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東条政権下の維新派─昭和18年10月の一斉検挙事件

 令和4年10月7日に開催された『維新と興亜』塾「橘孝三郎を読み解く」(講師:小野耕資)に参加させていただいた。
 小野氏からの講義の後、東条政権下の橘孝三郎の動向にかかわる質問があった。近衛新体制下、東条政権下における維新派の動向は極めて重要なテーマである。
 小菅刑務所で服役していた橘が仮釈放となって出所するのは、昭和15年10月17日のことである。血盟団事件の井上日召も同じ日に出所している。
 三上卓は、これより先昭和13年7月に仮釈放となっている。橘が仮釈放となる少し前の昭和15年2月前後、三上は大岸頼好らとともに、何度も近衛文麿と面会、やがて近衛新体制運動が動き出す中で、同年7月初旬、七生社の穂積五一らと日本主義陣営の横断的組織の結成に動き、同年8月16日 学士会館で「翼賛体制建設青年連盟」(後に皇道翼賛青年連盟と決定)を結成することを決めた。一方、井上日召は、三上や四元義隆の協力を得て、昭和16年7月に「ひもろぎ塾」を設立した。
 東条政権が発足するのは、その3カ月後の昭和16年10月18日である。東条は昭和17年1月18日、戦時刑事特別法案を国会に提出した。国家総動員法、言論出版集会結社等臨時取締法につらなる戦時体制強化を目指した法案だった。一部議員の反対を押し切って成立した同法は同年3月に施行された。東条は、さらに同年末に召集された第81議会で、「国政を変乱」する目的の刑法犯や、治安・秩序を乱す宣伝活動なども処罰対象とする同法改正案を提出した。帝京大学教授の小山俊樹氏は次のように述べている。
 〈戦刑法の改正過程は、強権化した東条英機政権への反発者を炙り出すものとなった。
 一九四三年二月、第八一議会では衆院議員の清瀬一郎(元五・一五事件弁護人)が、「言論の自由」を求め、統制強化をすすめる東条政権を正面から批判した。さらに鳩山一郎(元政友会)ら旧既成政党の非主流派(自由主義派)と、中野正剛(元東方会・東方同志会会長)ら国家主義派、笹川良一・赤尾敏ら民間右派、水谷長三郎(元社会大衆党)ら旧無産政党系など、左右の立場を問わない衆院議員が結集して戦刑法の改正に反対した。皇道翼賛青年連盟も、東方同志会など一四団体と連名で反対を表明した。だが東条内閣は強行採決で改正案を成立させ、反対者への弾圧を強化した。
 東条政権の高まる威圧を前に、三上ら維新勢力は軍部との対立を深める。毛呂(清輝)は回想する。
 「東条の憲兵政治は常に私らの動きに眼を光らせていた。〔中略〕当時は支配者は官僚化した軍部であり、その治下での国内革新の運動は技術的にも非常に困難だった」。東方同志会の幹部も、三上とはこの頃に「相提携してともども東条内閣と戦った」と回顧する。
 ただし毛呂によると、三上は皇道翼賛青年連盟の一部が「非常手段による東条内閣打倒を計画したとき」に反対し、委員長を辞して脱退したという(「日本クーデターの真相」)。三上の動向は判然としないか、青年たちを危険にさらすテロは本意ではなかったのであろう。
 このとき政権批判の急先鋒は、東条首相をこきおろす「戦時宰相論」を『朝日新聞』に寄稿した(即日発禁)中野正剛であった。中野は密かに、天野辰夫(神兵隊事件首謀者)と結んで宇垣一成(元陸相・元外相)擁立工作を進めていた。片岡駿(勤皇まことむすび=五・一五事件元受刑者の本間憲一郎らを中心に一九三九年結成)の協力によって、東条に予備役へ編入された石原莞爾(陸軍予備役中将)とも密かに連絡した。
 一九四三年一〇月二一日の全国一斉検挙は、これらの反東条の動向を圧殺しようとするものであった。東方同志会・勤王まことむすび・大日本勤王同志会などの民間右派から、百数十名を超える大量の検挙者が出た(皇道翼賛青年連盟の構成員もこの数に含まれる)。〉
 やがて三上は東条暗殺計画に参画する。昭和19年6月22日、三上は東条政権打倒に動いていた高木惣吉海軍少将に近い神重徳大佐と密会、暗殺計画を作成していった。高木の残した記録によると、「決行人員は七人。場所は海軍省手前の四つ角。自動車三台に分乗し、海軍省内、大審院の濠沿い、内務省側にそれぞれ待機。(東条の)オープンカーが警視庁前に見えたら合図させ、前と両方の三方から挟み撃ちにして衝突させ、射殺する」という計画だった。
 ところが、7月13日付で神大佐に、連合艦隊司令部参謀への転出内示が出される。そのため、計画の実行は一週間延期された。その間、7月18日にサイパン失陥の責任をとる形で、東条内閣は総辞職。暗殺計画は実行されなかった。
 一方、永松浅造は『生きている右翼』で次のように書いている。
 「皇道翼賛青年連盟の毛呂清輝、小島玄之もまた軍部の擅横に対して蹶起した。
 その理由は、東条内閣と大政翼賛会と、陸軍大将阿部信行を総裁とする翼賛政治会とは、三位一体となって国政を壟断し、議会の真の機能を停止状態に麻痺させている。これは明かに欽定憲法を無視し、蹂躍した軍部中心の幕府的存在で、その亡状、天人倶に許しがたい。速かにその非を改めると同時に辞職せよと、猛然、非難攻撃をした」

橘孝三郎『大東亜戦の本質』(昭和18年)

 大東亜戦争の本質とは何だったのか。大東亜共栄文明の創造を目指した橘孝三郎は、『大東亜戦の本質』(昭和18年)において、次のように書いていた。

 〈そこへゆくとアジアは全くヨーロツパと異つておる。特に漢民族と印度民族とは過去に於て光つておる。之等のアジア民族はいづれも共栄精神に一貫しておる。そして、共栄社会を歴史の過去に実現して来た民族である。それが、過去以上の状態を打開し得ず休眠的民族として、近世西洋唯物文明支配下に全く哀れむ可き状態に捨て置かれておる。たゞ、その共栄的アジア民族の中に在つて祖国日本のみは、驚異に値する方法に依つて、近世西洋唯物文明支配下に巧みに順応して、積極的活動に出で得るの素地を現実に養つて来たのである。かくて、この闘力時代を切りぬけて、アジア共栄精神に依つて、共栄文明を創造し得る中心主動者は之を祖国日本に求むる以外に全く他者在る事を知らない事実を発見し得るのである。問題は、かくて、当然、祖国日本の自己救済に在る。更に、自己救済以て大東亜に於て先づ大東亜共栄文明を創造しかく世界救済に値する世界共栄文明を導き出す主動者たり得るであらうかどうか。
(中略)
 …一面闘力体制を即刻整備し出さねばならん。それと同時に他面大東亜に全面一貫す可き共栄文明創造の基礎にて根幹をかためなさねばならんのである。
(中略)
 …国内米英体制を一掃して、真に日本的闘力体制を整備す可き事は、とりもなほさず、カバネ制の旧をとりもどす事であつて、国体の大本に立還る事に外ならんのである。尚、国体の大本を忘れて真の日本的闘力体制は絶対に実現不可能である。しかも亦、大東亜共栄文明創造而して世界救済の大道が貫通しておる。漢民族四憶万が何事を日本に期待しておるのであらうか。印度民族三億五千万が何事を日本に期待しておるであらうか。米英の本家を追ひとばして、それにとつて代へて日本的米英支配を下さん事のそれであらうか。とんでもない。漢民族が日本に期待し、印度民族が日本に期待する処のものは、唯漢民族本来、印度人本来の立場に於て解放救済されん事のそれであらねばならん。而して、それ等はいづれも共栄主義民族だつたのである。されば自明である。漢民族、印度人凡そ八億万大衆の日本に期待する所のものは、その本来の立場に再生復し得る一切の途を遮閉せる近世西洋唯物文明支配力を先づ粉砕撃滅一掃せんことのそれである。
(中略)
 されば大東亜戦は一面最も凄惨な撃滅戦であると共に、他面歴史に於て最も光栄ある救済文明創造戦である。大東亜戦の本質が茲に在る〉

五・一五事件を指導した思想は世界を救う思想である!

 鳥取出身の文芸評論家・伊福部隆輝(隆彦)は、五・一五事件から2年後の昭和8年に『五・一五事件背後の思想』(明治図書出版)を刊行し、五・一五事件について次のように評した。
 「それは国民の意識的文化感情とは全く逆な事件である。それは全く夢想だにしなかつたところの突発事件であらう。
 しかも一度発せらるゝや、この事件は、国民の文化感情、社会感情に絶大な反省的衝撃を与えた。
(中略)
 五・一五事件の意義は、犬養首相が斃されたことでもなく、其他が襲撃されたことでもない。又政界不安が起つたことでもなければ、農民救済議会が召集されたことでもない。
 それは国民に文化的反省を起さしめたこと、日本的精神を振興せしめたことそのことでなければならない。
 事実、五・一五事件までのわが国民は、その将来への文化意識に於て、何ものも日本的なる特殊なる文化精神を感じ得てゐなかつた。共産主義を認めるか否か、それは別である。しかし日本の進むべき文化的道が、過去の日本の精神の中に求めらるゝとは一般的に考へられてはゐなかつた。それは飽迄も欧米への追随それだけであつた。
 然るにこの事件を契機として、斯くの如き欧米模倣の文化的精神は改めて批判されんとして来、新たなる日本的文化精神が考へらるゝに至つたのである」
 伊福部はこのように事件を評価した上で、事件の背後にあった思想に迫っていく。彼は「彼等をして斯くの如き行動をなさしめたその思想的根拠は何であつたか」と問いかけ、血盟団事件も含めて、彼等が正当だと感じさせた思想として、以下の5つを挙げている。
 一、大西郷遺訓
 二、北一輝氏の日本改造思想
 三、権藤成卿氏の自治制度学思想
 四、橘孝三郎氏の愛郷思想
 五、大川周明氏の日本思想
 そして、伊福部は「これは単に彼等を指導したのみの思想ではない。実にこれこそは、西欧文明模倣に爛朽した日本を救うところの救世的思想である。
 西欧文明は没落した。新しい文明の源泉は東洋に求められなければならないとは古くはドイツの哲人ニイチエの提唱したところであり、近くはシユペングラアの絶叫するところであるが、これ等の五つの思想こそは実に単に日本を救ふのみの思想でなく、おそらくは世界を救ふ新文明思想であらう」と書いている。
 我々は、「五・一五事件を指導した思想は世界を救う思想である」という主張に、改めて向き合う必要があるのではないか。

『土とま心』─橘孝三郎精神の継承

 『土とま心』は、橘孝三郎存命中の昭和48年8月、橘の従弟である橘経雄の発案で、橘の思想、人となり、著述とその内容を若い人達に知ってもらうことを目的として、楯の会第1期の阿部勉が橘の門弟の棚井勝一氏の協力を得て創刊したものである。「日本文明の先駆者」(『月刊日本』2011年4月号)で橘を取り上げるに当たり、水戸に棚井氏をお訪ねし、貴重なお話を伺った上で、『土とま心』全号をお借りした。
 最終号となった第7号の編集後記には、次のように記されている。
 「確かに、橘塾長と三島さんの思想や実践活動のあり方には懸隔があったのは否定できません。しかし、あまり知られておりませんが、両者にはかなり深い交流があったようです。橘塾長は三島さんの思想及び楯の会に強く共鳴し、自身の孫の一人をはじめ、門下の六、七名の学生を楯の会に参加させています。また、その門下の一人で楯の会一期生の篠原裕さんを通じ、著書「天皇論」五部作を三島さんに贈り、三島さんの天皇論、殊に大嘗祭の解釈にかなりの影響を与えたことは、あまり知られていない事実です」
 以下に全号の表紙と目次を載せておきたい。

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田中清玄とアジア連盟構想

橘孝三郎と三上卓を尊敬

 田中清玄は、明治39年3月5日に北海道亀田郡七飯町で生まれた。東京帝国大学在学中に日本共産党に入党、後に書記長に就いた。だが、昭和5年に治安維持法違反容疑で逮捕され、無期懲役となる。母の自殺などを経て獄中で転向する。
 戦後は、興亜思想に基づいて、タイの復興に尽力したほか、インドネシア等に人脈を築く一方、尊敬する民族派は橘孝三郎と三上卓と語っていた。 続きを読む 田中清玄とアジア連盟構想