大川周明は、昭和十八年の時点で東條政権の覇道アジア主義を批判し、王道アジア主義への回帰の姿勢を鮮明にしていた。その際、大川はアジア諸民族が正しく日本を理解することを切に願っていた。大川は昭和十八年九月に執筆した「亜細亜的言行」で次のように説いている。
〈アジアの諸民族は、決して正しく日本を理解していない。支那人と言わずインド人と言わず、彼らが密室において互いに私語するところは、日本人の面前において声高らかに揚言するところと、甚だしき表裏懸隔がある。吾らは、外交官の新任挨拶の如き空々しき美辞麗句を彼らと交換して、いつまでも自ら安んじ自ら慰めていてはならぬ。大東亜戦争は日に苛烈を加えつつある。この戦争に善勝するためには、アジア諸民族が正しく日本を理解し、積極的に日本に協力することを必須の条件とする。
アジアの諸民族をして正しく日本を理解せしめ、積極的に日本に協力せしめるためには、日本民族はアジア的に自覚し、アジア的に行動せねばならぬ。然るに今日の日本人の言行は善き意味においても、悪き意味においても、余りに日本的である。儒教や仏教をまで否定して、独り『儒仏以前』を高調讃美する如き傾向は、決してアジアの民心を得る所以ではない。
日本民族は、拒むべくもなき事実として、自己の生命裡に支那およびインドの善きものを摂取して今日あるを得た。孔子の理想、釈尊の信仰を、その故国においてよりも一層見事に実現せるところに日本精神の偉大があり、それゆえにまた日本精神は取りも直さずアジア精神である。日本はこの精神を以てアジアにはたらかねばならぬ。徙らに『日本的』なるものを力説しているだけでは、その議論が如何に壮烈で神々しくあろうとも、アジアの心琴に触れ難く、従って大東亜戦争のための対外思想戦としては無力である。希くは国内消費のためのみでなく、大東亜の切なる求めに応ずる理論が一層多く世に出でんことを〉
ただ、大川と東條政権との関係は維持されていたようだ。昭和十八年十一月、大川は大政翼賛会興亜総本部から「興亜使節として上海と南京に赴き、講演する」ことを依頼され、それを引き受けているからだ。翌十二月三日、大川は上海に入った。
上海と南京での講演内容は未だ判明していないが、「亜細亜的言行」に沿ったものであったのではないか。注目すべきは、講演を控えた十二月五日に、大川が東亜連盟協会の木村武雄と面会していたことである。
木村の師石原莞爾と大川には深いつながりがあった。戦後、大川は石原について次のように書いている。
〈前途の多難一層なるべき日本のために、是非生きて居てほしかったと思う人々の中で、第一に私の念頭に浮ぶのは石原莞爾将軍である。……大西郷や頭山翁の如きも、やった仕事を一々漏れなく加算して見ても、決してその面目を彷彿させることができない。この場合でも、人間の方が常にその仕事よりも立派なのである。かような人物は、その魂の中に何ものかを宿して居て、それずその人の現実の行動を超越した或る期待を、吾々の心に起させる。言葉を換えて言えば、その人の力の大部分は潜在的で、実際の言動に現れたものは、唯だ貯蔵された力の一部にすぎないと感じさせるのである。それ故に吾々は、もし因縁が熟するならば、何等か偉大なる仕事が、屹度その人によって成し遂げられるであろうという希望や期待を、その人に対して抱くのである。見渡したところ、今日の日本に斯様な人物は極めて稀であるが、石原将軍はその稀有なる人物の一人であった〉(「二人の法華経行者」昭和二十六年)
大川の王道アジア主義への回帰は、石原莞爾の影響だったかもしれない。いずれにせよ、興亜使節として上海に派遣された大川が木村武雄と面会していた事実は非常に興味深い。石原同様、木村は東條政権にとって極めて厄介な存在だったからだ。
木村武雄は東條の覇道アジア主義に抵抗していたが、いよいよ弾圧が厳しくなり、軍務局の永井八津次大佐の示唆で、昭和十七年九月に上海に渡っていた。木村はチャイナタウンの一角に拠点を置いた。当時、上海では、紡績工場の機械や製品が日本軍に掠奪されていた。また、浙江財閥要人が日本兵によって拘束されていた。木村は、軍と交渉し、掠奪品の返還と浙江財閥要人の貰い下げに奔走したのである。やがて、木村の拠点は「木村公館」と呼ばれるようになり、王道アジア主義の牙城となった。しかし、昭和十八年夏になると、現地陸軍部部長が木村に対して退去命令を突きつけてきた。木村は帰国を決心したが、その直後、辻政信大佐が報道部長の三品隆以中佐を通じて木村に面会を求めてきた。
辻は、二つの要請を木村にした。(一)日中両国人の間に入り、もろもろの問題の調整役を引き受けてほしい、(二)日本軍百万の将兵のために食糧、特にコメを手に入れてほしい──。現地自給の日本軍は、もはや中国人から食料を金では買えなくなっており、掠奪、収奪の策も残されておらず、食料危機に陥っていたのだ。
辻は、「あなたに出ている退去命令を何としても取消させるから、協力してほしい」と頭を下げた。木村は辻の申し出を引き受けることにした。そして、木村は辻の要請に見事に応え、終戦間際まで上海に留まることになるのだが、この微妙な時期に大川は木村と上海で会談していたのである。
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中国人の魂の奥深く流れる精神
大川周明は「新東洋精神」において、中国人の魂の奥深く流れる精神を明らかにすべきと説いていた。
「支那民族は不可解の民族と言はれてをります。支那に滞在して長い年月を経れば経るほど、支那人の正体は益々分らなくなるといふ嘆声は、吾々の屡々耳にするところであります。さうかと思へば或人は簡単不遠慮に、支那人は孔孟の教へるところと全く反対に行動するものと思へば間違ひないと断言して居ります。成ほど、支那人の色と慾とのほかに何ものもないやうな一面を見れば、天下に彼等よりも俗なるものはないやうにも思はれます。さうかと思へば超然として世問を忘れ、自分だけの天地に悠々と逍遥している有様は、日本の仙人などよりも遥かに仙骨を帯びて居ります。日本人の物差で支那人の言ふこと為すことを見れば、これほど不都合な民族は少からうと存じます。併しながら一つ一つの言葉や行動を経験的に観察するならば、分らないのは決して支那人ばかりでなく、吾々の同胞もまた甚だ不可解であります。吾々の同胞と言はず、実は吾々自身さへも不可解で、昔から我れと我身が分らないと申して居る位であります。自分のことを仔細に反省して見ましても、或時は君子の如く、或時は小人の如くであります。それ故に支那人に対して、彼等は仁義忠孝を口にするが、その行ふところは全くその反対だなどと申して、ただ彼等の短所欠点だけを挙げて、したり顔することは、慎まねばならぬと存じます。例へば支那人を動かすのには、金か拳固か、この二つのほかに途がないとよく言はれて居りますが、これは遺憾ながら直ちに吾々の同胞にも加へらるべき非難で、黄金にも誘惑されず権力にも屈服しない毅然たる大丈夫は、日本人の間にも沢山は居らぬやうに思はれます。かやうな次第で吾々は個々の言行に現はれたところだけを見て、支那人の本質を掴まうとしてはなりませぬ。独り支那民族と言はず、一切の国民または個人の本質は、その魂の奥深く流れる精神、その最も尊ぶところのもの、その最高の価値を置くところのもの、一言で申せばその志すところ、即ちその理想とするところを明かにして、然る後に初めて正しく把握し得ると信じます。
さて支那民族の理想、随つてその本質を知るためには、経史の研究が何よりも必要となつて来るのであります。経書即ち儒教の教典に説かれて居る教は、支那の国民哲学として、長く支那人の公私一切の生活の規範となつて来たものであり、これを研究することによつて、吾々は宗教・道徳・政治に関する支那の正統思想、その至深の要求、その最高の理想を知ることが出来ます」
東洋哲学と西洋哲学
大川周明は東洋哲学と西洋哲学の違いを次のように指摘している。
「……宇宙を生命ある統一体として把握する東洋精神は、神と人とを峻別し自然を生命なきものとして存在論に哲学の主力を注ぐ西洋の主張と、著しい対照を示して居ります。東洋は、神的なるものと人間的なるもの、個人の生命と宇宙の生命、本体と現象、過去と現在、此岸と彼岸との間に、本質的なる対立または差異を認めないのであります。色即是空・空即是色・色不異空・空不異色であります。このことは欧羅巴人からは非論理的・非合理的と思はれて居りますが、それは東洋の一元論的・汎神論的世界観から流れ出る生命感情の自然の発露であります。それは西洋の分別的・特殊化的なる精神と明かなる対照をなすものであります。典型的なる欧羅巴精神は、抽象し、分析し、その注意を個々のもの及び異れるものに向け、然る後に個別的研究の結果を分類し、これを論理的体系に組織するのであります。東洋に於ける対立と差異とを認めながらも、一切の存在は其の至深の奥底に於て相結んで居り、且つ宇宙を以て一切を支配する力によつて生命を与へられて居る統一体として観察し、これを合理的方法によらず、経験によつて内面的に把握せんとするのであります。西洋は宇宙に於ける諸々の力の対立や矛盾に力点を置き、個々別々の具体的なる姿を深く掘り下げようとするのに対し、東洋は諸々の力の均衡と調和とを尊重するのであります」(『新東洋精神』)
主人たる態度を捨てよ(大川周明─王道アジア主義への回帰)
大川周明は、日本がアジア諸国に対して主人のような態度で臨むことも戒めていた。
「アジアは二重の意味において覚醒せねばならぬ。アジアの覚醒は、同時に精神的でありかつ物質的であらねばならぬ。組織と統一とを与えることによって、日本はアジアを覚醒せしめねばならぬ。
政治的・経済的組織を与えるための第一の条件は、日本がアジア諸国に対して主人たる如き態度は捨てて同盟者たる態度を取ることである。日本は同胞として彼らと相交わり之を奴隷視してはならぬ。而して現に奴隷の境遇に置かれつつある者には、吾らの同胞たらしめるために、先ず之に自由を与えねばならぬ。アジアのうちに奴隷の国ある間は、他のアジア諸国も決して真に自由の国ではない。アジアのうちに軽蔑を受ける国ある間は、他のアジア諸国も決して尊敬を博し得ない」(『新亜細亜』昭和十六年二月)
帝国主義的南方進出への警告(大川周明─王道アジア主義への回帰)
大川周明は、昭和十五年十一月には、南方進出においても覇道に陥ってはならないと警告するようになっていた。例えば、彼は次のように述べている。
「日本の南方への進出は、単に母国の戦敗によって微力となれる従来の支配階級に対し、吾国に有利なる協商や条約を強要することを目的としたり、またはこの地域における新支配者として日本を登場せしめんとする如き意図の下に行われてはならぬ。もし日本が、単に自己の経済機構を英米依存の体系より脱却せしむる必要からのみ南方への進出を画策するならば、恐らく土着の民衆はここに危険なる新侵略者を見出だし、旧来の統治者との共同戦線を以て対抗し来る危険性がある」(『新亜細亜』)
はじめに(大川周明─王道アジア主義への回帰)
戦後の歴史観では、大川周明は一貫して日本政府の大東亜共栄圏を擁護し、日本の侵略に加担した人物という烙印を押されたが、大川は日米開戦を前に対アジア認識を変え、同時に日本政府に対しても鋭い批判をするようになっていた。
例えば、昭和十六(一九四一)年四月の「厳粛なる反省」においては、次のように書いている。
「支那事変は、亜細亜復興を理想とし、東亜新秩序建設のための戦なるに拘らず、最も悲しむべき事実は、独り支那多数の民衆のみならず、概して亜細亜諸国が吾国に対して反感を抱きつつある一事である。(中略)彼等の或者は、日本を以て彼等の現在の白色主人と択ぶ所なき者と考へ、甚しきは一層好ましからぬものとさへ恐れて居る。この誤解は何処から来るか。(中略)日本白身に、斯かる根強き誤解を招く行動は無いか、また無かったか。日本の重大なる使命を誠実に自覚する者はこの非常の時期に於て厳粛深刻に反省せねばならぬ」(『新亜細亜』)
自由民権派と崎門学
明治の自由民権運動の一部は、國體思想に根差していたのではないか。拙著『GHQが恐れた崎門学』で、「自由民権派と崎門学」の表題で以下のように書いたが、「久留米藩難事件で弾圧された古松簡二は自由民権思想を貫いた」と評価されている事実を知るにつけ、そうした思いが強まる。
〈維新後、崎門学派が文明開化路線に抵抗する側の思想的基盤の一つとなったのは偶然ではありません。藩閥政治に反対する自由民権派の一部、また欧米列強への追随を批判する興亜陣営にも崎門の学は流れていたようです。例えば、西南戦争後、自由民権運動に奔走した杉田定一の回顧談には次のようにあります。
「道雅上人からは尊王攘夷の思想を学び、(吉田)東篁先生からは忠君愛国の大義を学んだ。この二者の教訓は自分の一生を支配するものとなった。後年板垣伯と共に大いに民権の拡張を謀ったのも、皇権を尊ぶと共に民権を重んずる、明治大帝の五事の御誓文に基づいて、自由民権論を高唱したのである」
熊本の宮崎四兄弟(八郎、民蔵、彌蔵、滔天)の長男八郎は自由民権運動に挺身しましたが、彼は十二歳の時から月田蒙斎の塾に入りました。八郎は、慶應元年に蒙斎の推薦で時習館へ入学、蒙斎門人の碩水のもとに遊学するようになりました。
一方、自由民権派の「向陽社」から出発し、やがて興亜陣営の中核を担う福岡の玄洋社にも、崎門学の影響が見られます。自らも玄洋社で育った中野正剛は『明治民権史論』で次のように書いています。
「当時相前後して設立せられし政社の中、其の最も知名のものを挙ぐれば熊本の相愛社、福岡の玄洋社、名古屋の羈立社、参河の交親社、雲州の尚志社、伊予の公立社、土佐の立志社、嶽洋社、合立社等あり。此等の各政社は或はルソーの民約篇を説き、或は浅見絅斎の靖献遺言を講じ、西洋より輸入せる民権自由の大主義を運用するに漢籍に発せる武士的忠愛の熱血を以てせんとし……」
男装の女医・高場乱は、頭山満ら後に玄洋社に集結する若者たちを育てましたが、乱の講義のうち特に熱を帯びたのが、『靖献遺言』だったといいます。乱の弟子たちも深く『靖献遺言』を理解していたと推測されます。大川周明は「高場女史の不在中に、翁(頭山満)が女史に代つて靖献遺言の講義を試み、塾生を感服させたこともあると言ふから、翁の漢学の素養が並々ならぬものなりしことを知り得る」と書いています。
乱の指導を受けた若者たちの中には、慶応元年の「乙丑の変」で弾圧された建部武彦の子息武部小四郎もいました。建部武彦らとともに「乙丑の変」の犠牲となった月形洗蔵の祖父、月形鷦窠は、寛政七(一七九五)年に京都に行き、崎門派の西依成斎に師事した人物であり、筑前勤王党に崎門の学が広がっていたことを窺わせます。乱は、『靖献遺言』講義によって、自らの手で勤皇の志士を生み出さんとしたのかもしれません。また、明治二十年に碩水門下となった益田祐之(古峯)は、頭山満を中心に刊行された『福陵新報』の記者として活躍しました。〉
明治維新の意義についての大川周明の考え方─伊福部隆輝『五・一五事件背後の思想』
鳥取出身の文芸評論家・伊福部隆輝(隆彦)は、五・一五事件から2年後の昭和8年に『五・一五事件背後の思想』(明治図書出版)を刊行し、五・一五事件の背後の思想として西鄕南州、北一輝、権藤成卿、橘孝三郞、大川周明の思想を取り上げた。
伊福部は、徳川幕府に関する以下の大川の主張を引く。
〈徳川家康は国民が再び皇室の神聖を意識し始めてたるに対し、固よりこれを抑止し、又は之に背馳するやうな愚は敢てしなかつた。彼は足利将軍が皇室を無視するに反し、努めて皇室に尊崇の念を示さうとした。彼は皇室の収入を増し、宮廷を修理し、朝廷の儀式を復興し、只管その尊厳を加へることに心を用ひたのであります。
しかも家康の加へんとした尊厳は宗教的尊厳であつて、断じて政治的尊厳ではなかつた。日本の天皇は天神にして皇帝であるにもかゝわらず、家康は天皇の宗教的尊厳の方のみを高めることによつて国民の尊崇心に満足を与へつゝ、他面一切の政権を皇室より自家の掌理に収め、天皇をもつて皇帝にはあらで単なる天神たらしめたのであります〉
そして、伊福部は、〈明治維新とは実にこの徳川によつてなされた歪曲をその正しい位置「天神にして皇帝」たることに天皇をなさしめたところにある〉と大川は主張したと書いている。
五・一五事件を指導した思想は世界を救う思想である!
鳥取出身の文芸評論家・伊福部隆輝(隆彦)は、五・一五事件から2年後の昭和8年に『五・一五事件背後の思想』(明治図書出版)を刊行し、五・一五事件について次のように評した。
「それは国民の意識的文化感情とは全く逆な事件である。それは全く夢想だにしなかつたところの突発事件であらう。
しかも一度発せらるゝや、この事件は、国民の文化感情、社会感情に絶大な反省的衝撃を与えた。
(中略)
五・一五事件の意義は、犬養首相が斃されたことでもなく、其他が襲撃されたことでもない。又政界不安が起つたことでもなければ、農民救済議会が召集されたことでもない。
それは国民に文化的反省を起さしめたこと、日本的精神を振興せしめたことそのことでなければならない。
事実、五・一五事件までのわが国民は、その将来への文化意識に於て、何ものも日本的なる特殊なる文化精神を感じ得てゐなかつた。共産主義を認めるか否か、それは別である。しかし日本の進むべき文化的道が、過去の日本の精神の中に求めらるゝとは一般的に考へられてはゐなかつた。それは飽迄も欧米への追随それだけであつた。
然るにこの事件を契機として、斯くの如き欧米模倣の文化的精神は改めて批判されんとして来、新たなる日本的文化精神が考へらるゝに至つたのである」
伊福部はこのように事件を評価した上で、事件の背後にあった思想に迫っていく。彼は「彼等をして斯くの如き行動をなさしめたその思想的根拠は何であつたか」と問いかけ、血盟団事件も含めて、彼等が正当だと感じさせた思想として、以下の5つを挙げている。
一、大西郷遺訓
二、北一輝氏の日本改造思想
三、権藤成卿氏の自治制度学思想
四、橘孝三郎氏の愛郷思想
五、大川周明氏の日本思想
そして、伊福部は「これは単に彼等を指導したのみの思想ではない。実にこれこそは、西欧文明模倣に爛朽した日本を救うところの救世的思想である。
西欧文明は没落した。新しい文明の源泉は東洋に求められなければならないとは古くはドイツの哲人ニイチエの提唱したところであり、近くはシユペングラアの絶叫するところであるが、これ等の五つの思想こそは実に単に日本を救ふのみの思想でなく、おそらくは世界を救ふ新文明思想であらう」と書いている。
我々は、「五・一五事件を指導した思想は世界を救う思想である」という主張に、改めて向き合う必要があるのではないか。