以下、『月刊日本』2011年4月号に書いて、『満川亀太郎日記』の書評です。
敗戦・占領によって形成された自虐的な歴史観から脱却し、戦前の民族派・維新派の思想と行動に積極的意義を見出そうとする研究が進展する中で、そうした研究における実証的分析が要求されるようになっている。
特に民族派の思想形成過程や運動の実態を分析する上で、行動の記録である日記、日誌は重要な資料となる。大正期以降の民族派運動の中心の一つでもあった猶存社、行地社に関わる日記としては、これまでに『大川周明日記』(岩崎書店、昭和六十一年)、『北一輝 霊告日記』(第三文明社、昭和六十二年)などが刊行されているが、大川の日記が本格的に始まるのは昭和十一年六月からであり、大正期、昭和初期の分析には不十分である。こうした中で、猶存社、行地社の創立に際して中心的役割を果たした満川亀太郎の日記をまとめた本書の資料的価値は極めて高い。
猶存社は大正八年八月に結成された民族派団体であり、渥美勝、何盛三、笠木良明、鹿子木員信、嶋野三郎、西田税、安岡正篤といった人物が同人として名を連ねていた。その結成に当たり、上海にいた北を呼び戻して参加させようと提案したのは満川であった。彼は北、大川とともに猶存社の「三尊」とも称された。
昭和十一年五月に満川が死去してから、彼の残した日記を含む関係文書は遺族が保管していたが、数年前に遺族がその公開に踏み切り、国会図書館憲政資料室に寄贈、平成十九年から「満川亀太郎関係文書」として閲覧できるようになった。評者もまた、本誌平成二十一年十一月号で満川を取り上げた際に、それらの資料を閲覧した。日記・日誌にも目を通したが、極めて判読しにくく、活字化を待望していたところである。
本書刊行にあたっては、東北福祉大学教授の長谷川雄一氏、九州産業大学教授のクリストファー・スピルマン氏、京都大学助教の福家崇洋氏が編纂に当たり、日記本文の解読においては北九州市立大学教授の小林道彦氏、九州産業大学教授の福田千鶴氏、亜細亜大学専任講師の今津敏晃氏が協力した。この困難な作業を完遂した関係者にまず敬意を表したい。
本書は、満川が残した日記のうち、大正八年以降昭和十一年に至るまでの日記・日誌を収録したものである。
この日記からは、満川の人脈が民族派、維新派、アジア主義者だけではなく、海軍の斉藤実大将、八代六郎大将、上泉徳弥中将、陸軍の荒木貞夫大将らの軍人、中野正剛、床次竹二郎、永井柳太郎といった政治家、さらには徳富猪一郎、下中弥三郎らの言論人と、極めて広範であったことが明確に示されている。
また、民族派運動史の定説を覆すような新発見もある。編者のスピルマン氏が解題で指摘している通り、従来、行地社の設立は大正十四年二月十一日で、その前身である行地会の設立は大正十三年四月とされてきたが、日誌には大正十三年一月二十八日に「行地会例会」の記録がある。この事実から行地会設立は大正十三年一月以前に遡ると考えられる。
日記からは、民族派と柳田国男の関係についても新たな発見がある。大正十三年五月四日の日記には「今井良平、郷間正平君来訪す/郷間君に柳田国男氏を紹介す」とある。
ここからは、それ以前から満川と柳田に面識があったことが読み取れる。同年十月十五日の日記には「朝柳田国男氏を訪ひ…」、大正十四年六月二十七日の日記には、内容は不明だが大川周明らとともに柳田の名前が書かれている。さらに、大正十五年三月七日の日記には、「午后六時より帝国ホテルに於て行地社招待会」とあり、招待者として頭山満、荒木貞夫、石光真清、松村介石、松岡洋右、永田秀次郎、辜鴻銘、鶴見祐輔らとともに、柳田国男の名前がある。満川と柳田の関係はその後も続いている。昭和三年五月三十一日の日記には「柳田国男氏を…喜多見に訪ふ」とある。柳田の民俗学が民族主義・維新運動にいかなる影響を与えていたのか、今後の研究課題であろう。
昭和六年九月以降の日記には、非業の死をとげた朝鮮開化派の指導者、金玉均の孫娘「金聖姫」の名前が頻繁に出てくる。「午后金聖姫嬢来訪」(昭和六年九月十一日)、「金聖姫嬢来訪」(同年十月十六日)、「正午金嬢のための会合に招かれ…」(同年十月三十一日)といった具合である。
興亜陣営が描いた日韓合邦の理想から逸脱する朝鮮統治の現実を前に、満川ら民族派が金聖姫と何を相談していたのか、興味のあるところである。
本書には、戦前の民族派・維新派の思想と行動に関する新たな研究課題がぎっしり詰まっている。