■強い賛同を示した美術新報社
維新後の欧米文化流入によって有職故実が衰退する中で、明治四十一(一九〇八)年に、山科言縄を会長、子爵清岡長言を副会長として、京都で「有職保存会」が創立された。山科は、下御霊神社宮司で崎門学継承に力を尽くした出雲路通次郎の師として知られる。
山科と清岡について、『美乃世界』は、「往時宮中に奉仕して、親しく事に当り、殊に衣紋の家を以て知られ、今は古稀に近き高齢を保たるゝ伯爵山科言縄君を其の会長に推し、同じく華胃の名家にして京都に在住し、斯道に熱心なる子爵清岡長言君を其の副会長に戴き」と書いている(『美乃世界』明治四十三年二月号)。
有職保存会は有職故実の研究を目的とし、大正三(一九一四)年六月に雑誌『有職』第一巻を発行、大正五年二月には第二巻を発行している。山科言縄、清岡長言、文学博士三浦周行、文学士江馬務らの講筆録を載せていた。
有職保存会は宮中行事の再興を目指し、様々な催しを主催していた。例えば、大正六(一九一七)年四月二十四日には平安神宮神苑で「曲水の宴」を催している(『皇国史大観 歴代文化』昭和九年)。
有職保存会を紹介した史学研究会発行の『史林』(大正十五年七月)は、次のように書いている。
「由来京都は衣冠の都と称せらるゝも、明治維新以来欧米文化の移入と共に有職故実の事は一部の人士を除き、一般には殆ど忘られたるが如き観あり、昨秋(大正十四年)今上陛下即位の大典を京都に挙げさせらるゝ迨び、典故儀例の事復世人の注意に上りぬ。吾人は京都に相応しき同会の熱心なる同好者に依りて健全なる発達を遂げんことを望むものなり」
有職保存会は次のような趣旨を掲げた。
有職故実の儀式は古来宮中に於せられても最も尊重せられたるものなるが、近時社会の進運に伴ひ国粋保存の必要を認むるもの漸く多く従つて有職故実は各種の美術品より広く刺繍、織物、漆器、陶器、菓子、料理、人形、装身具等に迄応用せられつゝあるも深く其の淵源を取べたるものは未だ甚だ多からず、維新後東都遷宮の結果此等の儀式は多く東都に於て行はせられ宮中に在ては今尚旧儀を存続せられつゝあるも吾京都に在ては漸く其の事に遠ざからんとす、然れども延暦御遷都以来一千百余年来行はれし事とて往時宮中に奉仕せし人々の記憶に存するもの又は諸家に秘蔵せる図書記録の今尚存するものあり、而も調査時期を逸せば之を千歳に伝ふること能はざるの恨事を生ぜん、殊に明治五十年は 今上の御在位を祝するの大典行はれんとするの議もあり、依て此際有志相謀つて有職保存会を組織し、広く全国に同志を募り、往古より尊重せられし有職故実の儀式を調べて各種式典に応用するの心得となし併せて美術に応用するの資料と為さんとす、乞ふ別項規約に依て賛成の栄を賜らんことを
先述した『美乃世界』は宮城幸太郎が発行兼編輯人を務め、有職保存会の活動紹介に並々ならぬ力を入れていた。明治四十三年二月号には「同会に於て講演せられ、研究せられたる事柄は我美術界に取り最も有益貴重の資料たること言を俟たず、依て我社は特に其講演を筆記し時には図を挿みて之を説明し逐号連載して広く同志諸士の裨益に供せんとし本号には先づ其の会の趣旨及会則等を記載せり」と書かれている。別面では、さらに熱を入れて有職保存会の意義を称えている。
「延暦奨奠都以来一千百余年間の歴史を有する我京都に在ては、人文の発達に伴ひ、朝野を問はず、儀容式典頗る盛んなるものありて、各種芸術の淵源ともなりしもの少からず、殊に古来宮廷に行はれし有職故実は、近時本邦美術史を講ずるものの必ず知らざるべからざるの一要件となり、従つて之を尊重し、之を研究するもの漸く多きを加へんとす、然るに一方、故老にして此の有職故実に通暁せるの人は年を逐ふて、漸く稀れになり往き、諸家に秘蔵さるゝ図書記録の類も、時に散乱に帰するの虜なきにあらす、此の加くにして年所を経ば、遂に依るべきの人なく、知るべきの道なきに至らん、余輩の常に焦慮して措かざる所なるも、一人の力之に如何ともする能はざりしが、世間亦同感の士少からず、幸に近時此の地に在て、篤志諸士の発起に依り、有職保存会なるものゝ組織せらるゝあり……先づ宮中年中行事より起りて、山科伯が多年目睹実践せし所に依り、其の講演を聴きて之を筆記し之を図説し、以て永く後世に伝へ各種式典の考証、美術の資料に供せんとせり、是れ恰も余輩の素懐に一致するものなれば余輩は満腔の熱情を以て賛意を表し、今回此の会に参加し、其の講演を筆記して、時に図説をも加へて之れを本紙上に登載し、広く天下同感の士に伝へんことなしたり、蓋し亦本邦美術界のため裨益する所あらんとするの微意に出づ、乞ふ愛読の栄を賜へ」
これらの記事は『美乃世界』の記者と推測される若松梵入によって書かれたようである。