明治維新を導いた幕末の志士とはいかなる存在だったのか。彼らが極めんとした学問とはどのようなものだったのか。それを知るための貴重な一冊がある。平泉澄門下の鳥巣通明が、明治維新100年に当たって著した『明治維新と志士』(神社本庁 明治維新百年記念叢書 2、昭和41年)である。
鳥巣は「志士の性格」の一節で、次のように書いている。
〈おそらくマス・コミの影響によるものであらう、志士と云へば、世間ではとかく花柳の巷に出入りしては新撰組や幕府側の捕吏と血斗する姿を連想する人が多いやうである。テレビ・映画や小説をすべてフイクションと云ふのではない。牒報網や密偵をまくために、彼等は料亭や遊廓を利用して会合することが多かつた。明日をもはかられぬ生命である、時に生活が奔放に流れる者がゐたのも事実であつた。そこに、明治から今日まで跡を絶たない待合政治の源流がある、と説く人もゐるほどである。だが、それは志士たちの生活の一コマにすぎない。しかも彼等の間には、そのやうな生活を自戒する雰囲気が強かつたのである。例へば、長州の志士井上聞多が高杉晋作と一緒に京都三条通りの旗亭に投宿した時、同じく松下村塾で学んだ野村和作・入江九一が訪ねて行つて、
朝廷でも憂慮せられ、藩公も日夜国事に奔走してゐる時勢だから、われわれも妓楼や旗亭で国事を談ずることはつつしむべきだ。同志一同協議した結果、今後妓楼・旗亭に登るのをやめることにし、違反する者があれば、詰腹を切らせることにした。貴君等もこの盟約に加入されたい。
と申入れてゐることを注目しておこう。岩倉が云つたやうに志士と市井の放蕩無頼の徒との間には、はつきり一線を画して論ずべきであらう。
梁川星巌、頼三樹三郎、梅田雲浜、吉田松陰等々安政期の代表的志士が当代一流の学識をもつてゐたことはとくに指摘するまでもないが、そのやうな指導者ばかりでなく、志士は一般に教養の高い知識人が多かつた。
松下村塾に学び、松陰刑死後、高杉と並んで長州尊攘派の中核的な存在となり、文久から元治にかけてはげしく活躍した久坂玄瑞の伝記をひもどく時、彼が寸暇を惜んで読書に精進し、また同志をはげまして水戸学関係の書や先師の著書の写本に勤めてゐるのを知り、今更のやうにおどろく人が多いだらう。その「愛読書目録」には、講孟余話、幽室文稿、討賊始末等々の松陰の遺著はもとより、水戸学関係の回天詩史、弘道館記述義、下学爾言、常陸帯等々、国学関係の万葉集代匠記、玉鉾百首、古道大意、霊の御柱等々、崎門学関係の靖献遺言等、そして大日本史、類聚日本紀、日本外史、日本野史、史記、宋元通鑑、西洋新史等内外の史書から北陸杞憂、接鮮紀事、職官志、制度通等の外交・法制関係書、その他英華語彙、インキリス・エンド・シネース・ジクシヨネリー(1848)等の外国語辞書など百三十二種の書名がふくまれてゐるのである。
京都に上り、中央の政局で活躍した高名の志士が学識が高かつたのは当然ではないか、と云ふ人があるかも知れない。そこで次に草深い田舎に在つて勧農殖産につとめながら、国学の教を学び、国の憂を自らの憂として教化に務めた人びとの場合をとりあげよう。信州伊那谷の草莽の志士については、すでに島崎藤村の「夜明け前」でひろく紹介されてゐるので、ここでは三河の山間部北設楽郡の稲橋村の豪農古橋暉児に照明をあてることにする。
古橋暉児と云つても、郷土の者以外には、おそらくその名を知る人も少いであらうが、彼は安政四年ごろ水戸斉昭の告志篇明君一班抄を読んで感激し、国事に目を開いた志士であった。そして安政六年(一八五九)伊勢神官に詣で、本居宣長の「直日霊」をよみ、文久三年(一八六三)九月十九日いよいよ平田門に入り、国学につらなる同志の人びとと往来して、講筵を開いて村人に尊皇攘夷の道を教諭し、農兵の組織もつくつた。また三河勤皇の再現をめざして吉野の忠臣足助重範の顕彰運動もおこした。王政復古後になると、彼は殖産興業に尽力し、地方の開発に努力してゐたが、自分を訪ねて来たあの相楽総三の赤報隊の残党佐藤清臣をあたたかく迎へ、村民教化のための私学校を開いた。それはやがて学制改革によつて小学校に移行、佐藤もそのまゝ小学校教諭となる。しかし、開明的な新しい教育に反発した佐藤が職を辞し、塾を開くと、彼はこの失意の友人の保護に任じ、その後援者となつてゐるのである。古橋の歩いた道は、豪農出の志士等の多くがたどつたものと類型的にはほとんど同じであつたと見てよいであらう。
ところで彼の教養を示すものとして、明治十年に作られた蔵書目録の控が残つてゐる。収むるところの書名、すべて百六十七。平田門人にふさはしくその大部分が国学関係の書物であるが、神皇正統記、靖献遺言、日本外史、弘道館記述義、正気の歌、講孟余話等がふくまれ、米利幹使節記聞のあるのが目立つてゐる。いはゆる草莽の志士たちの愛読書や教養の程度は、この古橋の場合ともおそらく大同小異であつたと見てよいであらう〉