二つの明治─大久保路線と西郷路線
「明治の時代」と一口に言うが、明治維新の精神は、西郷南洲が西南の役で斃れる明治10年までに押し潰されてしまったことに注意する必要がある。
明治維新の原動力となった思想は、本来明治時代の主役になるはずであった。ところが、実際にはそうならなかった。拙著『GHQが恐れた崎門学』にも書いた通り、早くも明治4(1871)年には、崎門派の中沼了三(葵園)、水戸学派の栗田寛、平田派の国学者たちが新政府から退けられている。
こうした新政府の姿勢について、崎門学正統派を継ぐ近藤啓吾先生は「維新の旗印であつた神道立国の大旆を引降して、外国に認めらるべく、文明開化に国家の方針を変じ、維新の功労者であつた崎門学者、水戸学者、国学者(特に平田学派)を中央より追放せざるを得なくなった」と書いている。
さらに、明治6年には、対朝鮮政策(敢えて征韓論とは言わない)をめぐる対立によって西郷南洲が下野する。それをもたらした明治政府内部の対立の核心とは、野島嘉晌が指摘している通り、維新の正統な精神を受け継いだ南洲と、維新の達成と同時に早くも維新の精神を裏切ろうとした大久保利通の主導権争いだった。
明治7(1874)年2月には、南洲とともに下野した江藤新平によって佐賀の乱が勃発している。さらに、西南の役に先立つ明治9年には、大久保路線に対する反乱が各地で続いた。まず10月24日に熊本県で神風連の乱が、同月27日に福岡で秋月の乱が、さらに同月28日に山口で萩の乱が起こった。
神風連の乱の引き金となったのは、明治9年3月に布達された廃刀令とそれに追い打ちをかけるように同年6月に発せられた断髪令である。文明開化の名の下に、神州古来の風儀が破壊されるという反発が一気に爆発したのである。
萩の乱で斃れた前原一誠は、政府の対外政策にも不満を抱いていたが、特に彼が問題視していたのが、地租改正だった。彼は、地租改正によって、わが国固有の王土王民制が破壊されると反発していた。南洲とともに下野した副島種臣らも、王土王民の原則の維持を極めて重視していた。そして、明治10年に南洲は西南の役で斃れ、大久保路線は固まる。
大東塾の影山正治は、「幕末尊攘派のうち、革命派としての大久保党は維新直後に於て文明開化派と合流合作し、革命派としての板垣党は十年役後に於て相対的なる戦ひのうちに次第に文明開化派と妥協混合し、たゞ国学の精神に立つ維新派としての西郷党のみ明治七年より十年の間に維新の純粋道を護持せむがための絶対絶命の戦ひに斃れ伏したのだ」と書いている。
つまり、明治国家は明治10年までには、大きく変質したということである。むろん、欧米列強と伍してわが国が生き残っていくためには、大久保的な路線が必要であった。しかし、それは維新の精神を封じ込める結果をもたらした。この悲しみを抜きに「明治の栄光」を語るべきではない。 続きを読む 「明治維新」と「明治という時代」の切断
「皇道政治」カテゴリーアーカイブ
天皇政治の中に生きている民主主義(谷口雅春「生命体としての日本国家」)
谷口雅春は「生命体としての日本国家」(『理想世界』昭和四十四年一月号)において、次のように書いている。
〈君民の利益が一致しているのが、天皇政治下の民主主義なのである。
そこで思い出されるのは、仁徳天皇が当時の日本国民が貧しくなっているのをみそなわせられて、三年間租税を免除し、皇居が朽ちて所々がぼろぼろになって雨漏りしても、それを補修し給うことさえ遠慮され、三年目に高殿に登り給うて眼下に街を見渡されると、国民の経済状態は復興して、炊煙濠々とたち騰って殷富の有様を示しているので、皇后さまを顧みて、「朕は富めり」と仰せられた。そして。
高き屋にのぼりて見れば煙たつ 民の竈は賑ひにけり
というお歌をお詠みになったというのである。天皇は、自己が貧しくとも、国民が裕かであれば、「朕は富めり」であらせられる。これが天皇政治の中に生きている民主主義なのである。これを民主政治下の代議士が、汚職をもって自分を富ませながら、そして自己の貰う歳費の値上げを全員一致で議決しながら、国民のたべる米の価格や、国民の足である交通料金その他の公共料金の値上げに賛成するのと比較してみるならば、いわゆる現代の民主政治は一種の特権階級政治であり、天皇政治こそかえって民主政治であることがわかるのである〉
長野朗の制度学─仮説「制度学と崎門学の共鳴」
昭和維新のイデオローグ権藤成卿は「制度学者」と称された。筆者は、その学問がいかなるものであったかを考察する上で重要な視点が、権藤の思想と崎門学の関係ではないかという仮説を立てており、権藤と崎門学の関係について「昭和維新に引き継がれた大弐の運動」(『月刊日本』平成25年10月号)で論じたことがある。
「制度学者」としての権藤の思想の継承者として注目すべきが、長野朗である。長野について、昭和維新運動に挺身された片岡駿先生が次のような記事を書き残されている。
〈制度学者としての長野氏は南渕学説の祖述者として知られる権藤成卿氏の門下であり、而も思想的には恐らく最も忠実な後継者であるが、然し決して単なる亜流ではなく、ある意味において先師の域を超えてゐる、特に例へば権藤学説に所謂『社稷体統』をいかして現代に実現するかといふ具体的経綸や体制変革の方法論について、権藤氏自身は殆ど何一つ教へることが無かつたが、長野氏は常に必ずそれを明示して来た。権藤成卿を中心とする自治学会に自治運動が起らず、長野朗氏の自治学会が郷村自治運動の中核となり得た理由も茲に在つた。郷村運動の中心的指導者だつた長野氏は亡くなられたが、故人が世に遺したこの『自治論』が世に広まれば、民衆自治の運動は必ず拡大するに違ひないと私は信ずる。
○民衆自治の風習は神武以来不文の法であつたが、その乱れを正して道統を回復し、且つそれを制度化して「社稷の体統」たらしめたものが大化改新でありそれを契機とする律令国家だつた。所謂律令制国家は大化改新の理想をそのまま実現したものではないが、而もこのやうな国家体制の樹立によつて、一君万民の国民的自覚が高められて行つたことは疑ひ得ない。その律令制国家体系も軈て「中央」の堕落と紊乱を原因として崩壊の過程を辿り、遂に政権は武門の手に握られることになつたが、然し、そのやうな政治的・社会的混乱の中においても、大化改新において制定された土地公有の原則と、村落共同体における自治・自衛の権は(一部の例外を除いて)大方維持せられ、幕末に至るまで存続した。而も此間自治共同体は次第に増殖し、幕末・維新の時点では実に二十万体に近い自治町村と、それを守る神社が存在したのである。大化以来千二百年の間に幾度が出現した国家・国体の危機を救ふた最大の力の源泉も、このやうな社稷の体統にあつたことを見逃してはならぬ。この観点から見るとき、資本主義制度の全面的直訳的移入によつて土地の私有と兼併を認め、中央集権的官僚制度の強化のために民衆自治の伝統を破壊して、社稷の体統を衰亡せしめた藩閥政治の罪は甚大である。 続きを読む 長野朗の制度学─仮説「制度学と崎門学の共鳴」
政府の外交と在野の興亜論者
興亜思想と世界皇化
興亜論者たちは、日本の理想を国際社会へ適用する上で、大きな障害となっていた植民地支配、人種差別を世界からなくし、すべての民族が独立し、対等の関係に立てるように世界を変革しようと試みた。例えばアジアに志した荒尾精は、すでに明治二八(一八九五)年三月に、『対清弁妄』で次のように書いている。
「我国は皇国也。天成自然の国家也。我国が四海六合を統一するは天の我国に命ずる所也。 皇祖 皇宗の宏猷大謨を大成するの外に出でず。顧ふに皇道の天下に行はれざるや久し。海外列国、概ね虎呑狼食を以て唯一の計策と為し、射利貪欲を以て最大の目的と為し、其奔競争奪の状況は、恰も群犬の腐肉を争ふが如し。是時に当り、上に天授神聖の真君を戴き、下に忠勇尚武の良民を帥ひ、有罪を討して無辜を救ひ、廃邦を興して絶世を継ぎ、天成自然の皇道を以て虎呑狼食の蛮風を攘ひ、仁義忠孝の倫理を以て射利貪欲の邪念を正し、苟くも天日の照らす所、復た寸土一民の 皇沢に浴せざる者なきに至らしむるは、豈に我皇国の天職に非ずや。豈に我君我民の 祖宗列聖に対する本務に非ずや」 続きを読む 政府の外交と在野の興亜論者
皇道政治の理想を冒涜する不況下の増税強行
不況下の消費増税強行について、国体の観点から考えてみたいと思います。
亀井静香氏は、「経済が土砂降り、傘も差せずに明日なき生活をしている人がいる。そこに税金を取るぞと。こんな無情な政治が日本の開闢以来あったか」と発言しています。まさに、亀井氏の言う通りです。このような経済状況で増税を強行することは、皇道政治、天皇政治の理想に対する冒瀆にほかなりません。日本人が理想としてきた皇道政治は、例えば第十六代仁徳天皇(在位:313~399年)の「民の竈」の逸話に明確に示されています。
〈四年春二月六日、群臣に詔して、「高殿(たかどの)に登って遥かにながめると、人家の煙があたりに見られない。これは人民たちが貧しくて、炊(かし)ぐ人がないのだろう。昔、聖王の御世には、人民は君の徳をたたえる声をあげ、家々では平和を喜ぶ歌声があったという。いま自分が政について三年たったが、ほめたたえる声も起こらず、炊煙はまばらになっている。これは五穀実らず百姓が窮乏しているのである。都の内ですらこの様子だから、都の外の遠い国ではどんなであろうか」といわれた。
三月二十一日、詔して「今後三年間すべて課税をやめ、人民の苦しみを柔げよう」といわれた。この日から御衣や履物は破れるまで使用され、御食物は腐らなければ捨てられず、心をそぎへらし志をつつまやかにして、民の負担を減らされた。宮殿の垣はこわれても作らず、屋根の茅はくずれても葺(ふ)かず、雨風が漏れて御衣を濡らしたり、星影が室内から見られる程であった。この後天候も穏やかに、五穀豊穣が続き、三年の間に人民は潤ってきて、徳をほめる声も起こり、炊煙も賑やかになってきた。 続きを読む 皇道政治の理想を冒涜する不況下の増税強行
神武創業の詔勅
肇国の理想は神武創業の詔勅に示されている。『日本書紀』は次のように伝える。
「我東(あずま)を征ちしより茲に六年になりぬ。皇天(あまつかみ)の威を頼(かゝぶ)りて、凶(あだ)徒(ども)就戮されぬ。邊土(ほとりのくに)未だ清らず、余(のこりの)妖(わざはひ)、尚梗(あれ)たりと雖も、中洲之地(なかつくに)(大和地方=引用者)復(また)風塵(さわぎ)無し。誠に宜しく皇都を恢(ひろめ)廓(ひら)き、大壮(みあらか)を規摸(はかりつく)るべし。而るに、今運(とき)此の屯蒙(わかくくらき)に属(あひ)て、民(おほみたから)の心朴素(すなお)なり。巣に棲み穴に住み習俗(しわざ)惟常となれり。夫れ大人(ひじり)の制(のり)を立つる、義(ことわり)必ず時に随ふ。苟も民に利(さち)有らば、何にぞ聖造(ひじりのわざ)に妨(たが)はむ。且当に山林を披(ひらき)払ひ、宮室を経営(をさめつく)りて、恭みて宝位(たかみくら)に臨み、以て元元(おほみたから)を鎮め、上は則ち乾霊(あまつかみ)の国を授けたまひし德(うつくしび)に答へ、下は則ち皇孫の正(ただしき)を養ひたまひし心を弘むべし。然る後に、六合(くにのうち)を兼ねて都を開き、八紘(あめのした)を掩(おほ)ひて宇(いえ)と為むこと、亦可からず乎。夫の畝傍山の東南(たつみのすみ)橿原の地を観れば、蓋し国の墺區(もなか)か、可治之(みやこつくるべし)」 続きを読む 神武創業の詔勅
能勢岩吉『皇道政治早わかり』読書ノート
皇道精神の普及徹底を目指して中正会を結成した能勢岩吉は、昭和十二年に刊行された『皇道政治早わかり』において、皇道政治の特徴を次の三点に要約した。
一、忠誠 皇室を奉じて国家の発展を図ること
二、民意を愛し之に満足を与へる政治でなければならぬこと
三、国民相和し、協力一致して、国家国民の幸福を図ること
第一の特徴に関して、能勢は、皇道精神の中心となる思想は、忠孝であり、これを煎じつめれば、「中」の精神であると思うと書いている。彼は、「中」という文字が不偏不倚、過不足なく、公平無私の状態を表していると同時に、物の中心を表現していると説く。そして、これをさらに遡って考えると、『古事記』において、天地開闢の際に高天原に最初に出現した神が「天御中主命」であることに鑑みても、この天地の全てを造った働きが「中」であると思われると主張する。
「此の『中』こそ、此の世界に活動してゐる公平無私で、慈悲至らざる無き創造の大生命であると思ふのであります」(能勢岩吉『皇道政治早わかり』中正会、昭和十二年、十七頁) 続きを読む 能勢岩吉『皇道政治早わかり』読書ノート
藤澤親雄の皇道政治論②
法と倫理の分裂
藤澤親雄は、神武創業の詔勅に示された肇国の理想が「道義確立と徳治政治」にあったと説き、建国と樹徳とは不離の関係にあり、法と国家倫理とは不可分の関係にあると主張した(『政治指導原理としての皇道』三十五頁)。
ところが、明治維新後、西欧の自由主義的学説が輸入されるにつれて、国体論も法律的観察と倫理的観察とに分裂したと、藤澤は指摘する。
そして彼は、大日本帝国憲法第一条の解釈に関して、自由主義的法学者たちが、国体の語を倫理的観念だとして、法の領域から排斥しようとしていると批判する。
つまり、自由主義的法学者たちは、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあるのを、単にわが国が法律上、君主政体であり、倫理的意味の国体を示すものではないと主張していると、藤澤は批判するのだ。自由主義的法学者たちは、君主政体とは法律制度を指す語であり、そこには過去の歴史を示す意味も、国民の倫理的感情を示す意味も含んでいないと解釈しようとしていると。そして、藤澤は次のように結んでいる。 続きを読む 藤澤親雄の皇道政治論②
藤澤親雄の皇道政治論①
三権分立と「ツカサ」、「ミコトモチ」
戦前、皇道政治論を説いた藤澤親雄は、個人主義、自由主義の弊害を説くとともに、当時の政治制度に対して皇道の立場から独自の見解を示していた。
彼は、三権分立制度は決して天皇の御政治の分裂を意味するものではないと主張したのである(藤澤親雄『政治指導原理としての皇道』国民精神文化研究所、昭和十年三月、二十七頁)。彼によれば、わが国の三権分立は、欧米のように「権力的分立」や「権力的分割」ではなく、「機能的分立」だからである。
彼はこの「機能的分立」が、古代における「ツカサ」、「ミコトモチ」の思想と相通ずるとし、次のように書いた。 続きを読む 藤澤親雄の皇道政治論①
田辺宗英『宗教政治の提唱』(窓光社、昭和十二年)読書ノート
皇道経済論を唱えた田辺宗英は、皇道政治論についても独自の考え方を発表していた。その一つが、昭和十二年に刊行された『宗教政治の提唱』である。同書「序」で、彼は次のように宣言する。
「この愛する日本を、覇業者や野望者の国のやうに、一時的の権勢栄華を貪つて、忽ちにして滅亡するやうな、相対有限の個人主義、利己主義の政治経済の上に置くことを、断じて肯んずることは出来ないのである。
故に吾々は、個人の生活を神の永遠の生命の上に置き、一国の政治を神の宝祚無窮の巌の上に置かんことを要望して、茲に宗教政治を提唱する」
田辺は、皇道政治の本質を「宗教政治」、「神聖政治」、「随神の政治」ととらえ、独自の表現で持論を展開した。まず彼は、政治の全てが神意に随はねばならないと説いた。政治は、神意の正しきが如くに正しく、神意の博大なる如くに博大に、神意の公明なるが如くに公明に、神意の仁愛なるが如くに行はれねばならないと(百十五頁)。
同書が刊行された昭和十二年当時の状況について、彼は覇業の政治、野望の政治、個人主義、利己主義の政治といった、教えに背いた政治が行われていると批判した。覇業政治の本質とは、私利我慾を根本とし、権勢利達を目的とする政治である。田辺はそうした政治の様相を次のように痛烈に批判した。 続きを読む 田辺宗英『宗教政治の提唱』(窓光社、昭和十二年)読書ノート