明治の自由民権運動の一部は、國體思想に根差していたのではないか。拙著『GHQが恐れた崎門学』で、「自由民権派と崎門学」の表題で以下のように書いたが、「久留米藩難事件で弾圧された古松簡二は自由民権思想を貫いた」と評価されている事実を知るにつけ、そうした思いが強まる。
〈維新後、崎門学派が文明開化路線に抵抗する側の思想的基盤の一つとなったのは偶然ではありません。藩閥政治に反対する自由民権派の一部、また欧米列強への追随を批判する興亜陣営にも崎門の学は流れていたようです。例えば、西南戦争後、自由民権運動に奔走した杉田定一の回顧談には次のようにあります。
「道雅上人からは尊王攘夷の思想を学び、(吉田)東篁先生からは忠君愛国の大義を学んだ。この二者の教訓は自分の一生を支配するものとなった。後年板垣伯と共に大いに民権の拡張を謀ったのも、皇権を尊ぶと共に民権を重んずる、明治大帝の五事の御誓文に基づいて、自由民権論を高唱したのである」
熊本の宮崎四兄弟(八郎、民蔵、彌蔵、滔天)の長男八郎は自由民権運動に挺身しましたが、彼は十二歳の時から月田蒙斎の塾に入りました。八郎は、慶應元年に蒙斎の推薦で時習館へ入学、蒙斎門人の碩水のもとに遊学するようになりました。
一方、自由民権派の「向陽社」から出発し、やがて興亜陣営の中核を担う福岡の玄洋社にも、崎門学の影響が見られます。自らも玄洋社で育った中野正剛は『明治民権史論』で次のように書いています。
「当時相前後して設立せられし政社の中、其の最も知名のものを挙ぐれば熊本の相愛社、福岡の玄洋社、名古屋の羈立社、参河の交親社、雲州の尚志社、伊予の公立社、土佐の立志社、嶽洋社、合立社等あり。此等の各政社は或はルソーの民約篇を説き、或は浅見絅斎の靖献遺言を講じ、西洋より輸入せる民権自由の大主義を運用するに漢籍に発せる武士的忠愛の熱血を以てせんとし……」
男装の女医・高場乱は、頭山満ら後に玄洋社に集結する若者たちを育てましたが、乱の講義のうち特に熱を帯びたのが、『靖献遺言』だったといいます。乱の弟子たちも深く『靖献遺言』を理解していたと推測されます。大川周明は「高場女史の不在中に、翁(頭山満)が女史に代つて靖献遺言の講義を試み、塾生を感服させたこともあると言ふから、翁の漢学の素養が並々ならぬものなりしことを知り得る」と書いています。
乱の指導を受けた若者たちの中には、慶応元年の「乙丑の変」で弾圧された建部武彦の子息武部小四郎もいました。建部武彦らとともに「乙丑の変」の犠牲となった月形洗蔵の祖父、月形鷦窠は、寛政七(一七九五)年に京都に行き、崎門派の西依成斎に師事した人物であり、筑前勤王党に崎門の学が広がっていたことを窺わせます。乱は、『靖献遺言』講義によって、自らの手で勤皇の志士を生み出さんとしたのかもしれません。また、明治二十年に碩水門下となった益田祐之(古峯)は、頭山満を中心に刊行された『福陵新報』の記者として活躍しました。〉
「大川周明」カテゴリーアーカイブ
明治維新の意義についての大川周明の考え方─伊福部隆輝『五・一五事件背後の思想』
鳥取出身の文芸評論家・伊福部隆輝(隆彦)は、五・一五事件から2年後の昭和8年に『五・一五事件背後の思想』(明治図書出版)を刊行し、五・一五事件の背後の思想として西鄕南州、北一輝、権藤成卿、橘孝三郞、大川周明の思想を取り上げた。
伊福部は、徳川幕府に関する以下の大川の主張を引く。
〈徳川家康は国民が再び皇室の神聖を意識し始めてたるに対し、固よりこれを抑止し、又は之に背馳するやうな愚は敢てしなかつた。彼は足利将軍が皇室を無視するに反し、努めて皇室に尊崇の念を示さうとした。彼は皇室の収入を増し、宮廷を修理し、朝廷の儀式を復興し、只管その尊厳を加へることに心を用ひたのであります。
しかも家康の加へんとした尊厳は宗教的尊厳であつて、断じて政治的尊厳ではなかつた。日本の天皇は天神にして皇帝であるにもかゝわらず、家康は天皇の宗教的尊厳の方のみを高めることによつて国民の尊崇心に満足を与へつゝ、他面一切の政権を皇室より自家の掌理に収め、天皇をもつて皇帝にはあらで単なる天神たらしめたのであります〉
そして、伊福部は、〈明治維新とは実にこの徳川によつてなされた歪曲をその正しい位置「天神にして皇帝」たることに天皇をなさしめたところにある〉と大川は主張したと書いている。
五・一五事件を指導した思想は世界を救う思想である!
鳥取出身の文芸評論家・伊福部隆輝(隆彦)は、五・一五事件から2年後の昭和8年に『五・一五事件背後の思想』(明治図書出版)を刊行し、五・一五事件について次のように評した。
「それは国民の意識的文化感情とは全く逆な事件である。それは全く夢想だにしなかつたところの突発事件であらう。
しかも一度発せらるゝや、この事件は、国民の文化感情、社会感情に絶大な反省的衝撃を与えた。
(中略)
五・一五事件の意義は、犬養首相が斃されたことでもなく、其他が襲撃されたことでもない。又政界不安が起つたことでもなければ、農民救済議会が召集されたことでもない。
それは国民に文化的反省を起さしめたこと、日本的精神を振興せしめたことそのことでなければならない。
事実、五・一五事件までのわが国民は、その将来への文化意識に於て、何ものも日本的なる特殊なる文化精神を感じ得てゐなかつた。共産主義を認めるか否か、それは別である。しかし日本の進むべき文化的道が、過去の日本の精神の中に求めらるゝとは一般的に考へられてはゐなかつた。それは飽迄も欧米への追随それだけであつた。
然るにこの事件を契機として、斯くの如き欧米模倣の文化的精神は改めて批判されんとして来、新たなる日本的文化精神が考へらるゝに至つたのである」
伊福部はこのように事件を評価した上で、事件の背後にあった思想に迫っていく。彼は「彼等をして斯くの如き行動をなさしめたその思想的根拠は何であつたか」と問いかけ、血盟団事件も含めて、彼等が正当だと感じさせた思想として、以下の5つを挙げている。
一、大西郷遺訓
二、北一輝氏の日本改造思想
三、権藤成卿氏の自治制度学思想
四、橘孝三郎氏の愛郷思想
五、大川周明氏の日本思想
そして、伊福部は「これは単に彼等を指導したのみの思想ではない。実にこれこそは、西欧文明模倣に爛朽した日本を救うところの救世的思想である。
西欧文明は没落した。新しい文明の源泉は東洋に求められなければならないとは古くはドイツの哲人ニイチエの提唱したところであり、近くはシユペングラアの絶叫するところであるが、これ等の五つの思想こそは実に単に日本を救ふのみの思想でなく、おそらくは世界を救ふ新文明思想であらう」と書いている。
我々は、「五・一五事件を指導した思想は世界を救う思想である」という主張に、改めて向き合う必要があるのではないか。
坪内隆彦「『東亜百年戦争』史観を発信せよ」(『伝統と革新』22号)
佐藤文雄と維新派言論機関『大気新聞』
松村介石、満川亀太郎、大川周明らの思想的影響を受けて、独自の興亜・維新運動を展開した佐藤文雄は、大正15年4月に宮城の気仙沼で大気社を創設、『大気新聞』を発刊した。言論機関としての高い志は、創刊号の次の一文に示されている。
「現代文明社会に於て社会教育機関として又報道機関として新聞紙の必要なることは吾人の今更論ずるまでもない所である。然しながら現今公にせられてゐる新聞を見るに其の何れもが新聞本来の目的から遠ざかり徒らに一方に偏し情実にとらはれ、営利のみ目的とし公明を失してゐる、殊に地方に横行する新聞の如きに至っては其の低劣なるに吾人の等しく遺憾とする所である、かかる現状を黙視するに忍びず決然として起ち……真の文明なる理想の社会建設の為に全力を傾注するのは吾が同人の大気新聞である」
「大気」と命名した理由を、佐藤は次のように説明している。
「藤田東湖先生の正気歌の劈頭に『天地正大気、粋然として神州にあつまり秀ては不二岳となり巍々として千秋に聳え』云々とあるが、此の気ありてこそ日本は常に最高の善に向ひ創造されつつあるのである。……天下に峻徳を明らかにし、人類を一様に慈み養ふの象徴は、我が地球を普く包む大気に於て明かに現され、所謂吾人は此の大気の潤徳により生を続け、然かも日に日に新らたなる己を造りゆく事が出来るのである。日に新らたなる己を造るということは新日本を創造するの所以である。即ち此の理想的新日本建設の第一歩として地方人の英気を養ひ地方文化の向上と産業発達のために、敬愛する我が同郷の各位と一致協力、大気仙沼建設のため一大貢献をなさんとするものである。これ我が同人が『大気』の名を選び、世のあらゆる不義非道に対して宣戦を布告するの覚悟、即ち筆を投ずるの覚悟を以て新聞を発刊した所以である」
『大気新聞』は綱領として、
一、宗教的生活の実現 一、精神生活に於ける自由の実現 一、政治生活に於ける平等の実現 一、経済生活に於ける友愛の実現 一、地方文化発達の実現 一、産業交通政策の確立──を掲げ、次のように宣言した。
〈「大気新聞」は筆を投ずるの覚悟を以て刊行するものであります。筆を投ずるの覚悟とは即ちあらゆる世の不義非道に対する宣戦を布告するの覚悟であります。平等を欠ける現在の政治は特権階級擁護の政治であります。友愛の精神なき経済生活は幾多同胞を死滅せしめんとして居ります。更らに精神生活に自由を失へる日本国民は真実の意味に於ける奴隷であります。日本は今や国民的にも国際的にも奴隷解放の陣頭に起つ秋が来たのであります。日本は何時までも同じ日本ではありません。日本は現に造られつつある国であります、即ち最高の善に向って突進する国でなければなりません、国家は国民の魂を基礎とし且つ国民の魂を以て組立てられた家であります。故に日本を創造しつつある者は吾人お互の魂なのであります。孔子は三千年の昔に於て「明徳を天下に明にせんと欲する者は先づ其国を治め共国を治めんと欲する者は先づ其家を斉ふ其家を斉へんと欲する者は先づ其身を修む」と説示して居るではありませんか。所謂吾人其者を救ふは日本国家其者を解放するの所以でなければなりません、日本国家の解放は、やがて大亜細亜の解放であります。大亜細亜の解放は、やがて人類の解放であります。即ち我が日本は人類解放戦の大使徒たることを信じなければなりません。吾人「大気新聞」同人は其力小なりと雖も以上の理想実現のため渾身の努力を続けんとするものであります。即ち其第一歩としてお互国家中心勢力たる地方人の天地正大の気を養ひ地方文化の向上と産業交通発達のため一大貢献をなさんとするものであります〉
長谷川雄一、福家崇洋、クリストファー・スピルマン編『満川亀太郎日記』の書評
以下、『月刊日本』2011年4月号に書いて、『満川亀太郎日記』の書評です。
敗戦・占領によって形成された自虐的な歴史観から脱却し、戦前の民族派・維新派の思想と行動に積極的意義を見出そうとする研究が進展する中で、そうした研究における実証的分析が要求されるようになっている。
特に民族派の思想形成過程や運動の実態を分析する上で、行動の記録である日記、日誌は重要な資料となる。大正期以降の民族派運動の中心の一つでもあった猶存社、行地社に関わる日記としては、これまでに『大川周明日記』(岩崎書店、昭和六十一年)、『北一輝 霊告日記』(第三文明社、昭和六十二年)などが刊行されているが、大川の日記が本格的に始まるのは昭和十一年六月からであり、大正期、昭和初期の分析には不十分である。こうした中で、猶存社、行地社の創立に際して中心的役割を果たした満川亀太郎の日記をまとめた本書の資料的価値は極めて高い。
猶存社は大正八年八月に結成された民族派団体であり、渥美勝、何盛三、笠木良明、鹿子木員信、嶋野三郎、西田税、安岡正篤といった人物が同人として名を連ねていた。その結成に当たり、上海にいた北を呼び戻して参加させようと提案したのは満川であった。彼は北、大川とともに猶存社の「三尊」とも称された。 続きを読む 長谷川雄一、福家崇洋、クリストファー・スピルマン編『満川亀太郎日記』の書評
長谷川雄一、今津敏晃、クリストファー・スピルマン編『満川亀太郎書簡集』の書評
以下、『月刊日本』2012年9月号に書いた、長谷川雄一、今津敏晃、クリストファー・スピルマン編『満川亀太郎書簡集』の書評です。
昭和七年の五・一五事件で三上卓らとともに決起した古賀清志は、翌八年三月十日、横須賀海軍刑務所における訊問調書で決起に至る自らの思想形成過程を次のように語った。
海軍兵学校第三学年の時、同じ佐賀中学を卒業した藤井斉から白色人種の横暴を説明され、将来日本が盟主となって亜細亜民族の大同団結を図り、白色人種と有色人種を対等にしなければならないという「大亜細亜主義」の説明を聞き、その実現のためには日本国家の改造を要すると力説された。そして、大正四年冬の休暇中に、藤井の勧めで東京市内宮城旧本丸内にあった「大学寮」に起居し、満川亀太郎、大川周明、安岡正篤らに会い、現代日本の行き詰まった情勢を聴いた。
大正八年に維新と興亜を目指す「猶存社」が設立され、大川と満川は北一輝とともに「猶存社」三尊と呼ばれるようになった。彼らは大正十三年以降、「行地社」を拠点に活発な維新運動を展開していくが、本書には北、大川の書簡も多数収められており、北、大川、満川三者の関係の変遷も読み取ることができる。
「大亜細亜主義実現のための国家改造」という満川ら興亜思想家の考え方が古賀清志らに与えていた影響の大きさを、本書に収められた書簡は如実に物語る。例えば、昭和二年一月十二日に古賀が満川に宛てて書いた書簡には、次のように書かれていた。
「多難であった大正の御代も去り新しく昭和の御代となりました。私等道に志す者の為すべき御代ではないでせうか。建実なる日本と亜細亜の確立、道義の世界。私はいつもあせりがちでいけません。事を為す迄には其だけの否より以上の基礎が必要ですが、其迄の修養や努力は一般の人とは大差がなければならないと思ひます。私も出来るだけ識見と謄力を養ふべく努力してゐます」(102、103頁)
編者のクリストファー・スピルマン博士が指摘しているように、古賀の書簡には「我等も時と場所とにより悪に対して天誄を加へることもあります」とも書かれており、国家改造のためにはテロも辞さないという覚悟が、五・一五事件の五年前から芽生えていたことを窺わせる。 続きを読む 長谷川雄一、今津敏晃、クリストファー・スピルマン編『満川亀太郎書簡集』の書評
大川周明関連文献
1975年以降に出版されたもの
著者 | 書籍写真 | 書名 | 副書名 | 出版社 | 出版時期 |
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大川 周明 | 大川周明世界宗教思想史論集 | 書肆心水 | 2012/12 | ||
玉居子精宏 | 大川周明 アジア独立の夢 | 平凡社 | 2012/8/12 | ||
塩出 浩之 | 岡倉天心と大川周明―「アジア」を考えた知識人たち | 山川出版社 | 2011/05 | ||
大川周明 | マホメット伝 | 書肆心水 | 2011/03 | ||
大川周明 | 敗戦後―大川周明戦後文集 | 書肆心水 | 2010/10 | ||
臼杵陽 | 大川周明 | イスラームと天皇のはざまで | 青土社 | 2010年8月 | |
大森 美紀彦 | 日本政治思想研究 | 権藤成卿と大川周明 | 世織書房 | 2010年3月 | |
大川周明 | 日本二千六百年史 | 毎日ワンズ | 2009年8月 | ||
大川周明 | 大川周明「獄中」日記 | 米英東亜侵略史の底流 | 毎日ワンズ | 2009年4月 | |
大塚健洋 | 大川周明 | ある復古革新主義者の思想 | 講談社 | 2009年2月 続きを読む 大川周明関連文献 |
大川周明のアジア統一論
宋学によるアジア思想統一の歴史
近年、アジアの多様性を強調することによって「アジアは一つではない」と説いたり、日本文化の独自性を強調することによって「日本はアジアではない」と説いたりする傾向が目につく。こうした中で、大川周明が「大東亜圏の内容及び範囲」(『大東亜秩序建設』第二篇、昭和18年6月、同様の主張が『新東洋精神』昭和20年4月でも繰り返されている)や、「アジア及びアジア人の道」(『復興アジア論叢』昭和19年6月)で試みたアジア統一論の意義を、再評価する必要がある。
彼は、「大東亜圏の内容及び範囲」で、アジア各地で地方的色彩が豊かであることを認めた上で、「亜細亜文化の此の濃厚なる地方色と、亜細亜諸国の現前の分裂状態とに心奪われ、その表面の千差万別にのみ嘱目して、日本の学者のうちには東洋又は東洋文化の存在を否定する者がある」と指摘する。 続きを読む 大川周明のアジア統一論
近代デジタルライブラリーで閲覧可能な興亜論関連文献
森本藤吉『大東合邦論』森本藤吉、明治26年
荒尾精『対清意見』博文館、明治27年
副島種臣著、片淵琢編『副島伯閑話』広文堂、明治35年
宮崎滔天『三十三年の夢』国光書房、明治35年
北輝次郎『国体論及び純正社会主義』北輝次郎、明治39年 続きを読む 近代デジタルライブラリーで閲覧可能な興亜論関連文献