わが国の伝統医学「和方」の復興を試みた人物として、権田直助に次いで挙げられるのが本居宣長である。宣長は『鈴屋答問録』で次のように述べている。
「何れの病も、神の御しわざにあらざるはなし。さて病ある時に、或は薬を服し、或はくさ〲のわざをして、これを治むるも、又皆神の御しわざ也。此薬をもて、此病をいやすべく、このわざをして、此わづらひを治むべく、神の定めおき給ひて、其神のみたまによりて、病は治まる也」
この宣長の記述について、菅田正昭氏は〈これはまさしく皇朝医道としての〈和方〉の考え方である。そうした観点に立てば、宣長の有名な二首「たなつ物もゝの本草も天てらす日の大神のめぐみえてこそ」「朝よひに物くふごとに豊宇気の神のめぐみをおもへよのひと」も、単に食物への感謝を歌ったものではなく、無上至極の尊き宝としての食物をしっかり噛んで食べれば、その人の身体と霊魂の中に伊勢内宮の天照大神と外宮の豊受大神が顕現する、という霊的食養道としての〈和方〉の極意を詠んだものであることがわかる〉と指摘している。
筆者は、尾張藩の尊皇思想は、崎門学派、君山学派(松平君山を中心とする学派)、本居国学派が微妙な連携を保ちながら強化されていったという仮説を持っている。このうち、幕末勤皇運動を牽引した崎門学派としては若井重斎や中村修らが知られているが、彼らの師こそ、「尾張崎門学の最後の明星」と呼ばれた細野要斎である。
要斎は、蟹養斎門下の中村直斎らから崎門学を、さらに中村習斎門下の深田香実から垂加神道を学んだ。要斎が遺した膨大な随筆『葎(むぐら)の滴』からは、尾張崎門学派の高い志と、日常の息遣いを感得することができる。
この貴重な記録『葎の滴』の中心部分を構成するのが、『感興漫筆』であり、その原本は伊勢神宮文庫に収蔵されている。『感興漫筆』は要斎二十六歳の天保七(一八三六)年から始まり、死去した明治十一(一八七八)年九月まで、四十二年に及ぶ記録だ。
例えば、弘化四(一八四五)年五月の記録には、要斎が深田香実から垂加神道の奥義を伝授された感動が記されている(『名古屋叢書』第十九巻、五十八、五十九頁)。
「香実先生、予が篤志に感じ、神道の奥義を悉く伝授し玉ふ時に、誓紙を出すべしとの玉ふ。その文体を問ふに、先生曰、爾が意に任せて書し来れと、仍つて書して先生に献す。文如左。
神文
一 今度神道之奥義、悉預御伝授、誠以、忝仕合奉存候。深重之恩義、弥以、終身相忘申間敷候事。
一 御伝授之大事、弥慎而怠間敷候事。
一 他人は勿論、親子兄如何様に懇望仕候共、非其人ば、猥に伝授等仕間敷候。修行成熟之人於有之は、申達之上、可請御指図之事。
右之条々、堅可相守候。若し於相背は、可蒙日本国中大小神祇之御罰候。仍而、神文如件。」
安政二(一八五五)年正月二十四日、尾張国学派の中心的人物・植松茂岳の発起により、熱田神宮御文庫の境内に宣長社が勧請された。これが、尾張国学派が合同する場となり、それは同時に慶勝支持派結束の場となっていく。
岸野俊彦氏の『幕藩制社会における国学』(校倉書房、平成十年五月)によると、御霊代として、宣長が常に引き鳴らした鈴屋の鈴一つを得て祭り、社号を桜根社とした。
山田千疇社中は、二月十八日、熱田文庫で桜根社奉祭正式会を興行した。その様子について、岸野氏は以下のように書いている。
「十五人が参加し、十一人が懐紙のみの参加であった。翌年九月三十日にも、熱田文庫で社中桜根社報祭会を興行している。参加費用は上級藩士(内会社中)は一人に付一朱、その他(表会社中)は一人に付一匁とし、それぞれの社中が参加しやすく、交流が計れるよう工夫した。この時、熱田文庫へ社中から宣長著書『神代正語』を献本し、文庫懸りの林相模守にはかって、水戸斉昭奉納の『大日本史』を閲覧している」
藩主慶勝が斉昭とともに謹慎させられた直後の安政五(一八五八)年七月二十一日には、慶勝支持派の「同志」三十七名が、熱田神宮で「先君(慶勝)御安全祝詞」をあげている。その中心は、植松のほか、山田千疇、茜部伊藤五、小林八右衛門、間島万次郎、松平竹蔵、野村八十郎、井野口久之丞らであった。
また、文久二(一八六二)年五月に慶勝が全面赦免されると、「同志」八十名が熱田文庫に参会し、現藩主茂徳を引退させ、慶勝を復帰させるべく要求をまとめた。
岸野俊彦氏は、『幕藩制社会における国学』(校倉書房、平成十年五月)に基づいて、尾張藩における国学浸透の過程を追う。
天明(一七八一~一七八九年)・寛政期(一七八九~一八〇一年)の状況について、岸野氏は次のように書いている。
〈尾張地域の国学は、安永期に田中道麿が名古屋桜天神で国学を開講し、やがて道麿が宣長に入門すると、急速に宣長学が名古屋を中心とした尾張地域に浸透する。天明・寛政期、宣長在世中の門人は、約九十名を数え、名古屋の書肆永楽屋東四郎での『古事記伝』の出版をはじめとした種々の出版を行い、本居国学の重要な基盤を構成していった〉
では、尾張藩における国学の担い手はどのような層であったのか。
岸野氏は、藩の国奉行所・町奉行所の役人、名古屋の商人、尾張農村部の豪農・医者・僧侶らであったと指摘している。
商人の場合には、伝統的特権商人を追い落とし、新たに藩と結びつきつつあった新興商人であり、横井千秋がその中心にいた。
宣長は、享和元(一八〇一)年に亡くなるが、その後、国学はさらに尾張藩に浸透していく。岸野氏は次のように指摘する。
〈宣長死後、本居春庭・大平門人は約百二十人、名古屋の書肆の出自で大平の養子となった本居内遠の門人約百三十人と、化政期・天保期をつうじて、国学門人は拡大していった。この外、名古屋を基盤とした、鈴木朖・植松有信・植松茂岳らの門人を合わせれば、嘉永・安政期には数百人の規模になっていた。……国学が、量的に拡大したばかりでなく、尾張藩の上級藩士や、天明期以降、新たに藩と結びつき、特権化した御用商人を基盤とし、藩校明倫堂を舞台に藩論の一方の重要な構成要素となった〉
文政・天保期には、次第に国学派が尾張藩教学の足場を固めつつあった。これに対して、尾張崎門学派はどのように国学派と向き合おうとしていたのであろうか。
岸野俊彦氏は、『幕藩制社会における国学』(校倉書房、平成十年五月)において以下のように書いている。
[前回から続く]〈宣長学が、古典注釈学としての学問の領域にとどまる限り、それは尾張垂加派からみても決して否定するものではなく、むしろ評価すべきものとみていることは確認しうると思う。だが、宣長の学問は、彼の神への熱い思いと密接不可分のものであった。尾張垂加派の宣長批判は、まさにこの点にかかわっており、宣長の「我国の学、神道めきたる事」は「いとあやしき事のみぞ多かる」という(高木秀條「いつまで草 古学弁」『天保会記』所収)。
ただ、宣長の神道に対しても全面否定するものではなかったことは、「宣長、大和魂を論じ出しよりして、我国漢学を宗とする者までも皇国皇統を推尊し、外国を賤しむるを知れり。其功、大なりといふべし」(深田正韶『正韶詠草一』など)と述べていることから理解することができる。高木秀條や深田正韶の少年期から青年期にかけて、名古屋を舞台に展開された宣長と徂徠学派の市川鶴鳴との『くず花』『末賀乃比礼』論争は、おそらく彼らの意識の中にあったと思われる。中国的価値に深くとらわれた儒者に対決する限り、宣長の神道論は、尾張垂加派にとっても十分に有用なものであった〉
では、尾張垂加派は宣長の神道論のどこを問題視したのだろうか。岸野氏は、①「古伝」そのものの持つイデオロギー性、②両者の神道の支持基盤、③「日本魂」の本質理解、④死後の霊魂の問題──の四点を挙げて、以下のように説いている。 続きを読む 尾張藩における崎門学派と国学派② →
文政・天保期には、次第に国学派が尾張藩教学の足場を固めつつあった。これに対して、尾張崎門学派はどのように国学派と向き合おうとしていたのであろうか。
岸野俊彦氏は、『幕藩制社会における国学』(校倉書房、平成十年五月)において以下のように書いている。
〈尾張藩教学に足場を固めつつあった本居門の学識は、尾張藩にとっても尾張垂加派にとっても認めざるをえないものであり、かつ有用であったことは、深田正韶自身が藩命による『尾張志』編纂の総裁として、校正植松茂岳、輯録中尾義稲を編纂スタッフに加え、その学識に依拠したことのうちにみてとることができる。この点、尾張垂加派が国学一般をどのようにみていたのか、以下の引用(高木秀條「いつまで草 古学弁」『天保会記』所収)によって確認しておこう。
「古学……其始は契沖阿闍梨なんどより出て、もとは歌学の助けとして万葉集をはじめ古言古辞の解しがたきをわきまへ、夫よりして古事記はことに古書にて古言古辞の証拠と為べき書なれば、専らに穿鑿してやゝ発明の事ども多く、契沖より以後、加茂の真淵なんどにいたり、いよいよくわしくなりて、先輩の心つかさる事ども迄もよく釈出して、書どもあまた著し後学のためによき便となる。大幸といふべし」
これは、高木秀條の理解であるが、契沖以後、宣長に至る国学の系譜と、その古典注釈学としての価値を正当に評価しており偏見はみられない。また、国学が漢文の影響の強い『日本書紀』よりも『古事記』を重視したことの意義についても、この限りでは冷静に理解しているといえる。このように学問領域に限定すれば、宣長に対しても「強記英才」と高い評価を与え、宣長の『古事記伝』もまた、「古言辞の解釈精密確実」と、その学問としての画期的意義を認めている。垂加派といえども、彼らの学識と文人としての良識は、学問としての合理性を持つ宣長学は理解の範囲内にあったことを確認しうるであろう。
だが、同じく国学とはいえ、平田学については極めて否定的であった。
「近頃、平田篤胤といへる者、もと宣長の門弟にて甚だ其流を信じ学びたるやうに聞えたれども、当時説く所、大に師説に悖りて、我ら如きの思ひもかけぬ珍奇の説をいひ出し(中略)かゝる事もいへばいはるゝ物かと思ふ計、奇々妙々の説ともなり、是また是非を論ずるに及ばず」
篤胤の学問方法の特徴は、古典の注釈という外貌は持つが、宣長のように漢文の潤色のない『古事記』を絶対化するものではなかった。彼は「真の古伝」というものを仮想し、自らの作りあげたイメージに合うものは『古事記』『日本書紀』に限らず、儒教・道教・仏教・キリスト教であろうが、すべて「真の古伝」の残影とみた。この立場から『日本書紀』を否定する宣長を篤胤は、「漢土に遺れる古文なるを、我が真の古伝に合へる説なる故に、御紀の巻首に先これらを載られたる物なるべし、然るを師のいたく悪まれたるは一偏なり」と批判をする。この方法は、子安宣邦もいうように、「古典に対して注釈者の位置にいるのではなく」、古典を「増殖する彼の観念のてだて」とするものであり、国学を古典注釈学の系譜の内に理解しようとする尾張垂加派にとって、まさに「思ひもかけぬ珍奇の説」であり、学問として認めうるものではなかった。平田篤胤が、一八三四年(天保五)十一月に尾張藩から扶持を打ち切られる背景には、幕府の動向や、名古屋での本居門の反発などが予測されるが、尾張垂加派のこのような平田学への対応もまた一要因として考慮する余地があると思われる〉(百四十九、百五十頁)
岸野俊彦氏は、『幕藩制社会における国学』(校倉書房、平成十年五月)において、尾張藩の国学者たちは、「近世国学の開基は尾張初代藩主の徳川義直だ」と主張したと指摘している。
近世の国学の系譜は、通常、契沖・荷田春満・加茂真淵・本居宣長・平田篤胤を基軸として理解されている。
ところが、尾張藩の国学者たちは、義直が『類聚日本紀』『神祇宝典』などの撰述を行っていることを根拠として、近世国学の開基は義直だと主張したというのだ。
尾張藩では、幕藩制の矛盾が激化するたびに、藩祖の著作に帰れという問題関心が強まった。その理由は何か。岸野氏は、以下のように説明している。
〈義直自身についていえば、家康の子として尾張藩主となったが、尾張藩の成立の事情からいえば、家臣団の出自の雑多性と複合性や、支配領域が尾張国を超えた複合的性格を持っていること等の中での、尾張藩と尾張徳川家の統合の論理とイデオロギーが不可欠であったという事情があった。徳川家康の子としての、徳川系譜と事跡の確認は最も重要な問題であった。戦国期に遡れば、多様な戦国大名の家臣であった者を家臣団に組み込むためには、徳川系譜が清和源氏に繋がることもまた重要な問題であった。清和源氏と繋がれば、古代天皇の事跡の研究はい儒学的政治論の「王道」「治者道」を極めることと同列になる。儒学神道の方法がこれを結びつけたといえる。こうして、藩祖としての統合の原理を求めて著されたものであるだけに、幕藩制の矛盾が激化するたびに、藩祖の著作に帰れという、問題関心が惹起するのは当然であったといえる〉(十九、二十頁)
ただし、天明・寛政改革期には、尾張藩における国学派の地位はそれほど高くはなかった。この時期、義直著書の校合が主導したのも、儒者や垂加派だった。校合の担当者は、『初学文宗』『軍書合鑑』が細井平州、『神祇宝典』が河村秀根、『類聚日本紀』が稲葉通邦、『成功記』が岡田新川、『中臣獣抄』が吉見幸孝であった。
ところが、尾張藩における国学派の地位は上昇していった。その契機こそ、やがて十四代藩主に就く徳川慶勝とのむすびつきであった。岸野氏は、「尾張藩に仕えた国学者たちは、幕末維新期の尾張藩主徳川慶勝と結ぶことによって、藩祖尾張義直の国学的再評価を行い、藩政改革と国政変革に参加しようとしていた」と述べる(十二頁)。
尾張藩国学派の先駆者は田中道麿であり、それを継いだのが横井千秋である。彼は道麿が没した翌年の天明五(一七八五)年に、宣長に入門した。
漢学主流の尾張藩の藩政思想を改革せんとして、国学を導入しようとした。千秋は、天明七(一七八七)年には、建言書『白真弓』を藩に提出、国学館を建てて、宣長を藩に迎えるよう献策している。ただし、千秋の試みは成功しなかった。とはいえ、千秋の思想が尾張藩内の國體派に影響を与えた可能性はある。
いずれにせよ、国学の発展における千秋の功績は、宣長の『古事記伝』刊行を支援したことにある。最初の二帙の経費を出資したのは千秋である。また、宣長に『神代正語』(かみよのまさごと)、『古今集遠鏡』を執筆するよう宣長に依頼したのも千秋であった。
平成三十一年二月、本居宣長記念館を訪れ、吉田悦之館長から千秋についてご教示いただいた。吉田館長は、宣長に宛てた千秋の書簡が残されていたいのは、尾張藩の藩政改革を改革しようとした千秋の思いの強さのあまり、記録するのを憚られたのではないかとの推察を語ってくれた。
一方、宣長から千秋に宛てた書簡は残されている。以下の書簡は同記念館に所蔵されているもので、『古事記伝』の最初の五冊が刷り上がったの寛政二(一七九〇)年九月に、宣長が千秋に宛てた書簡である。届いた本を手にした宣長の礼状であり、その喜びを表現されている。
「記伝開本、此節出来仕候ニ付、兼々申上候通、清浄本三帙外ニ貳帙被下置、千万忝仕合ニ奉存候、右清浄本三帙ハ、当地神社へ方々奉納仕、別而大慶不少、忝奉存候……御厚志ニ依而、一帙成就仕、板本相弘メ中候段、返々生涯之大悦難申尽、忝奉存候」
この書簡について、『新版 本居宣長の不思議』は、「神社に奉納する清浄本(特装本)が届いたこと。また遷宮の祝賀歌会に参加するため神宮の林綺文庫を訪れたら、奉納本として名前が記されていた事を報告する。その後には、千秋からもらった知多郡の菜種や、むべについても礼と報告が書かれていて、学問だけに留まらない師弟の交わりがうかがえる」と解説している。
●本居宣長に入門
田中道麿翁顕彰会・養老町教育委員会編・山口一易執筆『養老町が生んだ国学者 田中道麿さん』に基づいて、田中道麿の生涯を追う。
今回は、桜天神で国学塾を開いてからの道麿の歩みを見る。
道麿の国学塾は、三部に分かれていた。一部は詠歌法、二部は万葉講座、三部は平安朝の物語、日記類歌集の講読である。道麿の講義を聴こうとする者が急増し、三百人ほどに膨れ上がった。
佐藤栄之助の『養老名所案内』(明治二十九年)には、道麿の人となりを示す逸話が記録されている。
「近くのある人から道麿を先生に招いて万葉集の講義をしてもらう会が計画された。道麿は生まれつき飾りけのないことを好み、衣服などには余り気をつかう方ではなかった。だから外出だといって衣服を改めることもなく普段着のまま出かけられた。招かれた家を訪れられたところ、道麿の粗末な服をみてこの人は下男だと思い込み、長屋脇の小さな部屋に案内し手厚いもてなしはしなかった。そして今日は道麿先生は何か都合が悪くてお越しいただけないかと質した。私が道麿ですよとの答えに主人は腰をぬかすほどびっくりして、早速立派なつくりの書院の間に通し心から失礼のことをお詫びし叮嚀に待遇された。前と全く違う手厚い待遇の中で無事講義を終わって帰られたという」(山口一易訳)
先学の士を探し求めていた道麿は、ついに本居宣長と対面することになる。安永六(一七七七)年七月のことである。このとき、道麿は次のような歌を詠んでいる。
いせの海 千尋の浜に 愛八師 玉はよるとふ さゝらかに
錦のうらに 浦くはし
貝はよるとふ その玉を ひりひてしかと たもとほり
こしくもしるく 吾背子か 愛き教に
其かひの かひこそ有けれ やゝくに 磯間いたとり 浦つたひ
ひりひ得まくは 白玉真珠
反歌
伊勢の海の 清き渚の 白玉を 袖にこきるゝ けふのたぬしさ
歌の意訳は「伊勢の海の深い深いところに美しい玉があるといわれている。さらさらと清らかな音と共にきれいな貝が集まっている。その中に一つの玉を拾いたいとあちこち探しているとき、はからずも美事な玉を拾ったと同様に、輝やかしい研究をして居られる宣長先生にやっとやっとお会いすることができた。それは長い長い時間をかけて、ようやく白玉真珠を手にいれることができたうれしさだ。
それは伊勢の海辺に清らかな白い玉を拾った様に嬉しい、楽しい今日だった」(山口一易氏) 続きを読む 尾張藩国学の先駆・田中道麿②─『養老町が生んだ国学者』 →
尾張藩の本居国学①─三鬼清一郎編『愛知県の歴史』(山川出版社)には、三河地方への本居国学の浸透について、以下のように書かれている。
〈三河の場合には、当初、遠州国学との関係が深かった。東三河吉田(豊橋)の神主の鈴木梁満(やなまろ)や富商の植田義方(よしかた)は賀茂真淵に入門し、浜松の杉浦国頭(くにあきら)らと交友をもった。その後、天明四年に鈴木梁満は三河で最初の本居宣長門人となる。宣長存命中の門人は、寛政元年入門の鈴木重野(しげの 梁満の子)、寛政五年入門の吉田城内天王社神主鈴木真重(ましげ)や、寛政六年入門の八名郡大野村(新城市)の戸村俊行、寛政十年入門の渥美郡亀山(田原市)の井本常蔭(つねかげ)ら八人であった。鈴木真重は吉田藩主で老中となった松平信明(のぶあきら)の和歌の師をつとめた。戸村俊行は元禄期(一六八八~一七〇四)に京都の伊藤仁斎の門人となった戸村治兵衛俊直の末裔である。同じ戸村家の戸村俊長は本居大平の門人となっている。新城や鳳来寺門前周辺の好学の商人や村役人などの伝統のうえに国学への関心が広がったと思われる〉
『維新と興亜』編集長・坪内隆彦の「維新と興亜」実践へのノート