊皇倒幕論の発火点』

尾張藩は徳川御三家筆頭であり、明治維新に至る幕末の最終局面で幕府側についてもおかしくはなかった。ところが尾張藩は最終的に新政府側についた。この決断の謎を解くカギが、初代藩主・徳川義直(敬公)の遺訓「王命に依って催さるる事」である。事あらば、将軍の臣下ではなく天皇の臣下として責務を果たすべきことを強調したものであり、「仮にも朝廷に向うて弓を引く事ある可からず」と解釈されてきた。
この考え方を突き詰めていけば、尊皇斥覇(王者・王道を尊び、覇者・覇道を斥ける)の思想となる。その行きつく先は、尊皇倒幕論である。

義直の遺訓は、第4代藩主・吉通の時代に復興し、明和元(1764)年、吉通に仕えた近松茂矩が『円覚院様御伝十五ヶ条』として明文化した。やがて19世紀半ば、第14代藩主・慶勝の時代に、茂矩の子孫近松矩弘らが「王命に依って催さるる事」の体現に動くことになる。「王命に依って催さるる事」の思想がその命脈を保った理由の一つは、義直以来の尊皇思想が崎門学派、君山学派、本居国学派らによって継承されていたからである。
実は初代義直以来、尾張藩と幕府は尋常ならざる関係にあった。幕府は尾張藩に潜伏する「王命に依って催さるる事」を一貫して恐れていたのではないか。何よりも幕府は、鎌倉幕府以来の武家政治が覇道による統治とみなされることを警戒していた。 続きを読む 『徳川幕府が恐れた尾張藩─知られざる尊皇倒幕論の発火点』インタビュー

第1回『天皇親政について考える勉強会』(崎門学研究会主催)

令和2年10月18日、都内で第一回『天皇親政について考える勉強会』(崎門学研究会主催)が開催された。同研究会の折本龍則代表が、「天皇親政と天皇機関説の狭間で」と題して発表した。以下、当日配布されたレジュメを転載させていただく。
崎門学研究会・折本龍則代表

★当日の動画は「崎門チャンネル」

■今日の皇室観
① 天皇不要論
社会契約論 共和革命論
② 天皇機関説 象徴天皇
親米・自民党保守 「君臨すれども統治せず」
Cf 福沢『帝室論』「帝室は政治社外のものなり」祭祀が本質的務め
③ 天皇親政論 圧倒的少数派
正統派 原理主義?

■天皇親政の三つの契機
① 正当性
天壌無窮の神勅
葦原千五百秋瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就でまして治らせ。行矣。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ。
『正名論』 『柳子新論』
資料)竹内式部の所司代での問答
② 決断主義
「自由主義なるものは、政治的問題の一つ一つをすべて討論し、交渉材料にすると同時に、形而上学的真理をも討論に解消してしまおうとする。その本質は交渉であり、決定的対決を、血の流れる決戦を、なんとか議会の討論へと変容させ、永遠の討論
によって永遠に停滞させうるのではないか、という期待を抱いてまちにまつ、不徹底性なのである。」(C.シュミット『政治神学』)→「例外状態」での決断
『国家改造法案大綱』
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本田親徳と白川神道の「十種神宝御法」

 副島種臣に強い影響を与えたのが、神道霊学中興の祖・本田親徳である。本田が再編した神道霊学とはいかなるものだったのか。宗教学者の鎌田東二氏は、『神界のフィールドワーク―霊学と民俗学の生成』(創林社、昭和60年)において、次のように指摘している。
 〈……安政四年(一八五七)頃に、本田親徳は神祇伯白川家の最後の学頭であった高浜清七郎と交わっているので、高浜より伯家神道の神事秘法について教示された可能性もある。かつて平田篤胤も伯家の古学方教授やのちには学頭に就任したことがあるが、この伯家神道すなわち白川神道には「十種神宝(とくさのかんだから)御法」という行法が伝わっている。……文久二年(一八六二)の八月一日付で、その頃備前国岡山に住んでいた高浜清七郎は、「十種神宝御法口授」の認可を受けたことが『白川家門人帳』に「高濱清七郎(源政一) 右今般依願、十種神宝御法被口授訖。万事正路之心得を以、可令修行。伯王殿被命処也、仍執達如件」と記されている。本田親徳はこの高浜清七郎について、「三十年来余と友人たり」とある書簡に記しているから、高浜より伯家神道の祭式や修行法を教わった可能性はかなり高い〉
 では、「十種神宝御法」とはいかなる行法なのか。鎌田氏は次のように続ける。
 〈「十種神宝」については、平安時代にまとめられた物部系の伝承を伝えたとされる『先代旧事本紀』に出てくる。物部氏の祖神饒速日神が天降りするとき、高天原で天照大御神より授けられた瀛都鏡(おきつかがみ)・辺都鏡(へつかがみ)・八握剣(やつかのつるぎ)・生玉(いくたま)・足玉(たるたま)・死反玉(まかるかへしのたま)・道反玉(ちがえしのたま)・蛇比礼(へびのひれ)・蜂比礼(はちのひれ)・品物比礼(くさぐさのもののひれ)の十種の天爾玉瑞宝を、「もし痛む処有らばこの十宝をして、一二三四五六七八九十(ひふみよいつむななやここたり)といひてふるへ。ゆらゆらとふるへ。かくせば死人も反り生きむ。これ即ち布瑠(ふる)の言の本なり」といわれるごとく、揺すり振るいながら生命のさきはいを祈ったのが物部系鎮魂祭の初めとされる。この祭祀は宮中の鎮魂祭祀に吸収されたが、伯家の「十種神宝御法」には、そうした古代祭祀や呪術に加うるに、吉田神道の行法の影響があったのではないかと私は思う。菅田正昭によれば、この「十種神宝御法」の行は「目をつぶったままで行なう幽祭修行で、十種神宝を十個の徳目にみたて、自分の魂を磨くことによって、その階梯を一歩ずつのぼっていこうというもの」とされる。また、そこでは手かざしによる浄霊(鎮魂)が行なわれていたという。そのほか、伯家には気吹の法や永世の法なる一種の呼吸長生法が伝わっていた。
 こうしてみれば、本田親徳の再編した「鎮魂帰神術」は、物部石上系の魂の医療技術としての鎮魂(招魂)法と、神功皇后が厳修したといわれる神教を請う方法としての神懸り(帰神)の法とを合体させ、それを導く「霊学」原理として「審神者」の法を確立した点にその特徴があるといえよう〉