先帝陛下(当時皇太子殿下)が学習院初等科をご卒業されたのを機に、大正3(1914)年5月、東宮御学問所が設立された。歴史担当・白鳥庫吉、地理担当・石井国次など、16科目の担当が決まったが、肝心の倫理の御用掛が決まらなかった。帝王学を進講する倫理担当には、和漢洋の知識に通じ、高い識見人格を備えていることが求められた。
東郷平八郎総裁、波多野敬直副総裁らが慎重な協議を続け、元第一高等学校長として名声の高かった狩野亮吉の名が挙がったが、狩野はその任務の重さを恐れ辞退した。このとき、杉浦重剛の真価を知るものは、御進講の適任者として彼のことを考え始めていたのである。御教育主任の白鳥庫吉から相談を受けた澤柳政太郎は「杉浦さんがよいではないか」と杉浦の名を挙げた(『伝記』二百六頁)。これに白鳥も賛同、東郷総裁の意を受けて小笠原長生子爵が改めて杉浦の人物について調査した結果、「杉浦といふ人は命がけで事に当る人だと思ひます」と報告した。東郷は「それだけ聞けばよろしい」と言って、直ちに決定したという。 続きを読む 先帝陛下の御学問─杉浦重剛「倫理御進講草案」大義名分
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大日社の思想
杉浦重剛と頭山満を師として
大日社設立は昭和5年と考えられ、雑誌『大日』は翌6年から昭和20年まで14年間に亘り発行された。 同誌発刊の辞には次のようにある。「明治21年乾坤社を興して、雜誌『日本人』を創めたるは吾人の師長天台道士杉浦重剛先生なり。其の翌年新聞『日本』を興して國體主義を高調したるは羯南陸實先生なり。爾來40年濟々たる多士は苦節に死し、吾人の先輩は曉天の星の如くなれり。吾人の魯鈍なる、再躓三躓今や讒かに彈丸黒子の地を守るに過ぎず。茲に頭山立雲先生を社師として、廣く天下同志の贊襄を仰ぎ、新たに『大日社』を興し、雜誌『大日』を創刊して名節を砥礪し大義に終始し、毅然筆致に任じて操觚の天職を全うせんとするは先輩師長の先蹤を追うものなり」 続きを読む 大日社の思想 |