明治維新の精神は残念ながら貫徹されることはなかった。早くも明治3、4年頃には当初の理想は失われていった。
この過程について、近藤啓吾先生は「明治初年神道行政の変遷」(『続々紹宇文稿』)において分析し、次のように要約している。
「……皇権回復・神武復興を目指して身を殞した多くの先輩の志を継いで、つひに維新の大業を成し遂ぐるや、その諸志上が新政府に登庸せられ、その志す神制国家を樹立せんとしたのは当然のことであるが、当時一般の国民には、その神といふものの意義が知られてをらず、西欧のゴツドやゼウスと同一視するものも少なくなく、ましてそれは我国父祖のことであり、神道といふは、父祖がこの国を開かんとして辛苦した足迹のことであるとの認識は殆ど有してゐなかつたので、折角掲げた国家復興の理想も一般国民の理解には遠きものであつた。
それに加へて新政府は、旧幕府より引き継いだ、不平等條約のままといふ負の遺産の負担があり、かつ旧幕府時代のヤソ教禁止の方針をそのまま引きついだことによつて、欧米諸国から我国を不信とする気風を一段と強めてゐた。加ふるに欧米に倣つて政教分離を説く仏教徒、特浄土真宗の一派もあり、内紛外圧、新政府はその対応に苦しみ、つひに維新の旗印であつた神道立国の大旆を引降して、外国に認めらるべく、文明開化に国家の方針を変じ、維新の功労者であつた崎門学者、水戸学者、国学者(特に平田学派)を中央より追放せざるを得なくなつた。
一方、その諸学者を見ると、世界の大勢に眼を開かんとするの努力なく、いたづらに伝承を固守し、何を守り何を排するかといふ重大問題の選択よりも、彼等内部の主張の異同による内紛に終始し、つひに政府にその点を利用されて、神道者は国民訓導の大任を止められ(神職の神葬を扱ふことを禁じたるはその例)、行政下の一部門にまでその地位を降され、そしてその風はその後も改められることなく長く続き、一般より神道は尊きものであるが実生活とは縁遠く、神職は清浄ではあるが国民の教化とは無関係、そして神社は古式と古儀を守るものと考へらるるに至つてしまつたのである。是れ神道の化石化であり、ここには既に北畠親房の精神も、山崎闇斎・水戸光圀の姿勢も見ることはできなくなつた。
以上が、明治初年の神道行政とそれに引続く神道の姿である。否、寧ろ古代を徒らに美化し讃美し、親房の精神をも、闇斎・光圀の姿勢をも、因襲として否定するところに、明治以降の神道の性格があつたのである」