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『扶桑七十年の夢』が示す大川周明・石原莞爾・蒋君輝三者会談の真実

 昭和十八(一九四三)年になると、大川周明は日本占領地域における経済政策を厳しく批判するとともに、中国民衆の惨苦を強調するようになる。この変化をもたらした要因の一つとして、石原莞爾らとの意見交換があったのではないか。そうした仮説に立ち、大川の日記を読み込んでいると、昭和十八年の年明け早々から動きがあったことがわかった。まず、日記を追ってみたい。

昭和十八年一月一日
 「蒋君輝・川又務両君上海より上京の電報があつたので東京駅に迎へに往く。午後三時二十五分の富士で安着。中山優君も出て居た。打連れて山王ホテルに往く。約十日間此のホテルに滞在の由。……」

 冒頭に出てくる蒋君輝は、国民政府からも汪兆銘政権からも久しくその高風を仰がれた人物だ。彼は明治二十五(一八九二)年七月に江蘇省で生まれ、大正二(一九一三)年に日本に渡り、大正九(一九二〇)年に東京高等師範学校理科を卒業している。昭和十(一九三五)年から国民政府教育部から駐日留学生監督処科長を命じられて日本に渡った。大川を訪れた昭和十八年当時は、中華民国紡織聯合会秘書長を務めていた。
 日記は以下のように続く。

一月二日
 「夕、蒋君川又君来り晩食を共にす。……いろいろ支那の実情を聴く。石原将軍在鶴ならば打連れて訪問する事とし、将軍に手紙を認む」

一月四日
 「午前本間六郎来り、石原将軍五日上京すとの消息を齎す」

一月五日
 「石原将軍より今晩上京との来電」

一月六日
 「蒋・川又両君来る。東亜連盟協会に電話し、八日午後一時より三時まで石原将軍と会談することに取極む」

一月八日
 「十一時蒋・川又両君来り昼食を共にす。一時研究所に石原将軍来り、三時まで談る」

 このように、大川は昭和十八年一月二日に蒋君輝を上海から迎え、一月八日に大川周明、蒋君輝、石原莞爾の三者で二時間にわたる会談が行われたことがわかる。では、そこで何が話されたのか。それを明らかにしてくれるのが、蒋君輝自ら著した『扶桑七十年の夢』である。

 〈[昭和十八年]一月二日の朝東京着、大川先生と従弟の高橋喜蔵氏の出迎えを戴き、まず目黒の夕陽が丘の大川学院に落着き、川又、海保(勇)両氏はここで辞去され、先生の御案内で同じ目黒台にある先生宅に行った。ここに一筆したいことは大川学院は別称瑞光寮、俗に大川塾ともいい、正式名称は満鉄東亜経済調査局附属研究所という。
(中略)
 [昭和十八年一日八日]の午後、私は大川学院で初めて石原将軍に会った。将軍は古い軍服を着ていてまだ何にも喋らないうちに、大川博士は冒頭私に次のように言った。
「将軍は現地軍が皆さんに与えた迷惑を充分伺ってから対策をたてたいといっておられるから、お互い同志と思い、一切遠慮なく話し合って貰いたい」と。
 それで私は十二月八日以後、私が目撃した日本軍の暴虐と民衆の憤慨についてつぶさに話した。私はさらに言葉をつづけて、
「中国の民衆はここ四、五年以来日本軍の姦淫焼殺の暴力を忍受してきた。いつかはよくなるだろうと期待して来たが一向によくならないばかりか、日本は『東亜新秩序』という看板を掲げてなお中国の文化を破壊し、財産を奪取して止むところがない。新秩序という看板の内実は暴虐な行動であったと解釈する外なく、そうであるならば、中国で「困獣猶闘(困った獣といえどもなお闘う)」という言葉があるとおり、いつ、どこで何が起るか分らない。この不測の不幸を抑止できる人は東亜聯盟の石原将軍だけであるとわれわれは確信しているので、今日上海から懇請に来た訳である」
と訴えた。将軍は苦しい表情をされて、あのギョロリとした目で私を見られ、
「よく聴かせて下さいました。よく分りました」
と連呼され、続いて
「貴方がた中国人は日本にどんな希望を持っているか」
と聞かれた。私は
「率直に申しますと中国人が全部望んでいることは日本軍の大陸からの全面撤兵で、これが一番効果的な処置であると思う。兵隊が優越感を持ち、商売人は軍人と結託して利権をあさる。一切が日本軍との繋がりで民衆に迷惑をかけている実状である。ゆえに軍の引揚げこそが問題を無くし、根源を絶つもので、最上の策であると思う。もちろん引揚げはタイミングの問題があると思うが今が、一番よいタイミングと思う」
といった。石原将軍は
「分りました」といった。大川博士は私を見て、
「問題は東条だ。石原将軍は中国の皆さんと同じ主張だが、東条が反対している」
といってさらに目玉を廻して、石原氏を見なから次のように話した。
「蒋先生は学者で、日本人の教え子も中国人の教え子も何千人かいる。先生が書かれた日本語教科書は政府の検定教科書として何十万部か出している。蒋先生の教科書を読んだものは誰も蒋先生を知っている。私の知る中国人の友人の中に蒋先生ほど誠意を持っている人は他にいない。蒋先生の率直な話は中国人の気持を代表している」と。
 大川先生の話も終り、午後五時頃三人は別れ、石原さんは晩の座談会に行った〉

石原莞爾(右)と大川周明(昭和十八年七月、鶴岡にて)

 そして同年六月、大川は次のように占領地域における経済政策を厳しく批判した。
 「支那に於ける指導層の反日は…日本の真個の精神に対する誤解又は曲解より来るものであるが、一般民衆が現に日本に対して抱きつゝある反感は、自ら別個の原因によるものである。占領地区に於ける政治・経済・文化の諸方面に於ける日本の諸政策、殊に経済政策が適切有効でなかつたことを、遺憾ながら正直に承認しなければならぬ。……経済方面に於ては、それが直接民衆の生活に関するか故に、政策の適否は影響するところ、最も広汎深刻である。今や日本の占領地区に於ける物資の欠乏、物価の暴騰、従つて民衆生活の困苦悲惨は、人の腸を断つものがある。而も無知なる支那民衆は、是くの如く痛苦を悉く日本の責に帰し、骨に徹する怨を抱いている。……それ故に何人であらうとも日本を敵として戦ふ者に味方する。民衆に此の敵意ある限り、明日蒋介石が死んでも支那事変の真個の解決は期すべくもなく、国民党に代つて共産党が抗戦を続けるであらう。前後七年に亘る戦争に、支那の民衆は惨苦の限りを嘗め尽くして居る。彼等は心の奥底に於て切々と平和を希つて居る。若し日本が適切なる経済政策によつて彼等の生活を些かにても緩和するなら、彼等の抗日感情は次第に薄らくであらう」(「日本と支那」『公論』昭和十八年六月)

大川周明と張学良

■支那が真支那を、日本が真日本を回復
 大川周明が、王道を指導原理として、支那が真支那を、日本が真日本を回復することを願っていたことは、昭和三(一九二八)年の張学良との会談に明確に示されている。
 同年六月に父である張作霖が爆殺された後、張学良はその後継者として東北の実権を掌握していた。すでに大川は、同月に張の特使として日本を訪れた総司令部秘書の陶昭銘、前奉天模範隊長で当時総司令部顧問を務めていた黄慕と打ち合わせをし、張との会談の準備を進めていた。
 大川は、同年九月十一日に日本を出発、同月十四日に奉天に到着した。大川には、渋沢正雄、渋沢秀雄、速水一孔、秦真次少将が同行し、張学良側は黄、陶と秘書の王家貞が同席した。大川は「張学良を訪ふの記」(『月刊日本』昭和三年十一月号)で、張との会談に臨んだ時の心境を次のように書き残している。
 「吾々の奉ずる儒教の政治的理想を説き、支那伝統の精神を復興し来りて、王道国家を東三省に実現させたい、少くとも張氏に其の志を抱かせたいばかりに、気長に待構えて居るのでありますから、此の要求に対する諾否を確めることは、張氏の真骨頂を知る上に極めて重要なことであつたのであります」

 張との会談に臨んだ大川は、次のように訴えかけた。
 「今日の支那は新旧争闘の舞台となつて居るが、此の争闘の間から真支那が復活するのであるから、是非その産婆になつて欲しい。……日本も同様の状態で吾々同志は真日本の復活に多年辛苦して居る。而も真支那と真日本との根本指導原理は畢竟王道に外ならぬが故に、吾々は共通の理想のために戦ふものである」
 すると、張は欣然として直ちに共鳴同感し、次のように述べた。
 「自分は貴国に斯くの如き同志あるを知つて意外の感に堪えない。自分が総司令になつてから今日まで幾百の貴国人に会つたけれど、斯様な話は未だ嘗て聴かなかつた。自分は三民主義は過渡的思想で到底支那を救ふに足らぬと信じて居る。従つて自分も先王の道を復興し、之に現代的組織を与へることが、支那統一の唯一の途と考へて居る。今日の支那は混沌乱離の極に在るが、これは止むを得ない。支那は国体と政体とが変更した上に、世界を風靡する革命恩潮に襲はれたものであるから、混沌に陥ることは避くべくもない。日本の如き秩序ある国でさへ、思想の変動は社会的動揺を招いて居るのであるから、秩序ない支那は尚更のことである。而も支那の歴史が証明する如く、此の混沌も孔孟の真精神の復興によつて晩かれ早かれ統一される。自分は、飽迄も儒教の政治的理想を奉じて終始する覚悟である」
 この発言に示されるように、「東三省に王道国家を実現する」という大川の構想に張学良は同意したのだった。

 大川によると、張は会談の中で、自分が陽明学を信奉し、王陽明の伝習録が愛読書であることを明かしている。張はまた、中国東北部にある東北大学とは別に、書院を設立し、儒教の研究・宣揚する道場にするという構想を語っていた。その書院は「国学院」と命名されるだろうと語った。
 さらに張は、王道主義者の結社を設立することを約束した。この構想について、大川は「此の結社は張氏をして儒教政治を遂行せしむる一機関であると同時に、日本と満州とを精神的に結合する一機関たらしめることが出来ます」と述べている。
 大川は張との会談の様子について、「私との会談二時間半といふものは、私は無論恐ろしく真剣になつて居ましたが、張氏も身動きもせぬぐらゐ緊張して応対して居ました。それにも抱らず聊かも疲労の色なく、頭脳も終りまで明晰でありました」と述べ、張が阿片中毒だという風評は、張と敵対する楊宇霆派が流しているデマだと否定している。
 ただし、大川は次のようにつけ加えている。
 「阿片を吸つて健康を害したことも事実であります。無暗にスポーツを好んだり、新奇な振舞をすることも事実で、例へば学校の卒業式に夫婦同伴で臨席し、夫人に賞品を授与させてみる。孔孟の教を格守すると言ひながら、亡父の葬式を簡単に失したり、喪中に拘らず服装其他の点で謹慎の意が欠けて見えることは、誠に面白くないと存じます」

■満蒙をめぐる不幸なすれ違い
 ところが、張学良は大川の期待とは正反対の方向へと進んでいくのである。張学良は、昭和三(一九二八)年十二月二十九日、東三省に一斉に青天白日旗(中華民国の国旗)を掲げ、蔣介石の国民政府に従うことを明らかにした。これは易幟(旗を変えること)と呼ばれている。その二日後、国民政府は、張学良を中国陸軍の司令官にすることを約束した。
張学良
 大川にとって、満蒙の特殊権益は、東洋の平和を保全する必要から獲得した権益に外ならなかった。彼は「満蒙問題の考察」(『月刊日本』昭和六年六月)で次のように書いている。
 〈吾等は東洋の平和を確保する使命と責任とを有つ。而して其のための最も必要なる担保は、実に満蒙の地域であり、満蒙一たび乱るれば極東忽ちにして混沌乱離の巷となる。さればこそ吾等は、十万の生霊と二十億の戦費を犠牲にして、啻に東亜に対するロシアの野心を排撃せるのみならず、之に由って白人世界制覇の行程を挫折せしめ、世界史の新しき第一項を書き初めると同時に、東亜全体の治安を維持し平和を護持する任務を双肩に荷ひて今日に及んだのである。日本は此の重大なる任務を遂行するために、ロシアが曽て支那より得たる権利を継承し、更に大正四年の条約によって必要なる権利を正当に獲得した。所謂日本の特殊権益なるものは、東洋の平和を保全する必要から獲得せる権利利益に外ならない。
 日本が此の重任を負荷してより既に四半世紀、而して此の四半世紀に於ける満洲史は、恐らく世界に比類なかるべき経済的発展の記録である。その人口は倍加し、その貿易額は三十五倍に増加した。昔時の寒村が一切の文明的施設を具備せる都市となつた。旅順は朝日に匂ふ桜の名所となり、乃木将軍の詩によつて名高き金州は林檎の名産地となつた〉
 大川は、その権益が脅かされることを容認できなかったのでする。しかし、中国側にとって満州は中国の領土である。ここに不幸なすれ違いがあった。

■満州事変への道
 やがて、大川は満蒙問題解決には、張学良の排除か武力発動によってしかできないと考えるようになっていく。「満蒙問題の考察」では次のように説いている。
 〈支那は、満腔の敵愾心を以て、満蒙の地域より日本を放逐せんとし、歩々吾が権益を侵害して憚るところない。而して日本の国民的理想を失ひ、従つて明治以来の大陸政策の根本義を忘却し去れる吾が当局は、名を日支親善或は国際協調に藉り、空しく『厳重なる抗議』を繰返すのみにして、ついに其の抗議を徹底せしめたることがない。……
 かくて日本は樽俎(そんす)折衝の間に満蒙問題を解決する見込を失つたと言つてよい。蓋し一切の交渉が談判は、誠意ある両者の間に於てのみ可能である。吾国が如何に誠意を以て交渉しても、支那側が飽くまで敵意と悪意とを以て吾に対する以上、和衷協調の途はついに求め得べくもない。現に今日に至るまで、支那側の不当なる産業圧迫と条約蹂躙の不法行為とに対して、吾国の「厳重なる抗議」は常に有耶無耶の闇に葬り去られ、徒らに譲歩に譲歩を重ね来りて、少くも満蒙問題に関する限り、ついに最後の一線にまで追ひ詰められんとして居る〉
 満蒙問題は軍事的進出によって解決するしかないと決意した大川は、武力の発動を支持する国民世論の形成に取り組む一方、軍への働きかけを強めていく。大川は、すでに大正十五(一九二六)年後半から、参謀本部の将校を行地社の講演会や誌友懇談会等に招くことで多くの部員たちと知り合うようになっていった。
 昭和四年までに、大川は森岡皐・土肥原賢二・根本博・石原莞爾・影佐禎昭・東条英機・和知鷹二らの誌友を獲得した。さらに、大川はほぼ同世代の小磯国昭・岡村寧次・板垣征四郎・多田駿・河本大作・佐々木到一・重藤千秋らとの関係を強めていた。呉懐中氏は次のように書いている。
 「1920年代後半から、不安化しつつある満州問題が徐々に軍の関心事となっていく中て、この面における大川と軍との意見交換も行われるようになる。例えば、1926年秋から板垣征四郎の口演を口火に、松室良孝・重藤・長勇らは行地社で中国問題について講演を行っていく。…大川は大正末から満蒙領有論を主張し出したか、同時にその見解を陸軍の中堅将校に勧める動きも見せた。1926年末、彼は偕行社で板垣・永田鉄山・東条英機・阿南惟幾ら十数名の中堅将校と満蒙問題を討議し、陸軍の力によって満州を独立させるべきことを力説したという。満州独立問題において、彼は早くも軍部中堅層に檄を飛ばす姿勢を示したのである」(『大川周明と近代中国』百七頁)
 大川は昭和四年正月から三月にかけて満州入りした。同年一月、真崎甚三郎宛ての書簡で彼は次のように書いている。
 「三、四月の交、南京政府必ずや大動揺を来すべく、此時こそ皇国が満蒙問題に目鼻をつくべく無二唯一の好機と被存候」
 大川が「大動揺」と書いたことについて、呉懐中氏は、昭和四年初頭の「全国編遣会議」や、三月開催予定の国民党第三次大会において、軍閥・派閥の勢力争いによって反蒋介石的な内乱が起こるというのが大川の予想だったと指摘している。そして、大川はこの好機に乗じて、張学良の独立を説得、実現させようと考えていたようだ。しかし、大川の目論見ははずれた。その結果、大川は武力解決へと一気に傾いていく。昭和六年五月、大川は、板垣征四郎や神田正種ら中堅将校と会合し、互いに覚悟を堅め、要路を武力解決の道へ引きずっていくことを確約したという(『尋問調書』)。こうして、同年九月十八日の満州事変勃発に至る。

儒教文明の復興と大川周明

■西本白川と大川周明
 東洋文明の復興を志した大川周明にとって「儒教的中華文明の復興」は重要な課題だった。大川は、ほとんど全ての民族にとって、人生全体の規範である「道」が、文化の発達に伴って宗教・道徳・政治の三つに分化したが、中国ではその三者が見事に純化されて儒教となったととらえていた(「支那問題に対する一考察」)。
 そして大川は「人生を渾然一体として把握し、別に宗教・道徳・政治を分立せしめず、之を一個の『道』に綜合して、最も具体的に人格の成満を志すところに支那精神の比類なき特徴がある」と書いていた。だからこそ、大川は「道の体得者」が中国政治を動かすことを期待していたのである。呉懐中氏は次のように説いている。
 「大川が同時代中国における道の体得者や有徳者として首肯したのは、辜鴻銘・沈子培・張謇・杜天一(日本側は西本白川や大陸浪人の元祖たる金子雪斎)等の面々だったように思われる」
 では、大川の中国認識論は以下にして固められたのだろうか。ここで注目すべきが西本白川の影響である。
 西本は、東亜同文会が明治三十三(一九〇〇)年に開設した南京同文書院の一期生で、同書院の教授を務め、その後週刊『上海』の編集や春申社の社長を務めた。
 当時、在中国の日本人ジャーナリズム界では、「北に橘樸、南に西本白川」と呼ばれていた。王道主義を掲げた西川は、中国の共和政治・デモクラシー思想や新文学運動に反対し、清朝の復辟や国学の復興を期待して、清朝の遺臣で宗社党を組織した沈子培・姚文藻・鄭孝胥らと交遊した。大川は西本の人格を高く評価していた。
 「徳のある人間に対しては支那人は非常に尊敬する。私の友人で去年亡くなりましたが、上海に西本白川といふ非常に篤心な学者が居ました。此人は上海に居ること二十何年になるが人間が非常に立派である為に亡くなる迄非常に貧乏であつた。本当に陋巷に窮居して居つた。陋巷に窮居して居りながら支那の経学と真に真面目に勉強して居つたところが、日本人に此の西本君の道を求める非常な熱心な心、其極めて潔白な人格、之に対して殆ど尊敬を払わない。それにも拘らず支那人の方は、西本君を知る程の人々は、非常なる尊敬を払つて居るのであります」(「漢民族と其文明」『月刊日本』昭和五年三月)
 そして、大川は西本と中国認識を共有していたのだ。例えば、西本が大川に宛てた書簡には次のように書かれていた。
 「支那が昔も今もやはり道の国で、内外を問はず苟も道の大用と其の統を継承する丈けの人格者さへあらば、何時にても乱を治に向はせ廃を興に趨かせることか出来るといふ吾人の対支的信念……」
 これは、大川の次の言葉と響き合っている。
 「支那の天下は如何なる例外もなく、常に道の体得者によりて平らげられ、而して唯物主義者によりて乱されて来た。唯物主義(者)が支那を支配する時、支那には如何なる平和もなかつた。而してその乱雑混沌は、道の体得者が現れて天下四海を統一するまで続かざるを得なかった」
 実際、西川の思想は、大川に強い影響を与えていた。呉懐中氏は次のように指摘している。
 〈『現代支那史の考察』(1922)・『大儒沈子培』(1923)・『康煕大帝』(1925)等の西本の著書に見られる、道を中心に中国の思想や歴史を探り、近代中国の事情を批判し、また清朝遺老の沈子培を道統的大儒として尊敬し、偉業を成した康煕帝は王道的政治精神を持つ典型的人物だからこそとして礼讃するという姿勢は、大川の中国論に対し、具体的言説様式にまで影響を与えたように思われる〉
 大川は西本の『康煕大帝』について、「道の如何なるものかを具体的に理解する為に」一読すべきもの、「支那研究者の必読」を要する「希有の好著」として推薦していた。

■辜鴻銘と大川周明
 西本とならんで、大川の儒教思想に基づく王道主義に強い影響を与えたのが辜鴻銘である。
辜鴻銘
大正十三(一九二四)年、北京からの書簡で、大川は次のように書いている。
 「故に到処恨事徒に繁くして空しく傷心す。御憫察下され度、唯だ北京に於て一老学者と相識り稍々慰むる所有之度候。此人名を辜鴻銘とよび、学漢洋を兼ね識見高遠なり。生をして支那の古道僅に這個老漢の心裡に護持せらるゝを思わしむ。その英文の如き暢達にして而も機智横溢、殆どバーナードショウの筆致あり。兼て独逸語に達し、独逸に於て其著を刊行せることあり。而も満腔これ古道にして、一念たゞ真個支那精神の宣揚にあり。生一見旧知の如く、交すでに断金なり。……壮年の頃より張之洞に侍し、忠を大清朝廷に致し、今に及んで禄を共和政府に食むを肯んぜず、陋巷に寝居せり。生に示して曰く心憂天下食不足と」(『道』第百七十九号、大正十三年)
 呉懐中氏は、辜鴻銘が西洋遍歴を経て張之洞の感化によって儒家文化に回帰し、「反西洋文明的復古主義」によって自国の精神性を自国の歴史に求めるようになったと指摘する。そして、辜は儒家文化に回帰してからは儒教的中華文明の復興を唱え、西洋文明への対決や克服を目指す強烈な文化ナショナリストになったのと指摘している。
 一方、愛知県立大学の川尻文彦氏は次のように述べている。
 〈梁漱溟研究で知られるガイ・アリトー(Guy Allito)は、第一次大戦後の沈んだ雰囲気の中で、タゴールや岡倉天心と並んで東洋の聖哲として知られたのは、梁漱溟でも梁啓超でもなく辜鴻銘であったという。第一次大戦中の一九一五年(一九二二年にも再版)、彼は英文でThe Spirit of the Chinese People(別名『春秋大義』)を発表するとともに、大戦と東西文明の関係について論じ、中国文化によって西洋を救うことを高唱した〉(「辜鴻銘とアーサー・スミス」)
 しかも辜は、中国が西洋文明の進出に抵抗できないのは、儒教文明または道徳文化が衰弱した結果であり、日本は中国儒教文明の真精神を体得したことによって国を守り、しかも隆盛させたと考えた。ゆえに日本は自分の保持した中国文明の精髄を再び中国にもたらし、真の中国文明を復興することを自らの天職とすべきだと説いた(「中国文明の復興と日本」『大東文化』大正十四年七月)
 こうした辜の考え方は、大川の思想に極めて重大な影響を与えていたのではないか。岡倉天心の東洋文明論から強い影響を受けていた大川は、「儒教文明の貯蔵庫」としての日本の特別な使命を強く自覚していた。だからこそ、辜の言葉は大川を触発し、中国における儒教文明の復興を切望させたに違いない。張学良に対する過剰な期待もその表れだったと考えられる。

中国の民族的自覚を評価した行地社同人

 大川周明らは、大正十四(一九二五)年二月に行地社を設立した。ちょうどこの頃、上海の日系紡績工場では、幼年工虐待に反対するストライキが続いていた。そして、同年五月に同じ工場で組合弾圧に反対するストライキが起こった。しかし、労働運動の指導者顧正紅が射殺されてしまう。これに抗議する学生たちが逮捕され、五月三十日には、逮捕学生の釈放を要求する学生、市民、労働者のデモに租界のイギリス警官が発砲し、多数の死傷者と逮捕者が出た。五月三十日事件である。
 これに抗議して六月一日から上海の労働者二十数万人がストライキに入った。この時に組織されたのが、工商学連合会である。工商学連合会は、十七項目の交渉条件を提出し、責任者の処罰、損害賠償、労働者の権利保障などを要求した。ここで注目すべきは、同時に彼等が、領事裁判権の取消し、外国軍隊の撤退を要求していたことだ。
 こうした中国の動きについて、行地社同人たちが「民族的自覚の高まり」として肯定的に評価していたことは特筆すべきことだろう。例えば、満川亀太郎は同年七月に行地社機関誌『月刊日本』で次のように書いていた。
 〈予は、今支那に起つてゐる出来事に対し、之を単なる「暴動」とか「騒動」とかの名の下に片付けて行くことが出来ない。此の事件の底には深淵なる支那国民の思想的潮流が渦を成してゐる。然らば其の思想的潮流とは何であるか。そは要するに支那国民の民族的自覚である。……然るに二十年間日英同盟の夢尚覚めやらず、依然として英国に引ずられて行くならば、亜細亜に於る日本の立場は全然破滅の外にない。日本は敢然として思想的に英国より独立し、進んで支那国民の自覚と国家の改造とに対して同情と理解と後援とを有たねばならぬ〉(「亜細亜興廃の断崖に立つ日本」『月刊日本』大正十四年七月)。
 同じく行地社同人の長野郎は、『月刊日本』同号に次のように書いていた。
 〈国民自覚の運動は内外両方面に発展して来たのである。先づ外部に対しては、
 一、領土侵略に対する反帝国主義運動となつて現はれた。彼等は外交懸案が起る毎に声を大にして挙国一致を叫び檄を飛し、示威運動を試みた結果は、挙国一致の観念と支那の国家と云ふ感じを少からず支那人の頭に植へ付けたのである。一昨年反帝国主義聯盟が各地に組織されてから其運動は一層組織的な且つ深刻なものとなつた。
二、列国資本の争覇地となった関係上、列国資本侵略反抗の運動が盛んとなり、外貨の排斥や、外人経営工場の同盟罷業等頻々として起つて来た。……
三、列国の文化施設反対の運動である。列国の中で最も文化施設に力を尽したのは英米、殊に米国である。……彼らは欧米の文化施設を文化侵略と呼び、資本侵略の手先であると叫んだ。
 対外的運動は大要右の通りであるが、要するに彼等の目的は完全なる国家の解放を得やうとするのである。従て列国の圧力を押し除けるため、領土的、資本的、文化的の侵略に反抗すると共に、一切の不平等条約即ち租界地、租借地撤廃、領事裁判廃止、自主的関税制度等を要求して居る〉(「支那の興国運動」)
 大川は、大正十五年一月に「支那問題に対する一考察」と題して次のように書いていた。
 「道理は如何にもあれ、支那が日本に対して反感を抱くのは、少くも人情の自然ではある。……然るに大隈内閣の二十一箇条要求が、甚しく支那の自尊心を傷けた時に当り、世界戦による日本の台頭を不利とする欧米が、陰に陽に支那青年に支持を与へたので、茲に排外運動の第一着歩として、手近き日本を排斥し初めたのである。二十一箇条要求は、もと支那保全を本願とせるもの、……条約の精神其者は期せずして亜細亜主義の要件となつて居る。さり乍ら其の要求の時機、要求の方法等が、支那人に不快の感情を激発し、之を因縁として連年排日運動の甚しきを加へ来つたのは、また止むなき次第である」(「支那問題に対する一考察」『東方公論』大正十五年一月)
 このように、大川は対華二十一カ条要求について弁明しつつも、排日運動に理解を示していたのである。ただ、呉懐中氏は『大川周明と近代中国』で、次のように指摘している。
 「行地社は理念や組織の面において、猶存社を継承した超国家主義団体であった。ただ、この時点て国民革命の動向を含めた中国の動きを感知し、それに対して確実なパイプと方法で接近していたという点において、猶存社を含めた左右両翼の陣営を超えた観があった。……国民革命運動について長野や佐々木(到一)ほど、正面から高く評価してはいなかった。しかし、五・三〇事件や関税会議以来、初期北伐運動までの中国民族運動の実態を、大川はある程度認識していたはずと思われる」

過度の「日本的」思想と一線を画す(大川周明─王道アジア主義への回帰)

 大川周明は、昭和十八年の時点で東條政権の覇道アジア主義を批判し、王道アジア主義への回帰の姿勢を鮮明にしていた。その際、大川はアジア諸民族が正しく日本を理解することを切に願っていた。大川は昭和十八年九月に執筆した「亜細亜的言行」で次のように説いている。
 〈アジアの諸民族は、決して正しく日本を理解していない。支那人と言わずインド人と言わず、彼らが密室において互いに私語するところは、日本人の面前において声高らかに揚言するところと、甚だしき表裏懸隔がある。吾らは、外交官の新任挨拶の如き空々しき美辞麗句を彼らと交換して、いつまでも自ら安んじ自ら慰めていてはならぬ。大東亜戦争は日に苛烈を加えつつある。この戦争に善勝するためには、アジア諸民族が正しく日本を理解し、積極的に日本に協力することを必須の条件とする。
 アジアの諸民族をして正しく日本を理解せしめ、積極的に日本に協力せしめるためには、日本民族はアジア的に自覚し、アジア的に行動せねばならぬ。然るに今日の日本人の言行は善き意味においても、悪き意味においても、余りに日本的である。儒教や仏教をまで否定して、独り『儒仏以前』を高調讃美する如き傾向は、決してアジアの民心を得る所以ではない。
 日本民族は、拒むべくもなき事実として、自己の生命裡に支那およびインドの善きものを摂取して今日あるを得た。孔子の理想、釈尊の信仰を、その故国においてよりも一層見事に実現せるところに日本精神の偉大があり、それゆえにまた日本精神は取りも直さずアジア精神である。日本はこの精神を以てアジアにはたらかねばならぬ。徙らに『日本的』なるものを力説しているだけでは、その議論が如何に壮烈で神々しくあろうとも、アジアの心琴に触れ難く、従って大東亜戦争のための対外思想戦としては無力である。希くは国内消費のためのみでなく、大東亜の切なる求めに応ずる理論が一層多く世に出でんことを〉
 ただ、大川と東條政権との関係は維持されていたようだ。昭和十八年十一月、大川は大政翼賛会興亜総本部から「興亜使節として上海と南京に赴き、講演する」ことを依頼され、それを引き受けているからだ。翌十二月三日、大川は上海に入った。
 上海と南京での講演内容は未だ判明していないが、「亜細亜的言行」に沿ったものであったのではないか。注目すべきは、講演を控えた十二月五日に、大川が東亜連盟協会の木村武雄と面会していたことである。
 木村の師石原莞爾と大川には深いつながりがあった。戦後、大川は石原について次のように書いている。
 〈前途の多難一層なるべき日本のために、是非生きて居てほしかったと思う人々の中で、第一に私の念頭に浮ぶのは石原莞爾将軍である。……大西郷や頭山翁の如きも、やった仕事を一々漏れなく加算して見ても、決してその面目を彷彿させることができない。この場合でも、人間の方が常にその仕事よりも立派なのである。かような人物は、その魂の中に何ものかを宿して居て、それずその人の現実の行動を超越した或る期待を、吾々の心に起させる。言葉を換えて言えば、その人の力の大部分は潜在的で、実際の言動に現れたものは、唯だ貯蔵された力の一部にすぎないと感じさせるのである。それ故に吾々は、もし因縁が熟するならば、何等か偉大なる仕事が、屹度その人によって成し遂げられるであろうという希望や期待を、その人に対して抱くのである。見渡したところ、今日の日本に斯様な人物は極めて稀であるが、石原将軍はその稀有なる人物の一人であった〉(「二人の法華経行者」昭和二十六年)
 大川の王道アジア主義への回帰は、石原莞爾の影響だったかもしれない。いずれにせよ、興亜使節として上海に派遣された大川が木村武雄と面会していた事実は非常に興味深い。石原同様、木村は東條政権にとって極めて厄介な存在だったからだ。
 木村武雄は東條の覇道アジア主義に抵抗していたが、いよいよ弾圧が厳しくなり、軍務局の永井八津次大佐の示唆で、昭和十七年九月に上海に渡っていた。木村はチャイナタウンの一角に拠点を置いた。当時、上海では、紡績工場の機械や製品が日本軍に掠奪されていた。また、浙江財閥要人が日本兵によって拘束されていた。木村は、軍と交渉し、掠奪品の返還と浙江財閥要人の貰い下げに奔走したのである。やがて、木村の拠点は「木村公館」と呼ばれるようになり、王道アジア主義の牙城となった。しかし、昭和十八年夏になると、現地陸軍部部長が木村に対して退去命令を突きつけてきた。木村は帰国を決心したが、その直後、辻政信大佐が報道部長の三品隆以中佐を通じて木村に面会を求めてきた。
 辻は、二つの要請を木村にした。(一)日中両国人の間に入り、もろもろの問題の調整役を引き受けてほしい、(二)日本軍百万の将兵のために食糧、特にコメを手に入れてほしい──。現地自給の日本軍は、もはや中国人から食料を金では買えなくなっており、掠奪、収奪の策も残されておらず、食料危機に陥っていたのだ。
 辻は、「あなたに出ている退去命令を何としても取消させるから、協力してほしい」と頭を下げた。木村は辻の申し出を引き受けることにした。そして、木村は辻の要請に見事に応え、終戦間際まで上海に留まることになるのだが、この微妙な時期に大川は木村と上海で会談していたのである。

中国人の魂の奥深く流れる精神

 大川周明は「新東洋精神」において、中国人の魂の奥深く流れる精神を明らかにすべきと説いていた。
 「支那民族は不可解の民族と言はれてをります。支那に滞在して長い年月を経れば経るほど、支那人の正体は益々分らなくなるといふ嘆声は、吾々の屡々耳にするところであります。さうかと思へば或人は簡単不遠慮に、支那人は孔孟の教へるところと全く反対に行動するものと思へば間違ひないと断言して居ります。成ほど、支那人の色と慾とのほかに何ものもないやうな一面を見れば、天下に彼等よりも俗なるものはないやうにも思はれます。さうかと思へば超然として世問を忘れ、自分だけの天地に悠々と逍遥している有様は、日本の仙人などよりも遥かに仙骨を帯びて居ります。日本人の物差で支那人の言ふこと為すことを見れば、これほど不都合な民族は少からうと存じます。併しながら一つ一つの言葉や行動を経験的に観察するならば、分らないのは決して支那人ばかりでなく、吾々の同胞もまた甚だ不可解であります。吾々の同胞と言はず、実は吾々自身さへも不可解で、昔から我れと我身が分らないと申して居る位であります。自分のことを仔細に反省して見ましても、或時は君子の如く、或時は小人の如くであります。それ故に支那人に対して、彼等は仁義忠孝を口にするが、その行ふところは全くその反対だなどと申して、ただ彼等の短所欠点だけを挙げて、したり顔することは、慎まねばならぬと存じます。例へば支那人を動かすのには、金か拳固か、この二つのほかに途がないとよく言はれて居りますが、これは遺憾ながら直ちに吾々の同胞にも加へらるべき非難で、黄金にも誘惑されず権力にも屈服しない毅然たる大丈夫は、日本人の間にも沢山は居らぬやうに思はれます。かやうな次第で吾々は個々の言行に現はれたところだけを見て、支那人の本質を掴まうとしてはなりませぬ。独り支那民族と言はず、一切の国民または個人の本質は、その魂の奥深く流れる精神、その最も尊ぶところのもの、その最高の価値を置くところのもの、一言で申せばその志すところ、即ちその理想とするところを明かにして、然る後に初めて正しく把握し得ると信じます。
 さて支那民族の理想、随つてその本質を知るためには、経史の研究が何よりも必要となつて来るのであります。経書即ち儒教の教典に説かれて居る教は、支那の国民哲学として、長く支那人の公私一切の生活の規範となつて来たものであり、これを研究することによつて、吾々は宗教・道徳・政治に関する支那の正統思想、その至深の要求、その最高の理想を知ることが出来ます」

東洋哲学と西洋哲学

 大川周明は東洋哲学と西洋哲学の違いを次のように指摘している。
 「……宇宙を生命ある統一体として把握する東洋精神は、神と人とを峻別し自然を生命なきものとして存在論に哲学の主力を注ぐ西洋の主張と、著しい対照を示して居ります。東洋は、神的なるものと人間的なるもの、個人の生命と宇宙の生命、本体と現象、過去と現在、此岸と彼岸との間に、本質的なる対立または差異を認めないのであります。色即是空・空即是色・色不異空・空不異色であります。このことは欧羅巴人からは非論理的・非合理的と思はれて居りますが、それは東洋の一元論的・汎神論的世界観から流れ出る生命感情の自然の発露であります。それは西洋の分別的・特殊化的なる精神と明かなる対照をなすものであります。典型的なる欧羅巴精神は、抽象し、分析し、その注意を個々のもの及び異れるものに向け、然る後に個別的研究の結果を分類し、これを論理的体系に組織するのであります。東洋に於ける対立と差異とを認めながらも、一切の存在は其の至深の奥底に於て相結んで居り、且つ宇宙を以て一切を支配する力によつて生命を与へられて居る統一体として観察し、これを合理的方法によらず、経験によつて内面的に把握せんとするのであります。西洋は宇宙に於ける諸々の力の対立や矛盾に力点を置き、個々別々の具体的なる姿を深く掘り下げようとするのに対し、東洋は諸々の力の均衡と調和とを尊重するのであります」(『新東洋精神』)

主人たる態度を捨てよ(大川周明─王道アジア主義への回帰)

 大川周明は、日本がアジア諸国に対して主人のような態度で臨むことも戒めていた。
 「アジアは二重の意味において覚醒せねばならぬ。アジアの覚醒は、同時に精神的でありかつ物質的であらねばならぬ。組織と統一とを与えることによって、日本はアジアを覚醒せしめねばならぬ。
 政治的・経済的組織を与えるための第一の条件は、日本がアジア諸国に対して主人たる如き態度は捨てて同盟者たる態度を取ることである。日本は同胞として彼らと相交わり之を奴隷視してはならぬ。而して現に奴隷の境遇に置かれつつある者には、吾らの同胞たらしめるために、先ず之に自由を与えねばならぬ。アジアのうちに奴隷の国ある間は、他のアジア諸国も決して真に自由の国ではない。アジアのうちに軽蔑を受ける国ある間は、他のアジア諸国も決して尊敬を博し得ない」(『新亜細亜』昭和十六年二月)

帝国主義的南方進出への警告(大川周明─王道アジア主義への回帰)

 大川周明は、昭和十五年十一月には、南方進出においても覇道に陥ってはならないと警告するようになっていた。例えば、彼は次のように述べている。
 「日本の南方への進出は、単に母国の戦敗によって微力となれる従来の支配階級に対し、吾国に有利なる協商や条約を強要することを目的としたり、またはこの地域における新支配者として日本を登場せしめんとする如き意図の下に行われてはならぬ。もし日本が、単に自己の経済機構を英米依存の体系より脱却せしむる必要からのみ南方への進出を画策するならば、恐らく土着の民衆はここに危険なる新侵略者を見出だし、旧来の統治者との共同戦線を以て対抗し来る危険性がある」(『新亜細亜』)

はじめに(大川周明─王道アジア主義への回帰)

 戦後の歴史観では、大川周明は一貫して日本政府の大東亜共栄圏を擁護し、日本の侵略に加担した人物という烙印を押されたが、大川は日米開戦を前に対アジア認識を変え、同時に日本政府に対しても鋭い批判をするようになっていた。
 例えば、昭和十六(一九四一)年四月の「厳粛なる反省」においては、次のように書いている。
 「支那事変は、亜細亜復興を理想とし、東亜新秩序建設のための戦なるに拘らず、最も悲しむべき事実は、独り支那多数の民衆のみならず、概して亜細亜諸国が吾国に対して反感を抱きつつある一事である。(中略)彼等の或者は、日本を以て彼等の現在の白色主人と択ぶ所なき者と考へ、甚しきは一層好ましからぬものとさへ恐れて居る。この誤解は何処から来るか。(中略)日本白身に、斯かる根強き誤解を招く行動は無いか、また無かったか。日本の重大なる使命を誠実に自覚する者はこの非常の時期に於て厳粛深刻に反省せねばならぬ」(『新亜細亜』)