■水戸学の真髄
明治維新の原動力となった国体思想は、早くも明治四(一八七一)年頃には新政府によって蔑ろにされるようになった。崎門学派、水戸学派、国学派などは重用されなくなったのである。こうした時代に、『大日本史』完成の志をまっとうし、ついにそれを実現したのが栗田寛である。
天保六(一八三五)年九月十四日に水戸下町本六丁目で生まれた栗田は、わずか十三歳で会沢正志斎の『迪彝篇(てきいへん)』を愛読し、皇統のよって立つ神器の尊厳性と国体の尊さを感得していた。
『迪彝篇』は正志斎が天保四(一八三三)年に著した実践道徳論を展開した著作で、他の著作より比較的わかりやすく「国体の尊厳性」を説くとともに、国体の尊厳性を支える「皇位は無窮」の内実を説いている。
筆者は水戸学の達成の一つは「国体の尊厳」「皇位の無窮」の内実を明確にしたことにあると考えている。それは、東湖の『弘道館記述義』の次の一節に凝縮されているのではなかろうか。
「蓋(けだ)し蒼生安寧、ここを以て宝祚無窮(ほうそむきゅう)なり。宝祚無窮、ここを以て国体尊厳なり。国体尊厳、ここを以て蛮夷戎狄(ばんいじゅうてき)卒服す。四者、循環して一のごとく、おのおの相須(ま)ちて美を済(な)す」(思うに人民が安らかに生を送るがために皇位は無窮であり、皇位が無窮であるがために国体は尊厳、国体が尊厳であるがために四方の異民族は服従する。この四者は循環して一つとなり、それぞれ相互に関連してみごとな一体をなしている、橋川文三訳)と書かれている。 続きを読む 水戸学と昭和維新運動
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大東亜大使会議共同宣言(昭和二十年四月二十三日)
第一項 「国際秩序確立の根本的基礎を政治的平等、経済的互恵及固有文化尊重の原則の下、人種等に基づく一切の差別を撤廃し、親和協力を趣旨とする共存共栄の理念に置くべし」
第二項 「国の大小を問わず政治的に平等の地位を保障せられ、且其の向上発展に付均等の機会を与へらるべく、政治形態は各国の欲する所に従ひ、他国の干渉を受くることなかるべし」
第三項 「植民地的地位にある諸民族を解放して各々其の所を得しめ、倶に人類文明の進展に寄与すべき途を拓くべし」
第四項 「資源、通商、国際交通の壟断を排除して経済の相互交流を図り、以て世界に於ける経済上の不均衡を匡正し、各国民の創意と勤労とに即応したる経済的繁栄の普遍化を図るべし」
第五項 「各国文化の伝統を相互に尊重すると共に、文化交流に依り、国際親和並に人類の発展を促進すべし」
第六項 「不脅威、不侵略の原則の下、他国の脅威となるべき軍備を排除し、且通商上の障害を除去し武力に依るは固より、経済的手段に依る他国の圧迫、乃至挑発を防止すべし」
第七項 安全保障機構に付ては、「大国の専断並に全世界に亘る画一的方法を避け、実情に即したる地方的安全保障の体制を主体とし、所要の世界的保障機構を併用する秩序を樹立し旦不断に進展する世界各般の情勢に即応し、国際秩序を平和的に改変するの方途を啓くべし」
欧米支配終焉後の新秩序とは?
■「五百年にわたる西洋覇権の終焉か?」
欧米支配の国際秩序が動揺している。トルコのジャーナリスト、ハッサン・エレル(Hasan Erel)氏は「五百年にわたる西洋覇権の終焉か?」と題して、「西洋中心の世界ではなく、アフリカ・ユーラシアを中心とした新しい多極的な世界秩序」の到来を予想している(ATASAM, September 28, 2023)。二月には欧州連合(EU)のジョセップ・ボレル外相が「西側優位の時代は確かに完全に終わった」と認めた。
内戦の危険性さえはらむ熾烈なアメリカ大統領選挙が終盤を迎える中で、十月にはロシアを議長国としてカザンでBRICS首脳会議が開催される。BRICSには今年からイランやエジプトなど五カ国が加わった。タイなど東南アジア諸国も加盟を希望しており、その存在感を急速に拡大しつつある。ブラジル出身で、サステイナビリティ高等研究所研究員を務めるベルナルド・ジュレマ(Bernardo Jurema)氏は、BRICS拡大の動きを、「世界の脱西洋化のプロジェクト」ととらえる。
カザンでの首脳会議では、「BRICSブリッジ」と呼ばれる独立決済システムが議論される見通しで、「脱ドル化」が加速する可能性もある。
これに対して、欧米先進国はBRICSには統一性も結束力もないと過小評価してきた。また、BRICSは中国やロシアに利用されていると批判してきた。もちろん、そうした指摘が間違っているわけではない。しかし、我々が直視すべきは欧米支配の秩序の動揺という現実である。
昨年三月に中国の仲介によってサウジアラビアとイランが国交回復で合意したことは、中東におけるアメリカの影響力の低下を如実に示している。
威信の低下に直面しているのはアメリカだけではない。近年、旧フランス領のアフリカ諸国ではクーデターが相次ぎ、昨年七月にはニジェールで、八月にはガボンで軍部が実権を握った。フランスはこうした流れを食い止めることができなくなっており、マクロン大統領は「もはやアフリカにフランスの勢力圏はない」と述べるに至った。
しかし、欧米支配の終焉の兆候は日本人の目には入ってこない。あるいは、意識的に目を背けているのだろうか。こうした状況は、敗戦によってGHQに占領されたわが国が、「主権回復」後もアメリカの占領継続を受け入れ、属国として歩んできたからにほかならない。その見返りとして、日本は「名誉白人」の地位を与えられ、鬱憤を晴らしてきたのかもしれないが、所詮日本が白人グループに入ることはできない。
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グローバリストと郵政民営化① 竹中平蔵氏に宛てたゼーリック氏の信書
平成17(2005)年8月2日の参議院郵政民営化特別委員会で、民主党の櫻井充議員が、アメリカの通商代表ゼーリック氏が竹中平蔵氏に宛てた信書の内容を暴露。
○櫻井充君 それでは、ここにアメリカの通商代表、代表の、まあこの間まで、前ですね、ゼーリックさんから竹中大臣にあてた手紙がございます。現在は国務副長官でございます。その方から竹中大臣にあてた手紙の写しがございます。
これ、ちょっと確認していただきたいんですけど、委員長、ちょっと議事止めていただいていいですか。
○委員長(陣内孝雄君) 速記を止めてください。
〔速記中止〕
○委員長(陣内孝雄君) 速記を起こしてください。
○櫻井充君 ここには、要するにこれはどういう手紙なのかといいますと、これは竹中大臣が郵政担当大臣、経済財政担当大臣に再任されたときのお祝いの手紙でございます。
そこの中に、そこの中に、貴殿の業務の成功に対する報償がより多くの仕事を得たということを見て喜ばしく思いますと。その後るる書いてありますが、そこのところから後半の方ですが、保険、銀行業務、速配業務で競争の条件を完全に平等することを生み出し実行することは私たちにとって根本的に重要です。郵便保険それから郵便貯金を民間セクターとイコールフッティングにするためにも、私たちは経済財政諮問会議からの連絡を歓迎しております。そしてまた、現在民間企業に適用されている郵便保険と郵便貯金への税制、セーフティーネット上の義務の義務化、それから郵便保険商品に対する政府保証を廃止することを諮問したことに私たちは勇気付けられました。
私は、また、以下の点で丁重に貴殿を後押しいたしますと。二〇〇七年の民営化開始時から、郵便保険と郵便貯金業務に対する保険業法、銀行法の下での同様の規制、義務、監督、完全な競争、競争条件の平等が実現するまで新商品、商品見直しは郵便保険、郵便貯金に認めてはならず、平等が実現された場合にはバランスある形で商品が導入されること。新しい郵便保険と郵便貯金は相互補助により利益を得てはならないこと。民営化過程においていかなる新たな特典も郵便局に対して与えてはならないこと。民営化の過程は常に透明で、関係団体に自分たちの意見を表明する意義ある機会を与え、決定要素となることとする。今日まで私たちの政府がこの問題について行った対話を高く評価するものですし、貴殿が郵政民営化での野心的で市場志向的な目標を実現しようとしていることに密接な協力を続けていくことを楽しみにしております。貴殿がこの新たな挑戦に取り掛かるときに私が助けになるのであれば、遠慮なくおっしゃってください。
しかもです、これはタイプで打たれたものですが、ここにです、ここに自筆の文章もございます。自筆の文章です。そこの中で、わざわざここに竹中さんとまで書いてあります、竹中さんと。貴殿は大変すばらしい仕事をされ、数少ない困難な挑戦の中で進歩を実現しました。あなたの新たな責務における達成と幸運をお祝いいたしますと。これは去年の十月四日の時点ですので、貴殿と仕事をすることに楽しみにしておりますという形で手紙も来ております。
ですから、今までそういうようなことに対しての要望がなかったということでは僕はないんだろうと、そういうふうに思っています。
ですから、ここは本当に大事なことなんですね。まあ今日はテレビが入っていますから委員会は止めませんけれどね。ですが、ですが大事な点は、総理が先ほどアメリカ、アメリカと言うなとおっしゃっていますが、こういう形で送られてきて、事実を私は申し上げているだけでございます。
総理、いかがですか。
「マハティールは、いまこそ日本へ訴える」(『わーずわーす』平成十六年十一月号)
令和六年五月二十五日、日本郵便元副会長の稲村公望氏と大アジア研究会代表の小野耕資氏とともに来日中のマハティール閣下にインタビューした。
私がマハティール閣下に最初にインタビューしたのは、ちょうど20年前の平成十六(二〇〇四)年十一月。『わーずわーす』に掲載した記事を紹介する。
マハティールは、いまこそ日本へ訴える
■西洋近代文明を批判する舌鋒衰えず
二十二年間にわたってマレーシアを率いてきたマハティール首相は、二〇〇三年十月三十一日、惜しまれながら引退した。それからちょうど一年経った(二〇〇四年)十一月八日、クアラルンプールのプトラジャヤで、前首相に単独インタビューすることができた。
内政の舵取りから離れた前首相には、重責からの解放感といったものも感じられた。首相時代よりも自由に発言できるようになっている。もちろん、歯に衣きせぬマハティール節は健在だ。
執務室の机の上には二台のパソコンが、書棚には分厚い百科事典が、そして書棚の隣の棚には使いこんだコーランが厳かに置かれている。
「慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において」など、コーランの一節を刻んだ木彫は、気品に満ち溢れ、東南アジアの伝統を強く感じさせる。
この光景こそ、マハティールの思想と行動を余すところなく伝えている。彼の思想を支えているのは、イスラームの教えである。だが、それは決して近代化に背を向けるものではない。彼はテクノロジーの発展に力を注ぎ、自らハイテク機器も使いこなす。また、読書家としても知られるマハティールは、貪欲に知識を吸収し、それを生活に生かそうと心がけている。つまり、彼にとってイスタームは、モノの面でもココロの面でも生活を豊かにするための思想の基盤である。
インタビューでは、どの質問に対しても、的確な回答が即座に返ってきた。まもなく七十九歳になる高齢とは思えない反応の速さである。だが、何より私が強く感じたものは、ココロの平静と揺るぎない信念である。それもまた、彼の信仰に支えられているに違いない。
終始穏やかな雰囲気でインタビューは進められたが、二度だけ表情や語気が変わった。一度は、ブッシュ大統領再選に関して質問したときである。一瞬にして厳しい表情に変わり、強い言葉でその対イラク政策を批判、ブッシュ再選は世界にとって大惨事だと言い切った。
もう一度は、東アジア経済グループ(EAEG、後にEAEC)構想を提唱した経緯について説明しているときである。EAECを葬ろうとしたアメリカ自身がNAFAT(北米自由貿易協定)を形成していることに言及したとき、語気が鋭くなるのが感じとれた。また、彼はブッシュ政権に追随する日本にも批判的である。
ただし、我々はマハティールの声を単なる外交政策の次元だけでとらえるべきではない。モノに偏重した西洋近代文明に対する根源的な批判の声として、彼の言葉を受け止めるべきではなかろうか。
(撮影:カミコウベアツシ) 続きを読む 「マハティールは、いまこそ日本へ訴える」(『わーずわーす』平成十六年十一月号)
『わーずわーす』編集長を務めた加藤和彦氏のインタビュー
令和六年五月三十日、毎日新聞は「加藤和彦が語った『イムジン河』への思い 『アジアに帰らないと』」を掲載した。平成十七年の終戦記念日に掲載された記事の再掲だ。
ここで加藤氏は次のように語っている。
「日本ってアジアでしょ。なのに、それを意識してこなかった。西洋世界の末席でやってきた。岡倉天心とか、アジア人である自身をプラウド(誇りあるもの)と思っていた。そうした先達の尺度で考えてみたかった。アジアにはいろんな問題が山ほどある。それを解きほぐしていくにはアジアに帰らないと。日本人にそういう意識が芽生えてくれば、中国も韓国もへそまげないですよ。少しは違ってくると思うんですがね」
記事は、加藤氏が、21世紀のアジア人的ライフスタイルを提案する雑誌『わーずわーす』の編集長を務めていることを紹介している。
平成十七年二月に創刊。フーガ発行、主婦の友社発売。創刊号にマハティール閣下のインタビュー記事を掲載していただいた。しかし、まもなく同誌は廃刊に追い込まれた。いったい何があったのか。
民族派とヘイト
国家安全保障の観点から日本国内に潜伏する海外テロリストに厳しく対処するのは当然のことである。また、日本の社会秩序、伝統文化を維持するためには、野放図な移民受け入れに反対しなければならない。しかし、民族派こそ排外主義やヘイトに陥ってはならないと思う。
大御心にお応えするという崇高な志を抱いていた戦前の民族派は、外国人から尊敬される日本人であろうと努めていた。頭山満らの玄洋社は、時に国家権力と対峙しつつも、欧米列強の植民地支配に喘ぐアジアの志士たちを命がけで守った。
中華民国の孫文、朝鮮の金玉均、インドのビハリ・ボース、フィリピンのアルテミオ・リカルテ、ベニグノ・ラモス、ベトナムのクォン・デ、ファン・ボイ・チャウ、ビルマのウ・オッタマらは、いずれも頭山の献身的な支援に助けられて活躍した。さらに頭山らは、中東・イスラム世界にも視野を拡げ、明治三十九(一九〇六)年六月に亜細亜義会を結成、アブデュルレシト・イブラヒーム、ムハンマド・バラカトゥッラー、アハマド・ファドリーらと連携した。
一方、善隣書院において緒方竹虎、河相達夫、中山優、安岡正篤、笠木良明といった人物を育てた宮島詠士は、日本が世界に誇る人種平等決議案の生みの親でもある。
大正八(一九一九)年、牧野伸顕は第一次世界大戦後のヴェルサイユ講和会議に日本全権として参加するためヨーロッパに渡った。それに先立ち、牧野は詠士と会い、「日本としてこの会議で提言すべきことは何か」と尋ねた。
すると詠士は、尊敬していた勝海舟に思いを馳せつつ、「(海舟ならば)来るべき会議に世界人類はその皮膚の色を超越して無差別平等であるべきことを強調せらるゝことと察せられます」と応えたのだ。牧野が会議で上程した「世界人類平等決議案」の裏に、詠士の助言が秘められていたのである(石川順「宮島大八と張廉卿」『海外事情』第五巻第十号)。
そして、民族派の先人たちは率先してヘイトと闘ってきた。『奪はれたる亜細亜』などの著作で知られる国士満川亀太郎は、黒人差別と闘った先駆者だ。満川は早くも中学時代から黒人差別の問題を意識していた。大正九(一九二〇)年夏、ジャマイカ出身の黒人民族主義の指導者マーカス・ガーベーの運動の盛り上がりを目の当たりにすると、満川は黒人問題についての日本人の認識を高めようとした。大正十五(一九二五)年には『黒人問題』を刊行している。クリストファー・スピルマン教授が指摘しているように、文藝春秋の記者をしていた昭和史研究家の片瀬裕氏によると、黒人の劇団が日本に来た際、満川は北一輝とともにそれを観に行った。劇団の独特な踊りを観た北が、「土人どもが」と馬鹿にすると、満川は烈火のごとく怒ったという。
満川はユダヤ人差別とも果敢に闘った。当時、国内では鹿子木員信のようにヒトラーとナチスの動きを無批判的に礼賛する者もいたが、満川は人種平等の立場から、ヒトラーの人種差別主義を厳しく批判していた。いまだヒトラーが政権を握っていなかった昭和七(一九三二)年に刊行した『激変渦中の世界と日本』の中で、ナチスの反ユダヤ主義を「偉大なる錯覚」と酷評し、ドイツで行われているユダヤ人排斥の流行について「世界に対して恥ずかしき事実である」と述べたヒンデンブルグの言葉を引いていた。
戦後の民族派たちもヘイトと闘ってきた。野村秋介もまた差別を憎んだ民族派の一人だ。
野村は昭和三十八(一九六三)年に河野一郎邸を焼き討ちし、千葉刑務所に服役した。その時、朴判岩という同房の在日朝鮮人が毎日、看守に虐待されていた。寡黙で誠実な朴に心を打たれた野村は、刑務所の管理部長に訴えて、朴への虐待をやめさせたという(『汚れた顔の天使たち』)。
昭和五十八(一九八三)年の衆院選では、石原慎太郎と同じ選挙区から出馬した新井将敬のポスターに、「一九六六年に北朝鮮から帰化」と記した中傷ステッカーが貼られるという事件が起こった。その後、ステッカーを貼ったのが石原の公設第一秘書だったことが判明すると、野村はこれに激怒し、石原の事務所に怒鳴り込み、「石原は、すべての在日朝鮮人に土下座して謝れ」と迫った。
民族派、右派を名乗るのならば、こうした先人の行動の意味をよく学ぶ必要があるのではないか。
「日本郵政ガバナンス問題調査専門委員会報告書」(平成22年5月) 【上】
令和6年の郵政民営化法の抜本改正に当り、民営化の真実を明らかにしておきたい。
「日本郵政ガバナンス問題調査専門委員会報告書」(平成22年5月)【上】。
はじめに
官業としての郵政事業は、全国に張り巡らされた郵便局網を通じて郵便、貯金、保険の各事業による利便が全国同一条件の下で提供されることで、地方も含めた国民生活の基盤を提供し、戦後の我が国における都市と地方とのバランスのとれた経済の発展を可能にしてきた。高度経済成長の原動力となったのは、大都市周辺の重化学工業へのヒト・モノ・カネの集中がもたらした産業の発展であったが、経済成長によって生じた富を、都市だけではなく、地方にも振り向け、地域の経済振興を図る機能を果たしたのが公共事業であり、国及び自治体の予算と並んで、その重要な資金源となったのが、郵便貯金及び簡易保険として預け入れられた資金を活用して行われる財政投融資であった。
しかし、このような戦後経済成長システムは、バブル経済の崩壊とともに行き詰り、その後の不況の長期化、深刻化の中で、経済システムの根本的な見直しを迫られることになった。こうした中、21世紀に入り、政治、経済の構造の抜本的改革による不況からの脱却への期待を受けて登場したのが小泉政権であり、その政策の目玉として掲げられたのが、戦後システムの中核を担っていた郵政事業を民営化することであった。
政権発足の2年後の平成15年には日本郵政公社が発足し、それまで郵政事業庁による官営事業であった郵政事業は公社として独立採算の下、自律的、弾力的な運営を行うこととされた。さらに、その翌年の平成16年9月には郵政民営化の基本方針が閣議決定され、郵政民営化関連法案が国会に提出された。郵政民営化は、公的部門に流れていた郵便貯金・簡易保険の資金の流れを、他の金融機関と対等の競争条件の下で、民間金融機関としての資金運用に変えていくことで、資金の流れを官から民に転換することを主たる目的とするもので、我が国の経済社会システムそのものにも多大な影響を与えるものであった。それだけに、その是非について与党自民党内部も含めた政治対立が生じ、郵政民営化関連法案は参議院では一旦否決された。しかし、小泉首相が郵政民営化の是非を問うとして衆議院を解散し、総選挙で圧勝したことで政治対立は決着、平成17年10月に郵政民営化関連法が成立した。 続きを読む 「日本郵政ガバナンス問題調査専門委員会報告書」(平成22年5月) 【上】
『扶桑七十年の夢』が示す大川周明・石原莞爾・蒋君輝三者会談の真実
昭和十八(一九四三)年になると、大川周明は日本占領地域における経済政策を厳しく批判するとともに、中国民衆の惨苦を強調するようになる。この変化をもたらした要因の一つとして、石原莞爾らとの意見交換があったのではないか。そうした仮説に立ち、大川の日記を読み込んでいると、昭和十八年の年明け早々から動きがあったことがわかった。まず、日記を追ってみたい。
昭和十八年一月一日
「蒋君輝・川又務両君上海より上京の電報があつたので東京駅に迎へに往く。午後三時二十五分の富士で安着。中山優君も出て居た。打連れて山王ホテルに往く。約十日間此のホテルに滞在の由。……」
冒頭に出てくる蒋君輝は、国民政府からも汪兆銘政権からも久しくその高風を仰がれた人物だ。彼は明治二十五(一八九二)年七月に江蘇省で生まれ、大正二(一九一三)年に日本に渡り、大正九(一九二〇)年に東京高等師範学校理科を卒業している。昭和十(一九三五)年から国民政府教育部から駐日留学生監督処科長を命じられて日本に渡った。大川を訪れた昭和十八年当時は、中華民国紡織聯合会秘書長を務めていた。
日記は以下のように続く。
一月二日
「夕、蒋君川又君来り晩食を共にす。……いろいろ支那の実情を聴く。石原将軍在鶴ならば打連れて訪問する事とし、将軍に手紙を認む」
一月四日
「午前本間六郎来り、石原将軍五日上京すとの消息を齎す」
一月五日
「石原将軍より今晩上京との来電」
一月六日
「蒋・川又両君来る。東亜連盟協会に電話し、八日午後一時より三時まで石原将軍と会談することに取極む」
一月八日
「十一時蒋・川又両君来り昼食を共にす。一時研究所に石原将軍来り、三時まで談る」
このように、大川は昭和十八年一月二日に蒋君輝を上海から迎え、一月八日に大川周明、蒋君輝、石原莞爾の三者で二時間にわたる会談が行われたことがわかる。では、そこで何が話されたのか。それを明らかにしてくれるのが、蒋君輝自ら著した『扶桑七十年の夢』である。
〈[昭和十八年]一月二日の朝東京着、大川先生と従弟の高橋喜蔵氏の出迎えを戴き、まず目黒の夕陽が丘の大川学院に落着き、川又、海保(勇)両氏はここで辞去され、先生の御案内で同じ目黒台にある先生宅に行った。ここに一筆したいことは大川学院は別称瑞光寮、俗に大川塾ともいい、正式名称は満鉄東亜経済調査局附属研究所という。
(中略)
[昭和十八年一日八日]の午後、私は大川学院で初めて石原将軍に会った。将軍は古い軍服を着ていてまだ何にも喋らないうちに、大川博士は冒頭私に次のように言った。
「将軍は現地軍が皆さんに与えた迷惑を充分伺ってから対策をたてたいといっておられるから、お互い同志と思い、一切遠慮なく話し合って貰いたい」と。
それで私は十二月八日以後、私が目撃した日本軍の暴虐と民衆の憤慨についてつぶさに話した。私はさらに言葉をつづけて、
「中国の民衆はここ四、五年以来日本軍の姦淫焼殺の暴力を忍受してきた。いつかはよくなるだろうと期待して来たが一向によくならないばかりか、日本は『東亜新秩序』という看板を掲げてなお中国の文化を破壊し、財産を奪取して止むところがない。新秩序という看板の内実は暴虐な行動であったと解釈する外なく、そうであるならば、中国で「困獣猶闘(困った獣といえどもなお闘う)」という言葉があるとおり、いつ、どこで何が起るか分らない。この不測の不幸を抑止できる人は東亜聯盟の石原将軍だけであるとわれわれは確信しているので、今日上海から懇請に来た訳である」
と訴えた。将軍は苦しい表情をされて、あのギョロリとした目で私を見られ、
「よく聴かせて下さいました。よく分りました」
と連呼され、続いて
「貴方がた中国人は日本にどんな希望を持っているか」
と聞かれた。私は
「率直に申しますと中国人が全部望んでいることは日本軍の大陸からの全面撤兵で、これが一番効果的な処置であると思う。兵隊が優越感を持ち、商売人は軍人と結託して利権をあさる。一切が日本軍との繋がりで民衆に迷惑をかけている実状である。ゆえに軍の引揚げこそが問題を無くし、根源を絶つもので、最上の策であると思う。もちろん引揚げはタイミングの問題があると思うが今が、一番よいタイミングと思う」
といった。石原将軍は
「分りました」といった。大川博士は私を見て、
「問題は東条だ。石原将軍は中国の皆さんと同じ主張だが、東条が反対している」
といってさらに目玉を廻して、石原氏を見なから次のように話した。
「蒋先生は学者で、日本人の教え子も中国人の教え子も何千人かいる。先生が書かれた日本語教科書は政府の検定教科書として何十万部か出している。蒋先生の教科書を読んだものは誰も蒋先生を知っている。私の知る中国人の友人の中に蒋先生ほど誠意を持っている人は他にいない。蒋先生の率直な話は中国人の気持を代表している」と。
大川先生の話も終り、午後五時頃三人は別れ、石原さんは晩の座談会に行った〉
そして同年六月、大川は次のように占領地域における経済政策を厳しく批判した。
「支那に於ける指導層の反日は…日本の真個の精神に対する誤解又は曲解より来るものであるが、一般民衆が現に日本に対して抱きつゝある反感は、自ら別個の原因によるものである。占領地区に於ける政治・経済・文化の諸方面に於ける日本の諸政策、殊に経済政策が適切有効でなかつたことを、遺憾ながら正直に承認しなければならぬ。……経済方面に於ては、それが直接民衆の生活に関するか故に、政策の適否は影響するところ、最も広汎深刻である。今や日本の占領地区に於ける物資の欠乏、物価の暴騰、従つて民衆生活の困苦悲惨は、人の腸を断つものがある。而も無知なる支那民衆は、是くの如く痛苦を悉く日本の責に帰し、骨に徹する怨を抱いている。……それ故に何人であらうとも日本を敵として戦ふ者に味方する。民衆に此の敵意ある限り、明日蒋介石が死んでも支那事変の真個の解決は期すべくもなく、国民党に代つて共産党が抗戦を続けるであらう。前後七年に亘る戦争に、支那の民衆は惨苦の限りを嘗め尽くして居る。彼等は心の奥底に於て切々と平和を希つて居る。若し日本が適切なる経済政策によつて彼等の生活を些かにても緩和するなら、彼等の抗日感情は次第に薄らくであらう」(「日本と支那」『公論』昭和十八年六月)
大川周明と張学良
■支那が真支那を、日本が真日本を回復
大川周明が、王道を指導原理として、支那が真支那を、日本が真日本を回復することを願っていたことは、昭和三(一九二八)年の張学良との会談に明確に示されている。
同年六月に父である張作霖が爆殺された後、張学良はその後継者として東北の実権を掌握していた。すでに大川は、同月に張の特使として日本を訪れた総司令部秘書の陶昭銘、前奉天模範隊長で当時総司令部顧問を務めていた黄慕と打ち合わせをし、張との会談の準備を進めていた。
大川は、同年九月十一日に日本を出発、同月十四日に奉天に到着した。大川には、渋沢正雄、渋沢秀雄、速水一孔、秦真次少将が同行し、張学良側は黄、陶と秘書の王家貞が同席した。大川は「張学良を訪ふの記」(『月刊日本』昭和三年十一月号)で、張との会談に臨んだ時の心境を次のように書き残している。
「吾々の奉ずる儒教の政治的理想を説き、支那伝統の精神を復興し来りて、王道国家を東三省に実現させたい、少くとも張氏に其の志を抱かせたいばかりに、気長に待構えて居るのでありますから、此の要求に対する諾否を確めることは、張氏の真骨頂を知る上に極めて重要なことであつたのであります」
張との会談に臨んだ大川は、次のように訴えかけた。
「今日の支那は新旧争闘の舞台となつて居るが、此の争闘の間から真支那が復活するのであるから、是非その産婆になつて欲しい。……日本も同様の状態で吾々同志は真日本の復活に多年辛苦して居る。而も真支那と真日本との根本指導原理は畢竟王道に外ならぬが故に、吾々は共通の理想のために戦ふものである」
すると、張は欣然として直ちに共鳴同感し、次のように述べた。
「自分は貴国に斯くの如き同志あるを知つて意外の感に堪えない。自分が総司令になつてから今日まで幾百の貴国人に会つたけれど、斯様な話は未だ嘗て聴かなかつた。自分は三民主義は過渡的思想で到底支那を救ふに足らぬと信じて居る。従つて自分も先王の道を復興し、之に現代的組織を与へることが、支那統一の唯一の途と考へて居る。今日の支那は混沌乱離の極に在るが、これは止むを得ない。支那は国体と政体とが変更した上に、世界を風靡する革命恩潮に襲はれたものであるから、混沌に陥ることは避くべくもない。日本の如き秩序ある国でさへ、思想の変動は社会的動揺を招いて居るのであるから、秩序ない支那は尚更のことである。而も支那の歴史が証明する如く、此の混沌も孔孟の真精神の復興によつて晩かれ早かれ統一される。自分は、飽迄も儒教の政治的理想を奉じて終始する覚悟である」
この発言に示されるように、「東三省に王道国家を実現する」という大川の構想に張学良は同意したのだった。
大川によると、張は会談の中で、自分が陽明学を信奉し、王陽明の伝習録が愛読書であることを明かしている。張はまた、中国東北部にある東北大学とは別に、書院を設立し、儒教の研究・宣揚する道場にするという構想を語っていた。その書院は「国学院」と命名されるだろうと語った。
さらに張は、王道主義者の結社を設立することを約束した。この構想について、大川は「此の結社は張氏をして儒教政治を遂行せしむる一機関であると同時に、日本と満州とを精神的に結合する一機関たらしめることが出来ます」と述べている。
大川は張との会談の様子について、「私との会談二時間半といふものは、私は無論恐ろしく真剣になつて居ましたが、張氏も身動きもせぬぐらゐ緊張して応対して居ました。それにも抱らず聊かも疲労の色なく、頭脳も終りまで明晰でありました」と述べ、張が阿片中毒だという風評は、張と敵対する楊宇霆派が流しているデマだと否定している。
ただし、大川は次のようにつけ加えている。
「阿片を吸つて健康を害したことも事実であります。無暗にスポーツを好んだり、新奇な振舞をすることも事実で、例へば学校の卒業式に夫婦同伴で臨席し、夫人に賞品を授与させてみる。孔孟の教を格守すると言ひながら、亡父の葬式を簡単に失したり、喪中に拘らず服装其他の点で謹慎の意が欠けて見えることは、誠に面白くないと存じます」
■満蒙をめぐる不幸なすれ違い
ところが、張学良は大川の期待とは正反対の方向へと進んでいくのである。張学良は、昭和三(一九二八)年十二月二十九日、東三省に一斉に青天白日旗(中華民国の国旗)を掲げ、蔣介石の国民政府に従うことを明らかにした。これは易幟(旗を変えること)と呼ばれている。その二日後、国民政府は、張学良を中国陸軍の司令官にすることを約束した。
大川にとって、満蒙の特殊権益は、東洋の平和を保全する必要から獲得した権益に外ならなかった。彼は「満蒙問題の考察」(『月刊日本』昭和六年六月)で次のように書いている。
〈吾等は東洋の平和を確保する使命と責任とを有つ。而して其のための最も必要なる担保は、実に満蒙の地域であり、満蒙一たび乱るれば極東忽ちにして混沌乱離の巷となる。さればこそ吾等は、十万の生霊と二十億の戦費を犠牲にして、啻に東亜に対するロシアの野心を排撃せるのみならず、之に由って白人世界制覇の行程を挫折せしめ、世界史の新しき第一項を書き初めると同時に、東亜全体の治安を維持し平和を護持する任務を双肩に荷ひて今日に及んだのである。日本は此の重大なる任務を遂行するために、ロシアが曽て支那より得たる権利を継承し、更に大正四年の条約によって必要なる権利を正当に獲得した。所謂日本の特殊権益なるものは、東洋の平和を保全する必要から獲得せる権利利益に外ならない。
日本が此の重任を負荷してより既に四半世紀、而して此の四半世紀に於ける満洲史は、恐らく世界に比類なかるべき経済的発展の記録である。その人口は倍加し、その貿易額は三十五倍に増加した。昔時の寒村が一切の文明的施設を具備せる都市となつた。旅順は朝日に匂ふ桜の名所となり、乃木将軍の詩によつて名高き金州は林檎の名産地となつた〉
大川は、その権益が脅かされることを容認できなかったのでする。しかし、中国側にとって満州は中国の領土である。ここに不幸なすれ違いがあった。
■満州事変への道
やがて、大川は満蒙問題解決には、張学良の排除か武力発動によってしかできないと考えるようになっていく。「満蒙問題の考察」では次のように説いている。
〈支那は、満腔の敵愾心を以て、満蒙の地域より日本を放逐せんとし、歩々吾が権益を侵害して憚るところない。而して日本の国民的理想を失ひ、従つて明治以来の大陸政策の根本義を忘却し去れる吾が当局は、名を日支親善或は国際協調に藉り、空しく『厳重なる抗議』を繰返すのみにして、ついに其の抗議を徹底せしめたることがない。……
かくて日本は樽俎(そんす)折衝の間に満蒙問題を解決する見込を失つたと言つてよい。蓋し一切の交渉が談判は、誠意ある両者の間に於てのみ可能である。吾国が如何に誠意を以て交渉しても、支那側が飽くまで敵意と悪意とを以て吾に対する以上、和衷協調の途はついに求め得べくもない。現に今日に至るまで、支那側の不当なる産業圧迫と条約蹂躙の不法行為とに対して、吾国の「厳重なる抗議」は常に有耶無耶の闇に葬り去られ、徒らに譲歩に譲歩を重ね来りて、少くも満蒙問題に関する限り、ついに最後の一線にまで追ひ詰められんとして居る〉
満蒙問題は軍事的進出によって解決するしかないと決意した大川は、武力の発動を支持する国民世論の形成に取り組む一方、軍への働きかけを強めていく。大川は、すでに大正十五(一九二六)年後半から、参謀本部の将校を行地社の講演会や誌友懇談会等に招くことで多くの部員たちと知り合うようになっていった。
昭和四年までに、大川は森岡皐・土肥原賢二・根本博・石原莞爾・影佐禎昭・東条英機・和知鷹二らの誌友を獲得した。さらに、大川はほぼ同世代の小磯国昭・岡村寧次・板垣征四郎・多田駿・河本大作・佐々木到一・重藤千秋らとの関係を強めていた。呉懐中氏は次のように書いている。
「1920年代後半から、不安化しつつある満州問題が徐々に軍の関心事となっていく中て、この面における大川と軍との意見交換も行われるようになる。例えば、1926年秋から板垣征四郎の口演を口火に、松室良孝・重藤・長勇らは行地社で中国問題について講演を行っていく。…大川は大正末から満蒙領有論を主張し出したか、同時にその見解を陸軍の中堅将校に勧める動きも見せた。1926年末、彼は偕行社で板垣・永田鉄山・東条英機・阿南惟幾ら十数名の中堅将校と満蒙問題を討議し、陸軍の力によって満州を独立させるべきことを力説したという。満州独立問題において、彼は早くも軍部中堅層に檄を飛ばす姿勢を示したのである」(『大川周明と近代中国』百七頁)
大川は昭和四年正月から三月にかけて満州入りした。同年一月、真崎甚三郎宛ての書簡で彼は次のように書いている。
「三、四月の交、南京政府必ずや大動揺を来すべく、此時こそ皇国が満蒙問題に目鼻をつくべく無二唯一の好機と被存候」
大川が「大動揺」と書いたことについて、呉懐中氏は、昭和四年初頭の「全国編遣会議」や、三月開催予定の国民党第三次大会において、軍閥・派閥の勢力争いによって反蒋介石的な内乱が起こるというのが大川の予想だったと指摘している。そして、大川はこの好機に乗じて、張学良の独立を説得、実現させようと考えていたようだ。しかし、大川の目論見ははずれた。その結果、大川は武力解決へと一気に傾いていく。昭和六年五月、大川は、板垣征四郎や神田正種ら中堅将校と会合し、互いに覚悟を堅め、要路を武力解決の道へ引きずっていくことを確約したという(『尋問調書』)。こうして、同年九月十八日の満州事変勃発に至る。