満洲事変勃発前の昭和五(一九三〇)年、筆者の祖父川瀬徳男が東亜同文書院の調査旅行で訪れたのが、中国東北地方にあった西田病院だった。
西田英雄が院長を務めていた西田病院を、祖父らは盛京時報社と並ぶ「真の日支親善の実行者」と称えた。西田英雄は満鉄大連医院の内科でも活躍していた。「我が国最初の高層病院」とも言われる満鉄大連医院は、満鉄が明治四十(一九〇七)年に設立した病院で、昭和二(一九二七)年五月に新築されている。『醫海時報』(昭和二年五月)は、その様子を「日支両国の碩学を一堂に会し 開院式挙行 参列者四百余名・大連市空前の盛儀」との見出しで大々的に報じた。建物は現在、大連大学付属中山病院として使用されている。
満鉄大連医院内に置かれた「東洋医学社」が発行していた医学専門誌が、『満洲医学雑誌』である。西田が大連で医学の発展に重要な役割を果していたことは、度々同誌に医学論文を載せていたことからも明確だ。例えば、同誌第四巻第三号には「心臟瘤ニ就テ」を発表している。また、同誌第五巻第二号には、村上純一とともに「大連ニ於ケル日光ノ強サニ就テ(其一) 附 大連ノ氣象」を寄せている。

今回、改めて西田英雄のことを調査したところ、高森ミツノ著『ソ連占領下の大連:或る婦人の抵抗と脱出』(大東塾出版部、昭和四十九年)に西田についての記述があることを発見した。
高森は「西田病院長の連行と救出」に一章を割き、終戦後、正当な理由もなくソ連に連行された西田の救出に尽力したことを綴っている。西田の釈放を求める高森に対して、ガジヤーナフ・ソ連軍司令官の秘書ダリノフは「西田院長は思想犯であるから、現在どこに居るかわからない。シベリアに送られるかもわからない」などと言って拒んでいた。しかし、粘り強い高森らの要請の結果、西田はついに釈放された。中国公安局の協力なくして、西田の釈放はなかったのである。高森は次のように振り返っている。
〈結局、同年(昭和二十一年)九月、西田英雄院長は、私の方からの願ひ出による中国公安局の協力のおかげであやふく救出することが出来ました。
この時、西田院長救出のことに協力してくれました中国公安局関係の人々は、中国公安局総務部長・孫喜照、同局砂河口分局総務課・陳有章、同分局第四班班長・夏中江の三氏であり、また、西田院長の救出かたについて、進んでこの三氏を始めとする中国公安局関係に取次いでくれた人は、終戦直後、上海方面から大連に来たといふ、当時浪速町角の元の遼東ホテルに宿泊してゐた、中共関係者らしい、「楊成生」という中国人でした〉
一方、澄田助三郎の『自伝』からも、西田に関わる情報を得られた。昭和二十一年十一月に沙河口留置所から釈放された時の写真(左から西田英雄、澄田助三郎、恩田明)が掲載されている。
