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石原莞爾の民族協和主義①

 ちょうど五十年前の昭和四十七年、田中角栄は日中国交回復に動いた。それを支えたのが元帥と呼ばれた男・木村武雄である。日中国交回復を使命と定めた木村の原点には、師・石原莞爾の民族協和主義があった。
 昭和十六年三月、石原は京都の十六師団長を最後に、現役の軍職から退いた。当時、「石原退職の原因は、木村が石原将軍擁立の政治運動をやったことだ」という噂も流れていた。そこで木村は、謝罪もかねて石原を京都の師団長官舎に訪れたのだ。その時、石原は木村に次のように語ったという。
 「今までの日本人は、民族独善主義の道を歩いて来た。そしてその結果、日清戦争・日露戦争にも勝ち、更に第一次大戦でも勝利して、日本は世界の三大列強の一つになる事が出来た。然し日本が満州問題に発言して以来、日本の民族独善主義は完全に民族協和主義に変ってしまったのだ。それで民族協和主義に徹しなければ、これからの日本は成り立たない。これからの日本は役に立たなくなるんだ」
石原莞爾木村武雄著『師・石原莞爾先生』
 では、なぜ民族協和主義に変わったのか。石原は次のように語った。
 「日本人は、日本と云う島国に住んでおる時代は民族独善主義でも良かったけれども、日本が大陸に発言して満州に新しい国造りをやってからは、完全に民族協和主義になってしまった。そうならざるを得なくなったのだ。それ以前には、朝鮮半島に新しい日本国を建設して、朝鮮民族と日本民族で手を携えて朝鮮内外の場所で、お互いが仲良くなるよう努力したが、その時にはまだ民族協和主義に日本は徹していなかったのだ。
 その証拠には、日本が朝鮮半島で教育を指導するようになったが、その教育を通して、朝鮮民族の使用しておった朝鮮語は使わせないようにした。朝鮮語を教えないようにして日本語だけで朝鮮民族の教育をやった。これをみても、その時代の日本は、やはり日本民族の独善主義がそのままその時代まで横行しておったと思う。ところが、日本が一度満州に足場を造って、そこで満州問題について日本が発言するようになってからは、民族独善主義では通らなくなった。それで民族協和主義に変ったのだ。なぜかと申せば、満州には在来の先住民族として蒙古人が住んでおる。そこに満州民族がどっとおしかけてきて、満州民族も住むようになった。更に漢民族も多数住みつくようになった。それに西の方からはロシア人がやって来て住むようになり、東の方からは朝鮮民族がやって来て住むようになり、そこにまたまた日本人が、日清日露戦争以来、特に日華事変以来やって来て住みつくようになってからは、六族が満州に住むようになった。そこで六族が相共に協和しなければ満州国と云うものを育成、強化する訳にはゆかなくなったのだ。それ以来、日本人は民族独善主義をかなぐり捨てて、民族協和主義を掲げざるを得なくなったのだ」
 この話を聞いて、木村は民族協和主義が日本にとっては必要欠くべからざるものである事を確信した。

尾張藩垂加神道派・近松茂矩と橘家神道秘伝(松本丘編『橘家神道未公開資料集 一』収録の『橘家神道口傳抄』)

この度、皇學館大學教授の松本丘先生が編まれた『橘家神道未公開資料集 一』(神道資料叢刊 十八、令和四年三月)を贈呈していただいた。誠に有難うございます。
筆者は崎門学研究会代表の折本龍則氏、同副代表の小野耕資氏とともに崎門学、垂加神道の勉強を続けてきたが、『徳川幕府が恐れた尾張藩─知られざる尊皇倒幕論の発火点』執筆過程で、尾張藩の垂加神道派にも強い関心を持つようになった。
尾張藩初代藩主・徳川義直の遺訓「王命に依って催さるる事」は、第4代藩主・吉通の時代に復興し、明和元(1764)年、吉通に仕えた近松茂矩が『円覚院様御伝十五ヶ条』として明文化した。
松本丘編『橘家神道未公開資料集 一』

近松茂矩は、長沼流を皆伝した後、橘家神道に継承された秘伝を取り入れて、独自の流派「一全流」を創始していた。
今回、松本先生が編まれた『橘家神道未公開資料集 一』には、名古屋市蓬左文庫所蔵の『橘家神道口傳抄』が収められている。松本先生の解題にある通り、同書は玉木葦斎の講述、吉見幸和筆記に係る。安永四年に吉見が上京した際に、葦斎から伝授された橘家神道秘伝である。さらに、松本先生は次のように指摘されている。
本文と同筆の書入に「茂矩」の名が見えてをり、幸和門人で兵学者としても知られた近松茂矩の筆写に係るものと考へられる。尾張徳川家家令であつた鈴木信吉氏の旧蔵書である」(解題五頁)
茂矩が橘家神道の秘伝を伝授されていたことが窺われる。

拳骨拓史氏が『兵学思想入門』で引いているように、近松は『神国武道弁』で「所謂神道は武道の根なり。武道の本は神道なり。道に二つなし」と述べていた。そんな近松が、橘家神道の秘伝を伝えられていた敬公の『軍書合鑑』の真価を見抜いたのは決して偶然ではない。近松は『昔咄』において次のように書いていたのである。
「軍書合鑑は、寛永年間の御撰述の由、是又本朝にて、軍術正伝の書の最第一と称せん、故いかなれば、凡そ神代相承の軍術は、神武天皇より代々の天皇、天津日嗣の時に、三種の神器と同じく、御相伝ありし、但し敏達天皇慮有りて、其神伝軍術をば、難波親王へ御伝受あづけられて、親王の御子孫代々伝へて、守り奉るべき勅令にて、橘家代々受けあづかり奉りて、三十四代相承し、唯授一人として、他へみだりに、伝ふる事なし」
さらに近松は、「付会をなして、何流と称する軍師」たちを批判した上で、「天下の兵法を立てた」として長沼澹斎を称え、さらに次のように述べている。
「源敬(敬公)様此御選ありて、終に依王命被催に、筆を停め給ふ、これよく本朝神武の道を得させられし事、言はずして明白なり、故に予恐れながら、本朝正兵伝書編述の根元なりと、称し奉りぬ」
このように近松は、敬公が本朝神武の道を極めていたことを示すものとして「王命に依って催さるる事」をとらえ、尾張尊皇思想を力強く継承せんとしたのだった。

坪内隆彦「皇統守護の精神を支えた兵学思想─玉木葦斎の橘家神道」(『宗教問題』36号、令和3年11月30日発売)

以下、『宗教問題』(36号、令和3年11月30日発売)に掲載していただいた「皇統守護の精神を支えた兵学思想─玉木葦斎の橘家神道」を紹介する。

■尾張藩尊皇思想の起点─「王命に依って催さるる事」
尾張藩初代藩主・徳川義直(敬公)が編纂した兵法書『軍書合鑑(ぐんしょごうかん)』の末尾には、「王命に依って催さるる事」の一語が記されている。尾張藩尊皇思想の起点となったこの遺訓は、歴代の藩主にだけ口伝で伝えられてきたが、第四代藩主・吉通の時代に明文化への道が開かれた。病にあった吉通は、跡継ぎの五郎太が未だ幼少だったため、遺訓の内容を侍臣の近松茂矩(しげのり)に伝え、後に残そうとしたからである。近松は明和元(一七六四)年に『円覚院様御伝(えんかくいんさまごでん)十五ヶ条』を著し、「王命に依って催さるる事」について、「いかなる不測の変ありて、保元・平治・承久・元弘の如き事出来て、官兵を催さるゝ事ある時は、いつとても官軍に属すべし、一門の好を思ふて、仮にも朝廷に向うて弓を引く事ある可からず」と記した。
一方、『円覚院様御伝十五ヶ条』が書かれた十四年後の安永七(一七七八)年、水戸藩では第六代藩主・治保(はるもり)(文公)が、第二第藩主・光圀(義公)が遺した一句「古謂ふ君以て君たらずと雖も、臣臣たらざる可からず」を楷書で浄写し、義公の精神を復興させようとした。名越時正は、この一句にある絶対の忠が「朝廷と幕府との間に、万一どのやうな不祥な事態が起らうとも、我が主君たる天皇には絶対随順の至誠を尽すべし、といふ重大な意味を有することを感得した文公が、やがてこれを長子武公(第七代藩主・治紀)に伝へたに相違ない」と述べている。水戸においてもまた、義公遺訓は「朝廷に向うて弓を引く事ある可からず」との趣旨として、文公から武公へ、武公から斉昭(烈公)へ、そして烈公から慶喜へと伝えられた。青山延于(のぶゆき)が編修した『武公遺事』には、武公が烈公に対して「何ほど将軍家理のある事なりとも、天子を敵と遊され候ては、不義の事なれば、我は将軍家に従ふことはあるまじ」と語っていたことが記録されている。
実は、尾張藩における尊皇思想の継承は垂加神道、そして兵学思想と密接な関係を持っていた。敬公の遺訓を復興させた吉通とそれを明文化した近松茂矩は、ともに垂加神道を学んでいたのだ。しかも、吉通は長沼流兵学を好んだという。長沼流を創設した長沼澹斎(たんさい)(宗敬(むねよし))は、甲州流などの兵法を学んだ後、寛文(一六六六)年に『兵要録』を著し、長沼流兵法を創始した。近松もまた長沼流を皆伝しており、さらに幕末の尾張藩で活躍した徳川慶勝の側近・長谷川敬もまた長沼流を継承していた。『兵要録』には、「仮にも不義非道の弓矢をとらざれ」という言葉が記されている。これは『円覚院様御伝十五ヶ条』にある「仮にも朝廷に向うて弓を引く事ある可からず」と見事に符合しており、近松の尊皇思想が兵学思想によって補強されていたことが窺えるのである(詳しくは拙著『徳川幕府が恐れた尾張藩』望楠書房)。
そして、垂加神道の尊皇思想、特に皇統守護の精神を兵学思想によって補強した人物が、今回紹介する玉木葦斎(いさい)(正英)である。寛文十(一六七一)年に生まれた葦斎は、元禄四(一六九一)年に闇斎の門人・出雲路信直に入門、さらに正徳三(一七一三)年に同じく闇斎の門人・正親町公通の門に入って垂加神道を修めた。葦斎は正徳五年には、公通から闇斎の『中臣祓風水草』の伝授を受けている。葦斎は垂加神道の継承者としての自覚を持ちつつも、同時に橘家(きっけ)神道を継承し、その発展に力を尽くすことを優先したように見える。
ただ、谷省吾は、「二つの神道(垂加神道と橘家神道=引用者)を併行して学びはじめた彼の神学的思索の過程においては、二つの神道が一つの人格・頭脳の中で、分ちがたく重なりあつてゐたことは当然である。……葦斎といふ一個のすぐれた坩堝の中で、両神道の所伝が燃焼されて、新しい綜合が行はれたことは確かである」と述べている(『垂加神道の成立と展開』)。

玉木葦斎墓 続きを読む 坪内隆彦「皇統守護の精神を支えた兵学思想─玉木葦斎の橘家神道」(『宗教問題』36号、令和3年11月30日発売)

坪内隆彦「国体観なき外交の終焉」(『伝統と革新』2014年11月)

●国家はただ生存するだけでいいのか
 興亜論(大アジア主義)を考える際、国家の生存とは何かという問題を突き詰めて考える必要がある。狭い意味での安全保障、物理的な生存ということを最優先で考えれば、外交は与えられた条件、自国を取り巻く国際環境の中で、現実主義的に構築されるべきだという結論が導き出されるのは分かり切ったことである。冷戦終結後もなお日本人が日米同盟以外の選択肢を提示し得ないのは、自らの防衛を自らの手に取り戻すという気概を失ったからだけではなくて、現実主義外交が外務当局や知識人に定着しているからである。いわば、「物理的生存至上主義」である。
 しかし、人間と同様、国家は物理的に存続すればそれで十分というわけにはいかない。人間に魂があり、誕生の意味、生きる意味があるのと同じように、国家にも魂があり、肇国の意味がある、と筆者は信ずる。どのような形で生存し、どのような役割を担って生存するかこそが重大なのだ。これは、国体と国家の使命と言いかえてもいい。
 この国体と国家の使命の喪失こそが、現実主義外交、日米同盟安住論の根源だと言えないだろうか。むろん、物理的な安全保障は、国体維持の前提でもある。しかし、安全保障の手段が国体とぶつかりあうジレンマから、目を背けてはならない。
 国体と国家の使命が意識されて初めて、興亜外交の価値も認められることになる。後に駐イタリア特命全権大使を務める白鳥敏夫のグループは、昭和十一年十二月に「皇道外交」のマニフェストとも呼ぶべき『日本固有の外交指導原理綱領』(以下『綱領』)をまとめた。
 『綱領』には、国体を考慮に入れた外交の在り方とは何かという視点が明確に示されていた。国家百年の大局的利益よりも、ひたすら現実的利益を追求しようとする「現実的小乗外交」を退けたのである。ただし、『綱領』は、「現実的小乗外交」を、「小乗的発展主義」(現実的利益を追って膨張政策をとろうとするもの)と「小乗的消極主義」(膨張政策は経済的に損だとして消極外交をとるもの)とに分けていた。まさに戦後日本は、「小乗的消極主義」を継続してきたわけである。
 『綱領』は、この二種の「現実的小乗外交」に対して、「大局的大乗外交」の必要性を訴えたのである。「大局的大乗外交」とは、民族的理想を基調とし、現実的な小利は犠牲にしても国家百年の大局的利益を目標とし、日本だけの利己的利益を追求する代わりに諸民族との共通の利益を目標とするものである。
 与えられた国際秩序にどう適用していくかという受動的外交ではなく、国体、国家の使命が求める国際秩序を構築するための積極的外交といってもいい。

●興亜思想の本質─肇国の理想が求める世界皇化
 そもそも、興亜論自体は、満州事変以降の外交目的・戦争目的の合理化という要請から出てきたものではない。わが国の興亜団体は、幕末の国体思想を受け継ぎつつ、明治十年に設立された振亜社(明治十三年に興亜会)や明治十一年に設立された向陽社(明治十二年に玄洋社)などを源流としている。
 その後、興亜論は列強に対する共同防衛、白人による黄色人種抑圧への道義的反発など、様々な力点が置かれながら展開されていった。多様な興亜思想があったことは、昭和十八年に大倉精神文化研究所調査部が編集した『調査報告 (興亜理念文献目録第一輯)』に示されている。同報告は、興亜思想を、「協同主義」、「聯盟主義」、「民族主義」、「経済主義」、「皇化主義」の五つに分類し、皇化主義について〈興亜理念の明徴上最もその核心を衝いた根本原理といふべく、八紘為宇の精神も家族国家の精神も、又親族法的な東亜法秩序観念も帰一するところは皇道原理である。興亜理念は肇国の精神に基き歴代の詔勅に明示せさせ給ふてゐる「万邦をして各々其の所を得しめ兆民をして悉く其の堵に安んぜしむる」の理念を措いて、他になきものと心得なければならぬ〉と書いている。本稿で光を当てるのは、この「皇化主義」としての興亜論にほかならない。
 肇国の理念を示す神武天皇「即位建都の詔」を『日本書紀』は次のように伝える。
 「……苟も民に利(さち)有らば、何にぞ聖造(ひじりのわざ)に妨(たが)はむ。且当に山林を披(ひらき)払ひ、宮室を経営(をさめつく)りて、恭みて宝位(たかみくら)に臨み、以て元元(おほみたから)を鎮め、上は則ち乾霊(あまつかみ)の国を授けたまひし德(うつくしび)に答へ、下は則ち皇孫の正(ただしき)を養ひたまひし心を弘むべし。然る後に、六合(くにのうち)を兼ねて都を開き、八紘(あめのした)を掩(おほ)ひて宇(いえ)と為むこと、亦可からず乎。夫の畝傍山の東南(たつみのすみ)橿原の地を観れば、蓋し国の墺區(もなか)か、可治之(みやこつくるべし)」
 この肇国の理念について、水戸学研究の高須芳次郎は「日本国は唯漠然とこの地上に肇められ、建てられた国ではない。一切の争闘を排して平和への歩みを続け、一切の不正を斥けて、正義への直進を為すがために、先づ自国を道義の国たらしめるよう、その実現に努めるといふ目的・使命のもとに、建てられた国だ」と指摘している。また、秋田県出身の歌人として知られた村田光烈(みつたか)は昭和十七年に『新亜細亜の誕生』を出版、八紘為宇について「神国日本としての本質を生かさんとするもの、換言すれば道義を根柢とせる人類最高の理想的国家の実現にある」と書いている。
 ただし、皇道を世界に及していくという発想は大東亜戦争勃発によって初めて生まれたものではない。すでに明治二十八年三月に、興亜の先覚荒尾精は『対清弁妄』で次のように書いている。
 「我国は皇国也。天成自然の国家也。我国が四海六合を統一するは天の我国に命ずる所也。 皇祖 皇宗の宏猷大謨(こうゆうたいぼ)を大成するの外に出でず。顧ふに皇道の天下に行はれざるや久し。……苟くも天日の照らす所、復た寸土一民の 皇沢に浴せざる者なきに至らしむるは、豈に我皇国の天職に非ずや。豈に我君我民の 祖宗列聖に対する本務に非ずや」
 荒尾精の思想的影響を受けた興亜陣営の精神的支柱頭山満は、「日本は魂立国の国じや。君民一如、皇道楽土の国柄だ。日本の天皇道位尊く又洪大無辺なものはない。日本の天皇道は只に日本国を治め大和民族を統べ給ふのみならず、実に全世界を救ひ大宇宙を統ぶるものだ。而かも日月の普きが如く、偏視なく所謂一視同仁じや」と述べていた 。吉田鞆明は、頭山の理想が、東亜全体を日本の皇道に化させること、東洋を打って一丸とする皇道楽土を建設しようとすることだったと評している。
 大本の出口王仁三郎は大正十(一九二一)年の第一次弾圧事件を乗り越え、広範な活動を展開するとともに、人類愛善会を旗揚げし、国際秩序への関心を強めていった。彼の思想にも興亜論につながる考えが見られたのだ。
 王仁三郎率いる大本・人類愛善会は、道院・世界紅卍会と関係を強めていた。道院は一九二〇年に山東省済南市で設立された組織で、道徳宗教の頽廃している現代社会を救済して人倫の本源に帰らせ、自修他済によって、人類の福祉完成に邁進することを目的として掲げていた。この目的に沿って慈善活動を執行するのが世界紅卍会である。さらに注目すべきは、王仁三郎と道院・世界紅卍会の連携の中に、頭山満や黒龍会の内田良平が参画していたことである。紅卍字会日本総会会長には王仁三郎が、責任会長には内田が、そして顧問には頭山が就いていた。そして彼らは、満洲事変が勃発すると、「明光帝国」の名のもとに満蒙自治独立自由王国の建設を目指すようになった。
 それは、皇道による世界皇化という興亜論者の夢と重なり合っていたかに見える。内田は、道院・世界紅卍会の主張を引いた上で、「日支共存親善より進んで、世界和同統一の大理想、大使命を讃へ結んでゐるところに、道院と大本教、世界紅卍字会と人類愛善会なる日支両国民族を結合せる信仰実践団体の真面目があり、茲に又た、今次の満蒙独立国家建設運動に対する紅卍字会の重大な役割と意味を示唆してゐるものとみるべきではないだらうか!」と書いていたのである。 続きを読む 坪内隆彦「国体観なき外交の終焉」(『伝統と革新』2014年11月)

坪内隆彦「日本は、アジアの声に耳を澄ませ」(『伝統と革新』2020年5月)

■フィリピンの自主独立路線
 「米国と中国のどっちに味方する?」
 昨年シンガポールの研究機関が、東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟十カ国で、研究者や政府機関の職員、ビジネスマンらを対象とした調査を実施し、そう質問した。この質問に対して、「米国に味方する」との回答が多かったのは、十カ国のうちシンガポール、フィリピン、ベトナムの三カ国だけだった。ラオス、ブルネイ、ミャンマー、マレーシア、カンボジア、タイ、インドネシアの七カ国では、「中国に味方する」との回答の方が多かった。このうちラオスとブルネイでは約七割が「中国に味方する」と回答している。
 東南アジアの親中化は、中国の「札束外交」によってもたらされているとの主張がある。カネの力にモノを言わせて東南アジア諸国を靡かせているという見方だ。しかし、東南アジアの親中化は、それだけではとらえ切れない。そこを見誤ると、日本はアジアにおける影響力をさらに失うことになるのではなかろうか。筆者は今こそアジアの声に耳を澄ます必要があると考えている。
 八割以上が「米国に味方する」と回答したフィリピンにおいても、状況は激変しつつある。同国のドゥテルテ大統領は、二月十一日、「訪問米軍に関する地位協定」(VFA)を破棄すると米政府に通知したのだ。この決定の直接的な引き金は、アメリカがドゥテルテ大統領の側近に対して入国ビザの発給を拒否したことだが、フィリピンの自主独立志向に注目すべきである。
 フィリピンは一六世紀後半からスペインによる支配を受けていたが、一八九八年に勃発した米西戦争の結果、アメリカの植民地となった。一九四六年に独立した後も、基本的に親米政権が続き、アメリカ支配から脱却することができなかった。日本と同様、フィリピンにもスービック海軍基地、クラーク空軍基地などの米軍基地が置かれていた。ただし、一九六六年に改定された米比軍事基地協定は米軍基地の駐留期限を一九九一年までと定めていた。そこで、米比両政府は、基地存続を可能とする米比友好協力安保条約に調印したが、一九九一年九月十六日 フィリピン上院は同条約批准を反対多数で否決したのである。この日、上院周辺は、まるで独立宣言を行ったかのような熱気に包まれた。こうして米軍はフィリピンから完全撤退したのである。ところが、一九九八年にVFAが結ばれ、米軍の駐留に道が再び開かれた。
 我々は、ドゥテルテ大統領が目指しているものが真の主権回復とアイデンティティティの確立であることに注意する必要がある。獨協大学教授の竹田いさみ氏が指摘しているように、ドゥテルテ大統領の対米自立路線の原点には、自らの体験がある。ドゥテルテ氏が大学時代、ガールフレンドがいるアメリカへ渡ろうとした際に、入国ビザが発給されなかった。また、ドゥテルテ氏には、外交パスポートを持参していたにもかかわらず、ロサンジェルス空港で書類の不備を指摘され、空港係官に別室で尋問された経験がある。一方、アメリカ人はビザなしでフィリピンに自由に入国することができる。ドゥテルテ大統領は、こうした自らの体験から米比関係の不平等性を実感し、アメリカ優位の構造を変えなければならないと確信したのであろう。
 また、ドゥテルテ大統領は、「フィリピン」という国名が宗主国だったスペインのフェリペ国王に由来する名前だとして、国名変更に意欲を示している。国名の候補として「マハルリカ(高潔)」などが候補に挙がっている。ドゥテルテ大統領が共感するマルコス元大統領も、かつて「マハルリカ」を新たな国名に挙げたことがある。
 東西冷戦下で西側陣営に入った東南アジアの国は、概して親米的だった。しかし、植民地支配に喘いだ民族の記憶は容易には消えない。その記憶が自立志向に向かわせているのである。

■興亜論を共有した日本人とアジア諸民族
 かつて、日本人は欧米列強の植民地支配に苦しむアジア諸民族の解放に手を貸そうとした。少なくとも、在野のアジア主義者、興亜論者たちは、アジアの独立運動家を支援し、アジア諸民族の団結を目指した。例えば、興亜論の精神的支柱であった玄洋社の頭山満翁は、中華民国の孫文、朝鮮の金玉均、インドのビハリ・ボースだけではなく、東南アジアの志士たちを支援した。ベトナムのクォン・デ侯、フィリピンの志士アルテミオ・リカルテ、ベニグノ・ラモス、ビルマ(ミャンマー)の志士ウ・オッタマらである。一方、玄洋社出身の代議士中野正剛は一九四二年に『世界維新の嵐に立つ』を著し、次のように述べた。
 「帝国主義侵略は今日の人類世界では過去の迷夢である。日本は大東亜の新秩序を建設し、その指導者として、功労者として、永久の先行者として、大東亜全民族の幸福と栄誉の源泉とならねばならぬ。これこそ大和民族として生き甲斐のある存立を確保する所以である」
 かつて日本人は独立不羈の気概を持ち、植民地支配に苦しむアジア諸民族に共感していた。だからこそ、多くのアジアの志士たちが日本を頼り、日本との連携を模索したのだ。フィリピンの興亜論者ピオ・デュラン(Pio Duran)博士もその一人である。彼は弁護士として活躍し、日本人との関係を強め、一九三二年に『比国独立と極東問題』を刊行して宗主国アメリカを震撼させた。一九四二年には『中立の笑劇:フィリッピンと東亜』で、「幾世紀かの如何とも為し難い服従の間に強制的に押附けられた、厚く塗られた西洋文明の上塗りは、これを引剥いで、現在及び将来永遠に東洋諸国住民の生命の中に根本的影響を残す古き東洋文化の栄光を明るみに出さねばならぬ」と書いた。
 しかし、大東亜戦争に敗れたわが国はアメリカに占領され、興亜の理想はわが国においては封印されてしまった。だが、興亜の理想はアジア人の心に残されていた。一九五一年、サンフランシスコ対日講和会議で演説したスリランカのジャヤワルダナ大統領は「往時、アジア諸民族の中で、日本のみが強力かつ自由であって、アジア諸民族は日本を守護者かつ友邦として、仰ぎ見た。…当時、アジア共栄のスローガンは、従属諸民族に強く訴えるものがあり、ビルマ、インド、インドネシアの指導者たちの中には、最愛の祖国が解放されることを希望して、日本に協力した者がいたのである」と語った。 続きを読む 坪内隆彦「日本は、アジアの声に耳を澄ませ」(『伝統と革新』2020年5月)

「都市政策大綱」から「日本列島改造論」へ

 田中角栄は、すでに無役の時代に、自民党都市政策調査会という勉強会で「都市政策大綱」をまとめていた。日本列島改造論につながる発想は突然生まれたわけではなかった。では、どのような過程を経て、日本列島改造論はまとめられたのであろうか。
 早坂透は『田中角栄』で次のように書いている。
 〈一九七一年の暮れ、通産大臣秘書官の小長啓一は角栄大臣からふいに話を向けられた。「おれもまあ、工業の再配置とか、通産省から見た国土開発を勉強した。これで政策の全体系が頭に入った。代議士二五年の節目だがら、考えをまとめてみるか」
 年が明けて一月、角栄は秘書早坂茂三にその話をした。「都市政策大綱は理屈が多すぎて大衆にはわかりにくい。あれを下敷きにした臨床医の診断書がいる。どこでどんな事業をやるかをまとめたい」。早坂が「地名を特記すると跳ね返りが多すぎませんか」と心配する。角栄は「福田くんと争うときに、おれの内政の目玉は国土政策だ。おれの名前で本を出したい」と言い張る。先回りしていえば、早坂の危惧はのちにその通りになって、角栄政権を弱めることになる。
『日本列島改造論』
 「日本列島改造論」づくりは、小長ら通産官僚、早坂、出版元の日刊工業新聞の記者らが角栄の口述を聞くことから始めた。「君ら、酔って丸の内でひっくり返っても、すぐ救急車で運んでもらって、一晩休めば命には別状ない。同じことを北海道でやったらどうなるか。そういう格差をなくそうじゃないか」。章ごとに執筆を分担、各省も協力した。そのなかには、のちに作家堺屋太一となる通産官僚池口小太郎や、滋賀県知事から新党さきがけの党首になって「小さくともキラリと光る国」を提唱した武村正義もいた。
 序文と「I 私はこう考える」と「むすび」は角栄が書いた。といっても、文章の筆致や言葉遣いからみて、秘書早坂が書いて角栄が手を入れたものと思われる。「藤吉郎の墨俣城の一夜づくり」の勢いで仕上げた。「これで結構だ」と角栄。『日本列島改造論』は九〇万部を売るベストセラーになる。
 内容はどうか。「序」は、「水は低きに流れ、人は高きに集まる」と始まる。人口や産業の都市集中によって国民所得は上がった。しかし、いまや「巨大都市は過密のルツボで病み、あえぎ、いらだっている半面、農村は若者が減って高齢化し、成長のエネルギーを失おうとしている。都市人口の急増は、ウサギを追う山もなく、小ブナを釣る川もない大都会の小さなアパートがただひとつの故郷という人をふやした」と角栄は綴る。明治百年、都市集中のメリットはデメリットに変わった。
 角栄は提案する。「民族の活力と日本経済のたくましい余力を日本列島の全域に向けて展開する」。工業の全国的な再配置と知識集約化、全国新幹線と高速自動車道の建設、情報通信網のネットワークの形成などがテコになる。「都市と農村、表日本と裏日本の格差は必ずなくすことができる」。
 霞が関官僚が執筆した各章は、「Ⅱ 明治百年は国土維新」「Ⅲ 平和と福祉を実現する成長経済」「Ⅳ 人と経済の流れを変える」「Ⅴ 都市改造と地域開発」「Ⅵ 禁止と誘導と」と続く。〉

石原莞爾と南部次郎(木村莞爾『石原莞爾』より)

 木村莞爾の『石原莞爾』には興亜の先駆者・南部次郎とその子・襄吉と石原の関係が詳しく記述されている。
 〈襄吉の厳父南部次郎が中国に渡ったのは明治六年であるから、副島に先立つこと二年である。彼は、盛岡南部藩主の分家に生まれ、幼にしてその英才を買われて十八歳で藩の執政になったといわれているから、よほどの傑物であったに違いない。だが気骨が禍いして藩主の忌諱に触れ、閉門を仰せつけられている間に照井小平の門をたたたいた。照井は中国人章炳麟が当代随一の中国通と激称しただけに、彼に中国問題を教えられて南部は感奮興起した。
南部次郎
 明治二年、廃藩置県で南部藩主の利恭が藩知事となって、彼を大参事に抜擢したが、彼はそれを蹴って中国に赴き、一年余で突如帰国して、征台事務総裁の西郷従道に面接し、「中国は所詮は満州から中国本土に攻め入った清朝のものではない。漢民族の民族意識が鬱勃として勃興しつつある今日、早晩漢民族の革命が起こるに違いない。その際、自分は、南部藩士五百名を引率してその革命に参加するつもりである。」と中国の大勢を説いた。二度目は藩士佐藤昌介、藤森主一郎を同伴し、決意して上海に渡った。台湾問題の最後的解決に乗り出した大久保利通が、五十万元の賠償金を得て問題を妥結し、神奈川丸で帰国する途上、これに便乗した南部は大久保に「清朝政府には聖人の訓えがすたれてアジアの連帯感はなくなった。故に地に堕ちた王道を回復して、日華の提携を計るには革命以外にはない」と熱心に説いた。大久保は彼の言に耳を貸しても、無謀な計画には賛成しないで、それを差し止める方法として、彼を内務省四等属に任命したが、そんなことで決意をかえる彼ではない。
 彼は明治九年一月、新たに支那公使となった森有礼を説いて、藩士金子弥兵衛を実費留学生として北京に留学させ、自らは参謀黒田清隆に談判して官費で北京に渡り、金子、伊集院らと交わりを深くして、上海の佐藤、藤森らと連絡をとりながら清朝政府の転覆を画策した。
 十三年七月、南部は帰朝命令をうけてやむなく帰国したが、十五年、今度は外務卿井上馨の密命で三度、中国に渡った。そして清朝第一の重臣李鴻章らと盛んに交遊して十六年帰国した。井上は、南部の進言により芝罘(チーフー)に領事館を置くことにして、初代領事に南部を任命した。
 この時、彼は四十九歳である。彼は芝罘で領事館を根城に中国の同志を集め、革命を力説して、ここで畠山三郎、白井新太郎らの青年を育成した。
 明治十八年二月、仏国クレーベル総督が澎湖島を占領して、北上して天津を衝き、清朝政府に圧迫を加えた。この時、福州にいた同志の陸軍中尉小沢豁郎が、好機到れりと、南部に檄を飛ばして、「われは福州で兵を挙げん。君は芝罘で蹶起せよ」と連絡した。南部は、この蹶起には反対だったので、同伴して福州で小沢にその暴挙を中止させた。これが陸軍当局の耳に入って、小沢は馘になるところだったが、商部は福島安正大佐に頼んで香港転任で事無きを得た。が、こうして政府と関係なしに独自で動く南部の処遇に困った政府は、とうとう十六年十一月、彼を日本に召還した。
 この命令に接した彼は長崎から辞表を郵送して、十八年九月東京に帰った。彼は〈中国を改造するには、先王の道を明らかにすれば足りる。必ずしも革命を必要としない。権謀はやむを得ずやったことで、もとより善なるものではない〉として、爾後中国革命を断念し、五十一歳で閑雲野鶴を友とし、花を鑑賞し絵を描き、囲碁を楽しみ、清貧に安んじて、後事を襄吉に託そうとした。襄吉は石原の偉才を父に紹介し、石原は南部から、日華提携の真義を会得した〉

石原莞爾「宮内大臣は三上卓にかぎる」

 葦津珍彦は「沈毅猛勇の士」(三上卓追悼文)で次のように書いている。
葦津珍彦
 〈敗戦で東久邇内閣ができて直後、入閣した緒方書記官長が繁忙な自動車の中で問ふた。「石原莞爾将軍が、この皇国非常のときに、宮内大臣は三上卓にかぎると、首相や私共に熱烈にすすめてゐるのだが、君はどう思ふか」と。私は「石原将軍は天才だから常識には乏しい。三上さんも然り。大変いいこともあるが、円満な行政は期待されまい」と。緒方さんも「然う思ふ」と云った。運転台にゐた中村秘書官(後に朝日新聞社の幹部となる)が「三上さんが今日来ました。ボクらにはあの人は全く分らないが、目が澄んでゐますねえ」と云った。卓兄に話したら、ただ黙笑しただけだったので、私はそのままにした。緒方さんが常識的だったのは当然だが、私は顧みて、石原さんの天才に積極的に共感しえなかった自分を、今では凡愚鈍感として恥ぢている。あの時に卓兄が君側に侍しても、おそらく円滑に行かないで、四五週間程度で追放か投獄されるほかなかったのは明らかだ。しかしその後の占領下の現実史の無気力が明白となった今日になって考へれば、卓兄を一週間でも一ヶ月でも君側の高官にしたいと熱望した石原将軍の天才に敬意を表し、私の凡愚を恥ぢざるをえない。
 仕事の価値は、年月の時間の長さでは測られない。天才は、しばしば一週間で常識人が十年かかってもできないことをすることがある〉(花房東洋編『民族再生の雄叫び 「青年日本の歌」と三上卓』)

坪内隆彦『水戸学で固めた男・渋沢栄一 大御心を拝して』書評(『史』令和4年3月号)

拙著『水戸学で固めた男・渋沢栄一 大御心を拝して』の書評を『史』令和4年3月号に掲載していただきました。
〈2021年の大河ドラマにもなった新一万円札の顔、渋沢栄一。彼にかぶせられたキャッチフレーズは「日本資本主義の父」。だがこの称号は渋沢の本質を表しているだろうか?『徳川慶喜公伝』に心血を注いだ渋沢はむしろ「水戸学で固めた男」ではなかったか? そして渋沢の経済活動は国民生活を安定させ、国家社会の利益を考えてのことであった。自己利益ばかり考える企業家を批判し生活保護法の実施に尽力するさまは、まさに経世済民の思想家としての渋沢像であり、それはいままで触れられてこなかった新しい渋沢像である〉
『水戸学で固めた男・渋沢栄一』書評 (『史』2022年3月号

『水戸学で固めた男・渋沢栄一 大御心を拝して』新刊紹介(『日本』令和4年2月号)

日本学協会発行の『日本』(令和4年2月号)「新刊紹介」で、拙著『水戸学で固めた男・渋沢栄一 大御心を拝して』(望楠書房)を取り上げていただきました。お書きいただいたのは、水戸史学会副会長で同誌編集長の仲田昭一先生です。
 「私共は、渋沢栄一の水戸学への心酔と『論語』を基にした幅広い活動に学ぶと共に、今日の政財界、教育界に在る者には、特に日本の美風回復に尽力することを期待したい。本書を推薦する所以である」と結んでいただきました。誠に有難うございます。
『日本』(令和4年2月号)