令和2年10月18日、都内で第一回『天皇親政について考える勉強会』(崎門学研究会主催)が開催された。同研究会の折本龍則代表が、「天皇親政と天皇機関説の狭間で」と題して発表した。以下、当日配布されたレジュメを転載させていただく。
★当日の動画は「崎門チャンネル」で
■今日の皇室観
① 天皇不要論
社会契約論 共和革命論
② 天皇機関説 象徴天皇
親米・自民党保守 「君臨すれども統治せず」
Cf 福沢『帝室論』「帝室は政治社外のものなり」祭祀が本質的務め
③ 天皇親政論 圧倒的少数派
正統派 原理主義?
■天皇親政の三つの契機
① 正当性
天壌無窮の神勅
葦原千五百秋瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就でまして治らせ。行矣。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ。
『正名論』 『柳子新論』
資料)竹内式部の所司代での問答
② 決断主義
「自由主義なるものは、政治的問題の一つ一つをすべて討論し、交渉材料にすると同時に、形而上学的真理をも討論に解消してしまおうとする。その本質は交渉であり、決定的対決を、血の流れる決戦を、なんとか議会の討論へと変容させ、永遠の討論
によって永遠に停滞させうるのではないか、という期待を抱いてまちにまつ、不徹底性なのである。」(C.シュミット『政治神学』)→「例外状態」での決断
『国家改造法案大綱』
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中野正剛は、『建武中興史論』「楠正成」で次のように書いている。
〈御親政ということばの、ほんとうの意味は、特殊の人間に政治をお任せにならないということです。いかに偉くとも、源頼朝とか何とか、特殊のものに政治をおゆるしにならない。御親政とは、天皇みずから責任を負われて、万事を聞し召されるということだ。
みずからやられるということは、民の中にいて、民とともにやられることで、日本の皇室は外国のごとく、征服国家の君主じやない。国民とともにおられる。日本人、大和民族なるものが、歴史の上に、また地上に現われた時から皇室はおられる。
(中略)
この御親政をですよ、官僚的に解釈して、人民はりくつをいうことはならぬ、お前たちはだまつて協力すればよい、それが天皇親政の御趣旨だというものがあるが、冗談ではない。天皇は特殊の人とともに政治をしない、財閥とともに政治はしない、武人ともにとも雄藩とともにともいわない、人民とともにと仰しやる、それだからこそ御親政である。それを人民の政治にたいする発言、熱誠、微衷を一切抑えつけてしまつて、一人でなさる政治が天皇御親政であるなどと、このようなことを、このごろのたいていの馬鹿ものの御用学者などはいつている〉
中野正剛は、頼山陽の思想を通じて天皇親政の理想を追い求めていた。『建武中興史論』の序文(昭和18年春)では、次のように書いている。
〈『日本外史」全篇を通読いたしますと、頼山陽の理想は、天皇親政のむかしに還ることを憧れているのであり、きびしく武門政治を非難しておりますが、それは武門であるがためにこれを憎むのではなく、特殊の権力階級が分を乱すことを憤つているのであります。
彼は、北条氏、足利氏を排撃するとともに、藤原氏 蘇我氏を排撃し、天皇親政のむかしに還ることを理想としているのです。しかし、山陽の理想とする天皇親政は、単に天皇が単独で随意に政治を行うというのではなく、天皇と国民との間を阻隔する世襲的権力階層の存在をゆるさないのであります。親政と申しましても、政治であるからには、万民を対象としなければなりません。一国を統治し、万民を支配するためには、どうしても社会を、民衆を、正確に認識しなければなりません。それも上から一方的に認識するのではなく、日本全民族の中心に立ち、人民の中で、人民と脈搏をともにし、人民の体温を感じながら、義は君臣にして、情は父子という政治を行うというのが、山陽の理想とする天皇親政の意味であります。
山陽の親政とは、天皇を人民からかけはなれた雲の上の存在として、あがめ奉つておくことではなく、天皇は民とともにあつて、その間に何ものの介在をもゆるさないことでなければなりません。古代の氏族政治、それから下つて相門政治、武門政治と歴史は変動し、世の中は変つたが、日本民族が膨張して社会が複雑になつて来れば、天皇親政も、一君万民の大義を秩序だてる政治の様式がなければならず、頼山陽の天皇親政論は、社会の変遷を通観して、徳川時代の末期に当つて、やがて生れ出ずべき明治の親政を示唆しているものといえます。中世の封建時代の勢力に対抗して、古代を理想とするロマン主義が、フランス革命の原動力となつたように、頼山陽の勤王思想は、革命勢力の心の糧として、明治の志士たちを力づけたのです。フランス革命にたいするヴオルテールの役割を、山陽が日本ではたしたといつてはいいすぎでしようか。
日本の武門政治は、建久三年(一一九二年)に源頼朝が、鎌介幕府を開いてから、慶應三年(一八六七年)に徳川慶喜が政大を奉還するまで、六百七十六年つづいておりますが、このながい覇道政治を中断しているのは、年月からいえば、わずかに三年六ヵ月の建武中興時代であります。この時代は、源氏、北条氏とつづいた武門政治が打倒され、一たびは天皇親政のもとに全国が統一されましたが、やがてすぐに足利の反逆となり、足利時代が生れ、さらに諸国の武士が争う戦国時代となり、織田、豊臣、徳川時代を経て、ついに明治維新となりましたが、この中途で現われた建武中興がどうして成立し、どうしてまた敗れたか──これについて、頼山陽の書いた筆の跡をたどつて読んでみると、あまりりくつをならべないで、すべてこの日本人の胸底に眠る国民的感情をゆり起し、自覚を呼び、そこに信念を生じ、期せずして、眼前の国難に殉ずべきわれわれの態度を決定させるものがあります。
(中略)
建武中興は輝かしい日本精神の発露であるとともに、悲壮な天皇政治失敗の歴史であります。しかし、明治維新は建武中興の試錬を経て、その成敗の跡を学んだからこそ成就したのであります。しかもなお、明治民権政治の歴史も、官閥、軍閥、財閥、藩閥など、閥族政治と民衆との闘いの歴史であり、今日また難局に直面しているのは、閥族政治を払拭しきれなかつた明治維新の不徹底によるのであります。われわれが歴史に学びたいのは、歴史を動かしている真の力が何であるかを身をもつて体得し、実践して行くこととであります〉
明治の自由民権運動の一部は、國體思想に根差していたのではないか。拙著『GHQが恐れた崎門学』で、「自由民権派と崎門学」の表題で以下のように書いたが、「久留米藩難事件で弾圧された古松簡二は自由民権思想を貫いた」と評価されている事実を知るにつけ、そうした思いが強まる。
〈維新後、崎門学派が文明開化路線に抵抗する側の思想的基盤の一つとなったのは偶然ではありません。藩閥政治に反対する自由民権派の一部、また欧米列強への追随を批判する興亜陣営にも崎門の学は流れていたようです。例えば、西南戦争後、自由民権運動に奔走した杉田定一の回顧談には次のようにあります。
「道雅上人からは尊王攘夷の思想を学び、(吉田)東篁先生からは忠君愛国の大義を学んだ。この二者の教訓は自分の一生を支配するものとなった。後年板垣伯と共に大いに民権の拡張を謀ったのも、皇権を尊ぶと共に民権を重んずる、明治大帝の五事の御誓文に基づいて、自由民権論を高唱したのである」
熊本の宮崎四兄弟(八郎、民蔵、彌蔵、滔天)の長男八郎は自由民権運動に挺身しましたが、彼は十二歳の時から月田蒙斎の塾に入りました。八郎は、慶應元年に蒙斎の推薦で時習館へ入学、蒙斎門人の碩水のもとに遊学するようになりました。
一方、自由民権派の「向陽社」から出発し、やがて興亜陣営の中核を担う福岡の玄洋社にも、崎門学の影響が見られます。自らも玄洋社で育った中野正剛は『明治民権史論』で次のように書いています。
「当時相前後して設立せられし政社の中、其の最も知名のものを挙ぐれば熊本の相愛社、福岡の玄洋社、名古屋の羈立社、参河の交親社、雲州の尚志社、伊予の公立社、土佐の立志社、嶽洋社、合立社等あり。此等の各政社は或はルソーの民約篇を説き、或は浅見絅斎の靖献遺言を講じ、西洋より輸入せる民権自由の大主義を運用するに漢籍に発せる武士的忠愛の熱血を以てせんとし……」
男装の女医・高場乱は、頭山満ら後に玄洋社に集結する若者たちを育てましたが、乱の講義のうち特に熱を帯びたのが、『靖献遺言』だったといいます。乱の弟子たちも深く『靖献遺言』を理解していたと推測されます。大川周明は「高場女史の不在中に、翁(頭山満)が女史に代つて靖献遺言の講義を試み、塾生を感服させたこともあると言ふから、翁の漢学の素養が並々ならぬものなりしことを知り得る」と書いています。
乱の指導を受けた若者たちの中には、慶応元年の「乙丑の変」で弾圧された建部武彦の子息武部小四郎もいました。建部武彦らとともに「乙丑の変」の犠牲となった月形洗蔵の祖父、月形鷦窠は、寛政七(一七九五)年に京都に行き、崎門派の西依成斎に師事した人物であり、筑前勤王党に崎門の学が広がっていたことを窺わせます。乱は、『靖献遺言』講義によって、自らの手で勤皇の志士を生み出さんとしたのかもしれません。また、明治二十年に碩水門下となった益田祐之(古峯)は、頭山満を中心に刊行された『福陵新報』の記者として活躍しました。〉
中野正剛は「戦時宰相論」(『朝日新聞』昭和18年元旦)で『靖献遺言』に言及し、次のように書いています。
〈大日本国は上に世界無比なる皇室を戴いて居る。忝けないことには,非常時宰相は必ずしも蓋世の英雄たらずともその任務を果し得るのである。否日本の非常時宰相は仮令英雄の本質を有するも,英雄の盛名を恣にしてはならないのである。日本の非常時宰相は殉国の至誠を捧げ,匪躬の節を尽せば自ら強さが出て来るのである。山崎闇斎の高弟浅見絅斎は,日本主義に徹底した儒者であるが,幕府を憚り「靖献遺言」を著して支那の先烈を話り,日本武士に節義を教へた人である。玄洋社の創設者頭山満翁の如きはこれを昧読して部下の青年を薫陶した。その「靖献遺言」の劈頭には,非常時宰相の典型として諸葛孔明を掲げてゐる。固より国体は違ふが,東洋の一先烈として我等に非常時平相の必須条件を教ゆるものがある。藷葛孔明が兵を用ふること神の如く,民を視ること慈父の如く,文武の大宰相として蜀漢の興廃を担ひて起ち,死を以て節を全うせし所は,実に英雄にして忠臣の資質を兼ねる者である。彼が非常時宰相たるの心得は出師の表にも現はれて居る。彼は虚名を求めず,英雄を気取らず,専ら君主の為に人材を推拠し,寧ろ己の盛名を厭うて,本質的に国家の全責任を担つてゐる。宮中向きは誰々,政治向きは誰々,前線将軍は誰々と,言を極めてその誠忠と智能とを称揚し,唯自己に就いては「先帝臣が謹慎なるを知る」と奏し,真に臣たる者の心だてを語つてゐる。彼は謹慎である。それ故に私生活も清楚である。彼は曰く
「臣は成都に桑八百林,瘠田十五頃がある,これで子孫の衣食は余饒があり,臣は在外勤務に就いてゐて私の調度は入りませぬ。身に必要な衣食は皆な官費で頂き,別に生活の為に一尺一寸も増す必要はない。臣が死するの日,決して余財ありて陛下に負くやうなことはありませぬ」
と。彼は誠忠なるが故に謹慎であり,謹慎なるが故に廉潔である。〉
森本藤吉『大東合邦論』森本藤吉、明治26年
荒尾精『対清意見』博文館、明治27年
副島種臣著、片淵琢編『副島伯閑話』広文堂、明治35年
宮崎滔天『三十三年の夢』国光書房、明治35年
北輝次郎『国体論及び純正社会主義』北輝次郎、明治39年 続きを読む 近代デジタルライブラリーで閲覧可能な興亜論関連文献 →
『維新と興亜』編集長・坪内隆彦の「維新と興亜」実践へのノート