「水戸学」カテゴリーアーカイブ

教育勅語と崎門学・水戸学

 以下、『GHQが恐れた崎門学』補論「明治維新後の國體思想」の教育勅語に関する部分を紹介する。

文明開化路線との対決
 一方、教育勅語に結実する元田永孚(東野)らの運動は、文明開化路線に抗し、維新の原動力となった國體思想の回復運動という側面を持っていました。
 中沼了三の後任として明治天皇に御進講することになった東野は、明治五(一八七二)年に学制が制定されて以来の教育の在り方に批判を強めていました。学制に示されている教育観は、社会学者の副田義也氏が指摘している通り、福沢諭吉が『学問のすすめ』で説いた「一身独立」のための教育とほぼ等しく、極めて個人主義的色彩が強いものでした。
 明治七年には、岩倉遣外使節に随行して欧米の教育事情を調査した田中不二麿が文部大輔に就き、知識才芸主義の教育を推進します。彼は、明治九年に再度渡米してアメリカ各州の教育制度を調査しています。
 明治天皇は明治十一年夏から秋にかけて、東山・北陸・東海の諸地方を御巡幸になり、各地の小学校、中学校、師範学校に臨幸され、施設や教育方法、内容に関して詳細に御覧になりました。東野はこの視察について次のように記しています。
 「北越御巡幸諸県学校ノ生徒ヲ御覧セラルゝニ英語ハ能ク覚エタルニ之ヲ日本語ニ反訳セヨト仰セ付ケラレタレハ一切ニ能ハサリシナリ。或ハ農商ノ子弟ニシテ家業モ知ラス高尚ノ生マ意気ノ演述ヲナス等皆本末を愆ルノ生徒少ナカラス。是全ク明治五年以来田中文部大輔カ米国教育法ニ據リテ組織セシ学課ノ結果ヨリ此弊ハ顕ハシタルナリト進講ノ次ニ御喩アラセラレ誠ニ御明鑑ニアラセラレタリ……亦聖賢道徳ノ学ヲ御講究アラセラルゝノ補益ニ因テ然ルヘシト竊ニ存シ奉レバ…」
 明治天皇から対策を求められた東野がただちにまとめたのが、「教学聖旨」です。「教学聖旨」は、教学の基本を述べる「教学大旨」と具体的方法・内容を指示する「小学条目二件」の二つの文書から成っていました。
 「教学大旨」は、「教学ノ要、仁義忠孝ヲ明カニシテ、知識才芸ヲ究メ、以テ人道ヲ尽スハ、我祖訓国典ノ大旨、上下一般ノ教トスル所ナリ、然ルニ輓近専ラ知識才芸ノミヲ尚トヒ、文明開化ノ末ニ馳セ、品行ヲ破リ、風俗ヲ傷フ者少ナカラス」と、学制以来の教育の在り方を厳しく批判したのです。また、「故ニ自今以往、祖宗ノ訓典ニ基ツキ、専ラ仁義忠孝ヲ明カニシ、道徳ノ学ハ孔子ヲ主トシテ」と述べています。
 こうして、伊藤博文との論争の火ぶたが切られたのです。伊藤は、「教学聖旨」に対抗して、ただちに井上毅に「教育議」を執筆させます。
 「教育議」は、「其足ラサル所ヲ修補セハ、文明ノ化猶之ヲ数年ノ後ニ望ムヘシ」とし、「高等生徒ヲ訓導スルハ、宜シク之を科学ニススムヘク」とし、「子弟タル者ヲシテ高等ノ学ニ就カント欲スル者ハ、専ラ実用を期シ…」と主張したのです。 続きを読む 教育勅語と崎門学・水戸学

「明治維新」と「明治という時代」の切断

二つの明治─大久保路線と西郷路線

 「明治の時代」と一口に言うが、明治維新の精神は、西郷南洲が西南の役で斃れる明治10年までに押し潰されてしまったことに注意する必要がある。
 明治維新の原動力となった思想は、本来明治時代の主役になるはずであった。ところが、実際にはそうならなかった。拙著『GHQが恐れた崎門学』にも書いた通り、早くも明治4(1871)年には、崎門派の中沼了三(葵園)、水戸学派の栗田寛、平田派の国学者たちが新政府から退けられている。
 こうした新政府の姿勢について、崎門学正統派を継ぐ近藤啓吾先生は「維新の旗印であつた神道立国の大旆を引降して、外国に認めらるべく、文明開化に国家の方針を変じ、維新の功労者であつた崎門学者、水戸学者、国学者(特に平田学派)を中央より追放せざるを得なくなった」と書いている。
 さらに、明治6年には、対朝鮮政策(敢えて征韓論とは言わない)をめぐる対立によって西郷南洲が下野する。それをもたらした明治政府内部の対立の核心とは、野島嘉晌が指摘している通り、維新の正統な精神を受け継いだ南洲と、維新の達成と同時に早くも維新の精神を裏切ろうとした大久保利通の主導権争いだった。 
 明治7(1874)年2月には、南洲とともに下野した江藤新平によって佐賀の乱が勃発している。さらに、西南の役に先立つ明治9年には、大久保路線に対する反乱が各地で続いた。まず10月24日に熊本県で神風連の乱が、同月27日に福岡で秋月の乱が、さらに同月28日に山口で萩の乱が起こった。
 神風連の乱の引き金となったのは、明治9年3月に布達された廃刀令とそれに追い打ちをかけるように同年6月に発せられた断髪令である。文明開化の名の下に、神州古来の風儀が破壊されるという反発が一気に爆発したのである。
 萩の乱で斃れた前原一誠は、政府の対外政策にも不満を抱いていたが、特に彼が問題視していたのが、地租改正だった。彼は、地租改正によって、わが国固有の王土王民制が破壊されると反発していた。南洲とともに下野した副島種臣らも、王土王民の原則の維持を極めて重視していた。そして、明治10年に南洲は西南の役で斃れ、大久保路線は固まる。
 大東塾の影山正治は、「幕末尊攘派のうち、革命派としての大久保党は維新直後に於て文明開化派と合流合作し、革命派としての板垣党は十年役後に於て相対的なる戦ひのうちに次第に文明開化派と妥協混合し、たゞ国学の精神に立つ維新派としての西郷党のみ明治七年より十年の間に維新の純粋道を護持せむがための絶対絶命の戦ひに斃れ伏したのだ」と書いている。
 つまり、明治国家は明治10年までには、大きく変質したということである。むろん、欧米列強と伍してわが国が生き残っていくためには、大久保的な路線が必要であった。しかし、それは維新の精神を封じ込める結果をもたらした。この悲しみを抜きに「明治の栄光」を語るべきではない。 続きを読む 「明治維新」と「明治という時代」の切断

幕末志士の学問─鳥巣通明『明治維新と志士』

 明治維新を導いた幕末の志士とはいかなる存在だったのか。彼らが極めんとした学問とはどのようなものだったのか。それを知るための貴重な一冊がある。平泉澄門下の鳥巣通明が、明治維新100年に当たって著した『明治維新と志士』(神社本庁 明治維新百年記念叢書 2、昭和41年)である。
 鳥巣は「志士の性格」の一節で、次のように書いている。
 〈おそらくマス・コミの影響によるものであらう、志士と云へば、世間ではとかく花柳の巷に出入りしては新撰組や幕府側の捕吏と血斗する姿を連想する人が多いやうである。テレビ・映画や小説をすべてフイクションと云ふのではない。牒報網や密偵をまくために、彼等は料亭や遊廓を利用して会合することが多かつた。明日をもはかられぬ生命である、時に生活が奔放に流れる者がゐたのも事実であつた。そこに、明治から今日まで跡を絶たない待合政治の源流がある、と説く人もゐるほどである。だが、それは志士たちの生活の一コマにすぎない。しかも彼等の間には、そのやうな生活を自戒する雰囲気が強かつたのである。例へば、長州の志士井上聞多が高杉晋作と一緒に京都三条通りの旗亭に投宿した時、同じく松下村塾で学んだ野村和作・入江九一が訪ねて行つて、
 朝廷でも憂慮せられ、藩公も日夜国事に奔走してゐる時勢だから、われわれも妓楼や旗亭で国事を談ずることはつつしむべきだ。同志一同協議した結果、今後妓楼・旗亭に登るのをやめることにし、違反する者があれば、詰腹を切らせることにした。貴君等もこの盟約に加入されたい。
と申入れてゐることを注目しておこう。岩倉が云つたやうに志士と市井の放蕩無頼の徒との間には、はつきり一線を画して論ずべきであらう。 続きを読む 幕末志士の学問─鳥巣通明『明治維新と志士』

『神皇正統記』─『保建大記』─『山陵志』の思想継承

 崎門学・水戸学の展開を考える際、北畠親房─栗山潜鋒─蒲生君平・藤田幽谷─藤田東湖という思想継承に注目する必要がある。著書で示せば、『神皇正統記』─『保建大記』─『山陵志』・『正名論』─『弘道館記述義』という継承の流れである。
 拙著『GHQが恐れた崎門学』でも指摘したように、万世一系の天皇を戴く國體の尊厳、三種の神器に基づく正統論、名分論という点における継承・発展が重要である。また、謚停止の重大性の指摘においても、『神皇正統記』、『保建大記』、『山陵志』には、著しい共通点がある。
 「此御門(冷泉院)より天皇の号を申さず。又宇多より後、諡をたてまつらず。遺詔ありて国忌、山陵をおかれざることは君父のかしこき道なれど、尊号をとどめらるることは臣子の義にあらず。神武以来の御号も皆後代の定なり。持統・元明より以来避位或は出家の君も諡をたてまつる。天皇とのみこそ申しめれ。中古の先賢の義なれども心をえぬことに侍なり」(『神皇正統記』)
 「宇多帝諡を停め、朱雀帝皇号を停めてより…大典を闕き、國體を損なうこと、これより大なるはなし。源親房の以て臣子の道に非がと為すは当れり」(『保建大記』)
 「宇多より以降、謚を停む。しかして朱雀以降は、院を尊号に代えて天皇と曰わざること、けだし此に原る。後世、その阼を終える者、また崩ずれば院と曰う。後一条を始めとなす。(中略)それ謚を停むるに説あり。かならず、臣は敢て君を議せず、子は敢て父を議せずと曰い、諱む所ありと謂わば、似たり、天子の尊をもって、天皇と曰わず。これ果たして何の意ぞや。ああ、大典を闕き、國體を損なうこと、これより大なるはなし。源親房、もって臣子の道に非ずとなす。その言当たれり、後世謚を奉り、崇徳と曰い、安徳と曰い、順徳と曰うは、廑々これのみ」(『山陵志』)

日立市立市立記念図書館が「瀬谷義彦氏寄贈図書展示コーナー」を設置


 日立市立市立記念図書館(同市幸町)は、平成28年12月1日に「瀬谷義彦氏寄贈図書展示コーナー」を2階参考図書室に設置した。日立の郷土研究のみならず、水戸の尊皇攘夷運動、水戸学の研究に寄与することになりそうだ。
 瀬谷氏は、大正3年に茨城県多賀郡鮎川村(現・日立市)で生まれた。茨城県立日立中学校(現・茨城県立日立第一高等学校)教諭、水戸中学校(現・茨城県立水戸第一高等学校)、茨城師範学校教授、多賀工業専門学校教授を経て、茨城大学教授に就任した。定年退官後は、茨城キリスト教大学短期大学部教授、茨城キリスト教大学教授を務めた。

 瀬谷氏は、茨城県の地方史研究の第一人者として、歴史資料の保存・研究・人材育成・交流に尽力した。昭和34年に瀬谷氏が執筆、監修した「日立市史」は、茨城県内初の自治体史となった。平成18年には名誉市民に選ばれている。
 一方、水戸学研究としては、『水戸学の史的考察』(東京中文館、昭和15年)などがあり、『日本思想大系〈53〉水戸学』(昭和48年)には、解題と「水戸学の背景」を書いている。
 同図書館によると、生前に寄贈の申し入れがあり、約1800冊の資料が寄贈された。
 『毎日新聞』(2016年11月28日地方版)によると、職員4~5人が7カ月間かけて、月に2回ほど瀬戸氏の自宅を訪問し、本棚の中から本を選定した。職員は「台所と応接間以外は本棚だらけで、その中から本を選ぶのに苦労した」と振り返っている。
 瀬戸氏は、2015年11月20日に逝去された。101歳だった。12月15日には、市葬が同市の市民会館大ホールで営まれ、葬儀委員長の小川春樹市長が「本県の地方史研究の第一人者として歴史資料の保存、研究に尽力され、自治体史の編さんに大きな足跡を残しました。数々の功績に対し敬意と感謝の意を表します」と追悼の言葉を述べた。

坪内隆彦「幕末志士の国体観と死生観」

 『国体文化』平成28年4月号に拙稿「幕末志士の国体観と死生観」を掲載していただいた。誠にありがとうございます。
本稿は、平成27年12月19日に開催された「国体学講座 第七講」における同名の講演録。
崎門学、水戸学の国体観、死生観を概観した後、梅田雲浜、吉田松陰、真木和泉の三人を具体的事例として、幕末志士の国体観、死生観の意義について語ったものである。

筑前勤王党志士宛て平野国臣書簡

 
文久3(1863)年10月、平野国臣は筑前勤王党の志士(鷹取養巴、月形到、江上栄之進、浅香市作、筑紫守、森安平)に宛て、次のように蹶起を促した。
「各君御壮健奉賀候。天下の形勢定而御承知可被成、如何御因循被成候哉。
 臣子之忍ぶ所にては有之間敷候。君臣は天下の公道、主従者後世之私事歟と発明仕候。六親叛而大孝顕れ、大道廃而有仁義ものに御座候。
天朝立て各藩立、
神州有て各国有。何ぞ其末に泥みて其基本を助けざらんや。今日の急務、断之一つに在。鬼神も之を避ると謂はずや。区々として株兎の小計をなすは小人也。愚俗也。護而豪傑之実功を見給ふべし。
不日に一軍之兵勢を挙動し、天下之耳目を驚して可入貴覧候。能目を拭、耳を洗て十五日を待給へ。
再会難期。句句頓首謹言」

岡倉天心と屈原

 
明治31(1898)年3月26日、岡倉天心は東京美術学校を追われた。その背景には、スキャンダルがあったのだが、欧米型近代化に背を向ける天心流の国粋主義が、国家政策の邪魔になったと見ることもできる。
 天心の受けた打撃は大きかった。しかし、ようやく天心は民間の自由人としてみずからの理想を追求できるようになった。ただちに彼は、私立美術学校として日本美術院の設立に動く。 ――自分たちは、あくまでも先生についていきます。
 天心失脚に憤慨した橋本雅邦、横山大観、下村観山、菱田春草ら教官17名は4月に辞職、天心とともに歩んでいくことを決意していた。
 10月15日、「新時代における東洋美術の維持、開発」を高らかに掲げ、日本美術院はスタートをきった。開院式に合わせて記念展覧会が開催された。人々は、会場に飾られた大作に注目した。 続きを読む 岡倉天心と屈原

近藤啓吾先生「明治初年神道行政の変遷」─神道の化石化

 明治維新の精神は残念ながら貫徹されることはなかった。早くも明治3、4年頃には当初の理想は失われていった。
 この過程について、近藤啓吾先生は「明治初年神道行政の変遷」(『続々紹宇文稿』)において分析し、次のように要約している。
 「……皇権回復・神武復興を目指して身を殞した多くの先輩の志を継いで、つひに維新の大業を成し遂ぐるや、その諸志上が新政府に登庸せられ、その志す神制国家を樹立せんとしたのは当然のことであるが、当時一般の国民には、その神といふものの意義が知られてをらず、西欧のゴツドやゼウスと同一視するものも少なくなく、ましてそれは我国父祖のことであり、神道といふは、父祖がこの国を開かんとして辛苦した足迹のことであるとの認識は殆ど有してゐなかつたので、折角掲げた国家復興の理想も一般国民の理解には遠きものであつた。
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「儒教を排することはわが神道を矮小化することである」─本居宣長 vs. 藤田東湖

 「現在も続く直毘霊論争」(『月刊日本』平成26年1月号)で、本居宣長に対する会沢正志斎の反論を取り上げたが、藤田東湖もまた正面から宣長を批判し、「儒教を排することはすなわちわが神道を矮小化することである」と言い切っている。
 以下は東湖の『弘道館記述義 巻の下』の一節である。

 〈…最近、古代の学問を唱えるものがあって、「仏教はすべて因果で説明し、儒教は天命によってすべてを解釈する。仏教の弊害は儒者がたくみに批判するけれども、儒教の間違いは世間にまだ説明するものがいない」(宣長『直毘霊』)などというものがある。このような人は口を極めて儒教を罵倒し、仁義の徳などというのは後世の法律命令のようなものであり、舜・禹は王莽か曹操と同じような簒奪者であるとなし、「人間の欲望もまた人間の道である」とか、「天命というのは簒奪を合理化する口実である」(同)などといっている。もし、わが国の神道があたかも氷と炭のように儒教とまったく相反するものである、とするならばそういってもいい。しかしもし、わが国の道と儒教が同じ気から生じた花と実のように共通したものであるとするならば、儒教を排することはすなわちわが神道を矮小化することである。そればかりでなく、忠孝仁義という実質は天地はじまって以来、人類の生れつきに備えたところのものである。思うに古代研究を唱える者たちは、俗流の儒者たちの説くところを先王の道と思いこんでいるのだから、なお許すべき点がある。しかし俗流儒者を罵倒するとともに、周公・孔子の真の教えをも抹殺しようとするのは、食物が喉につまって苦しみむせぶのを聞いて、自分も食うことをやめてしまうのと同じである。非常な誤りというほかはない。わが斉昭公は、この点を心配あそばされ、建御雷神を祭って斯の道の由来を明らかにしたまうとともに、あわせて孔子の廟を造営され、斯の道がますます大きく、かつ明らかとなったのは、何によるかというその根本に対して敬意を表したもうたのである。実に完璧な御配慮というべきである〉