一、肇国の理想と家族的共同体
「人民の利益となるならば、どんなことでも聖の行うわざとして間違いない。まさに山林を開き払い、宮室を造って謹んで尊い位につき、人民を安ずべきである」(宇治谷孟訳)
『日本書紀』は、肇国の理想を示す神武創業の詔勅をこのように伝える。皇道経済論では、国民を「元元」(大御宝)として、その安寧を実現することが、肇国の理想であったことを強調する。
山鹿素行の精神を継承した経済学者の田崎仁義は、皇道の国家社会とは、皇室という大幹が君となり、親となって永遠に続き、親は「親心」を、子は「子心」を以て国民相互は兄弟の心で相睦み合い、純粋な心で結びついている国家社会だと説き、それは力で社会を統制する「覇道の国家社会」とも、共和国を指向する「民道の国家社会」とも決定的に異なるとした[i]。
西田幾多郎に師事した唯一の経済学者とされる石川興二は、肇国の理想を体現したわが国社会を国民共同体と位置づけ、その本質的特徴を次のように説明している。
「全体が個々人を重んじ個々人が自己の性能を全体の為めに発揮するところのものである。然るに我国民共同体に於ては、その歴史的全体性が 天皇に於て人格化されて居り従つてこの全体と国民個々との間には直観的な人格的関係が成立ち従つてそれは最も強い愛の関係となる」[ii]。
さらに石川は、天皇の全体性は国民全てに、その処を得しめんとする大御心であり、国民はこの御心を体してこれを実現すべく各々のある地位において、その分を尽くすのだと言う。これによって、「一が多を生かし、多が一を生かす」、「全が個を生かし、個が全を生かす」ことになると説く。『皇道経済の確立』を著した田辺宗英は、この点を「一切を慈しみ給ふ至仁至愛の大御心と、感謝報恩の念に燃へて、一切を奉仕する国民の忠誠との合体」(天恩と報恩一体の経済)と表現する[iii]。
一方、戦前東京帝大で教鞭をとった難波田春夫は、本居宣長の『古事記伝』や和辻哲郎の『日本古代文化』に依拠しつつ、古事記、日本書紀の解釈に没入し、独自の経済学を樹立したが、彼はわが国の神話が示すものは、わが国におけるすべての氏族を一系の皇統からの分かれであると捉える「血縁的共同体としての歴史」だと結論づけた[iv]。また、戦前に独自の経営学を展開した岡本廣作は『日本主義経済新論』において、わが国の家を中心とする立体的家族生活は日本民族の祖先崇拝、血族相愛の観念の上に基かれたものであって、この民族的性格は日本経済の大きな特色であると主張した。そして、日本の国民生活の根底は家にあり、西洋のように個人が国民生活の基本を形成していないと指摘した。
ところが、「君臣相親みて上下相愛」する国民共同体の性格は、時代とともに変化していった。慶應四(一八六八)年三月十四日に示された「国威宣布ノ宸翰」は、「中葉朝政衰へてより、武家権を専らにし、表には朝廷を推尊して実は敬して是を遠ざけり、億兆の父母として絶えて赤子の情を知ること能はざるやう計りなし、遂に億兆の君たるも唯名のみに成り果て、其が為に今日朝廷の尊重は古に倍せしが如くして朝威は倍衰へ上下相離るること霄壌の如し」と謳っている。
明治維新の根本精神は、国民共同体の回復にあり、五箇条の御誓文においても「上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ」「官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス」と国民共同体実現のための方策が謳われていた。
皇道経済論者には、貴賎貧富の別なく、その安寧を確保することがわが国体であるとする考え方が貫かれている。皇道経済の源流の一人と位置づけられる佐藤信淵(一七六九年~一八五〇年)は、『経済要録』(安政六年)において、「経済とは国土を経緯し、蒼生を救済するの義なり」と書いている[v]。佐藤の思想を支えたとされる家学の信憑性については様々な議論があるが、石川興二は「彼の家学は、万民を飢寒より救はんとする仁心のほとばしりより発したのであつて、それが子孫に伝へられ、信淵に至り完成されるのである」と書いている[vi]。
佐藤の原点にもまた、家族共同体たるわが国において、貧困に喘ぐ国民がいることに対する激しい憤りであった。彼は、天明三(一七八三)年に出羽、奥州、関東諸国を遊歴、大飢饉で流散した飢民が道路に充満し、四百人以上の餓死者が出ている惨状を目の当たりにした。しかも佐藤は秋田に生まれ、自分自身飢饉を体験していた。「蒼草を救う」ための経済学の樹立という彼の使命はここに定められたのであった、
佐藤は、文化七(一八一〇)年に江戸に出て平田篤胤に師事、『鎔造化育論』において、古事記の天地創造論を基礎として、儒教、仏教、蘭学などを統一して独自の宇宙観を樹立した。この宇宙観に基づいて、独自の経済学を説いた。彼は豪商が利益を貪り、富の偏在が拡大しており、これを規制しなければ国民は大困窮に陥ると警告した。彼は『復古法概言』において、公設市場を設けて、各地の物資を「御上の御産物」としてそこに集めて、問屋に販売させるという構想を提案していた[vii]。
その後も、国体思想の確立に貢献した志士たちは、商品経済の拡大に伴う国民共同体の破壊に警鐘を鳴らした。会沢正志斎(一七八二年~一八六三年)は『新論』(一八二五年)で、「富溢れて貧を生じ、貧は弱に相依る」と書き、一方藤田東湖(一八〇六~一八五五年)は『弘道館記述義』(一八四七)において「蒼生安寧」を強調して次のように主張した。
「臣彪謹んで案ずるに、民の道たるや、憂は飢寒より切なるはなし。天祖、始めて種穀・養蚕の道を開きたまひ、民、ここに於てか衣食す。患は疾病・災害より甚しきはなし。大己貴命・少名彦命、始めて療病・厭災の方を定めて、民、ここに於てか全活せり。居は宮室より安きはなく、哀は死喪より惨なるはなし。素戔鳴尊・五十猛命、山林を殖ゑて材木を足し、民、ここに於てその生を養ひ、その終りを慎む…一として民を恤み生を厚くするの誠に出でざるはなし。これ神皇、政を発し仁を施したまふの大略なり。ここを以て天下乂安、四海虞れなく、年穀豊饒にして、家ごとに給し、人ごとに足れり。所謂「蒼生これを以て安寧」とは、豈に信に然らずや」[viii]
明治維新は、国民共同体の回復を理想とするものであったが、わが国の資本主義が発展する中で事態は悪化していった。これに対して、明治三十八年八月には在野の歴史家、山路愛山が国家社会党を結成し、その党宣言で 「……二千五百年間君臣の情、家人父子の如く其間未だ嘗て一毫の芥蒂なく君主の心は則ち臣民の心たり。二の者にして一、一にして二、膠漆の如く水魚の如く之を千秋万才に伝えんと期する者は是豈日本国体の精華にして吾人の世界に向つて誇揚せんと欲する所にあらずや」と謳った。彼の国家社会主義は、「皇室を人民の父母とする」との信念によって支えられていた。彼はそれを、『続日本紀』にある、「兆民を優労す(天平二十年)」、「四海に君臨し、兆民を子育す(宝亀四年)」、「宇宙に君臨し、黎元を子育す(同五年)」、「朕は百姓の父母たり(天応元年)」、「朕は民の父母たり(延暦六年)」といった詔勅の一節によって裏付けようと試みた。
「君臣相親みて上下相愛」する国民共同体では、生産活動、生活における相互扶助の伝統が脈々と続いてきた。農村社会を中心に家族的な協力の慣習が根付いている。互酬的行為としての「結い」や、再分配行為としての「もやい」は、その代表的な形態である。一方、わが国には、潅漑用水、漁場、森林、牧草地など、コモンズ(共有地)が存在してきた。
二宮尊徳にも影響を与えた人物であり、富士山信仰と実践道徳を結合させた宗教組織「不二道」を指導した小谷三志(一七六五~一八四一年)が、農民間の互助精神の復興に強い影響を与えたのも決して偶然ではなかった。三志の弟子や共鳴者たちは、水害の堤防復旧や河川の流れを変える瀬替え、川ざらいなどの奉仕活動に従事し、互助精神の復興に貢献した[ix]。ちなみに、文政十(一八二七)年に小谷に入門した柴田花守の次男介次郎は、副島種臣らとも交流があった。