五 生きる力としての「みこと」意識
市場原理主義の信奉者たちは、競争原理によって社会は発展するのであり、競争のないところに進歩はないと主張する。確かに、社会主義的な平等分配の思想は、人間の意欲を奪いとるという欠陥があった。だが、一方で競争社会の弊害も無視できるものではない。そこで注目されるのが、「人との競争ではなく、自らの存在価値を高めようとすることによって生じる意欲こそが重要だ」と考える皇道経済論の発想である。「四、成長するための生産=『むすび』」で書いた宇宙の創造に参画という考え方が意識されるとき、人間の生きる力は大きく変化する。岡本廣作は、日本経済とは、日本国民全てが、生まれて生み、生まれて生みの生成発展の永遠飛躍の生命力である「むすび」の道に参じて、各人がその分に従って、そのつとめを尽くすことだという[一]。
一方、永井了吉は、「みこと」(一人一人の人間)が、それぞれの生命を最も充実させることが奉仕にほかならないとする。しかも、「みこと」それぞれが全宇宙過去未来に亘つて唯一無二の個性を持つことが、個性が尊貴である理由であり、その綜合によって全体としての大創造が可能だと説いた[二]。 続きを読む 忘却された経済学─皇道経済論は資本主義を超克できるか 五/おわりに
「岡本広作」カテゴリーアーカイブ
忘却された経済学─皇道経済論は資本主義を超克できるか 三
三、エコロジーに適合した消費の思想
「万物は天御中主神に発する」という皇道経済論の考え方は、物の運用、管理、消費の仕方について独特の考え方をもたらす。一切のものを大切にし、無駄なく完全に活かしきるのである。
例えば、岡本廣作は、日本国民は「大君のおんもの」である財産を、上御一人の御仁慈に応えるように活用しなければならないと説いた[i]。
無駄なく完全に活かしきるとは、それぞれの「勿体」(もったい)を活かすことにほかならない。「勿体」とは、もともと仏教用語で、その物の本体、価値などを表している。万物に価値、存在意義があり、それを活かし切ることを重視することを意味している。つまり、「もったいない」とは、そのものの価値を完全に活かしきれていないことをいう[ii]。 続きを読む 忘却された経済学─皇道経済論は資本主義を超克できるか 三
忘却された経済学─皇道経済論は資本主義を超克できるか 二
二、神からの贈り物と奉還思想
「君臣相親みて上下相愛」する国民共同体を裏付けるものは、わが国特有の所有の観念である。皇道経済論は、万物は全て天御中主神から発したとする宇宙観に根ざしている。皇道思想家として名高い今泉定助は、「斯く宇宙万有は、同一の中心根本より出でたる分派末梢であつて、中心根本と分派末梢とは、不断の発顕、還元により一体に帰するものである。之を字宙万有同根一体の原理と云ふのである」と説いている。
「草も木もみな大君のおんものであり、上御一人からお預かりしたもの」(岡本広作)、「天皇から与えられた生命と財産、真正の意味においての御預かり物とするのが正しい所有」(田辺宗英)、「本当の所有者は 天皇にてあらせられ、万民は只之れを其の本質に従つて、夫々の使命を完ふせしむべき要重なる責任を負ふて、処分を委託せられてゐるに過ぎないのである」(田村謙治郎)──というように、皇道経済論者たちは万物を神からの預かりものと考えていたのである。
念のためつけ加えれば、「領はく(うしはく)」ではなく、「知らす(しらす)」を統治の理想とするわが国では、天皇の「所有」と表現されても、領土と人民を君主の所有物と考える「家産国家(Patrimonialstaat)」の「所有」とは本質的に異なる。 続きを読む 忘却された経済学─皇道経済論は資本主義を超克できるか 二