書院の建学精神を体現した石射猪太郎

 明治二十(一八八七)年に福島県で生まれた石射猪太郎は、福島中学(現福島県立福島高等学校)を経て、東亜同文書院に第五期生として入学した。明治四十一(一九〇八)年に卒業すると、満鉄に入社している。父の事業を手伝うために満鉄を退社したが、その後、外交官及領事官試験に挑み、大正四(一九一五)年に外務省に入省する。彼が外務省東亜局長に就いたのは、支那事変勃発直前の昭和十二(一九三七)年三月のことだ。
 橋川文三は、書院の建学精神について、〈義和団事件以来、列強の中国分割の形勢が進行するのに対抗して、いわゆる「中国保全論」の立場から日中の学生を教育しようとするものにほかならなかった。ただ、このころから、日本の対アジア政策は帝国主義の傾向をつよめはじめたため、同文書院出身者はのちにしばしばその手先のように見られることにもなったが、その建学精神はどこまでも中国を援けてその改造を促進し、日中友好を基礎としてアジアの平和を追求するという善意であった〉と書いている(『順逆の思想』)。そして、橋川は、「石射猪太郎という一外交官の生涯は、その建学精神をもっとも好ましく体現したものということができる」と述べている。

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