精神的基礎なきアジア連帯会議

1926年の亜細亜民族会議の教訓
大正13(1924)年7月にアメリカで排日移民法が施行され、日本国内で反米ムードが高まりつつあった。こうした中で人種平等を掲げたアジア人の連帯運動の気運も次第に盛り上がり、興亜論者だけでなく、政治家の中にも興亜運動を進めようという動きが出てきていた。政友会の今里準太郎もその1人であった。例えば、今里は移民法施行直後の大正13年7月6日に、時の総理大臣加藤高明に対して「外交方針ニ関スル質問主意書」を提出している。そこには、次のように記されている。

1、人種平等ニ関シ日本政府ノ採レル努力ノ経過並今後ノ方針如何
2、米国以外ノ日本移民地ニ於テ日本移民ヲ永遠ニ安住セシムル具体的方針如何
3、日支親善ノ具体策トシテ日支間ノ条約一部ノ改廃乃至日支同盟ノ意ナキ乎
右及質問候也(1)

以降、今里は亜細亜民族会議の開催に向けて動きだすのである。
確かに、アジア各民族の代表が一堂に会して交流を深めることは興亜の立場から極めて重要な課題ではあったが、政治家が深く関与した運動には弊害も持ち込まれたのである。
それまでアジアの亡命者たちを支援する日本の興亜論者と日本政府が時に対立してきたことに象徴されるように、欧米列強との一定の協調を維持できるような外交運営を要求された日本政府が、純粋な形で興亜の理想を体現することは、極めて困難なことだったのである。
そこには、結局政治権力が興亜の理想よりも国益追求を優先せざるを得ないという現実が、厳然としてあった。
だからこそ、興亜の基礎を宗教、文化の相互理解と融和に置こうとする興亜論者にとっては、政治的な主張が全面に出てくるようなアジア連帯は厄介なものでもあった。
この潜在的な問題は、大正15(1926)年8月に長崎で開催された亜細亜民族会議をめぐって明確に顕在化する。

政治権力と興亜論者
例えば興亜論者の田中逸平は、長崎の会議開催について、「関係諸氏の労苦を多とするも」、「只是等の教化団体が未だ内外有志者をして信頼するの実力に乏しく、重大にして真面目なる新興運動に、反て多少の暗影を投ずるなきかを憂ふ。要は亜細亜五聖の教を摂取して今日を為したる日本と其の民とは、古聖の国と其民族とに対して報恩的協同運動を為すべきである」と書いている(2)。つまり、彼は宗教的な融和と相互理解がなければ、いかなる運動も成功しないと考えていた。
田中清もまた、興亜運動の基礎としての宗教、哲学、文化の融和の重要性を唱えているのである。彼は、日本、中国、インド等で有色人種の蹶起を高唱し、またはアジア復興の実際運動に従事しつつある人々は、その運動の理論的根拠をアジアにおける欧米の政治的勢力の打破と経済的利権の回収におき、同族間に固有の宗教、哲学、文化の融和結合を閑却したと、明確に指摘している。
そのために、日本、中国、インド等の同種族間においてすら内部的猜疑心を挑発し、内紛を引き起こしているという。これが、欧米人が牽制利用するところとなるような事態を懸念し、長崎の会議の結末にも、それが示されているとしている。

亜細亜民族会議の光と影
亜細亜民族会議の主旨自体、田中逸平にも田中清にも異論はなかったに違いない。
今里らが北京亜細亜民族大同盟とともに開催にこぎつけたこの会議は、大正15年2月11日に発せられた主意書で次のように謳っている。

全人類の共存共栄、是ぞ我等人類の究極の理想であります。而して其の実現は先づ近隣より相扶け相進み、善隣の共存共栄を確保して順次全人類共存共栄の大理想を達成すべきものと信じます。吾人は此の趣旨に依り先づ全亜細亜民族の共存共栄を完うすべく全亜細亜民族会議を主唱するものであります。
即ち四千年の古き歴史を有する亜細亜文化の復興を計り、全亜細亜に包蔵する無限の資源を協力開発して全亜細亜民族の経済的融和向上を期し、進んで人種平等の大義に則って世界の和平全人類の共存共栄の実現に貢献せんとするものであります」(3)(以下略)。

こうした崇高な主旨にもかかわらず、この会議は田中清が指摘した通り、政治に巻き込まれ、却って問題点を内外に晒すことになった。
そこには、アジアの団結を防ぎたいイギリスなどの列強の思惑も作用していたに違いない。
興亜論者と交流のあったインドのプラタップが参加を試みたものの、旅券がないとして門司の石田旅館に拘留され、会議参加を阻まれたことに象徴されるように、イギリスをはじめとする列強にマークされていた人物の参加が阻まれた。
また、列強からの独立をはじめ、列強にとって都合の悪い議論は統制されていたのである。ここには、今里らが政府や外務省の意向を無視できなかったことが示されているのではなかろうか。
実際、インド代表として参加したビハリ・ボースは、会議の席上、「イギリスからのインド独立の問題を取り上げたい」と提案したが、議長の今里は、日英関係に悪影響がある議論をすれば、必ず警察力の介入を招き、大会は解散を命ぜられるとして、議論は秘密会議扱いとされた(4)。

対華21カ条要求で紛糾
だが、何よりも日本政府を困らせるような要求が中国側から飛び出し、会議は大混乱に陥ったのである。
会議が近づくにつれ、中国の一部に会議反対の声が高まっていた。特に、上海国民党新聞は猛烈に反対していた。また、在大阪朝鮮人労働者の組織する労働組合が団結して反対していた。
それでも、予定通り会議の準備は進み、参加者が長崎に集結する中で、会議前日、大正15年7月31日を迎えた。
その日午後8時30分、会議委員会が開催された。出席者は、今里ら日本側三名、黄攻素、沈徳、劉苹瑞ら中国側三名、そして李東雨(朝鮮)、ボース、ラテナ(以上インド)、ベルゾーサ(フィリピン)の合計10名である。
ところが、日程決議に入ろうとしたところ、中国側は日支21カ条条約(対華21カ条要求)撤廃に関する提議の承認を求めてきたのである。日本側は、同条約の存在は好ましくないため撤廃に努めるべきではあるが、日支間だけの条約について論議することはできないので、広くアジア民族間の不平等条約撤廃としてはどうかと提案した。
しかし、中国側は対華21カ条要求撤廃こそ根本的問題であり、この解決なしにその他の提議をなす必要はないとして日本側の提案を退けた。結局、妥協は成立せず、翌日午前中に再議論することとして散会した。
そして、会議当日の午前10時、黄、沈の2人は長崎市内摂津町西川屋旅館に今里を訪ね、引き続き議論した。しかし、ついに物別れに終わってしまったのである。この結果、中国側は会議で対華21カ条要求撤廃を提案することに決し、もしそれが受け入れられなかった場合には、会議から脱退する方針を固めたのである。
こうして、1日に予定されていた全体会議は午後2時から秘密会として開催されることとなった。
ここでも、日本側と中国側の意見は一致せず、中国側は脱退をちらつかせた。これに対して、長崎県選出の代議士、則本由庸、森肇、宮崎県選出の代議士、永峯與一、佐伯好朗の4名は、国を売ってまで本会の代表である必要はどこにもないとして、午後4時過ぎに秘密会から脱退した。それでも、中国側は強硬姿勢を崩さず、秘密会から脱退し、本会議にも出席しないとして、退出しようとした。
しかし、ようやくインドのボース、フィリピンのベルゾーサ等の調停によって、会議は再開され、日本側は一定の譲歩を決めた。つまり、次のような決議文を作成して、大会冒頭に発表することで妥協が成立し、午後5時に秘密会は終了したのである。

「取消中日於其他一切不平等条約以謀全亜細亜民族真正平等案
全亜細亜民族会議の召集は全亜細亜民族平等の実現を謀り全亜細亜民族共存共栄の目的に到達せむとするものなり、併し中日間の不平等条約を先づ最初に取消を為さざれば是既に亜細亜民族自身間に於ても其の平等と解放を失ひ、白色人種に向つて平等と解放を要求することが出来ない故、現在中日間に存する不平等条約は須く亜細亜民族の共存共栄の目的の為に相互誠意を以て取消に努力すべし」

列強系メディアの報道
こうして、本会議は8月1日午後5時30分から開催された。
会議では、アジア諸国の協力強化のための具体的提案がなされるなど、一定の成果があったものの、日中関係の難しさを際立たせることにしかならなかった。この結末は、日本の台頭を警戒し、アジア分断を図りたい列強にとっては好都合だった。実際、ロシアの『チタ』新聞は、次のように会議の意図まで歪曲して報じている。

「本会議ハ日本ノ帝国主義者ガ『モンロー』主義ニ倣ヒ亜細亜ヲ人種的ニ統一スルノ目的ヲ以テ最近亜細亜各国ニ起レル国民運動ヲ利用シテ充分綿密ナル注意ヲ以テ準備セルモノナルカ亜細亜民族ハ日本ノ平和主義ナルモノハ朝鮮ノ例ニ見又対支21ケ条ニ依リ熟知セルヲ以テ会議ハ果然泡沫ノ如ク消エ此計画ハ失敗ニ帰シ亜細亜民族ハ今更ニ其解放ハ人種的統一ニ依ラス階級闘争ニ依ラサレハ不可能ナルコトヲ知リタリトノ意ヲ述ヘタリ」(5)

こうした報道以外にも、欧米人が経営権を握る英字紙は、意図的にこの会議の意義を過小評価する傾向があったのではないか。例えば、日本国内で発行されていた英字紙『ジャパン・クロニクル』(6)(8月5日付)は次のように報じている。

「議長は其の演説中に相互親愛などを説いたが、詮する所汎亜細亜主義は反欧羅巴主義である。果して然らば日本と露国は是から除外されなければならん。そして日露は此の国外に在つて共同の歩調を取るかと謂へば決してさうではなく、日本は極東の平和の為に、露国は資本制度反対の為に極東の統一を図るのであつて日露共に民族よりも資本関係に重を置く、露国は欧羅巴の資本的文明を倒す為に亜細亜民族を利用せんとし、日本は白人種と同様な方針を進んでゐる」

同じく国内で発行されていた英字紙『ジャパン・アドヴァタイザー』(7)(8月7日付)の報道は以下の通りである。

「亜細亜民族といふても、印度人、波斯人、日本人各民族の相違は甚しく殆んど共通の利益も、要素もない。今回の会議に於ける各民族の契合といふても何れも西洋でないと謂ふに止まり、亜細亜民族だからというのではない」

宗教融和に基づいた興亜
だが、ここでこうした報道だけを責めても仕方がない。そもそも、田中清が指摘した通り、「亜細亜諸民族が基本究極に於て、具有しつゝある宗教的、哲学的、文化的の一致融合点を発見して復興亜細亜の精神的基礎を確立する」という根本問題を軽視していたことこそが、問題の核心なのではないか。
だからこそ、この時期に宗教、文化の融和に基礎をおいた興亜論が重要だったのである。次のような田中清の把握の仕方にこそ、その興亜論の本質的な意義が浮き彫りにされている。

「茲に至つて先生(田中逸平)は今や、絶対無礙の心境に立ちて回教教義の真精神に触れ、更に我惟神道の奥義を回想して、神道の本義と回教の信念とは其の終局目的に於いて不二一如なるを悟得され、日本主義の実現は、大亜細亜主義の実行と同一不可分のものにして、又同時に回教の真髄に合致するものなれば、我等は内に向つては日本主義を高調して、大和民族本然の使命を達成せんことを期し、外に対して大亜細亜主義を提唱して、我亜細亜民族終極の理想を実現せねばならぬ。と云ふ信念を体得されたのである」
翻って現在の東アジアを見ると、東アジア共同体をはじめ、アジアの協力体制の枠組みが着実に進展しつつあるように見える。しかし、経済主導の共同体作りが結局は国家の利害の前に意外に脆いという構図は今も変わっていないのではなかろうか。だからこそ、東アジアの宗教・文化の相互理解と融和を伴うような息の長い関係強化の運動が重要なのではないか。

[注]
(1)加藤高明「第四七議会/6 今里準太郎提出外交方針ニ関スル質問主意書」(帝国議会関係雑纂/質問答弁 第7巻)、1924年7月7日、外交資料館。
(2)「祖国遍路」『田中逸平 その4─随想』2004年3月、212~213頁。
(3) 内務省警保局保安課『全亜細亜民族会議顛末』1926年10月。以下、亜細亜民族会議に関する情報は同資料に拠る。
(4)三輪公忠『日本・1945年の視点』東京大学出版会、1986年、128頁
(5) 「亜細亜聯盟ニ関スル『チタ』新聞ノ批評ニ関スル件」(公第179号)、1926年8月14日。
(6)『ジャパン・クロニクル』は、1890年にイギリス人ロバート・ヤングによって『神戸クロニクル』として創刊された英字紙。1901年に『ジャパン・クロニクル』と改題。
(7)『ジャパン・アドヴァタイザー』紙は1890年に横浜で創刊された英字紙で、1908年にアメリカ人ベンジャミン・W・フライシャーが経営権を買い取り、東京に本社を移した。『ニューヨーク・タイムズ』との人的交流があった。


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