「音のパワー」─田中逸平の仏教感

音のパワー

 映画「あつもの」で平成一二(二〇〇〇)年の毎日映画コンクール助演男優賞を受賞するなど、俳優としても国際的活躍を続けているヨシ笈田は、演出家としても名高い。平成一〇(一九九八)年には、初のオペラ演出にも挑戦している。彼は、南フランスのエクス・アン・プロヴァンス音楽祭でベンジャミン・ブリテンのオペラ「カーリュー・リバー」を演出、聴衆に「魂の底まで貫き通す感動」を与えたという。
音楽ジャーナリストの下田季美子氏のレポートによると、笈田はまず、無名の若い歌手たちを起用、無国籍的な舞台を設定し、文化的背景の異なる歌手たちに「音のパワー」について多く語った。笈田は言霊に興味を持ち、真言密教の声明、念仏、神道の祝詞などで体験されるような音による精神世界への到達をもくろんだのである。下田氏は、笈田の試みを「日本的な精神性をヨーロッパの文化的土壌の中で普遍化した」ものだともいう(1)。この事実は、音のパワーが、民族、宗教を超えて普遍的な感動を与えることを示しているのではなかろうか。
古来、音楽家は神と接していたと言われる通り、音が宇宙の根源であるという考えは、至るところで継承されてきた。多くの宗教の経典に、太初の「音」や「響き」についての記述が少なくないのも、決して偶然ではない。
日本では、古神道を中心に言霊信仰が脈々と受け継がれてきた。インドでは、ヴェーダの時代以来、「宇宙は音でできている」という考え方が継承されてきた。高野山の松長有慶氏は、「音とか言葉は意味や内容を他に伝達する手段だけではなく、そのもの事態に不思議な威力が備わっている」と書いている(2)。それをより哲学的に言えば、「我々が常識的に考える言語哲学、すなわち表層意識において理性が作り上げる言語哲学とは全然異質の、深層意識的言語哲学」(井筒俊彦)(3)ということである。
仏教を含めた田中の五教帰一論(4)を理解するかぎは、行を通した宗教の帰一にあるが、その中核には、言葉の持つ力、宇宙の根源としての音に対する特別な観念があったのではないか。

言霊と「とほかみゑみため」
だからこそ、田中はイスラーム入信後にも、仏教に傾倒した。タリバンによる仏像破壊に象徴されるように、一般的にイスラームと仏教に教義上の対立点が多いことを考えると、ムスリム田中の仏教傾斜は極めて稀有なケースといっていい。
田中の音に対する特別な観念は、幼少期から始めた神道禊教の行によって培われた。禊教を創始した井上正鐵は、様々な宗教的体験を経て、古神道を継承していた伯家の行法に学び、独自の行法を確立した。伯家では「とほかみゑみため」は「天津祝詞の太祝詞事」と呼ばれる究極の言霊力を持つ詞ともされていた。
そして、禊教は、指導者の振る鈴の音に合わせて「とほかみゑみため」と声に出して息を強く吐くという行法を採った。「とー」と大きな声で、しかもできる限り長くのばしながら発声すること自体が息を長く吐き続けるという呼吸法になっている(5)。
こうした行に精通していたからこそ、田中は即座にクルアーンの朗誦に魅せられたのではなかろうか。イスラームの初期の啓示は、サジュー体と呼ばれる脚韻を踏んだ散文詩だった。森伸生教授(イスラーム研究センター長)が、言霊を熟知していたと推測される田中はアラビア語で朗誦されるクルアーンに感性を突き動かされていたと指摘している通り(6)、田中はクルアーンの持つ音のパワーに特別なものを感じ取っていたに違いない。

念仏修行への傾倒
最初のマッカ巡礼からの帰国後、田中は祖国遍路に乗り出し、やがて念仏修行に傾倒していく。これもまた、念仏に「とほかみゑみため」の行法に通ずるものを直感したからにほかならない。「神は偉大なり」、「神に栄光あれ!」とアッラーを称える唱念(ズィクル)もまた、極めて念仏に近いものがあるのではないか。
田中は、上総国夷隅郡の真福寺で行なわれていた、別時念仏修業に参加している(7)。昭和二(一九二七)年九月以降には、「別時高声念仏及観息法修行」を自ら主催するようになり、度々その案内を『日本及日本人』に掲載していた(8)。
同時に田中は、ある歴史的事実を知ることによって、ますます念仏へのめり込んでいったのである。その歴史的事実とは、禊教と念仏修行の深い関係にほかならない。
彼は、「釈尊─導善─慈覚─恵心─法然─弾誓─但唱─善行─愚一─亮伝」という高唱念仏門の法統を示している(9)が、この法統は、禊教の系譜と交わるのである。彼は弾誓の念仏から禊教が出たとの説も紹介している(10)。また田中の父は、北多摩郡神代村(現在の調布市)の深大寺で念仏修行をしていたが、この深大寺の尭欽上人は、念仏の伝を、井上正鐵門下の東宮千別に受けていたのである。
度々原稿を書いていた『日本及日本人』を刊行していた政教社の井上藁村(11)は、愚一上人の弟子であり、「とほかみ教は念佛を神道に倶通せしめたる者」との立場をとっていた(12)。
こうして、田中は行における帰一を確信し、「南無阿弥陀仏、登保加美恵美多女(とほかみゑみため=筆者)、アルラホエクベル、南無妙法蓮華経、畢竟するに何の別かあらん」と述べるに至る(13)。

慈雲の思想との出会い
もちろん、田中は神道と仏教に様々な差異があることを承知していた。しかし、彼が重視したものは、形の違いよりも、本質的な一致点である。同時に、日本の既成政党の破滅のように、日本の既成仏教はただ殿堂伽藍にすぎないような状態だと感じていた(14)。
そんな彼が、仏教の真髄を把握する上で、慈雲の思想との出会いは決定的だったのではなかろうか。田中の時代に、慈雲の思想の継承者として注目されていたのが、与謝野鉄幹の実兄、和田大円である。田中は、大円から慈雲の思想を伝授された。「三岳草堂雑記」には、田中の大円、慈雲に対する崇拝の思いが繰り返し書かれている(15)。
慈雲は享保三(一七一八)年、大阪に生まれ、一二歳で真言宗の寺で出家した。一つの宗派にとらわれない超宗派の立場をつらぬき、釈迦在世時の仏教への回帰を求めた。釈尊の制定した戒律への回帰を「正法律」と呼び、その確立を目指した(16)。
歴史的に付加されたものを取り除いて、原点、根源に立ち返ることは、まさに本質への回帰であり、これが慈雲の宗教帰一を支えていたのではないか。
実際、慈雲は、晩年になって神道に傾倒、雲伝神道を自ら創設しているのである。それは、単なる神仏習合の伝統を超えた、神仏帰一思想である。
田中もまた、形式を超えた本質、根源的なものを求めた。さらに、彼はそれぞれの宗教には持ち味があって、むしろ補完し会うことによって共に生きてくると確信するようになっていた。彼は、「高天原雑記」において、「仏教は有為法より無為法へと帰納す。神道は無為法より有為法へと進展す」、「神道を闡明にするは、仏教の力多きに在り、仏教の効用を発揮し得るは専ら神道の力に拠る。神仏は此上に立ちて作用す」(17)と書いている。
これは、慈雲の思想そのものなのである。慈雲は、『神道要語』で「神道無為に趣けば佛法なり」、「真正の大道もし世間に顕現せば神道となる」と書き(18)、『神道国歌』では「無相(ノ)法門を以て有為を輔佐すと云(ヘ)り。歴代国史にも此(ノ)事を記せり」と書いている(19)。
ここには、真理の把握に有益な仏教と、道を顕現する力を持った神道という捉え方がある。神仏は、不岐であり、それぞれの持ち味を生かして補完しあうべきだという考え方なのではないか。
そして田中は、慈雲を空海の継承者と位置づけ、次のように独自の主張を展開している。

「雲伝神道は実に平安朝皇国大盛時に於て、英主嵯峨天皇より弘法大師に御親授ありしに発し、空海之を受け之を譲りて皇民に伝ふ」、「大師は一個仏教僧侶に非ずして皇道の確実なる体現者たるに於いて其の不朽の存在として礼賛を受くる者なり」(20)

田中は、弘法大師に対する嵯峨天皇の御親授に特別な意義を見出している。それは言霊の秘伝であったろうか。ここには、「五大(地、水、火、風、空)には全て響きがある」(『声字実相義』)(21)と書いた空海が、音を介して根源へ接近することによって、神道と密教を深いレベルで帰一させていたのではないか、という田中の推察があったようにも感じられる。
田中は、宗教帰一の歴史的事実と、自らの行による直感の双方に支えられて、あらゆる宗教の根源の一致を信じるに至ったのではなかろうか。

イスラームと仏教
このとき、田中はムスリムでありながら、教義の違いを超えて躊躇なく仏教の普遍性を認めるようになっていた。しかも、ムスリムが認めない偶像崇拝の問題をも、本質に帰ることによって、乗り越えようとしていたのである。
田中は、果たして厳密な意味で仏教は偶像教というべきかと問い、キリスト教、イスラームが偶像崇拝を理由に仏教を排斥するは正しいことなのかと指摘した上で「回徒のキブラに対する観念は正しき仏徒の仏像に対する観念と必ずしも絶対相異の者にあらざるべし」と書いている(22)。
こうした田中の大胆な問題提起は、その後ほとんど省みられなかった。日本国内では、イスラームと仏教の対話の機運も起こらなかった。だが、イスラームと仏教の対話の模索がなかったわけではない。その数少ない一つこそ、田中の精神を受け継いだ斉藤積平(元拓殖大学講師)によって試みられているのである。斉藤は、昭和五一(一九七六)年、立正佼成会会長の庭野日敬、サウジアラビアのキング・アブドル・アジス大学のA・R・シディキと『アッサラーム』誌上で「イスラームと仏教」をテーマに鼎談している(23)。天台の比叡山を用いて対話が行われてはいるものの、外交上はともかくとして、実質上でどの程度の深化があるのかは不明である。
ようやく、近年仏教側からのイスラームへのアプローチも開始されるようになった。駒沢女子大学長で、山口県松兼寺住職の東隆眞氏もその一人である。東氏は、安倍治夫氏が『正法眼蔵随聞記』にある道元の言葉をもとに唱えた大胆な偶像崇拝説に関して、「道元禅師が、仏像を天魔、毒蛇と説いたところには、広い意味での偶像崇拝を否定したと言っても必ずしもあやまりとは言えないと思われるが、もし、それを言うならば、道元禅師は偶像を否定すると同時に、偶像否定主義をも否定したのである。仏教はおよそ教条主義ではないのである」と書いている(24)。
むろん、宗教の共存が現前する事例は、アジアでは珍しいことではない。例えば、タイ南部のナコンシータマラートとパタニの間に位置するパタルンは、歴史的に仏教圏とイスラーム圏の狭間に位置していた。パタルンをはじめとする半島西海岸地域では、二〇世紀に至るまで、シャムとマレー、あるいはバラモンを含む古い仏教儀式とイスラームの混じり合った文化状況が見られた(25)。あるいは、こうした宗教間の平和共存があり得たのも、いくらかは田中に通ずる帰一思想に支えられていた可能性もある。そこには、東南アジアの湿潤な生態学的な条件から来る影響と、それを背景とした、この地域に残るアニミズム的要素に受け継がれてきたと考えられる「音のパワー」の作用も働いていたかもしれない。
宗教に加えられた地域色・民族色、あるいは歴史的経過とともに付加された形式などを超えた本質における一致点を求める田中の精神は、今日もなおイスラームと仏教の対話にも重要な示唆をもたらしている。

[注]
(1) 『日本経済新聞』一九九八年八月九日付朝刊
(2) 松長有慶『密教』岩波書店、一九九一年、一〇五頁。
(3) 井筒俊彦『意識と本質』岩波書店、一九九一年、二二四~二二五頁。
(4) 田中の五教帰一論については、拙稿「イスラーム先駆者 田中逸平・試論」『拓殖大学百年史研究』第八号、平成一三年一〇月。
(5)花谷幸比古、菅田正昭『古神道の氣』コスモ・テン・パブリケーション、平成三(一九九一)年、一六四頁。
(6)『田中逸平─イスラーム日本の先駆』四〇九頁。
(7) 「祖國遍路」(一六)、一一七頁。
(8)『日本及日本人』一三六号、昭和二(一九二七)年一〇月一五日、一〇五頁など。詳しくは、拙稿「解題に代えて 田中逸平における神道とイスラーム」『田中逸平 その3─日本ムスリムから見た神道』拓殖大学、二〇〇三年、四三〇頁。
(9)田中逸平「祖國遍路」(一九)『日本及日本人』一一〇号、大正一五(一九二六)年一〇月一五日、一一四頁。
(10) 「祖国遍路」一六。一一七頁、田中逸平「三岳草堂雑記」(三)『中央佛教』七二頁。
(11)藁村については、都築七郎『政教社の人びと』行政通信社、昭和四九年。田中の論稿の中では、以下の箇所で藁村のことが言及されている。田中逸平「祖國遍路」(一六)『日本及日本人』一〇六号、大正一五(一九二六)年九月一日、一一七頁、田中逸平「祖國遍路」(一九)『日本及日本人』一一〇号、大正一五(一九二六)年一〇月一五日、一一六頁、田中逸平「半月雑記」八『日本及日本人』一六二号、一九二八年一〇月一五日、九五頁。
(12) 田中逸平「祖國遍路」(七)『日本及日本人』九七号、大正一五(一九二六)年四月一五日、一〇二頁。
(13)「祖國遍路」(二〇)一二〇頁。
(14) 田中逸平「祖國遍路」(七)『日本及日本人』九七号、大正一五(一九二六)年四月一五日、一〇三頁。
(15)田中逸平「三岳草堂雑記」(二)『中央佛教』七五頁、田中逸平「三岳草堂雑記」(五)『中央佛教』三四頁。
(16) 慈雲は、サンスクリット研究では当時の世界的権威であった。
(17)田中逸平「高天原雑記」(三八)『第三巻』二九二頁(『田中逸平その3』収録)。
(18) 慈雲「神道要語」( 『神道大系 論説編一四 雲伝神道』神道体系編纂会、一九九〇年、九五~九六頁)。
(19)慈雲「神道国歌」( 『神道大系 論説編一四 雲伝神道』神道体系編纂会、一九九〇年、一一五頁)。
(20)田中逸平「高天原雑記」(一七)『第三巻』一八五頁(『田中逸平その3』収録)。
(21) 『弘法大師空海全集 第二巻』筑摩書房、一九八三年、二七四頁。
(22) 田中逸平「三岳草堂雑記」(一)『中央佛教』一九三二年三月、六一─六二頁。
(23) 『アッサラーム』6号。
(24)東隆眞『日本の仏教とイスラーム』春秋社、二〇〇二年、二一〇頁。
(25)黒田景子「マレー半島の華人港市国家」(桜井由躬雄責任編集『東南アジア近世国家群の展開』岩波書店、二〇〇一年、一六六頁。

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