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『徳川幕府が恐れた尾張藩』まえがき

■忘却された尾張藩史
 尾張藩は徳川御三家筆頭であり、明治維新に至る幕末の最終局面で幕府側についてもおかしくはなかった。ところが尾張藩は最終的に新政府側についた。この決断の謎を解くカギが、初代藩主・徳川義直(敬公)の遺訓「王命に依って催さるる事」である。事あらば、将軍の臣下ではなく天皇の臣下として責務を果たすべきことを強調したものであり、「仮にも朝廷に向うて弓を引く事ある可からず」と解釈されてきた。
 この考え方を突き詰めていけば、尊皇斥覇(王者・王道を尊び、覇者・覇道を斥ける)の思想となる。その行きつく先は、尊皇倒幕論である。
 「王命に依って催さるる事」に象徴される義直の尊皇思想は、幾多の障害を乗り越えてその命脈を保ち、ついに幕末に花開いた。同時に、水戸光圀(義公)らの尊皇思想にも強い影響を与えた。「王命に依って催さるる事」は、大楠公(楠正成)に対する崇拝と不可分だったが、義直の楠公崇拝は、義公による「嗚呼忠臣楠子之墓」の碑建立にも影響を与えた。ここからは、尾張藩と水戸藩が連携しながら、義直の尊皇思想を継承、発展させた歴史が浮かび上がってくる。
 義直の遺訓は、第四代藩主・徳川吉通(在任期間:一六九九~一七一三年)の時代に復興し、明和元(一七六四)年、吉通に仕えた近松茂矩が『円覚院様御伝十五ヶ条』として明文化した。やがて十九世紀半ば、第十四代藩主・徳川慶勝の時代に、近松茂矩の子孫近松矩弘らが「王命に依って催さるる事」の体現に動くことになる。この過程にも、義直以来の楠公精神の継承という地道な思想運動が存在していたのだ。慶勝は、酒宴の時には、山崎闇斎を祖とする崎門学派の浅見絅斎が残した謡曲「楠」を謡わせたともいう。
 ところが、明治期に確立した薩長中心の歴史観においては、尾張藩が果たした役割は過小評価されている。また戦後史観においては、明治維新に至る尊皇思想の発展の歴史が軽視されている。その結果、尾張藩の果たした思想的役割が忘却されてきたのではないか。しかも、同じ御三家でありながら、幕府と尾張藩の軋轢は、幕府と水戸藩の軋轢ほど注目されてこなかった。水戸藩が水戸学という確固たる思想を発展させたのに対して、尾張藩は尾張学の確立には至らなかったことがその理由の一つかもしれない。否、尾張学はあったとしても、それが捉え難いものだったからかもしれない。

坪内隆彦『徳川幕府が恐れた尾張藩─知られざる尊皇倒幕論の発火点』(望楠書房、令和2年8月)

■「尾張が勤皇倒幕の義旗を掲げて立つ」
 実は初代義直以来、尾張藩と幕府は尋常ならざる関係にあったのだ。幕府は尾張藩に潜伏する「王命に依って催さるる事」を一貫して恐れていたのではないか。何よりも幕府は、鎌倉幕府以来の武家政治が覇道による統治とみなされることを警戒していた。
 実際、幕府と尾張藩の関係は度々緊張した。寛永十(一六三三)年に将軍・家光が病に倒れた際、幕閣たちは「義直に謀叛の意あり」と警戒した。この時、義直は本気で家光を倒そうとしたのかもしれない。
 将軍・家綱時代の延宝七(一六七九)年に老中に就いた堀田正俊は、尾張藩を滅亡に追い込もうとしていたとも言われている。正徳三(一七一三)年には、第四代藩主・吉通が急死したが、毒殺説が後を絶たなかった。享保十五(一七三〇)年、第六代藩主・継友が急死した際にも暗殺説が流れた。
 第七代藩主・宗春は将軍・吉宗と全面戦争を戦った末、元文四(一七三九)年に隠居謹慎を命じられ、名古屋城に幽閉された。その四年前の享保二十(一七三五)年に一条兼香は「尾張(宗春)は勤皇倒幕の義旗を掲げて立つに違いないと思った」と日記に記していた。事実、尾張徳川家第十八代当主・徳川義親は、公然と勤皇家として振舞っていた宗春が幕府に警戒された理由は、「若し尾州にして、西に京都、東山、東海を扼して、外様の諸大名を語らつた暁には、幕府にとっては実に由々しき、一大事であつたからである」と述べている。また、安永六(一七七七)年には、宗春に仕えた勤皇派の河村秀根が、京都に通じて謀叛を企てたとして投獄されている。
 十八世紀末には、尾張藩に対する幕府の統制が強まった。尾張藩では、寛政十一(一七九九)年から五十年間、幕府による押し付け養子が藩主を務め、尾張藩は「幕府尾州出張所」のごとき様相を呈していた。これも尾張藩に対する幕府の警戒感の表れである。そして、押し付け養子に反発する尊皇派の後押しを受けて第十四代藩主に就いた慶勝は、安政五(一八五八)年には、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印した幕府を厳しく批判し、隠居謹慎に処されている。幕府と尾張藩の間には、以上のような緊張状態が続いていたのである。

■幕府に弾圧された崎門学
 十八世紀半ば以降、尊皇斥覇を強調した崎門学派・垂加神道派の動向を、幕府は最も警戒していた。実際、宝暦九(一七五九)年には、桃園天皇の近臣に講義をした崎門学派の竹内式部が京都から追放される事件が起きている(宝暦事件)。この時には、式部門下の公家とともに富山藩第二代藩主・前田正甫の八男・前田利寛、郡上藩第二代藩主・金森頼錦の五男・金森能蔵も関与した倒幕挙兵の計画があった。明和四(一七六七)年には、同じく崎門学派の山県大弐らが処刑されている(明和事件)。
 こうした崎門学派弾圧に象徴されるように、幕末以前の朝権回復思想の発火点は主に京都だった。だが、我々は尾張藩においても尊皇倒幕運動が存在した可能性について再考すべきではなかろうか。幕府と尾張藩の関係が度々緊張したのも、そうした尊皇思想の高まりと無関係ではない。明治時代の新聞記者・三田村鳶魚は「尾藩の尊王論が義直の遺旨として捧持される限り、幕府が排尾に固執する理由もある。江戸時代に尊王論ほどなイヤがらせはないのです」と述べているほどだ(『御家騒動』)。
 そして、「王命に依って催さるる事」の継承は、崎門学派弾圧事件と連動していた。「王命に依って催さるる事」の継承を支えていたのは、ほかならぬ崎門学派であった。吉通も近松茂矩もともに崎門学派であった。茂矩の『円覚院様御伝十五ヶ条』が、宝暦事件と明和事件の間の明和元年に著されたことに注目すべきだ。実は、式部と茂矩は、垂加神道派の玉木正英が自ら大成した橘家神道でもつながっていた。式部の家宅捜索の際、彼の書物の中に『橘家神軍伝』が含まれていた。茂矩もまた、『橘家神軍之伝』を取り入れて独自の流派を創始していた。しかも、茂矩は義直の遺訓「王命に依って催さるる事」が、わが国独自の兵学思想に裏付けられたものであることを理解していた。
 さらに、茂矩が大石内蔵助良雄らの赤穂義士に強い共感を抱いていたのも偶然ではない。大石には、「日神(天照大神)の信仰」を重視した山鹿流の兵学思想が流れていたからだ。

■「幕府─親幕派公家─吉田神道」vs.「朝廷─朝権回復派公家─垂加神道」
 では、幕府が警戒する中で、いかにして「王命に依って催さるる事」の思想はその命脈を保ったのか。尾張藩では義直以来の尊皇思想が崎門学派、また松平君山にはじまる君山学派、本居国学派らによって継承されていたからである。そして、幕府による押し付け養子に反発し、慶勝擁立を主導したのは、国学派の植松茂岳、茜部相嘉や君山学派の田宮如雲である。
 初代藩主・義直の尊皇思想、それを継承した尾張藩尊皇派の思想と行動を支えていたものこそ、失われた朝廷の権威を回復するという天皇のご意志だったのではないか。
 天皇を敬して遠ざけるという幕府の基本政策の中にあって、御水尾天皇、霊元天皇、桜町天皇、桃園天皇、光格天皇、孝明天皇をはじめとする天皇は朝権回復のご意志を明確にされた。それは、天皇親政の黄金時代と呼ばれた、醍醐天皇(在位:八九七~九三〇年)、村上天皇(同:九四六~九六七年)時代の延喜・天暦の御治政の回復である。承久の変における後鳥羽・土御門・順徳の三天皇の悲劇、建武中興における後醍醐天皇の挫折に心を寄せ、朝権回復のご意志を支えようとしたのが、崎門学派に代表される尊皇斥覇の思想だったのではないか。
 例えば、霊元天皇側近の一条兼輝は正親町公通から垂加神道の口訣を受けていた。また、霊元天皇ご自身も垂加神道を理解し、信仰を寄せられていたと推測される。霊元天皇は山崎闇斎の垂加霊社を境内にお祀りしている下御霊神社を特別に崇敬されていた。
 ところが、幕府に阿り朝権回復のご意志を阻止しようとする公家が存在した。例えば、霊元上皇時代の関白・近衛基煕である。霊元上皇のご祈願文は、基煕の孫の関白・近衛家久を「悪臣」、「邪臣」と呼んで厳しく批判されている。ここで注目すべきは、幕府の優遇を受けていた吉田神道派と近衛基煕とのつながりである。つまり、「幕府─親幕派公家(近衛家等)─吉田神道」と「朝廷─朝権回復派公家(一条家・九条家等)─垂加神道」の対立という構図が浮かび上がってくるのだ。そして、徳川御三家であるにもかかわらず、時として尾張藩は朝廷側を支える強力な存在として動いていたかに見える。
 朝廷と尾張藩は崎門学でつながっていただけではなく、有職故実研究によっても結ばれていた。例えば、名古屋市長の河村たかし氏の祖先にあたる河村家の学問は「紀典学」に結実し、尾張藩尊皇思想の発展に貢献したが、河村家は、平安時代中期の明経博士清原広澄を氏祖とする清原家(伏原家)との交流があった。例えば、安永二(一七七三)年には、河村家が収集した二万冊もの書籍を一般公開するために「文会書庫」が設けられたが、それを命名し書を贈ったのは、伏原宣條である。宣條は宝暦事件で追放された崎門学派の竹内式部の門人でもある。皇學館大学教授の松本丘氏が作成した「垂加神道系譜」には、垂加神道派の門人として河村秀穎、河村秀根が名を連ねている。秀根は第七代藩主・宗春に重用された人物としても知られる。
 そして、尾張藩における有職故実研究、六国史研究もまた、初代藩主・義直に発している。義直が編んだ『類聚日本紀』は六国史の記事を事柄ごとに分類し、さらに古典の諸書によって考究したものであり、その後の尾張藩国史研究の礎となった。
 幕府はなぜ尾張藩を警戒したのか。尾張藩尊皇思想の源流である義直の思想とはいかなるものであり、いかにして継承されたのか。その過程で、尾張藩と朝廷を結ぶ崎門学派はいかなる役割を演じたのか。本書では、知られざる尾張藩の謎に迫る。

『GHQが恐れた崎門学』まえがき

志士たちの「聖典」なくして明治維新なし
 百五十年前の一八六八年、二百六十年間続いた徳川幕府がついに倒れ、明治維新が実現しました。その過程で多くの志士たちが自らの命を擲ちました。これらの志士たちの高い理想と鉄のような意志がなければ、明治維新は達成されなかったのです。
 本書は、幕末の志士たちが目指した「わが国の理想の姿」がどのようなものであったのか、そして彼らの不屈の行動を支えたものがいったい何であったかを明らかにします。
 幕末の志士たちには、自らの思想と行動を支える教科書、もっと言えば「聖典」とも呼ぶべき座右の書がありました。それが、本書で紹介する浅見絅斎の『靖献遺言』(一六八七年)、頼山陽の『日本外史』(一八二七年)などの書物です。例えば大正六(一九一七)年に刊行された『国史趣味読本』は「維新以前、浪士書生の間に於て、盛に講読せられたる書籍は、浅見絅斎の靖献遺言と、頼山陽の日本外史とにあらずや。当時にして、靖献遺言・日本外史を読まざるものは、殆ど志士の間に歯せられざりき」と書いています。吉田松陰は、梅田雲浜を「『靖献遺言』で固めた男」と呼びました。
 筆者は、これらの書物なくして、明治維新はなかったと言っても過言ではないと考えています。これらの「聖典」には何が書かれていたのか、そして、志士たちの魂をいかに激しく揺さぶったのか。それを本書で解き明かしていきます。
 山崎闇斎を祖とする崎門学、その思想を受け継いだ水戸学だけではなく、『中朝事実』を著した山鹿素行や本居宣長・平田篤胤らの国学が、江戸期國體思想の発展に貢献しましたが、ここでは主に崎門学に焦点を当てます。
 わが国の本来の姿、國體の真髄は、万世一系の天皇による親政です。天皇が仁愛によって民を治め、敬虔によって神に仕え、大御心を国全体に広げる君民一体の政治です。山県大弐は、本書で取り上げる『柳子新論』において、「昔の天子は人民をわが子同様に見なし、人民は昔の天子をわが父母同様に見なした」と書いています。例えば、「民の竈」の逸話で知られる仁徳天皇は、「聖王たるものは、国民に一人でも飢えや寒さに苦しむ者があれば、自分を責められた」という姿勢をお失いになることはありませんでした。常に国民の生活をお気遣いになり、生活が困っているとお考えになるや、課税を停止して国民の負担を軽減され、ご自身の生活は顧られることがありませんでした。
 崎門学に連なる志士たちは、このわが国本来の姿が容易には実現されないことを理解していました。多くの先覚者たちが天皇親政の理想に目覚め、その理想の実現を志したものの、それを阻まれ失意のうちに斃れたことに深い思いを抱いていました。
 遡れば、後鳥羽上皇、後醍醐天皇、楠正成らの忠臣、徳川幕府全盛時代に弾圧された竹内式部や山県大弐らの先覚者──。困難な状況において孤高の戦いを挑み、敗れてもなお、その志だけは歴史に留めようとしたこれらの先覚者に、自らも連なろうとしたのです。この思いこそが、幕末の志士たちの鉄のような意志を支えていたのです。本書では、この意志の継承の具体的事例を描きます。巻末に掲載した年表からも、斃れてもなお遺志を継がんとする志士たちの魂のリレーの歴史が浮かび上がってくると思います。
 例えば、崎門に連なる高山彦九郎の魂を継ごうとする強烈な思いこそが、蒲生君平の『山陵志』だけではなく、頼山陽の『日本外史』執筆の原動力となっていたようです。
 残念ながらいま、「天皇親政こそがわが国のあるべき姿だ」という認識は失われています。敗戦後、「天皇親政はわが国の歴史の例外だ」という主張が幅を利かせてきたからです。津田左右吉の「建国の事情と万世一系の思想」(『世界』(昭和二十一年四月)以来、「天皇不親政論」が流布し、石井良助氏らの研究によってさらに強化されていきました。これに対して、平泉澄は、昭和二十九年の講演において次のように語っています。
 「藤原氏が摂政、関白となつたこともありますし、武家が幕府を開いたこともありますし、政治は往々にしてその実権下に移りましたけれども、それはどこまでも変態であつて、もし本来を云ひ本質を論じますならば、わが国は天皇の親政をもつて正しいとしたことは明瞭であります。(中略)従つて英明の天子が出られました場合には、必ずその変態を正して、正しい姿に戻さうとされたのでありまして、それが後三条天皇の御改革であり、後鳥羽天皇倒幕の御企てであり、後醍醐天皇の建武の中興であり、やがて明治天皇の明治維新でありましたことは申すまでもありません」(「國體と憲法」『先哲を仰ぐ』所収)
 この立場に立たなければ、明治維新の意義を正しく理解することは到底できません。
 『靖献遺言』、『保建大記』、『日本外史』など、本書で取り上げる書物を知ることによって、明治維新の最大の意義が皇政復古にあったことを改めて確認することができます。その意義は、「維新の詔」(明治元年三月十四日)に明確に示されています。
 「窃に考るに、中葉、朝政衰へてより、武家権を専らにし、表には朝廷を推尊して、実は敬して是を遠け、億兆の父母として、絶て赤子の情を知ること能はざるやふ計りなし、遂に億兆の君たるも、唯名のみに成り果て(中略)朕自身骨を労し、心志を苦しめ、艱難の先に立ち、古、列祖の尽させ給ひし跡を履み、治蹟を勤めてこそ、始めて天職を奉じて億兆の君たる所に背かざるべし」

『GHQが恐れた崎門学 明治維新を導いた國體思想とは何か』(展転社)

明治維新の原動力・崎門学
 では、天皇親政の理想を見失わなかった崎門学派とはどのような存在だったのでしょうか。山崎闇斎が強調したのは、君臣の大義と、内外(自国と他国)の別です。闇斎は、「徳を失った天子は倒していい」とする易姓革命論を否定する形で朱子学を受容し、さらに伊勢神道、吉田神道、忌部神道を吸収し、自ら垂加神道を樹立しました。
 しかも闇斎は、自らの出処進退によって、皇政復古の志を暗に示していました。闇斎は会津藩主の保科正之に仕えていましたが、寛文十二(一六七二)年に正之が死去すると、闇斎は会津藩の俸を辞し、亡くなるまで京の地を出なかったのです。また、闇斎の高弟浅見絅斎もまた、「予は既に終身足関東の地を踏まず、食を求めて大名に事へずと誓へり」と語っていました。
 天皇親政を目指した崎門学派の立場は、御用学者として幕府で重きをなした林羅山らの立場とは対極にあるものです。わが国の正しい姿は天皇親政にあるという立場を明確にしたのが崎門学だったのです。
 朝権回復を目指した崎門派の行動が、すでに明治維新の百年以上前から開始されていたことに注目すべきです。崎門学を学んだ竹内式部は、桃園天皇の近習である徳大寺公城らに講義を開始し、宝暦六(一七五六)年には桃園天皇への直接進講が実現しました。式部らは、桃園天皇が皇政復古の大業を成就することに期待感を抱いていたのです。ところが、それを警戒した徳川幕府によって、式部は宝暦八(一七五八)年に京都から追放されました。これが宝暦事件です。
 続く明和四(一七六七)年には、明和事件が起きます。これは、『柳子新論』を書いた山県大弐が処刑された事件です。朝権回復の思想は、幕府にとって極めて危険な思想として警戒され、苛酷な弾圧を受けたのです。特に、崎門の考え方が公家の間に浸透することを恐れ、一気にそうした公家に連なる人物を弾圧するという形で、安永二(一七七三)年には安永事件が起きています。
 この三事件挫折に強い衝撃を受けたのが、若き高山彦九郎です。彼は三事件の挫折を乗り越え、自ら朝権回復運動を引き継ぐのです。当時、朝権回復を目指していた光格天皇は実父典仁親王への尊号宣下を希望されていました。彦九郎は全国を渡り歩いて支持者を募り、なんとか尊号宣下を実現しようとしたのです。結局、幕府の追及を受け、寛政五(一七九三)年に彦九郎は自決に追い込まれました。その三年後に、彦九郎の後を追って切腹したのが、盟友の唐崎常陸介です。
 こうした一八世紀後半の動きが、やがて幕末の討幕運動に継承されていくのです。内田周平は、勤皇の事業に最も尽力貢献して人物として、四人の崎門学者、すなわち桃園天皇時代の竹内式部、光格天皇時代の唐崎常陸介、孝明天皇時代の梅田雲浜、有馬新七を挙げています。

日本人が失った死生観
 崎門学の真髄は、平泉澄の以下の言葉に言い尽くされています。
 「君臣の大義を明かにし、且身を以て之を験せんとする精神は、闇斎先生より始まつて門流に横溢し、後世に流伝した。こゝに絅斎は足関東の地を踏まず、腰に赤心報国の大刀を横たへ、こゝに若林強斎は、楠公を崇奉して書斎を望楠軒と号し、時勢と共にこの精神は一段の光彩を発し来つて、宝暦に竹内式部の処分あれば、明和に山県大弐藤井右門の刑死あり、高山彦九郎恢慨屠腹すれば、唐崎常陸介之につぎ、梅田雲浜天下の義気を鼓舞して獄死すれば、橋本景岳絶代の大才を抱いて斬にあひ、其の他有馬新七、西川耕蔵、乾十郎、中沼了三、中岡惧太郎、相ついで奮起して王事に勤め、遂によく明治維新の大業を翼賛し得たのであつた。國體を明かにし皇室を崇むるは、もとより他に種々の学者の功績を認めなければならないのであるが、君臣の大義を推し究めて時局を批判する事厳正に、しかもひとり之を認識明弁するに止まらず、身を以て之を験せんとし、従つて百難屈せず、先師倒れて後生之をつぎ、二百年に越え、幾百人に上り、前後唯一意、東西自ら一揆、王事につとめてやまざるもの、ひとり崎門に之を見る」
 筆者は、「百難屈せず、先師倒れて後生之をつぎ」という言葉に、崎門派の生き方、さらに言えば死生観を強く感じます。志半ばで斃れた先覚者の思いは、後生の志士に必ず引き継がれるという考え方です。具体的に言えば、弟の正季と「七生滅賊」を誓い、刺し違えて自刃した大楠公の精神は不滅であるという考え方です。この確信がなければ、明治維新は起こらなかったかもしれませんし、鎌倉幕府以来の歪んだ国の姿(「変態」)のままだったかもしれません。
 肉体的生命だけが尊重され、義よりも利が優先される現在の日本社会では、「節に死す」という生き方は理解し難いものかもしれません。しかし、『靖献遺言』にある「万人の承認する是非の正、論議の公は、天地とともに存して滅ぼすことができぬ」という言葉を、身を以て学んだ志士たちには、「節に死す」ことができたのです。国学もまた、わが国の國體を明らかにした学問ですが、実践的な行動を支えた学問という点で、まず崎門学が挙げられるべきなのです。

承久の悲劇─建武の中興─明治維新の精神的連続性
 幕末の志士の戦いの最終局面は、二百六十年にわたって続いた徳川幕府を倒すことでしたが、彼らの闘争は、七百年に及ぶ幕府体制との戦いでもありました。
 幕末の志士たちには、「鎌倉幕府以来七百年に及ぶ武家政権はわが国本来の姿ではない」という明確な認識があったのです。だからこそ、幕末の志士たちは、元弘三(一三三三)年の建武中興における後醍醐天皇の挫折、さらに遡って承久三(一二二一)年の承久の変における、後鳥羽、土御門、順徳の三天皇の悲劇に特別な思いを抱き、貫徹されることなく挫折した親政回復の理想を自ら成就しようと志したのです。
 承久三年、皇政復古を目指した後鳥羽上皇の御企図を、鎌倉幕府は鎮圧し、後鳥羽上皇を隠岐島へ、順徳上皇を佐渡島へ配流し、土御門上皇も自ら土佐国へ配流されました。三上皇は絶海の孤島にわびしくお過しになったのです。
 後鳥羽上皇は、天皇親政の黄金時代とも言うべき、醍醐天皇(在位:八九七~九三〇年)、村上天皇(同:九四六~九六七年)の延喜・天暦の御代の再現を目指され、その実現のために、自ら文武の両道を研究され、公家たちにも研究鍛錬させたのです。幕府政治を支持する歴史家たちは、この後鳥羽上皇の御志を無視し、それを鎮圧した北条の民政を称えてきたのです。
 天皇親政を回復する御志を理解し、承久の変を厳しく批判したのが、北畠親房の『神皇正統記』です。同書には「下として上を犯すは最も倫理道徳にそむいた事であつて、一旦は戦争に勝つても結局は必ず皇室に従ふべきである」(平泉澄訳)とあります。そして、『神皇正統記』の後、承久の悲劇に思いを寄せ、鎌倉幕府、北条氏を明確に糾弾したのが、崎門学だったのです。
 後醍醐天皇の父・後宇多天皇もまた、後鳥羽上皇と同じように、醍醐天皇、村上天皇の治績をお慕いになっていました。後醍醐天皇は、後宇多天皇のこの御精神を継がれたからこそ、自ら後醍醐天皇と称えられたのです。平泉澄は建武の中興について「この御事業は世を延喜天暦の昔に返さむが為の、則ち王政復古の御事業としてこれを御父帝より御受けになつたものであります」と明確に書かれています。
 明治維新と建武の中興・承久の悲劇の精神的連続性は、明治天皇の御沙汰に明瞭に示されています。明治二(一八六九)年二月、後醍醐天皇の皇子護良親王のために鎌倉宮を、宗良親王のために井伊谷宮を創建することを下命せられ、明治十三(一八八〇)年八月には懐良親王を祀る八代宮、同二十三(一八九〇)年九月には、尊良親王を祀る金崎宮が創建されました。また、明治六(一八七三)年には、御沙汰により、後鳥羽、土御門、順徳の三天皇の御神霊を奉迎することとなったのです。
 承久の悲劇、建武の中興の意義を正しく理解し、誤った歴史観に対して果敢に反論を試みてきたのが、崎門学派です。ところが、わが国本来の姿を見失った戦後の教育においては、承久の悲劇、建武の中興の意義は正しく教えられていません。例えば、東京書籍の教科書『新しい社会 歴史』には次のように描かれています。
 「朝廷の勢力の回復を図っていた後鳥羽上皇は、第3代将軍源実朝が殺害される事件が起きると、この幕府の混乱に乗じて、1221(承久3)年、幕府をたおそうと兵をあげました。/しかし幕府は大軍を送ってこれを破り(承久の乱)、後鳥羽上皇を隠岐(島根県)に流し、京都に六波羅探題を置いて朝廷を監視しました」
 後鳥羽上皇の親政回復の御志にふれることなく、変の背景について、ただ「幕府の混乱に乗じて」と書き、しかも鎌倉幕府を批判する言葉も一切ありません。
 一方、建武の中興の歴史も歪められてきました。『新しい社会 歴史』は「鎌倉幕府の滅亡で、天皇中心の新しい政治(建武の新政)」が始まり、後醍醐天皇は武家の政治を否定し、公家(貴族)重視の政策を続けました。このため、武士たちの間に不満が高まり、足利尊氏が武家の政治の復活を呼びかけ兵をあげると、新政は2年ほどでくずれました」
 天皇中心の政治と武家の政治とが、価値判断なく言及されています。ここでも、親政回復の理想について一切説明していません。新政の崩壊について「武士たちの間に不満が高まり」と書いていますが、新政が崩れた根本的原因は、当時の国民が義を忘れて利を求めたがために、足利尊氏の誘いに乗ってしまったことにつきるのです。
 このような教科書で日本史を学んでいては、どんなに「わが国の本来の姿」と訴えたところで、その意味が理解できるわけがありません。そして、「わが国の本来の姿」を顕現するという理想を失えば、日本は日本でなくなってしまうでしょう。

GHQが恐れた崎門学
 戦後、GHQがわが国を占領した際に自らに都合の悪い書物を焚書したことは、ようやく日本社会にも知れ渡ってきました。その中でも「國體」に関するものが数多く葬られてしまいました。
 GHQは、平泉澄の『闇斎先生と日本精神』、『日本精神の復活』、高須芳次郎編『栗山潜鋒・三宅観瀾集』、小林健三『垂加神道』、など、山崎闇斎を祖とする崎門・垂加の学に関する書籍、塚本勝義『藤田幽谷の思想』、松原晃『藤田幽谷の人物と思想』などの水戸学に関する書籍を没収しました。これは、澤龍氏が収集した書籍の分析に基づく占領史研究會編著『GHQに没収された本: 総目録 増補改訂版』によって明確になりました。
さらにGHQは、わが国の本来の姿を説いた書物を次々に没収したのです。楠公精神もその対象となり、土橋真吉『楠公精神の研究』などが没収されました。書名に、「國體」「国民精神」「日本精神」「日本主義」「大和魂」「神国」「神州」「皇国」「皇道」「皇民」「臣民」「臣道」「勤皇」などの付く書籍は悉く没収の対象となっていたことがわかります。このGHQの焚書によって、戦後の日本人はわが国の國體を見失ってしまったのです。
 大東亜戦争においてわが国の底力を痛感したアメリカは、戦後日本を無力化しようとしたのです。そこで日本の國體を破壊し、日本人から愛国心を喪失させようとしたのです。本来、日本の國體思想は攻撃的、排外的なものではなく、世界の手本になる思想なのですが、アメリカは大東亜戦争を闘った日本の国の姿を危険なものと曲解したということです。
 しかし、崎門の学は、厳しい占領時代を経て、生き残ってきたのです。その真価の一端を筆者なりに伝えることが本書の目的です。
 崎門学正統派を継ぐ近藤啓吾先生は「敗戦後、崎門垂加の学は、軍国主義の源泉、超国家主義思想なりとして危険視せられ、嘗てこれを高唱して得々たりしものも、その口をつぐみて知らざるの貌をなし、なかには却って罵詈已まざるあるに至れり」(『紹宇存稿』平成十年八月)と嘆かれています。
一方、平泉自身は、昭和四十五年十一月に刊行された『少年日本史』の前書きで次のように書かれています。
「…正しい日本人となる為には、日本歴史の真実を知り、之を受けつがねばならぬ。然るに、不幸にして、戦敗れた後の我が国は、占領軍の干渉の為に、正しい歴史を教える事が許されなかった。占領は足掛け八年にして解除せられた。然し歴史の学問は、占領下に大きく曲げられたままに、今日に至っている。従って皆さんが、此の少年日本史を読まれる時、それが一般に行われている書物と、大きく相違しているのに驚くであろう」

志士の魂を揺さぶった五冊
 本書では、浅見絅斎の『靖献遺言』、栗山潜鋒の『保建大記』、山県大弐の『柳子新論』、蒲生君平の『山陵志』、頼山陽の『日本外史』などが、いかに志士の魂を揺さぶったかを描きます。
 浅見絅斎の『靖献遺言』は、君臣の大義を抽象的な理論ではなく、歴史の具体的な事実によって示そうとしたものです。中国の忠孝義烈の士八人(屈平・諸葛亮・陶潜・顔真卿・文天祥・謝枋得・劉因・方孝孺)の事跡と、終焉に臨んで発せられた忠魂義胆の声を収めています。その一人、明の建文帝側近として活躍した方孝孺(一三五七~一四〇二年)は、建文帝から権力を簒奪した燕王・朱棣(永楽帝)に従うことなく節を貫き、壮絶な最期を遂げました。『靖献遺言』には、口の両側を切り裂かれ、耳まで切りひろげられ、七日間にわたって拷問されてもなお、死の瞬間まで永楽帝を罵り続けた方孝孺の姿が描かれています。『靖献遺言』は、梅田雲浜、有馬新七、橋本左内、真木和泉、吉田松陰らの志士に強い影響を与えました。
 闇斎門下の桑名松雲に師事した栗山潜鋒の『保建大記』は、後白河天皇践祚から崩御に至る、久寿二(一一五五)年から建久三(一一九二)年までの三十八年間を扱い、皇室の衰微と武家政治の萌兆をもたらした戦乱の根源を究明した書物です。もともと、同書は、潜鋒が後西天皇の皇子尚仁親王(一六七一~一六八九年)に献上した『保平綱史』を増補したものです。
 闇斎の高弟・三宅尚斎に儒学を、また玉木正英に垂加神道を学んだ加賀美光章に師事した山県大弐の『柳子新論』は、「正名、得一、人文、大体、文武、天民、編民、勧士、安民、守業、通貨、利害、富強」の十三編からなり、天皇親政の理想回帰を訴えました。國體の理想が武門政治によって踏みにじられてきた歴史を、大弐は次のように書いています。
 「わが東方の日本の国がらは、神武天皇が国の基礎を始め、徳が輝きうるわしく、努めて利用厚生の政治をおこし、明らかなその徳が天下に広く行きわたることが、一千有余年である。(中略)保元・平治ののちになって、朝廷の政治がしだいに衰え、寿永・文治の乱の結果、政権が東のえびす鎌倉幕府に移り、よろずの政務は一切武力でとり行なわれたが、やがて源氏が衰えると、その臣下の北条氏が権力を独占し、将軍の廃立はその思うままであった。この時においては、昔の天子の礼楽は、すっかりなくなってしまった。足利氏の室町幕府が続いて興ると、武威がますます盛んになり、名称は将軍・執権ではあるが、実は天子の地位を犯しているも同然であった」(西田太一郎訳)
 蒲生君平の『山陵志』は、山陵荒廃は、國體の理想の乱れ、衰えを示す一現象ととらえた彼が、自らの生活を擲って敢行した山陵(天皇陵)調査の結果をまとめたものです。君平は、『山陵志』のほか、『神祇志』『姓族志』『職官志』『服章志』『礼儀志』『民志』『刑志』『兵志』、あわせて「九志」の編纂を目指していました。國體の理想の衰えを嘆き、往古の善政を回復することが彼の志です。『山陵志』を編纂することによって、山陵を大切にする気風を取り戻し、正名主義を確立することが君平の願いだったわけです。
 そして、全二十二巻から成る、頼山陽の『日本外史』は、『靖献遺言』とともに志士の聖典と並び称されてきました。特に楠公の事績の部分は、志士の心を強く揺さぶりました。平泉澄は「大義の為に万丈の気を吐いて、数百年の覇業を陋なりとするところ、読む者をして、國體の尊厳にうたれ、自ら王政復古の為に蹶起せしめずんばやまない力がある」と絶賛しています。
 山陽は、広範な読者を得るために、細かな考証よりも、一般の読者が面白く読めるように、文章に急所と山場を作ることに力を注ぎました。彼はまた、『史記』を書写し、音読することによってそのリズムを自分のものとし、見事な漢文を書いて、読者を感動させたのです。
 敗戦と占領を経て、わが国は「本来の姿」を喪失しました。その中で、孤高の戦いの先頭に立ってきたのが崎門の学の継承者です。明治維新の原動力となった『靖献遺言』、『保建大記』、『柳子新論』、『山陵志』、『日本外史』は、その役割を終えたのではなく、いまこそその役割を果たすときです。戦後これらの書物は封印され、忘れ去られてきました。これらの書の真価を聊かなりとも伝えることができれば、望外の喜びです。

『青年日本の歌史料館図録』書評(令和8年7月)

『青年日本の歌史料館図録』の書評が『維新と興亜』令和8年7月号に掲載された。

 「青年日本の歌史料館」は令和五年二月、岐阜護國神社境内に開設され、同年五月十五日に一般公開された。「青年日本の歌」(昭和維新の歌)は、三上卓海軍中尉が五・一五事件で蹶起する二年前、「民族的暗闇を打開し、開顕しうるものは、青年的な情熱以外にはない」との確信に基づき佐世保の軍港で作ったものだ。史料館開設は、三上氏の戦後の門下で、昨年元旦に急逝した花房東洋氏の尽力によって実現した。
 「青年日本の歌史料館」は、関連史料・文献の収集・展示を通じて、三上氏をはじめ、昭和維新運動に挺身した先人たちを顕彰することを目的に設立された。戦後の歴史観においては、五・一五事件をはじめとする昭和維新運動の正しい姿が描かれていない。昭和維新運動に挺身した先人たちの精神と行動の軌跡を検証するためには、昭和維新運動の真実を伝える史料の収集、分析を進めなければならない。そうした思いから史料館は開設されたという。
 蹶起した三上卓氏に焦点を当てた研究はそれほど多くない。以前は、僅かに花房東洋氏の『「青年日本の歌」と三上卓 民族再生の雄叫び』と江面弘也氏の『「青年日本の歌」をうたう者』があったぐらいだ。
 こうした中で、令和二年に帝京大学教授の小山俊樹氏が『五・一五事件 海軍青年将校たちの「昭和維新」』を出版され、三上氏の生涯が一般にも知られるようになりつつある。同書は第四十二回サントリー学芸賞に輝いている。同書に基づいて、令和六年にはドキュメンタリー映画「五・一五事件~君に『青年日本の歌』が聴こえるか~」(製作統括:花房東洋氏、歴史考証:小山俊樹氏、脚本・監督:坂下正尚氏、案内人:大和田伸也氏)が完成している。
 展示された史料、特に維新者たちの書画や作品からは迸る維新者の情熱が感得される。三上氏のほか、頭山満氏、井上日召氏、片岡駿氏、堀川秀雄氏、坂元兼一氏、四元義隆氏、中村武彦氏、齋藤兼輔氏、野村秋介氏ら維新者たちの書も展示されている。
 本書は史料館に展示された史料を掲載し、解説を付している。刊行によせて、小山俊樹氏は「資料を写真に収めた図録があれば、展示を理解する助けとして、また居ながらにして資料と触れた際に得た感銘を味わい、思い起こすための価値ある記録とすることができる。そして本図録を手に取ることで、実際の資料を閲覧したいと希望する人が今後あらわれるであろう。維新の先駆者たちの個性を示す品々が、紙媒体に圧縮された形で、多くの方の手に触れることの意義は計り知れない」と評している。
 図録に収められた作品には、維新者たちの人となりが示されている。三上氏の書、画、作品からは、秀でた芸術家の一面を感じることができるに違いない。中村武彦氏は三上氏を追悼し、「茶をたて、俳句をよみ、書を書き、時に尺八を吹き、風流三昧の中で、三上さんは黙々として人生を楽しんでゐた」と書き残している(「荘厳なる大往生」)。毛呂清輝氏もまた、次のように三上氏を追悼した。
 「才能は全く豊かで、一種の達人であった。昔、愛郷塾へ行かれた時、稲刈りを手伝われたが、百姓より早いので皆感心して居た。/ともかく器用だった。草のパイプやお茶を入れるなつめなどは自分で作られたし、私などは戦後の洋傘が貴重品の頃、柄に名前を刻って下さいと頼むと気さくに直ぐ刻って下さった。/尺八なども竹を探して自分で作り仏像なども彫ってゐられた。そのころ私は例のクセが出て、未完成品だったが、観音像を失敬して今でも愛蔵してゐる」(「大夢山人」)
 本書を手に取り、維新者の息吹を感じとってもらいたい。そして、岐阜護国神社に参拝し、史料館を訪れてもらいたい。
(古賀隆)

『維新と興亜』令和8年7月号

伊勢茂美『非葛花』❶

昭和四十九年に小松島市史編纂委員会が編んだ『小松島市史 上巻』に、伊勢茂美の『非葛花』が収録されているのを発見した。
『非葛花』は、本居宣長の『葛花』に対する反論として書いたもの。宣長は、安永九(一七八〇)年に市川鶴鳴(匡麻呂)が『末賀能比連」を書き、『直毘霊』を批判したのに対して、同年十一月に『葛花』を著わして反論した。「葛花」とは、「漢意」という毒酒に対する妙薬のことで、「漢意の酔いから醒めよ」という宣長の挑発的なメッセージが込められている。

伊勢茂美『非葛花』

80年目の夏 戦後体制を打破せよ!(『維新と興亜』令和7年7月号)

 敗戦から二週間後の昭和二十年八月三十日、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが厚木飛行場に降り立った。九月二日、我が国は東京湾上の米艦ミズーリで降伏文書に署名、GHQによる占領が開始された。占領政策は徹底した日本弱体化政策だった。
『維新と興亜』令和7年7月号特集

 米ソ冷戦の勃発によって、占領政策は転換されたとされている。しかし、日本をアメリカの脅威となる存在にしないという目標はいささかも変わらなかった。
 冷戦開始後のアメリカの外交政策立案を主導したジョージ・ケナンは、対ソ封じ込め政策を提唱し、日本を「反共の防波堤」と位置づけたとされている。しかし、「封じ込め」政策は、ソ連と日本を同時に封じ込める「二重の封じ込め政策」だった。ケナンは、日本の頚動脈に軽く手を置いておいて、いったんことあるときにはこの手に力を込めると日本がたちまち失神してしまう、そういう仕掛けを作っておけばいいと考えた(白石隆『海の帝国』)。
 つまり、日本をアメリカの安全保障体制に組み込み、永遠にアメリカの管理下に置き続けるということである。したがって、サンフランシスコ講和条約発効によって「主権」を回復した後も、占領政策は継続された。それを支えてきたのが日米地位協定と日米合同委員会である。ところが、去勢されたマスコミは日米関係の本質に踏み込むことなく、戦後体制温存に手を貸し続けている。戦後八十年を迎えるいまこそ、石破政権は自ら掲げた「地位協定の見直し」を実現し、アメリカの占領政策を終わらせるべきではないのか。
 同時に、我が国の政策決定へのグローバリストの介入を排除すべきである。郵政民営化、農協改革、水道民営化などの推進者の背後にいるのはグローバリストだ。彼らは竹中平蔵氏をはじめとする代弁者を使って政府の諮問会議を牛耳り、政策決定権を国民から奪ってきた。こうした状況をもたらした制度を変えなければならない。
 しかし、制度や法律を変えるだけでは我が国は再生できない。何よりも八十年に及ぶ占領時代によって奪われた我が国のあるべき姿、歴史観を回復しなければならない。骨抜きにされた日本人が自らの足で立つためには、本来の日本人としての生き方を取り戻す必要があるのではないか。

戦後保守を批判した『新勢力』

 令和七年七月二十日に行われた参院選での参政党の躍進について、筆者の周囲では「戦後保守勢力とグローバリストの時代の終焉ではないか」との見方もある。ここで言う「戦後保守勢力」とは、アメリカに過度に依存する結果、国家主権の喪失を是認するばかりか、本来の日本の姿を取り戻そうという気概を失ってしまった保守勢力を指しているのだろう。
 参政党の政策には、「『グローバリズム全体主義』に対抗して『自由社会を守る国民国家』を実現させる」と明確に書かれている。そして、参政党の政策は「國體・国柄・国家アイデンティティ」を柱の一つに掲げ、「男系(父系)による皇位継承」「日本人自らが自国の国家アイデンティティを確認し、国をまもり、日本の国柄を未来へと継承していくために、国民自らが憲法を創る『創憲』に向けた国民運動を推進」「戦後の教育政策により制限された神話教育を再評価」「柔道、剣道、弓道、相撲などの武道のほか、なぎなた、合気道などの普及を通じて、日本の精神文化と身体文化の継承を図る」などと述べている。

 ともあれ、七月二十日には戦後保守勢力が岐路に立たされていると感じる機会があった。日本安全保障フォーラム主催の講演会でのことだ。筆者は「GHQが封印した楠公精神」と題して講演させていただいたのだが、質疑応答では戦後保守勢力の限界を指摘する声も上がった。
筆者は、昭和維新運動の精神を引き継いで毛呂清輝らが昭和三十一(一九五六)年に創刊した『新勢力』のことを紹介させていただいた。『新勢力』の記事と本格的に向き合うようになったのは、三上卓門下の大愚花房東洋と出会ってからだと記憶している。三十年ほど前のことだ。
 毛呂は大正二(一九一三)年七月四日、京都府与謝郡岩瀧町字男山(現与謝野町男山)で生まれた。京都府立宮津中学校を卒業後、昭和五(一九三〇)年國學院大学に入学。弁論部に入って影山正治と交流、部長を務めていた哲学者・松永材教授の指導を受けることになる。毛呂は影山を介して内田良平の「大日本生産党」に入り、さらに津久井竜雄氏の「大日本青年同盟」にも関わるようになる。しかし、昭和八(一九三三)年七月、毛呂は神兵隊事件に連座することになる。
毛呂清輝

 神兵隊事件関係者は、戦後の民族派運動をリードした。一水会の鈴木邦男は、〈戦前の良質な右翼思想家のほとんどがかかわつたのが「神兵隊事件」だ。……僕らはこの先生方の指導を受け、大きな影響も受けた。だから、「神兵隊が新右翼を作った」といえるかもしれない〉と書いている(『右翼は言論の敵か』)。
 実際、神兵隊事件関係者の多くが戦後民族派運動のリーダー的存在になっている。「新勢力社」を率いた毛呂のほか、「救国国民総連合」の中村武彦、「大東塾」の影山正治、「青年講座」の白井為雄、「全有連」の片岡駿などだ。
 昭和三十一(一九五六)年、毛呂は中村武彦、小島玄之らともに設立した「民族問題研究所」から『新勢力』を刊行した。翌昭和三十二年十一月には自ら新勢力社を設立し、『新勢力』を同社の刊行物として発行することにした。既存の商業雑誌が戦後体制の枠の中での言論活動しか展開できないのとは対照的に、『新勢力』は昭和維新の精神を伝えるべく、堂々たる主張を展開し保守陣営に覚醒を促した。
 例えば、昭和三十五(一九六〇)年八月号に同誌は三上卓、影山正治、毛呂清輝の鼎談「維新運動の本流をさぐる」を載せている。ここで毛呂は次のように語っている。
 「戦後、いわゆる右翼団体というものが復活し、その団体の数も随分沢山あるようですが、維新運動とか維新陣営という名に値するようなものは未だ再建されていないと思うのです。……いつか、『新日本』の阿部源基氏(元警視総監)が昔は〝革新陣営〟といえば、〝愛国陣営のことを指した〟と云つていましたが今の愛国団体は、共産党のいう〝売国政党〟の院外団みたいな立場におかれて、一つの自主的立場を失つているように思うのです」
『新勢力
 『新勢力』の看板となり、多くの読者を獲得したのが葦津珍彦である。葦津の著作は保守論壇の注目を浴びたが、その多くが『新勢力』に掲載された原稿がもとになっている。
 戦後の民族派が親米に傾斜する中で、王道アジア主義に関わる葦津の論稿は強い光を放っていた。例えば、自らの興亜運動の体験に基づいて書いた「比島独立革命戦士 B・R・ラモス小伝」(昭和四十六年四月号)である。
 『新勢力』はまた、維新運動に関わる人物や事件の特集として、大川周明特集(昭和三十三年十一月)、神兵隊事件三十年特集(同三十八年)、高畠素之の思想と人間(同四十四年十月)、松永材先生追慕号(同四十四年十月)、三上卓追悼号(同四十七年二月)などを組んだ。
 毛呂は昭和五十三(一九七八)年十二月十九日に死去した。翌昭和五十四年四月、『新勢力』は「毛呂清輝追悼号」を編み、盟友の片岡駿が次のような追悼の言葉を残している。
 〈一切の営利栄達と世の常の歓びを求めず、ただ戦はんがためにのみ生きる維新の戦闘者にとって、貧困と孤独と試練はこれを避けることの出来ない宿命だ。さうした維新者の日日不断の生活において、若しその貧困や孤独や試練を克服し、没却せしめ得るほどの歓びがあるとすれば、それは『血盟の義』と『骨肉の情』を共に相備へた、文字通りの肝胆相照らす友のみである。私にとってさうした友が誰であったかは誰よりもよく君が知ってゐる筈だ。……日日不断に誓ひを固め心を寄せ合ひ、歓びも悲しみもみな互ひに頒ち合ふことの出来る戦友となってこそ、それがまことの維新の友であると云ふのが、君が平生の所信であった。そして君はそれを二十代の青年期から死ぬるまで一貫して実行した。生涯に亘る君の貧乏の原因がそこに在ることは、君を知るほどの人はみな知ってゐる。君が生前、身に着けたものは首から足の先まで凡て友人や先輩からの貰ひもので、躰にピッタリのものは一つも無かったが、私はそれを見る度に君の心の清々しさを感じ、またますらをの意気を感じた〉
(敬称略)

『わーずわーす』編集長を務めた加藤和彦氏のインタビュー

令和六年五月三十日、毎日新聞は「加藤和彦が語った『イムジン河』への思い 『アジアに帰らないと』」を掲載した。平成十七年の終戦記念日に掲載された記事の再掲だ。
ここで加藤氏は次のように語っている。
「日本ってアジアでしょ。なのに、それを意識してこなかった。西洋世界の末席でやってきた。岡倉天心とか、アジア人である自身をプラウド(誇りあるもの)と思っていた。そうした先達の尺度で考えてみたかった。アジアにはいろんな問題が山ほどある。それを解きほぐしていくにはアジアに帰らないと。日本人にそういう意識が芽生えてくれば、中国も韓国もへそまげないですよ。少しは違ってくると思うんですがね」
記事は、加藤氏が、21世紀のアジア人的ライフスタイルを提案する雑誌『わーずわーす』の編集長を務めていることを紹介している。

『わーずわーす』創刊号

平成十七年二月に創刊。フーガ発行、主婦の友社発売。創刊号にマハティール閣下のインタビュー記事を掲載していただいた。しかし、まもなく同誌は廃刊に追い込まれた。いったい何があったのか。

戦後史観が歪めた頼山陽の真実

大宅壮一の歪曲
 頼山陽は文化四(一八〇七)年に『日本外史』を一応脱稿したが、なおも心血をそそいで改訂を重ねた。そして、執筆開始から二十五年を経た文政十(一八二七)年についに完成した『日本外史』は、幕末の志士を鼓舞し明治維新の原動力となった。
 ところが戦後、山陽や『日本外史』を貶める言説が幅を利かせてきた。その発端の一つが、大宅壮一の『実録・天皇記』である。大宅は「…山陽という男は公私文書偽造、詐欺、姦通などの前科を何犯かさねているかわからない。それも決して若気のいたりといったような性質のものではなく、この傾向は生涯改まっていない」「かれの勤皇思想も明らかに眉唾もので、当時の風潮に便乗したにすぎない」と断じたのだ。悪意による歪曲である。
 筆者が、寸暇を惜しんで竹原の崎門学の研究を続けているのは、大宅らの言説を正面から批判し、山陽の志を後世に正しく伝えなければならないと考えているからだ。
 しかも、明治維新の原動力となった國體思想を貶める言説は、いまなお増殖されており、近年では大宅の言説に依拠した原田伊織氏の『明治維新という過ち―日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト』などの著書が多くの人に読まれているらしい。

「忠孝のお守り」に示された真実
 山陽の勤皇思想は、「当時の風潮に便乗した」ものなどではなく、竹原に根付いた崎門学、垂加神道の思想に基づくものであった。山陽が祖父・惟清(亨翁)から授かった「忠孝のお守り」が山陽五十三年の生涯を貫く勤皇精神の根源となったことは、いまや語られない。
山陽が祖父・惟清(亨翁)から授かった「忠孝のお守り」
 また、山陽の叔父杏坪による思想的影響は極めて重要なものだったが、戦後杏坪の尊皇思想も封印されてきた。中村真一郎の『頼山陽とその時代』は、山陽に対する杏坪の影響を語りつつも、尊皇思想には言及しない。戦前、広島県竹原町立図書館司書などを務めた松浦魁造が指摘していた通り、杏坪の尊皇思想抜きに山陽の思想は語れない。松浦は次のように書いている。
 「杏坪は朱学を奉じたが一方最も神道を重んじ尊王の念厚く、幾多の詩歌を通じて抑覇の情を表したものが尠くない。かの郷賢祠を郷土竹原に建て風教に資せるは人のよく知る所である。山陽の幼少時代には父春水は殆んど江戸詰であつたため山陽の薫化は母の梅颸と杏坪によつて殆んど成されたものである」(『頼山陽先生小伝』昭和八年)

高山彦九郎自刃と『日本外史』
 また、『日本外史』をめぐっては、徳川幕府に迎合的だとして、その國體思想の価値を疑う論者が存在する。しかし、なぜ『日本外史』が幕府に迎合的ならざるを得なかったのかを理解しなければならない。
 『日本外史』が幕府に迎合的ならざるを得なかったのは、山陽が幕府の弾圧という危険性を身をもって経験していたからである。
 山陽の父春水は、広島藩儒に抱えられた壮年時代、日本人に広く読まれる国史のないことを憂えて、藩の一大事業として、国史編纂を成し遂げようと志した。稿本の題名を「鑑古録」と名づけ、天明五(一七八五)年から寛政元(一七八九)年まで五年にわたって精力を注ぎ、神武天皇からはじめて開化天皇の時代まで書き進めたが、そこで突然、藩から中止を命ぜられ、断念したのだ。
 しかも、若き日の山陽は、朝権回復を志して奔走した末、幕府に追い詰められた高山彦九郎の「自刃という結末」を目の当たりにしていたのである。松浦魁造は、次のように述べている。
 〈山陽の宿志は修史の志業を完成し、幕府の政治を排撃して「天皇親政」の古に復するにあつた。彼の幕府の権勢最も盛を極めた時代に於ては、その片鱗を示すことさへ実に容易な業ではなかつたのである。山陽の通つた文章報国の道は、一見平坦で危険の無いものゝやうに見えたが、あの時代に尊皇抑覇を唱ふる時は、遠島流罪はおろか頭首ところを異にし系累に危難の及ぶ事さへ珍しくなかつた。而も騎虎の勢を以て又は恩慮を欠いた行動をなす時は徒らに一身の破滅を招くのみならず、事は水泡に帰し何等の効果を齎すことなく終るは明かである。されば山陽は周到なる思慮と、天授の文才と、不抜の決心とを以て巧に幕府の忌諱を避けつつゝ日本外史、日本政記を著し、熱血勤皇の詠詩を世に送つて大義名分を明かにし、尊皇討幕の精神を鼓吹して遂に明治維新招来の原動力を起こしたのである〉(『頼山陽先生』)

武家政権を厳しく批判した頼山陽の「古今総議」

 頼山陽は、寛政八年、十七歳の時に「古今総議」を著している。これこそが、『日本外史』序論の底稿となった文章である。
 〈天子、之れが将となりたまひ、大臣・大連は、之れが偏裨たり……[神武天皇より]三十世の後、外国の制に因り、八省、百官を立つ。五十世に至り、政権は世相[代々の首相]・外家[藤原氏]の竊む所となる。当時の制、七道[全国]を郡県にして、治むるに守・介[薩摩守・長門介の如き]を以てし、天下の軍国は、更はる〲六衛に役し、事あれぱ則ち将を遣はして之れを合し、事止めぱ其の兵を散じて、以て其の[兵]権を奪ふ。相家[世相・外家]の専らにするに及び、人[官吏]を流[家筋]に選び、文武、官を世にし、加ふるに鎮守府の多事なるを以てし、関八州の土豪にして、将家[武将]に隷[属]するもの、因習の久しき、君臣の如く然り、而して七十世に至り、綱紀ます〱弛み……兵力を挾んで、爵賞を[強]要するもの、平氏に始まつて、源氏に成り、遂に総追捕使の名に托して、私隷[家の子郎党]を六十州[全国]に碁布[配置]して、以て兵食の大権を収め、天下の大勢、始めて変ぜり。変じで未だ幾ぱくならず、その外家北条氏、陰かに人心を結び、以て其の権を竊み、之れを九世に伝へたり。朝延は其の民心を失へるに乗じ、以て旧権を収復せり…。又足利氏の横奪する所となり、而して大権の将家[征夷大将軍]に帰するもの、盆々定まり、少子を[関]東に封じ、功臣を分かつて世襲の守護と為し、而して天下の大勢、再び変じ、[以下、織田・豊臣氏に到り]大勢、三たぴ変ぜり〉(木崎好尚『青年頼山陽』)
古今総議
 山陽は、『日本外史』では次のように述べている。
 「思うに、わが日本がはじめて国を建てたときは、政事向きのことは万事が簡略でたやすく、文官・武官というような区別もなく、日本国中の者はだれでもこぞってみな兵士であって、天子はその元帥(総大将)となられ、大臣・大連がその副将軍となっていたので、将帥という定まった官職があったわけではなかった。
 だから後世のように、世にいう武門とか武士とかいうものはあるべきはずもなかった。天下が泰平無事であるならそれまでのこと、いったん有事の際には、天子はかならず自分で征伐の苦労をされた。もし天子がなにかの理由で出陣されないときには、皇子や皇后がその代理をされて、けっして臣下の者にうち委せてしまわれることはなかったのである。だから兵馬・糧食の大権は人手に渡ることなく、しっかりと天子の手の内にあって、よく天下を抑え従え、なおその余威は、国内ばかりでなく、延びて三韓(朝鮮南部の馬韓・弁韓・辰韓)や粛慎(シナ古代の北方民族)にまでも輝きわたり、これらの諸国はみな貢物を持ってわが日本へ来朝しないものはなかったのである」(頼惟勤訳)
 こうした山陽の武家政権批判は、山県大弐の『柳子新論』「正名」(第一篇)や藤田幽谷の『正名論』にも通ずる。
 「わが東方の日本の国がらは、神武天皇が国の基礎を始め、徳が輝きうるわしく、努めて利用厚生の政治をおこし、明らかなその徳が天下に広く行きわたることが、一千有余年である。……保元・平治ののちになって、朝廷の政治がしだいに衰え、寿永・文治の乱の結果、政権が東のえびす鎌倉幕府に移り、よろずの政務は一切武力でとり行なわれたが、やがて源氏が衰えると、その臣下の北条氏が権力を独占し、将軍の廃立はその思うままであった。この時においては、昔の天子の礼楽は、すっかりなくなってしまった。足利氏の室町幕府が続いて興ると、武威がますます盛んになり、名称は将軍・執権ではあるが、実は天子の地位を犯しているも同然であった」(『柳子新論』)

 〈「鎌倉氏の覇たるや、府を関東に開きて、天下の兵馬の権専らこれに帰す。室町の覇たるや、輦轂(天子の御車のことで、天子の都の地である京都を指す)の下に拠りて、驩虞(覇者)の政あり。以て海内に号令し、生殺賞罰の柄、咸その手に出づ。威稜(威力)の在る所、加ふるに爵命(官位)の隆きを以てし、傲然尊大、公卿を奴視し、摂政・関白、名有りて実無く、公方(将軍家)の貴き、敢へて其の右に出づる者なければ、すなはち『武人、大君となる』に幾し〉(『正名論』)

『維新と興亜』令和5年3月号(2月28日発売)

『維新と興亜』令和5年3月号(2月28日発売)

【特集】國體と政治 守るべき日本の価値
日本の価値基準を国際標準に(城内 実)
哲人政治が日本を救う!(神谷宗幣)
既成政党に國體は守れない(福島伸享)
日本人の「助け合いのDNA」(立花孝志)
旧宮家養子を実現せよ(百地 章)
國體弱体化政策の恐怖(金子宗德)
知られざる社会主義者の國體観(梅澤昇平)
【巻頭言】岸田総理よ、日米地位協定抜本改定を求めよ(坪内隆彦)
【時論】地方議会における政党政治を打破せよ!(折本龍則)
【時論】政治に道義を、新自由主義に葬儀を(小野耕資)
【新連載】石原莞爾とその時代 ① オリジナルな思想家であり哲学者(山崎行太郎)
【新連載】高嶋辰彦─皇道兵学による文明転換① 天日奉拝によって感得した神武不殺(坪内隆彦)
【新連載】日本文明解明の鍵〈特攻〉① 日本異質論と奇跡の国日本論をこえて(屋 繁男)
神詠と述志からなる日本の歴史⑤ 古事記が今に伝えるもの(倉橋 昇)
誠の人 前原一誠 ③ 仁政、そして王道(小野耕資)
世界を牛耳る国際金融資本④ 自給自足は巨大防衛力だ(木原功仁哉)
「維新」としての世界最終戦  現代に甦る石原莞爾 ⑧ 統制主義(金子宗德)
台湾を全面支援します。その④(川瀬善業)
高風無窮⑦ 道心と無道心と(森田忠明)
いにしへのうたびと⑨ 山部赤人と笠金村 上(玉川可奈子)
在宅医療から見えてくるもの⑩ 軽んじられてしまう、ケア(福山耕治)
崎門学に学ぶ 『白鹿洞書院掲示』浅見絅斎講義 ③(三浦夏南)
竹下登論④ 政治改革と選挙制度改革の混同が起こした悲劇(田口 仁)
【一冊にかけた思い】鈴木貫太郎著『ルポ 日本の土葬』
【書評】荒谷卓・伊藤祐靖『日本の特殊部隊をつくったふたりの異端自衛官』/村尾次郎著・小村和年編『小咄 燗徳利 昭和晩期世相戯評』
昭和維新顕彰財団 大夢舘日誌(令和4年12月~令和5年1月)
活動報告
読者の声
編集後記