「アジア的価値観」カテゴリーアーカイブ

欧米支配終焉後の新秩序とは?

■「五百年にわたる西洋覇権の終焉か?」
 欧米支配の国際秩序が動揺している。トルコのジャーナリスト、ハッサン・エレル(Hasan Erel)氏は「五百年にわたる西洋覇権の終焉か?」と題して、「西洋中心の世界ではなく、アフリカ・ユーラシアを中心とした新しい多極的な世界秩序」の到来を予想している(ATASAM, September 28, 2023)。二月には欧州連合(EU)のジョセップ・ボレル外相が「西側優位の時代は確かに完全に終わった」と認めた。
 内戦の危険性さえはらむ熾烈なアメリカ大統領選挙が終盤を迎える中で、十月にはロシアを議長国としてカザンでBRICS首脳会議が開催される。BRICSには今年からイランやエジプトなど五カ国が加わった。タイなど東南アジア諸国も加盟を希望しており、その存在感を急速に拡大しつつある。ブラジル出身で、サステイナビリティ高等研究所研究員を務めるベルナルド・ジュレマ(Bernardo Jurema)氏は、BRICS拡大の動きを、「世界の脱西洋化のプロジェクト」ととらえる。
 カザンでの首脳会議では、「BRICSブリッジ」と呼ばれる独立決済システムが議論される見通しで、「脱ドル化」が加速する可能性もある。
これに対して、欧米先進国はBRICSには統一性も結束力もないと過小評価してきた。また、BRICSは中国やロシアに利用されていると批判してきた。もちろん、そうした指摘が間違っているわけではない。しかし、我々が直視すべきは欧米支配の秩序の動揺という現実である。


BRICS首脳会議(2023年)

 昨年三月に中国の仲介によってサウジアラビアとイランが国交回復で合意したことは、中東におけるアメリカの影響力の低下を如実に示している。
 威信の低下に直面しているのはアメリカだけではない。近年、旧フランス領のアフリカ諸国ではクーデターが相次ぎ、昨年七月にはニジェールで、八月にはガボンで軍部が実権を握った。フランスはこうした流れを食い止めることができなくなっており、マクロン大統領は「もはやアフリカにフランスの勢力圏はない」と述べるに至った。
 しかし、欧米支配の終焉の兆候は日本人の目には入ってこない。あるいは、意識的に目を背けているのだろうか。こうした状況は、敗戦によってGHQに占領されたわが国が、「主権回復」後もアメリカの占領継続を受け入れ、属国として歩んできたからにほかならない。その見返りとして、日本は「名誉白人」の地位を与えられ、鬱憤を晴らしてきたのかもしれないが、所詮日本が白人グループに入ることはできない。
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「マハティールは、いまこそ日本へ訴える」(『わーずわーす』平成十六年十一月号)

 令和六年五月二十五日、日本郵便元副会長の稲村公望氏と大アジア研究会代表の小野耕資氏とともに来日中のマハティール閣下にインタビューした。
 私がマハティール閣下に最初にインタビューしたのは、ちょうど20年前の平成十六(二〇〇四)年十一月。『わーずわーす』に掲載した記事を紹介する。

『わーずわーす』創刊号

マハティールは、いまこそ日本へ訴える
■西洋近代文明を批判する舌鋒衰えず
 二十二年間にわたってマレーシアを率いてきたマハティール首相は、二〇〇三年十月三十一日、惜しまれながら引退した。それからちょうど一年経った(二〇〇四年)十一月八日、クアラルンプールのプトラジャヤで、前首相に単独インタビューすることができた。
 内政の舵取りから離れた前首相には、重責からの解放感といったものも感じられた。首相時代よりも自由に発言できるようになっている。もちろん、歯に衣きせぬマハティール節は健在だ。
 執務室の机の上には二台のパソコンが、書棚には分厚い百科事典が、そして書棚の隣の棚には使いこんだコーランが厳かに置かれている。
 「慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において」など、コーランの一節を刻んだ木彫は、気品に満ち溢れ、東南アジアの伝統を強く感じさせる。
 この光景こそ、マハティールの思想と行動を余すところなく伝えている。彼の思想を支えているのは、イスラームの教えである。だが、それは決して近代化に背を向けるものではない。彼はテクノロジーの発展に力を注ぎ、自らハイテク機器も使いこなす。また、読書家としても知られるマハティールは、貪欲に知識を吸収し、それを生活に生かそうと心がけている。つまり、彼にとってイスタームは、モノの面でもココロの面でも生活を豊かにするための思想の基盤である。
 インタビューでは、どの質問に対しても、的確な回答が即座に返ってきた。まもなく七十九歳になる高齢とは思えない反応の速さである。だが、何より私が強く感じたものは、ココロの平静と揺るぎない信念である。それもまた、彼の信仰に支えられているに違いない。
 終始穏やかな雰囲気でインタビューは進められたが、二度だけ表情や語気が変わった。一度は、ブッシュ大統領再選に関して質問したときである。一瞬にして厳しい表情に変わり、強い言葉でその対イラク政策を批判、ブッシュ再選は世界にとって大惨事だと言い切った。
 もう一度は、東アジア経済グループ(EAEG、後にEAEC)構想を提唱した経緯について説明しているときである。EAECを葬ろうとしたアメリカ自身がNAFAT(北米自由貿易協定)を形成していることに言及したとき、語気が鋭くなるのが感じとれた。また、彼はブッシュ政権に追随する日本にも批判的である。
 ただし、我々はマハティールの声を単なる外交政策の次元だけでとらえるべきではない。モノに偏重した西洋近代文明に対する根源的な批判の声として、彼の言葉を受け止めるべきではなかろうか。


(撮影:カミコウベアツシ) 続きを読む 「マハティールは、いまこそ日本へ訴える」(『わーずわーす』平成十六年十一月号)

石井東吾氏が語る截拳道(ジークンドー)の陰陽理論

 ブルース・リーが開発した截拳道(ジークンドー)には老荘思想の陰陽理論が取り入れられていたのではないか。そのことは、ジークンドーのインストラクターとして活躍する石井東吾氏の言葉からも窺える。
 石井東吾氏は、1999年9月、18歳の時に、ジークンドーの継承者テッド・ウォンと出会った。石井氏は、参加したセミナーで、テッド・ウォンの武術と人柄に深い感銘を受け、その後、テッド・ウォンの弟子であるヒロ渡邉に弟子入りする。
石井東吾
 石井氏は2003年7月に初渡米し、テッド・ウォンからプライベートレッスンを受けている。以来、2010年8月までの間、ヒロ渡邉に同行して渡米を繰り返し、修行を続けた。
 石井氏は『陰と陽 歩み続けるジークンドー』(Gakken)の中で次のように述べている。
 〈武道の礼儀作法が〝礼に始まり、礼に終わる〟とされているように、ジークンドーで重要視されているのは〝構えに始まり、構えに収まる〟ことである。それが基本スタンスであるオンガードポジションだ。
 ジークンドーのオンガードポジションは〝陰陽の理論〟に基づいた、攻撃と防御が融合した中立的な構えをとる。それはとてもシンプルかつコンパクトであり、常にいつでもどの方向へも瞬時に動くことができる、非常に機動力に富んだスタンスだ。
 「よいフォームとは、動きとエネルギーの無駄を最小限に抑えて目的を成し遂げる、最も効率的なやり方のことだ。常によいフォームで訓練せよ」と、ブルース・リー始祖は述べている。では、よいフォームで行うために必要不可欠なことは何だろうか?それは〝構え〟である。
 ジークンドーの構えは、〝レディポジション〟とも呼ばれる。エネルギーが蓄えられて、いつでも爆発的な動きを繰り出せる準備が整った状態なのだ。この精密な構えの構造が崩れていれば、自ずとそこから発する技は崩れることになり、スピードもパワーも失うこととなる。ジークンドーでは、最短最速でターゲットに拳足をヒットさせることを目的としているため、構えに高い精度が要求されるのだ。
 大切なのは、構えが攻撃的、もしくは防御的な形態やマインドに偏ることなく、陰陽の調和のとれたニュートラルな状態でなければならないということだ。肉体的には、脱力して正しい形にセットアップされた状態であること。精神面では、何にも囚われず、深い静寂のなかに心が置かれた無為自然な状態でありながら闘志を内に秘め、しかしそれをいつでも解放できるような状態。つまり、陰陽の調和を肉体と精神で表現し、それを構えのなかで表現すること。このような意識で、僕はオンガードポジシションをジークンドーの最も重要な身体的要素の一つと捉えている〉

『陰と陽 歩み続けるジークンドー』

鈴木大拙「東洋思想の特殊性」(『禅文化』昭和34年8月)

鈴木大拙は「東洋思想の特殊性」(『禅文化』昭和34年8月)において、次のように書いている。
「さて、東洋思想の特殊性ですが、西洋の人は客観的にものを見る。客観的に見るから知的になる。たとえば、ここに一つの紙片があるとする。西洋の人のやり方についていふと、この紙片は、白いとか、字が書いてあるとか、薄いとか、四角いとか、あるいはかう二つに折ってあるとか、そして科学的に見ると、この紙が何から出来てをるのか、──炭素がはひつてるだらうな、燃えるから。水素はないでせうね、水気がないから。──とにかくそんなことで、この紙がわかったことになるんですな。ところが東洋の人のやり方は、さうではなくて、特に老荘や、仏教の云ひ方は、さういふ紙を外から見た話でなくして、紙そのものになれといふのですね
そして、西洋の人が東洋のことを研究する、ことに仏教や老荘を研究するとき、これがどうしてもわからぬ。紙になれといふと、どうして人間が紙になれようかと、まあ、そんなやうに考へるですね。
鈴木大拙
お前が紙になれ、紙になれば紙がわかる。蜜柑になれば蜜柑がわかる。蜜柑の形容をいくら外から持ってきても、物理的、科学的に、今日はアトムの時代だから、原子的に考へてみたところが、蜜柑はわからぬ。蜜柑と一つになれば、それで蜜柑全部がわかる、といふやうなことを、欧米の人にいふと、蜜柑をどうしても外におく。どうして蜜柑になれようかと云ふ。客観的に、分析的にものを考へるくせのある人は、それが容易でない。東洋の人のはうは割合にやりやすい。さういふ伝統があるからですね。欧米の人はさういふ伝統を持たんですね。
欧米の人の考へにすると、ものになるといふその証拠が出ないといかんと云ふ。その証拠といふのが、客観的な証拠になるのですね。つまり研究をして、それを実験して、実験がその人の云ふ通りになれば、それで証拠が立つたといふわけです。ところが東洋の人、ことに仏教や老荘的な人は、証拠なんてことをいふから駄目なんで、証拠も何もないといふこと、そのことが証拠だ。このことのほかに証拠を求める必要はないと云ふ。いはゆる「肯心自ら許す」といふことでたくさんだ、と。
証拠を求めるとか、証拠を出すとかいふことが第二義におちいつてをるんだから、いらない話だ。かう云うても、西洋の人ではどうしてもその通りにならないのです。すべてが論理的にいかないと承知ができない。論理的にいくといふことが、また大きな力なんです。
客観的にものを処理していくところには、それだけの特色がある。それはどういふ特色かといふと、ものを概念化するといふことが、その特色の一つですね。
ところが、この分析的な客観的な見方をすると、蜜柑が一つ二つ、三つ四つと、いくつでもあるわけです。ところが主観的な見方といふか、東洋的な見方にすれば、一つの蜜柑になりきれば、その一つの蜜柑が、二つにも三つにもなりうるんだとするですね。西洋的の見方にすれば、二つ三つになったその蜜柑から、どの蜜柑にも通用する特質を抜き出してきて、これが蜜柑だといふのです。この蜜柑は少し青い、その蜜柑は黄色い、ことちは酸とぱい、そつちは甘いが、しかしながら、その蜜柑たるにおいては同じであるといふ。その蜜柑たる特殊性を抜き出してこれが蜜柑だと、かういふ。つまり抽象的な考へ方ができる。抽象的に考へることができるといふことも、また大切なことなんですがね。
しかしながら、抽象になると、個人の生きたものはなくなるですね。みな型にはまつてしまふ」

東洋の思想哲学の根底─有機的構成関係

植芝盛平
 (一財)和歌山社会経済研究所研究部長の高田朋男氏は、以下のように述べている。
 〈東洋の思想哲学の根底には、有機的構成関係が存在しているように思う。有機的構成関係とは、「全体」が「部分」を規定する構成関係の事をいう。従って東洋の思想哲学は、有機的構成関係で世界の様態を捉えるため、部分真理ではなく、まず全体真理を追い求める。このことは、西洋哲学の欠陥を補う役割を担える可能性を秘めていると言える。そして陽明学者の安岡正篤氏は言う、西洋の哲学者はその思想と行動を分けて思惟しており、その結果、行動と思想の一致が求められていないところがある。それに対し東洋の思想家は、自身の行動から生み出された思想ゆえ、行動と思想が一致していると指摘している。思うに、いわば実証(含む「状況証拠」)を必要としているか、していないかの違いである。実証の伴った思想の方が、思惟だけの哲学より遥かに信頼性が高いと言わなければならない。合気道の開祖、植芝盛平翁の哲理は、実証が伴っている。実証に次ぐ実証の中から築き上げたものである〉(「植芝盛平翁の深遠な哲理について~「知」の巨人と「武」の巨人~」『21世紀Wakayama』75、2013年12月)

副島種臣『精神教育』③

蒼頡
 丸山幹治は『副島種臣伯』において、副島の『精神教育』から抜き書きしている。前回に続き、第五編以降を見ていく。
 〈第五編は「良知」である。「人の念々の動くのは多くは皆慣習であるものだから、忠孝の習慣の厚いものは常にその念が動き、又忠孝といふ者を常に思はぬものは其の念は決して動かぬ、そこが習相違である」「中庸に天命之謂性、率性之謂道(天の命ずるをこれ性と謂い、性に率うをこれ道と謂い)とある、率性とは即性のまゝといふことである、性のまゝなるが道なれば、道と性とは同一なるもので、差つたものでないといふことが分るであらう」「中庸にも君臣也。父子也、夫婦也、昆弟也、朋友之交也、五者天下之達道也とある通り畢竟五倫といふものより外に道といふものはない筈のものである」「伊邪那岐、伊邪那美の二柱の神が生れましたといふは、夫婦の義であらう、其れからだん〲と多くの神々が生れましたといふは、即、父子の義であらう、葦原千五百秋之瑞穂国是我子孫可王之地、宜爾皇孫就而治焉とあるは君の義であらう、臣下よりいふときには、臣の道が其れから生ずるものであるから、やはり君臣の意味である、庸佐夜芸互阿理祁理といふ場合からだん〲と万民が相輯睦するといふのは、即、朋友の交がそれから教へらるゝのである、それから先づ兄なる皇子より即位に即かせられて、次に弟の皇子に及ぶといふのが経である。間々その時によつて弟が先立たれたこともあるけれども、それは権である。これから長幼の道も明になつて居る、かやうに五倫の道といふものは決して支那から教へられたのでなく、自然に備てゐる」「すべて君父には不較といふて、何であらうが是非曲直を較ぶるといふことをせぬが、臣子たる者の道である」「道といふ字は首に辵すなはち首が走ると書てある、即、頂に来住める神が走るの意味であらう」「貴といふ字は一中が貝(タカラ)なりと書てある」「一文字を作つた蒼頡といふ男はなか〱えらいものであつた」など〉

康有為─もう一つの日中提携論

康有為
日清両国の君主の握手
 「抑も康有為の光緒皇帝を輔弼して変法自強の大策を建つるや我日本の志士にして之れに満腔の同情を傾け此事業の成就を祈るもの少なからず、此等大策士の間には当時日本の明治天皇陛下九州御巡幸中なりしを幸ひ一方気脈を康有為に通じ光緒皇帝を促し遠く海を航して日本に行幸を請ひ奉り茲に日清両国の君主九州薩南の一角に於て固く其手を握り共に心を以て相許す所あらせ給はんには東亜大局の平和期して待つべきのみてふ計画あり、此議大に熟しつつありき、此大計画には清国には康有為始め其一味の人々日本にては時の伯爵大隈重信及び子爵品川弥二郎を始め義に勇める無名の志士之に参加するもの亦少からざりしなり、惜むべし乾坤一擲の快挙一朝にして画餅となる真に千載の恨事なり」
 これは、明治三一(一八九八)年前後に盛り上がった日清連携論について、大隈重信の対中政策顧問の立場にあった青柳篤恒が、『極東外交史概観』において回想した一文である。永井算巳氏は、この青柳の回想から、日清志士の尋常ならざる交渉経緯が推測されると評価している。両国の志士たちは、日本は天皇を中心として、中国は皇帝を中心として、ともに君民同治の理想を求め、ともに手を携えて列強の東亜進出に対抗するというビジョンを描いていたのではあるまいか。
 変法自強運動を主導した康有為は、一八五八年三月に広東省南海県で生まれた。幼くして、数百首の唐詩を暗誦するほど記憶力が良かったという。六歳にして、『大学』、『中庸』、『論語』、『朱注孝経』などを教えられた。一八七六年、一九歳のとき、郷里の大儒・朱九江(次琦)の礼山草堂に入門している。漢学派(実証主義的な考証学)の非政治性・非実践性に不満を感じていた朱九江は、孔子の真の姿に立ち返るべきだと唱えていた1。後に、康有為はこの朱九江の立場について、「漢宋の門戸を掃去して宗を孔子に記す」、「漢を舎て宋を釈て、孔子に源本し」と評している。 続きを読む 康有為─もう一つの日中提携論

崎門学派の徂徠学派批判

 尾張藩では、第8代藩主徳川宗勝時代の寛延元(1748)年に、崎門学派の蟹養斎が藩の援助を受けて「巾下学問所」を設立した。しかし、この時代は荻生徂徠の徂徠学の勢いが強く、崎門学などの朱子学派にとっては厳しい時代であった。だからこそ、尾張崎門学は、徂徠学に対して強い抵抗姿勢を示したのである。
 蟹養斎は『非徂徠学』『弁復古』などを著して徂徠学を批判しました。同じく崎門学派の小出慎斎は『木屑』において、「徂徠の徒」を以下のように批判している。
 「猖狂自恣にして程朱を排擯す。蜉蝣大樹を憾すと云へし。これより以来、邪説横議世に熾になり、黄口白面の徒往々雷同して賢をあなどり、俗を驚し…文辞を巧にして、世好に報し時誉を求るに過さるのみ。其徒のうちにいづれの言行のいみしきやある。ひとり無用の学をするのみにあらす、却て世教の害をなす事甚し。かくのことき教を学はんよりは学なきにしかじ」
 慎斎の子・小出千之斎や石川香山も徂徠学を痛烈に批判しました。田中秀樹氏は、香山による徂徠学批判のポイントは(1)道徳・修身論を軽視する徂徠学末流の詩文派は世の役に立たない「浮華の文人」である、(2)徂徠は「古義」を見誤り憶測によって議論している──との主張だと指摘し、以下のように書いている。
〈徂徠は古文辞学の立場から、……経書の古語を会得するために詩文章の実作を奨励していた。徂徠はあわせて勧善懲悪的文学観を否定していたため、詩文の製作は作者の道徳的修養とは無関係となり、漢詩文の世界に没頭する者が増え、文人社会が形成されることとなる。……石川香山の生きた一八世紀後半から一九世紀初は、まさに古文辞派が開いた学問の「趣味化余技化」が進行し、通儒・通人を自任する文人・畸人が世にあふれた時代であった。そのため、この道徳学とは関係ないところで趣味・余技としての詩文を楽しむ徂徠学末流の詩人・文人を、「躬行を努めず」「浮華放蕩に流れ」る者とする批判は、むしろ数多く見られる〉(『朱子学の時代: 治者の〈主体〉形成の思想』
 香山はまた、『聖学随筆』において徂徠学の経世派に対しても次のように批判していた。
 〈学問の心得悪くして害を招く。宋曽子固『後耳目志』に唐人の語を引て、無以学術殺天下後世と云ふ詞あり。軽薄の学者分別も無く、政事経済の書を著し、麁忽人の為に取り用ひられて、大いに世の難義を作し、後代までの害を貽す事あり。渾て政事経済の事は賢人君子忠良臣の親く身に歴行ひし人の書たるものにあらざれば皆席上の空論と覚へ取に足らずとなすべし〉

尾張藩における崎門学派と国学派②

 文政・天保期には、次第に国学派が尾張藩教学の足場を固めつつあった。これに対して、尾張崎門学派はどのように国学派と向き合おうとしていたのであろうか。
 岸野俊彦氏は、『幕藩制社会における国学』(校倉書房、平成十年五月)において以下のように書いている。
 [前回から続く]〈宣長学が、古典注釈学としての学問の領域にとどまる限り、それは尾張垂加派からみても決して否定するものではなく、むしろ評価すべきものとみていることは確認しうると思う。だが、宣長の学問は、彼の神への熱い思いと密接不可分のものであった。尾張垂加派の宣長批判は、まさにこの点にかかわっており、宣長の「我国の学、神道めきたる事」は「いとあやしき事のみぞ多かる」という(高木秀條「いつまで草 古学弁」『天保会記』所収)。
 ただ、宣長の神道に対しても全面否定するものではなかったことは、「宣長、大和魂を論じ出しよりして、我国漢学を宗とする者までも皇国皇統を推尊し、外国を賤しむるを知れり。其功、大なりといふべし」(深田正韶『正韶詠草一』など)と述べていることから理解することができる。高木秀條や深田正韶の少年期から青年期にかけて、名古屋を舞台に展開された宣長と徂徠学派の市川鶴鳴との『くず花』『末賀乃比礼』論争は、おそらく彼らの意識の中にあったと思われる。中国的価値に深くとらわれた儒者に対決する限り、宣長の神道論は、尾張垂加派にとっても十分に有用なものであった〉
 では、尾張垂加派は宣長の神道論のどこを問題視したのだろうか。岸野氏は、①「古伝」そのものの持つイデオロギー性、②両者の神道の支持基盤、③「日本魂」の本質理解、④死後の霊魂の問題──の四点を挙げて、以下のように説いている。 続きを読む 尾張藩における崎門学派と国学派②

金子定一「日本国の新認識から『民族社会』主義まで」

 戦前は「日本海湖水化」を提唱し、戦後もアジア主義思想を維持した金子定一が岩手を拠点に主催していたのが、雑誌『開発クラブ』である。同誌第7巻(昭和29年)8月号を入手した。
 巻頭に金子の「日本国の新認識から『民族社会』主義まで」が掲載されている。金子の肩書は岩手県護国同志会長となっている。
 8頁にわたる論文の構成は以下の通り。
  はしがき
  世界の変動と日本の変革
  国家至上主義の功罪とその追放─国家観念の幻滅
  維新廃藩と世界連邦論
  進化論的に日本を見る─民族の生成と建国と相伴う
  外物心酔摂取と消化、模倣と独創
  日本民族の欠陥も亦著しい
  固有日本の回顧
  いまの左傾は幕末の「勤王」の地位
  明治維新は開国思想で─日本の将来は民族主義で
  日本「民族社会」主義とアジア的日本
  結びの言葉

 「日本『民族社会』主義とアジア的日本」では以下のように主張している。
 「日本は、国の成り立ち、歴史、またアジア的貧困の境遇にある。その民族社会主義は、アジア的・日本的独特のものでなければならない。社会主義的政策はすでに日本の常識にとなつているので、これを『日本民族社会』として如何に体現すべきかは、何人にも一応見当がつくであろう。
 嘗ての、武者小路実篤の『新らしい村』は古いが、私は有志によつて、民族社会主義日本のモデルケースがどこかで創められていはしないかと思う。
 私は、欧米流知性人達の言説に触れる機会の多かろうところの人々を読者としてこの篇を綴つた。然し世界は欧米の外にもう一つある、それはいうまでもなく、アジア的貧困ということの外の意味でのアジアである。日本はアジアに国して、アジアの文化を悉く摂取し、消化して自分の血肉として今日に到つた。その、日本の本来的なものはこれである。『日本民族社会』も、その由来に於て、遠隔に於て、これに基くべきものが多大である。日本の国を再認識して『民族社会主義』を建てるためには、決してこの軌道を外れてはなるまい」