「内田良平」カテゴリーアーカイブ

黒龍会の「縁の下の力持ち」─久留米藩勤皇派第二世代と興亜

 川上善兵衛著『武田範之伝―興亜前提史』において、滝沢誠は「武田範之における勤皇主義の前提」と題して、以下のように書いている。
 「久留米藩勤皇派メンバーの第二世代の多くは、黒竜会の傘下に集まったが、その役割は、内田良平に見られるあの権謀術数のかぎりを尽した派手な行動の裏にあって、縁の下の力持ち的なものであった。真木和泉の甥で漢詩人の宮崎来城は、黒竜会の宣言・規約を執筆している。範之は敵を作ることの多い内田良平に代って、韓国側合邦運動当事者である一進会の担当者として、内田の意を十二分に体した裏面での行動に終始した」

内田良平翁「金利中心主義の経営方針を改めよ」(大日本生産党産業調査部編『日本新経済策 前巻』)

 金融資本主義が行き詰る中で、産業中心の企業経営への転換が求められている。
 昭和維新運動が昂揚した昭和7年、内田良平翁が総裁を務める大日本生産党は次のように主張していた。

 「……要するに、日本主義的経済社命建設に対する経済経綸の大綱は、左の各項にて尽さるゝ訳である。
 一、金融機関の国家管理断行
 二、産業統制及監督機関の設定
 三、各産業個々の経営機構の合理化と之を基準とする各産業経営組織の統制断行
 四、産業補助企業の国家管理の断行
 …金融機関を国家にて管理すると共に、金融制度の徹底的改正を断行し以て、金融機関の統制を紊す根本原因たる金利中心主義に依る経営方針を改善して、産業中心に依る企業経営主義の下に、産業振興助成の責務を全ふせしむる事である。
 之に依って金利中心に依る弊を除去すると共に、企業投資に対する真剣なる需要が起り産業の振興を促進するに至るは必然である。
 茲に於て上述の如く、経済機構の改善をなすに伴ふて起るは海外の資本主義国の経済機構対策問題であるが、之は今日より良化さるゝ事は現在の如く、無統制なる経済機構の下に於ける種々の弊害を根本的に改修したる機構の下に於て、必然的の事であつて多言を要せざる事である.殊に金融機関の国家統制下に於ては、如何なる経済政策も有効に作用するに至る、故に産業中心の経営方針の下に合理的手段を講ずる事が出来る訳である.
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皇道経済の施策─大日本生産党産業調査部編『日本新経済策 前巻』

以下は、昭和7年末に大日本生産党産業調査部が編んだ『日本新経済策 前巻』の目次。

第一章 總論
 一 日本主義の發祥と國家社會主義/1
 二 國民思想と經濟社會組織/3
 三 資本主義經濟の行詰と經濟組織の改修より建設へ(附圖七頁、九頁)/5
 四 企業經營合理化の要/10
 五 國家管理に依る統制經濟社會の經營的矛盾性(附圖十三頁)/11
 六 中小商工對策の根本問題/14
 七 農村對策の根本問題/15
 八 金融機關の國家管理の提唱/17
 九 國營事業とすべき企業/18
 十 我經濟社會の建設大綱(附圖二十頁)/19
 十一 企業統制の眞意義と具體的手段/21
 十二 產業統制機關の組織と機能 (附圖二十五頁)/24 続きを読む 皇道経済の施策─大日本生産党産業調査部編『日本新経済策 前巻』

デジタルライブラリーで読める世界紅卍会関連書籍

内田良平『満蒙の独立と世界紅卍字会の活動』先進社、昭和6年
末光高義『支那の秘密結社と慈善結社』満洲評論社、昭和7年
皇道大本本部『皇道大本事務便覧』天声社、昭和8年
興亜宗教協会編『世界紅卍字会道院の実態』興亜宗教協会、昭和16年
橘樸他著『道教と神話伝説 : 中国の民間信仰』改造社、昭和23年

近代デジタルライブラリーで閲覧可能な興亜論関連文献

森本藤吉『大東合邦論』森本藤吉、明治26年

荒尾精『対清意見』博文館、明治27年

副島種臣著、片淵琢編『副島伯閑話』広文堂、明治35年

宮崎滔天『三十三年の夢』国光書房、明治35年

北輝次郎『国体論及び純正社会主義』北輝次郎、明治39年 続きを読む 近代デジタルライブラリーで閲覧可能な興亜論関連文献

内田良平関連書

著者 書籍写真 書名 副書名 出版社 出版年
内田良平研究会編著 国士内田良平 その思想と行動 展転社 2003年
内田良平編 朝鮮統治問題に就て先輩並に知友各位に訴ふ 復刻版 龍渓書舎 1996年 (韓国併合史研究資料 ; 19)
内田良平文書研究会編 内田良平関係文書 第1巻 – 第11巻 芙蓉書房出版 1994年
内田良平文書研究会編 内田良平関係文書付録 第1巻第6号 亜細亜時論 芙蓉書房出版 1994年
内田良平文書研究会編集・解題 黒龍会関係資料集 復刻版 1 – 10 柏書房 1992年 (日本国家主義運動資料集成 ; 第1期) 続きを読む 内田良平関連書

信州国民党

「全人類の皇化」を目指す

 信州国民党は、昭和4年5月26日、八幡博堂、鈴木善一によって、松本市に組織的政党として設立された。総理に野田喜代志、顧問に頭山満、内田良平、執行委員長に寺田稲次郎、書記長に八幡博堂、書記次長に鈴木善一、統制委員長に西田税、中央委員に長野朗、津田光造が就いた。宣言は、次のように謳った。
 「我等の敵は独り是等国内に跳梁跋扈する非日本的、非国民的徒輩のみではない、侵略的白色人種閥勢力に依って有色人種に加えられつつある生存権の事実上の否定を見よ。更に又世界各国の共産主義化と彼等の所謂「日本爆破」を計画実践しつつあるソヴエット、ロシヤの暴状を見よ。
 彼等は国際的共存共栄の公道を破壊し、人類生存の理義を蹂躙する世界の公敵である。道義的世界建設の歴史的使命を有する我等は、今や有色人種の尖端に立ち、この幾世紀の永きに亘る巨弾と鉄鎖の悲惨なる苦難と試練とを突破して、人類の解放戦に勇敢に戦うべきである。然り、この世界を横行闊歩する強敵を屠って全人類を完全に皇化する日まで、我等の決死的戦闘は継続されねばならなぬ」
 信州国民党は、昭和4年11月に日本国民党と改称し、翌昭和5年2月の第2回普通選挙には八幡博堂が信州から立候補して、既成政党に対して大いに気を吐いた(荒原朴水『大右翼史 増補版』大日本一誠会出版局、1974年、100頁)。
 昭和6年11月に大日本生産党に合流した。