■水戸学の真髄
明治維新の原動力となった国体思想は、早くも明治四(一八七一)年頃には新政府によって蔑ろにされるようになった。崎門学派、水戸学派、国学派などは重用されなくなったのである。こうした時代に、『大日本史』完成の志をまっとうし、ついにそれを実現したのが栗田寛である。
天保六(一八三五)年九月十四日に水戸下町本六丁目で生まれた栗田は、わずか十三歳で会沢正志斎の『迪彝篇(てきいへん)』を愛読し、皇統のよって立つ神器の尊厳性と国体の尊さを感得していた。
『迪彝篇』は正志斎が天保四(一八三三)年に著した実践道徳論を展開した著作で、他の著作より比較的わかりやすく「国体の尊厳性」を説くとともに、国体の尊厳性を支える「皇位は無窮」の内実を説いている。
筆者は水戸学の達成の一つは「国体の尊厳」「皇位の無窮」の内実を明確にしたことにあると考えている。それは、東湖の『弘道館記述義』の次の一節に凝縮されているのではなかろうか。
「蓋(けだ)し蒼生安寧、ここを以て宝祚無窮(ほうそむきゅう)なり。宝祚無窮、ここを以て国体尊厳なり。国体尊厳、ここを以て蛮夷戎狄(ばんいじゅうてき)卒服す。四者、循環して一のごとく、おのおの相須(ま)ちて美を済(な)す」(思うに人民が安らかに生を送るがために皇位は無窮であり、皇位が無窮であるがために国体は尊厳、国体が尊厳であるがために四方の異民族は服従する。この四者は循環して一つとなり、それぞれ相互に関連してみごとな一体をなしている、橋川文三訳)と書かれている。 続きを読む 水戸学と昭和維新運動
「昭和維新」カテゴリーアーカイブ
水野満年『大正維新に当りて』(国華教育社、大正15年)目次
第47回(令和2年度)大夢祭のご案内
以下、大夢舘告知を転載する。
合掌 昭和七年五月十五日、三上卓先生を始めとする先達は、昭和維新を目指して蹶起しました。それから八十八年の歳月が流れました。ところが、わが国は真の独立を恢復できないまま、内外の危機が深刻化しています。蹶起の二年前、「民族的暗闇を打開し、開顕しうるものは、青年的な情熱以外にはない」との確信に基づき三上先生が佐世保の軍港で作ったのが「青年日本の歌」(昭和維新の歌)です。現在の危機を打開するために、今ほど青年的情熱が求められる時代はないと、我々は信じております。
維新の精神の発揚を目指し、花房東洋が昭和四十九年に始めて以来、四十七回目となる令和二年度 大夢祭を、以下の通り開催致します。「大夢」とは三上先生の号です。
敗戦によって占領下に置かれたわが国は民族的自覚、國體に対する誇りを喪失し、植民地的属領国家の様相を呈しました。この状況を打破せんとして、昭和維新の精神を継ぐべく、多くの先覚者たちが身を挺して立ち上がって参りました。
昭和三十五年十月十二日に浅沼稲次郎を誅し、同年十一月二日に自決した山口二矢烈士。昭和四十五年十一月二十五日に自衛隊決起を呼びかけた末、自決した三島由紀夫烈士と森田必勝烈士。平成五年十月二十日、朝日新聞の報道姿勢を糾さんとして、壮絶な自決を遂げた野村秋介烈士。さらに多くの先達が維新運動に挺身して参りました。
本祭祀を、五・一五事件で斃れた犬養毅、官邸護衛の警視庁巡査・田中五郎の両英霊、昭和維新を願って蹶起した三上先生はじめ、これに連なる多くの先輩同志同胞にとどまらず、維新運動の先覚者の御霊をお祀りし、その志を受け継ぐ場にしたいと存じます。
当初、『五・一五事件─海軍青年将校たちの「昭和維新」』(中公新書、四月一八日発売)を上梓される、帝京大学文学部史学科教授の小山俊樹先生をお招きして記念講演会を開催する予定でしたが、都合により勇進流刀技術大阪支部長の田中耕三郎氏らによる演武を奉納いたします。どうか、一人でも多くの方にご参列いただけますよう、心よりお願い申し上げます。
再拝
令和2年4月
記
日 時 令和2年5月15日(金) 受付 午前11時半
第1部 大 夢 祭 正午 岐阜護国神社本殿(岐阜市御手洗393)
第2部 奉納演武 12時半
勇進流刀技術大阪支部長 田中耕三郎氏
第3部 直 会 午後2時 大夢舘(岐阜市真砂町1-20-1)
神 饌 料 6,000円[記念品『五・一五事件』(小山俊樹先生著)]
*ご参列の場合には、info@taimusai.com宛てにご連絡いただければ幸いです。
大夢舘
代表
坪内隆彦(愚斎)
副代表
鈴木田遵澄(愚道)
執行役
雨宮輝行(愚蓮)
小野耕資(愚泥)
坂本 圭(愚林)
菅原成典(愚骨)
中川正秀(愚山)
花房 仁(愚元)
宮本 進(愚遊)
後見役
奥田親宗(愚城)
長谷川裕行(愚門)
服部知司
藤本隆之(愚庵)
【書評】里見岸雄博士『天皇とプロレタリア』
展転社から里見岸雄博士の『天皇とプロレタリア』が普及版として復刻された。『月刊日本』平成30年7月号に掲載した書評を紹介する。
〈安倍政権が推進する新自由主義とグローバリスムによって、ますます貧困と格差が拡大しつつある。ところが、いわゆる保守派の多くはこの問題に沈黙している。本書は、そうした保守派に対する鋭い批判の書として読むこともできる。
資本家の横暴に対する「無産階級」の反発が強まり、やがて昭和維新運動の台頭を迎える昭和4年に刊行された本書は、国体の真髄を理解しない為政者や「観念的国体論者」に強烈な批判を浴びせている。〉(後略)
明治天皇御即位宣命と近江朝制遵由の叡旨─権藤成卿『君民共治論』①
慶應四年八月二十七日、明治天皇のご即位式が行われ、以下の宣命が発布された。
「現神止大八洲国所知須、天皇我詔旨良万止宣布勅命乎、親王諸臣百官人等、天下公民衆聞食止宣布。掛畏伎平安宮爾、御宇須倭根子天皇我、宜布此天日嗣高座乃業乎、掛畏伎近江乃大津乃宮爾、御宇志、天皇乃初賜比定賜倍留法随爾、仕奉止仰賜比授賜比、恐美受賜倍留御代々々乃御定有可上爾、方今天下乃大政古爾復志賜比弖、橿原乃宮爾御宇志、天皇御創業乃古爾基伎、大御世袁弥益々爾、吉伎御代止固成賜波牟、其大御位爾即世賜比弖、進毛退毛不知爾恐美坐佐久止宣布大命乎、衆聞食止宣布。……」☞[全文]
権藤成卿は『君民共治論』において、この宣命について、次のように書いている。
〈由来藤原氏の外戚摂関独制の時代より、幕府政治の武力専権時代の其間に於ても、全く善政なしとも限らないが、そのいづれも政理の基礎たる公同の大典を没却し、徒らに貴賤上下の差隔を設け来りしものが、王政復古の御大業に依り、こゝに君民共治を以て、新制創定の標準を樹て、大廓清の端緒を開かせらるゝことゝとなつた。彼の有名なる国典学者の福羽美静翁などは、当時の機務に参画せられたのであるが、翁と予が先人(名は直、松門と号す)とは、特別の交際ありし為め、是の宣命が近江朝廷即ち
天智天皇の御遺謨に法らせ給ひ、而もその御聖旨が橿原朝廷御創開の御制謨に一貫し、我日本國體の基礎、確かに是に在りと云ふのであつたことを、一と通り聞かされて居る訳である。
本と彼の大化廓清の御大業は、上 皇権の微淪を更張され、下万民の愁苦を払除され、肇国の御制謨に遵由して、公同共治の政理を宣昭させられたるものにして、其後鴻烈御偉業が、中宗皇帝の尊称を上れる訳である。併しながら、後世の学者、往々にして其厳正高明なる典範の紹続を推究することを忘れ、妄りに利害上より私説を立て、却て國體を曲解するは、実に不謹慎の至りである。
御即位式宣命文の前段に於て、明らかに近江朝制遵由の叡旨が掲げられて居る〉
四元義隆に影響を与えた権藤成卿の思想
●四元義隆「民衆と天皇との間に何物をも挟んではいかん」
血盟団事件に連座した四元義隆は、権藤成卿の社稷自治論を信奉していた。彼は次のように述べていた。
〈『自治民範』などにも出て来ますが、社稷ということであります。何時か先生は社稷というのは、あれは土と穀物ということだから、民衆の此の生活する事実、是が社稷で是が最も大事なことである。いろいろ大義名分などということがあるが、人間が食うということ、此の衣食住という大事なことを忘れて仕舞う為に何時も国家を誤るのだということを言われました。実際の人間が食って行くことを忘れて神様の様に思うことはいかんことで、民衆の生活事実ということは最も大事なことだと思います。歴史を見ても我々はいろんな歴史を教わりましたが、民衆の生活事実が、何うであったかということは一つも教わりませぬ。是れではいかんことです。夫れが日本の神武天皇から伝わった処の本当の伝統で、民衆と天皇、皇室との間に何物をも挟んではいかんのであります。其の中間に何か挟まるから何時も誤るのであります。夫れでずっと歴史をみて行くと民衆と天皇の間に有るものが出来て来ます。夫れは権力の手段である為、夫れを胡魔化す為にはいろいろな道徳も説かなければなりませぬ。是は謂わば間違った生き方であります。日本の本当の生き方というものではありませぬ。民衆が各々其の処に健全な生活をして行くことが、本当の天皇の御意志でなければならぬとそういう風に考えました。是れは先生の学問というよりも、私がそう考えたのでありますが、夫れで私は先生の学問は本当に日本の歴史というものから、此の具体的事実から見て日本の本当の制度と組織、そういうものの正しい学問だと思います」
高山彦九郎と久留米②─三上卓先生『高山彦九郎』より
『高山彦九郎』(三上卓先生)は次のように、久留米における崎門学の浸透を描いている。
●極点に達していた久留米の唐崎熱
〈しかも彼(合原窓南)が京都に師事した人は絅斎先生浅見安正であつた。蓋し佩刀のハヾキに赤心報国の四文字を刻し、平生特に大楠公を崇拝し、生涯遂に幕府の禄を食まなかつた闇斎の大義名分の思想は、窓南の教育によつて或は久留米城下に於て、或は上妻の僻村に於て、上は士大夫より下は農村の青年に至るまで、漸々として浸潤したのである。窓南先生こそ久留米藩学祖と称すべきであらう。
すなはち藩の名門岸正知、稲次正思、教を窓南に乞ひて夙に名あり、藩士不破守直、杉山正義、宮原南陸も亦錚々の聞えあり、広津藍渓は上妻郡福島村の青年を以て馬場村退隠中の窓南門下より傑出した。そして不破守直は更に若林強斎門下の西依成斎及び松岡仲良門下の谷川士清に就いて教を受け、不破の門下に有馬主膳、尾関権平、不破州郎等あり、正義の子に杉山正仲あり、南陸は子に宮原国綸あり、弟子に樺島石梁あり、……しかも窓南の影響はこれのみには止まらなかつた。彼の退隠地馬場村の隣村津江の貧農に生れた青年高山金二郎は、夙に発奮して学に勉め、宝暦年間遂に崎門三宅尚斎の高足たる大阪の硯儒留守希斎の門に遊んで、……留学百カ日にして崎門学の大事を畢了して故郷に帰り、門下に幾多の青年を養成したのであるが、天明三年藩儒に登用され、同年不幸病歿した。享年五十八。けだし窓南歿後の窓南とも称すべきである。後世その号を以て之を敬称して高山畏斎先生と云ふは此人である。
窓南先生の遺業は斯の如く広大であつた。かくて久留米一藩の支配的学風は全く崎門学派の影響下に在り、寛政、享和の頃に至つては、崎門の学徒は士民の隔てなく尨然たる交遊圏を構成し、名を文学に仮つて陰に大義名分の講明に務めて居たのである。唐崎常陸介が来遊したのも此時、高山先生が来訪したのも此時。そして寛政二年秋の唐崎の第一回久留米来遊は、この学的傾向を決定的に灼熱化し以て高山先生の来遊を準備したのであつた〉
三上先生は、以上のように指摘した上で、尾関権平が湯浅新兵衛に宛てた書簡に基づいて、唐崎と久留米藩士との交遊は、伊勢の谷川士清を通じて、既に天明年間から十数年間の文通によって用意されていたと述べている。そして、寛政二年初秋頃、尾関権平や不破州郎らが唐崎に宛てたと思われる書簡を引いて、「久留米に於ける唐崎熱はその極点に達して居たことが窺われる」と述べている。
☞[続く]
高山彦九郎と久留米①─三上卓先生『高山彦九郎』より
●なぜ久留米が高山彦九郎終焉の地となったのか
なぜ久留米が高山彦九郎終焉の地となったのか。それは、久留米における崎門学の興隆抜きには語ることができない。特に、この地の崎門学浸透を主導した合原窓南・その門人と、彦九郎の盟友・唐崎常陸介との交流は大きな意味を持っていた。
自ら昭和維新運動に挺身した三上卓先生が、『高山彦九郎』(平凡社、昭和15年)を著したのは、昭和維新運動を高山彦九郎から真木和泉に至る朝権回復運動の継承と位置付ける意識が強まったからだと考えられる。『高山彦九郎』は、権藤成卿門下で久留米史研究者の井上農夫が収集した史料に基づいて書かれており、九州における崎門学派の思想と運動の展開について独自の意義づけをしている。
同書に基づきながら、久留米が彦九郎終焉の地となった意味について考察していきたい。同書は合原窓南の役割に注目し、合原に師事した広津藍渓が書いた碑文を引いている。
「先生生れて顛悟、自ら読書を好み、年十一出家僧と為り法を四方に求む。既に壮にして自ら其非を悟り、蓄髪儒と為り、講学愈々篤く、礪行益々精しく、名一時に震ふ。吾藩宋学の盛んなる、蓋し先生先唱を為せば也。寛永六年、梅巌公(第六代藩主・有馬則維、引用者)召して俸を賜ひ、以て学を士大夫に授けしむ。生徒日に夥し、居ること十余年疾を以て隠を上妻郡馬場村に請ふ。是に於て国老以下諸士、相追随して道を問ふ者日夜絶えず、僕従衢を塡む。大悲公(第七代藩主・有馬則維)立を延いて侍講と為し、更に稟米二十口を給し、秩竹間格に班す。又其老ひたるを優し、籃輿(らんよ)に乗つて以て朝し、且つ朝に在つて帽を著し寒を禦ぐを許す、蓋し異数と云ふ。元文二年八月二十日疾をもて卒す、享年七十五。〉
☞[続く]
五・一五事件を指導した思想は世界を救う思想である!
鳥取出身の文芸評論家・伊福部隆輝(隆彦)は、五・一五事件から2年後の昭和8年に『五・一五事件背後の思想』(明治図書出版)を刊行し、五・一五事件について次のように評した。
「それは国民の意識的文化感情とは全く逆な事件である。それは全く夢想だにしなかつたところの突発事件であらう。
しかも一度発せらるゝや、この事件は、国民の文化感情、社会感情に絶大な反省的衝撃を与えた。
(中略)
五・一五事件の意義は、犬養首相が斃されたことでもなく、其他が襲撃されたことでもない。又政界不安が起つたことでもなければ、農民救済議会が召集されたことでもない。
それは国民に文化的反省を起さしめたこと、日本的精神を振興せしめたことそのことでなければならない。
事実、五・一五事件までのわが国民は、その将来への文化意識に於て、何ものも日本的なる特殊なる文化精神を感じ得てゐなかつた。共産主義を認めるか否か、それは別である。しかし日本の進むべき文化的道が、過去の日本の精神の中に求めらるゝとは一般的に考へられてはゐなかつた。それは飽迄も欧米への追随それだけであつた。
然るにこの事件を契機として、斯くの如き欧米模倣の文化的精神は改めて批判されんとして来、新たなる日本的文化精神が考へらるゝに至つたのである」
伊福部はこのように事件を評価した上で、事件の背後にあった思想に迫っていく。彼は「彼等をして斯くの如き行動をなさしめたその思想的根拠は何であつたか」と問いかけ、血盟団事件も含めて、彼等が正当だと感じさせた思想として、以下の5つを挙げている。
一、大西郷遺訓
二、北一輝氏の日本改造思想
三、権藤成卿氏の自治制度学思想
四、橘孝三郎氏の愛郷思想
五、大川周明氏の日本思想
そして、伊福部は「これは単に彼等を指導したのみの思想ではない。実にこれこそは、西欧文明模倣に爛朽した日本を救うところの救世的思想である。
西欧文明は没落した。新しい文明の源泉は東洋に求められなければならないとは古くはドイツの哲人ニイチエの提唱したところであり、近くはシユペングラアの絶叫するところであるが、これ等の五つの思想こそは実に単に日本を救ふのみの思想でなく、おそらくは世界を救ふ新文明思想であらう」と書いている。
我々は、「五・一五事件を指導した思想は世界を救う思想である」という主張に、改めて向き合う必要があるのではないか。
遠藤友四郎『国体原理天皇親政篇』目次
以下、遠藤友四郎『国体原理天皇親政篇』(錦旗会本部、昭和8年)の目次を紹介する。
序文
序篇 世変の前兆たる世相と我等の危惧
一、 明治維新には王政復古の形式獲得・昭和維新には皇国日本への復帰完成
二、 世の大多数者は常に前兆を前兆として感知し得ぬ
三、 前兆は必ず心ある者をして危機を思はしむ
四、 罪人に対する昔の拷問・国民全部に与へられる今の生存苦
五、 我が日本には今や毎日平均百人以上の自殺者がある
六、 徳川時代の日本と仏蘭西と露西亜の虐政ぶり
七、 今の生存苦は果して社会的拷問に非ざる乎?
八、 学校はカントの倫理を教えて社会はマルクス指摘の通り
九、 恐るべき片手落ち!今の我が滔々たる外国化の風潮
十、 幕末の大義名分!日本にのみ有つて外国に無きもの
十一、 忠義の的は天子様の外に何者も無いと云ふ不動の信念
十二、 ああ「陛下の赤子」が「資本の奴隷」とは何事ぞ!
十三、 昭和維新そのものの前に先づ精神的に「日本人の日本」の獲得 続きを読む 遠藤友四郎『国体原理天皇親政篇』目次