坪内隆彦「『靖献遺言』連載第7回 崎門学派の志と出処進退」(『月刊日本』平成25年6月号)

御用学者・林羅山
 慶長十(一六〇五)年四月、若き林羅山は徳川家康と初めて対面しました。二度目の会見の際、家康は羅山に「後漢の光武帝は漢の高祖の何代目であるか」、「前漢の武帝の返魂香(伝説上の香)はどの書に出ているか」、「屈原の愛した蘭の品種は何か」と尋ねました。羅山はいずれの質問にも正しく回答しましたが、これらの質問は儒学の本質と関わりのない愚問です。
 『林羅山』を著した堀勇雄氏は、「この難問・愚問はこの後の家康と羅山との関係─聖賢の道を求める師と弟子との関係ではなく、学問知識の切売りをする雇傭関係を表徴するといえる」と書いています。
 さらに、堀氏は、家康は天下の覇権を握り政治を行うために、羅山の該博な知識を利用しようとしただけであり、いわば百科事典代わりに羅山を側近に置こうとしたのであると書いています。
 当時、幕府の官職に儒者を登用した先例はありませんでした。そこで、家康は羅山を僧侶の資格で登用することにしたのです。慶長十二年、羅山は家康の命によって剃髪し、名を道春(僧号)と改めました。堀氏は「廃仏を唱える羅山が剃髪したのは、聖人の道を行おうとする実践的精神を放棄して、単に博学と文才を売物とする職業的学者の立場を選んだことを意味する」と批判しています。家康に取り入った羅山は、家康の権力によって収集された貴重本の充満した書庫を管理するようになり、慶長十五年には幕府の外交文書を起草するようになりました。
 かつての主君である豊臣秀頼討伐という現実の問題に直面していた家康は、慶長十七年に湯武放伐論について羅山に質問します。このとき羅山は、「湯武は天に順い人に応ず。未だ嘗て毛頭計りの私欲も有らず。天下の人のために巨悪を除く。豈悪と雖も善ならんや。故に湯武は中なり。権なり」と湯武放伐論を肯定したのです。羅山は、家康の政治的野望に適うような理屈を提供したのです。
 家康は秀頼討伐の口実を、さらに必要としていました。そこで目をつけたのが、方広寺の鐘銘問題です。家康は、豊臣家の財力を消耗させることも意図して、方広寺の大仏殿の再建を秀頼母子に勧めました。この結果、慶長十七年春に完成、鐘も慶長十九年四月に鋳造されました。その鐘の銘を撰したのが、南禅寺の長老文英清韓でした。
 家康は、理由をつけて、開眼供養と大仏殿上棟・供養の延期を命じた上で、同年八月、五山の僧に鐘銘文を解読させたのです。彼等は、銘文中の「国家安康」に着目し、御名(家康)の二字の間に「安」の字を入れたことは問題だと勝手な批判を展開しました。
 このとき、羅山は勘文(意見書)を用意し、銘文にある「右僕射源朝臣」は「源を射る」という意味だ、また「君臣豊楽、子孫殷昌」は「豊臣を君として子孫の殷昌を楽しむ」という意味だなどと主張したのです。「右僕射」は「右大臣」の唐名に過ぎません。まさに、驚くべきこじ付け、牽強付会の説であり、文字通りの曲学阿世です。
 堀氏は「羅山の学殖が当代無比であろうとも、人間として尊敬に値せぬ俗学腐儒の徒に過ぎぬことを、この勘文は証明している」と書いています。
 いつの時代にも、権力や大企業の御用学者として活躍しようとする人はいます。ただ、いまやそれが、さしたる批判も浴びず、罷り通る世の中になっています。福島第一原発の事故は、東京電力の御用学者の存在を浮き彫りにしましたが、小泉政権以来の新自由主義の導入でも、御用学者の責任が問われています。例えば、佐高信氏は、経済学者の奥村宏氏の議論を受け、規制緩和の旗を振る竹中平蔵氏への詰問状で「あなたは御用学者にして無用学者ですね」と書いています。後ほど述べるように、正しい出処のできない学者は役に立たないというのが、崎門の学の考え方です。平泉澄先生は、昭和三十五年に、御用学者に対する痛烈な批判を展開していました。
 「学門は衣食の為にし、栄達の為にするものであるか。学者は其の地位を維持し、其の名声を存続せんが為に、絶えず変説改論するものであるか。学者は衆人の喝采を博せんが為に、大勢の推移に注意して、それに付和雷同するものであるか。眼前に見るところを以てしては、此の問に答へて、之を否定する事容易でない。
 しかるに昔は、全然之と正反対の学者が少くなかつた」

幕府に阿らない崎門派の出処進退
 崎門の学統が御用学者とは正反対の特徴を持っていたのは、そこに君臣の大義を貫くという明確な使命があったからにほかなりません。金も名誉も、そして命さえも、その使命より重いものはなかったのです。しかも、崎門の学は、自らが大事に臨んで正しい判断をする、つまり正しい出処進退をするための学問だったからです。
 山崎闇斎は、寛文五(一六六五)年に会津藩主保科正之の賓師に迎えられました。その六年後の寛文十一年八月、闇斎は吉川惟足から吉田神道の伝を受け、十一月には垂加霊社の霊号を受けています。霊社号を授けられた翌日、闇斎は藤森神社神主の春原秋成の嘱によって『藤森弓兵政所記』を草しました。
 近藤啓吾先生が昭和五十七年に藤森神社に詣でた際に閲覧した『春原系図』をもとに明らかにされたように、秋成の周辺には後水尾上皇にお仕えした人が少なくありません。幕府の専横を嘆いて後水尾上皇が『御訓誡書』を書かれたことは、四月号でふれた通りです。近藤先生が推測された通り、秋成は一族を通じて、こうした禁中の実情をよく知るものであったはずであり、闇斎は彼からそれを伝え聞いたのだと思われます。
 かつて、闇斎は家康を天下の泰平を開いた英主として称え、徳川幕府を支持していましたが、ここに幕府、徳川家に対する意識の転換が生じたに違いありません。翌寛文十二年に正之が死去すると、闇斎は会津藩の俸を辞し、以来天和二(一六八二)年に死去するまで、京の地を出ませんでした。ここには、闇斎の幕府に対する姿勢が明確に示されています。
 浅見絅斎もまた、「予は既に終身足関東の地を踏まず、食を求めて大名に事えずと誓えり。出処進退の事において、毫末も世に耻る所なし」と語り、諸侯からの招聘を断り、生涯京を離れることはありませんでした。紀州侯から五百石という高禄で招聘されましたが、それにも応じようとはしませんでした。そのとき「将軍から招かれれば出仕しますか」と問われた絅斎は、「島流しの覚悟」で応じないと答えたといいます。絅斎門下の若林強斎は、次のように書いています。
 〈……絅斎なども、「何はともあれ、出処の一事に於いては恥じぬ」と言われたが、同じく手前なども、せめてこの一事なりとも守らいではじゃ。手前がところに堂上から何某が逢いたいということを言って越されたが、中々合点せなんだぞ。堂上で誰が評判やら、「十次郎(絅斎)はよい儒者とみえる」と言われたとあること。「どの学者でも堂上にはとり入りたがるが、あの人ばかり出入りせなんだ。これからみればよい学者そうな」と言われたとあることじゃによりて、手前なども、「十次郎が時には出入りせなんだが、弟子になりてから出入りする」と言われてはならぬ。手前はその様なことはふつふつ嫌いじゃ。平生儒者風が出ようかと思って、あぶない〉
 御用学者の道を断ち、徳川幕府に阿ることなく、道義の実践を志すことには、大きな困難が付きまといました。絅斎とその門人たちは、貧困に耐えて学問を続けなければなりませんでした。学舎の屋根瓦が傷めば屋根に登ってこれを修理し、講堂の根太(ゆか板を支える横木)が落ちれば、床下に入って力を合わせて持ち上げたといいます。
 敢えて困難な道を歩まんとした崎門学派の指導は厳格を極めました。例えば、絅斎が喀血を繰り返したとき、同門の槙元真は休養させてはどうかと闇斎に提案しましたが、闇斎は「死生は命だ。どうして年少の者に愉情を習わす必要があるのか」として休養を許しませんでした。
 強斎に対する絅斎の指導も同様でした。宝永六(一七〇九)年、強斎の父が病気となり、強斎は大津の三井寺の別所微妙寺に住居を移しました。以後、絅斎の講義を聞くために、一日置きに大津と京都の間を行き来しなければならなくなりました。夏には、衣服を汚さぬよう、刀の先に括りつけて担ぎ、襦袢一枚で通いました。そんな状況にもかかわらず、絅斎は厳しく強斎を指導しました。その後、絅斎は「丈夫という者は新七(強斎)のことであろう」と言って強斎という号を与えましたが、絅斎は、門人たちが、自ら克つことができる、真の強者になることを期待していたのです。
 谷川士清は『日本書紀通証』で、「学術の要は、唯だ此の二字(辛苦)を貴しと為す」「辛苦困難、備に之を嘗めずんば、則ち清々の地、豈其れ期す可けんや」と書いています。これについて、近藤先生は、「『道』とは、自ら之を担ふ決意と、その決意の上に立つ、いかなる辛苦をも辞せぬ実践によりてのみ、これを実現することができるとして、躬を以てこれに当った、崎門の学の特色が、よく示されてゐる」と書いています。

「百年の後に知己を待つ」─明治初年の楠本碩水
 崎門の学を継承し、幕末から大正期にかけて活躍した楠本碩水の出処進退もまた、闇斎─絅斎─強斎の伝統を継ぐものでした。
 徳川幕府が倒れ、王政復古が成ったとき、いよいよ崎門派の出番が訪れるかに見えました。楠本は平戸藩より貢士に挙げられて新政府に出仕することとなり、明治元年八月に学校御用掛に就きました。ちょうど学習院が大学寮代と名称変更し、新たな学則を制定するときでした。まもなく、国学中心の皇学所と大学寮代を改組した漢学中心の漢学所の二校体制に移行し、楠本は漢学所の講官に任命されたのです。
 ところが、その直後に東京奠都が決定され、東京に移った政府は洋学を織り交ぜた「大学校」の設置へと構想を修正したのです。こうして明治二年九月、皇学所と漢学所は廃止されてしまいました。これに対する反発が強かったため、太政官の東京移転に伴って京都に置かれた留守官は、東京の大学校を補完するものとして同年末、京都に「大学校代」を設けました。このとき、楠本は大学少博士心得に補せられましたが、結局大学校代は明治三年八月に廃止されてしまったのです。
 この間、東京の大学校では、洋学者の主導で明治三年に「大学規則」が制定され、従来のように学問を「国学・儒学・洋学」と区分せず、「教科・法科・理科・医科・文科」と区分されることになりました。そして明治三年七月には、国学・漢学を講義する大学本校は休校となり、再開されることなくそのまま廃校となったのです。明治維新の原動力となった思想は、わずか三年のうちに、新政府によって蔑ろにされるようになったのです。
 水戸学研究者の高須芳次郎は、明治初期以来、英米などから輸入した「才智技芸第一主義」は、学問の要を得たものとは言い難いと述べ、正しい行き方は、道徳、倫理の教養によってまず人格を完成させ、その上で、才智、技芸を修めさせることだと書いています。
 一方、安岡正篤は「東洋の本当の学問をやった人、いわゆる悟道し道を修めた哲人は、骨の髄まで学問になっている。これに対して西洋の思想家・学者は、知識や教養は豊で洗練されていても、人物が本当に磨かれて、学門と同じように人間が出来ているという人は非常に少ない」と語っていますが、明治初年以来急速に進んだわが国学問の西洋化の弊害について考える必要があります。
 さて、楠本は明治三年に大学校代が廃止されると、長崎の針尾に帰りました。『碩水楠本先生七十寿序』には、「一新の際、異学雑進し、国事未だ定まらず、退きて正学を講じ大道を明らかにするにあらずんば、人心得て維持すべからず」として退いたと書かれています。
 九州大学教授の福田殖氏は「楠本碩水は時流に乗ることをかたくなにこばみ一人の崎門派の儒学者として誇り高く、理想を求めて生き通した。碩水は自らの原理に従って権力も、富も、名声ももとめず、心温く、批判精神をもって生き通したのである。…彼は維新後、現実の政治に関与することなく、隠者の道を選び、百年の後に知己を待つと言い、維新後に急速に進められた文明開化という名の西洋化による人心の退廃と功利追求の風潮を痛烈に批判した」と評価しています。
 そんな楠本を、明治二十八年四月に訪れたのが内田周平先生です。この出会いがあったからこそ、闇斎以来の崎門の学は、今日に受け継がれてきたのです。これについては、次回書くことにします。
 楠本は内田先生に学問上の調査を依頼していましたが、その際特に問題にしていたのが、「学者の出処進退」のことでした。楠本は、いかに該博な知識の所有者でも、出処進退に欠けるものがあるのは真の学者としては認めがたいと考えていたのです。崎門の学の真髄を楠本から学んだ内田先生は、後に次のように書いています。
 「闇斎先生の学、即ち私共が奉ずる所謂崎門の学と云ふものは、道理の研究を第一義となし、最も力を用ふる所は、其の講義と体験躬行とに在ります。体験とは身に引き当て、躬行とは自ら行ふことで他の儒家の如く、訓話詞章、即ち経書の註解や詩や文章に意を用ひることをしませぬ。それ故詩文は巧みならず、著述は多からず、異流の学者は往々指しで偏固となし狭隘となして居ります。然しながら哲学の思想に深く、道義の実行を重んじ、又出処進退を苟もせざるが如きは、崎門学の特色であります」

大儒・真徳秀を批判した浅見絅斎
 絅斎が著作で説いたことと彼の生き方は一体でした。三月号でも触れた通り、絅斎は『靖献遺言』謝枋得の章において、南宋第四代皇帝・寧宗を継いだ第五代皇帝・理宗(貴誠)即位の事情について書いています。
 一二二四年八月に寧宗が亡くなると、宰相の史弥遠は反対する皇后を脅し、貴誠を新帝として擁立したのでした。
 このとき、寧宗時代に潭州の通判(州の政治を監督する官)を務めていた李燔が理宗には仕えようとしなかったのに対して、『大学衍義』の著者として名高く、大儒と仰がれた真徳秀(西山)は理宗に仕えたのです。これについて、絅斎は次のように書いたのです。
 〈余竊かに疑う、徳秀の貴誠に事うる、大義に害あり、と。それ弥遠の逆、貴誠の簒、その罪、断乎として天地の間に容れざるなり。寧宗をして地下に知ることあらしめば、則ち当日北面して貴誠に臣たるもの、それ何の詞あって主を忘れ讎に事うるの責めを辞せんや。……徳秀、学術経済純正精覈、道学私淑の士に於いて傑出せるものと謂うべし。いまその出処に就きてこれを考うれば、則ち疑うべく恨むべき、かくの如きものあり〉
 こう述べて、李燔を称えた上で次のように結んでいます。
 〈それ嗣を立て世を継ぐは根本大体の関る所、人臣たるものここに於いて力を竭さざれば、則ちその余は観るに足らず、尤も死生去就を以て決せざるべからざるなり。ここを以て亦た竊かにここに附して以て君子を俟ちて訂す〉
 この絅斎の記述について、絅斎門下の谷秦山は「これをここに論ぜられたは、絅斎先生の深い旨ぞ。何ほど学術がどう有っても、出処の損ねた学者は何の役に立たぬ。……学者たる者は、かような処に目を付け、吟味を致さないでは、存じよりもなう、いつ何時主殺しの徒になろうもしれぬ。それゆえ絅斎先生も力を入れて論じておかれた」

絶えざる努力の継承によって実現する國體
 絅斎は、平生から道義を錬磨しておかなければ、いざというときに正しい判断を下し、正しい判断の下に正しい行動をとることができないと考えていました。絅斎が『靖献遺言』を書いたのも、そのためでした。同書屈原の項で、絅斎は以下のような朱子の言葉を引いています。 「そもそも平常何事もない時に於いて道義を考え精神を磨いていても、一大事突発の際には、なお決断がつかず心がちぢみがちのものである。まして日頃、集まって世間話ばかりし、それが習慣化して軟弱の人間になってしまうと、俄かに問題が生じた時、節義を守り一命を捨てることはできるはずもなく、義理にあうかあわぬかを棄てて、ただどうしたら得か損かを考えるばかりである。これ、奴婢の態度というべきで、何よりもいやしく厭うべきものである」
 絅斎は常に、鎺に「赤心報国」と書かれた長刀を帯し、「逢坂山はわが死処なり」と語って、命を捨てる覚悟を固めていました。そんな絅斎の姿勢を最もよく示しているのが、彼が著した『剣術筆記』でした。
 「……至剛懼るることなき者は、それ剣学の本か。もしここに達するを得ざれば、則ちたといその技の精法を竭すも、一も得て施し用うべからざるなり。……能く剣を用うる者は、まず我が死に向うの志をして、進なく退なく、平日即ち敵に対し、敵に対するも亦た平日、生や死を貫いて一日の如くならしむ。これ乃ち吾が学の根本、至剛懼るることなきの極功、而して技術の精、ここに於てか施すべし」
 では、いかにして「懼れることなきの剛」を養うことができるのか。絅斎は「清心寡慾、身を謹しみ精を厲まし、つねに忠孝節義を以て念と為す」ことだと述べ、剣術の極意は「全く己を実にする」(自分の魂を充実させる)ことであると書いています。
 そして、絅斎は実際にこれを我が身に得ようとするならば、日夜の鍛錬を経なければならないと説きました。
 絅斎の姿勢は西依成斎にも引き継がれていました。桑名藩の儒官広瀬蒙斎は、寛政八年に京都で成斎に謁した時のことを、次のように記しています。
 「(六月)二十七日、西依成斎に謁す。年方に九十五、なお矍鑠たり。喜んで人に対して古今の得失を談ず。(中略)梁上に眉尖刀、重さ数十斤のものを横たえ、毎に曰く、万一に事あらは、我れ此の刀を擁して、以て禁闈(宮中)を護衛せんと欲す。万夫と雖ども、必ず辟易して進まざらんと。気概老いてなお壮なり」
 崎門の学徒は、かくまで壮絶な覚悟で道を追求していたのです。それは、君臣の大義の貫徹に支えられるわが國體が、自らの覚悟と実践に宿ると信じていたからです。
 以下に引く近藤先生の言葉は、皇統一系の國體護持を使命と定め、その実践に挺身する崎門の学の真髄を明確に示しています。
 「皇統無窮、万世一系とは、本然の事実にあらずして、当為の努力である。言ひかへれば、これは、わが國體の最高の理想目標を示したものに外ならない。たゞこれは、絶ゆることなき努力の継承によつてのみ、現実たらしめ得る。しかもこの当為の努力が、肇国以来一貫せられて来たところに、わが国の道義の本質を見る。観念でなく実践であり、中断なき継承であらねばならぬ」
 いま、利己主義、金銭万能主義が蔓延し、日本人の心はますます資本の論理に支配されるようになっています。本来の学者の在り方を考え、わが国の道義の本質を把握するために、崎門の学に学び実践したいと思います。


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