森本藤吉『大東合邦論』森本藤吉、明治26年
荒尾精『対清意見』博文館、明治27年
副島種臣著、片淵琢編『副島伯閑話』広文堂、明治35年
宮崎滔天『三十三年の夢』国光書房、明治35年
北輝次郎『国体論及び純正社会主義』北輝次郎、明治39年 続きを読む 近代デジタルライブラリーで閲覧可能な興亜論関連文献
森本藤吉『大東合邦論』森本藤吉、明治26年
荒尾精『対清意見』博文館、明治27年
副島種臣著、片淵琢編『副島伯閑話』広文堂、明治35年
宮崎滔天『三十三年の夢』国光書房、明治35年
北輝次郎『国体論及び純正社会主義』北輝次郎、明治39年 続きを読む 近代デジタルライブラリーで閲覧可能な興亜論関連文献
音のパワー
映画「あつもの」で平成一二(二〇〇〇)年の毎日映画コンクール助演男優賞を受賞するなど、俳優としても国際的活躍を続けているヨシ笈田は、演出家としても名高い。平成一〇(一九九八)年には、初のオペラ演出にも挑戦している。彼は、南フランスのエクス・アン・プロヴァンス音楽祭でベンジャミン・ブリテンのオペラ「カーリュー・リバー」を演出、聴衆に「魂の底まで貫き通す感動」を与えたという。
音楽ジャーナリストの下田季美子氏のレポートによると、笈田はまず、無名の若い歌手たちを起用、無国籍的な舞台を設定し、文化的背景の異なる歌手たちに「音のパワー」について多く語った。笈田は言霊に興味を持ち、真言密教の声明、念仏、神道の祝詞などで体験されるような音による精神世界への到達をもくろんだのである。下田氏は、笈田の試みを「日本的な精神性をヨーロッパの文化的土壌の中で普遍化した」ものだともいう(1)。この事実は、音のパワーが、民族、宗教を超えて普遍的な感動を与えることを示しているのではなかろうか。 続きを読む 「音のパワー」─田中逸平の仏教感
1926年の亜細亜民族会議の教訓
大正13(1924)年7月にアメリカで排日移民法が施行され、日本国内で反米ムードが高まりつつあった。こうした中で人種平等を掲げたアジア人の連帯運動の気運も次第に盛り上がり、興亜論者だけでなく、政治家の中にも興亜運動を進めようという動きが出てきていた。政友会の今里準太郎もその1人であった。例えば、今里は移民法施行直後の大正13年7月6日に、時の総理大臣加藤高明に対して「外交方針ニ関スル質問主意書」を提出している。そこには、次のように記されている。
1、人種平等ニ関シ日本政府ノ採レル努力ノ経過並今後ノ方針如何
2、米国以外ノ日本移民地ニ於テ日本移民ヲ永遠ニ安住セシムル具体的方針如何
3、日支親善ノ具体策トシテ日支間ノ条約一部ノ改廃乃至日支同盟ノ意ナキ乎
右及質問候也(1) 続きを読む 精神的基礎なきアジア連帯会議
杉浦重剛と頭山満を師として
大日社設立は昭和5年と考えられ、雑誌『大日』は翌6年から昭和20年まで14年間に亘り発行された。 同誌発刊の辞には次のようにある。「明治21年乾坤社を興して、雜誌『日本人』を創めたるは吾人の師長天台道士杉浦重剛先生なり。其の翌年新聞『日本』を興して國體主義を高調したるは羯南陸實先生なり。爾來40年濟々たる多士は苦節に死し、吾人の先輩は曉天の星の如くなれり。吾人の魯鈍なる、再躓三躓今や讒かに彈丸黒子の地を守るに過ぎず。茲に頭山立雲先生を社師として、廣く天下同志の贊襄を仰ぎ、新たに『大日社』を興し、雜誌『大日』を創刊して名節を砥礪し大義に終始し、毅然筆致に任じて操觚の天職を全うせんとするは先輩師長の先蹤を追うものなり」 続きを読む 大日社の思想 |
興亜論者とムスリム
世界の道義的統一を目指した日本人たちは、東アジアだけでなくイスラーム諸国に対しても特別な関心を払っていた。その中心にいたのが興亜論者であった。
彼らは、欧米に抑圧されるムスリムの惨状を我が事のように考え、欧米列強の植民地支配からの解放を目指して協力しようとしていた。 続きを読む 玄洋社とムスリム
「外部ノ物質的援助ヲ仰ガズ」
大正15年2月11日、古着屋を営んでいた増井潤一郎が旗揚げした団体である。増井は新潟県高田の出身で、小学校の教師をしていた父から武士的教育を受けるとともに、漢学を仕込まれて成長した。増井の脳裏には、父から教えられた『日本外史』をはじめとする著書に示された楠一族の殉国物語が深く沁み込んでいた(荒原朴水『大右翼史 増補版』大日本一誠会出版局、1974年、100頁)。 続きを読む 大日本殉国会 |
イスラーム先駆者