大日本殉国会

「外部ノ物質的援助ヲ仰ガズ」

 華々しい活躍はしなかったものの、無私に徹した運動を志していた維新団体として知られているのが、大日本殉国会である。
大正15年2月11日、古着屋を営んでいた増井潤一郎が旗揚げした団体である。増井は新潟県高田の出身で、小学校の教師をしていた父から武士的教育を受けるとともに、漢学を仕込まれて成長した。増井の脳裏には、父から教えられた『日本外史』をはじめとする著書に示された楠一族の殉国物語が深く沁み込んでいた(荒原朴水『大右翼史 増補版』大日本一誠会出版局、1974年、100頁)。
頭山満が殉国会顧問を務め、綱領は次のように定めていた。
一 本會ノ目的ハ國體ヲ宣揚シテ皇道ヲ四海ニ布クニ在リ
一 本會ノ目的ハ盡忠報國ニ立脚シタル道義ヲ確立シ之レニ反スル諸惡ノ根絶ニ在リ
一 本會ノ目的遂行ニ要スル一切ノ費用ハ同志ノ出費ヲ基金トシ連盟者ノ働キテ得タルモノヲ以テ之ヲ支辯シ斷ジテ外部ノ物質的援助ヲ仰ガズ(田中逸平「半月雑記」(7)『日本及日本人』161号、1928年10月1日)。

中央右から増井潤一郎、河野春庵、西郷吉之助、頭山満、上杉慎吉。『頭山満翁写真伝』51頁掲載

殉国会は、毎月『殉国』を4000部発行し、毎月20日に講演会を開催していた(『大右翼史 増補版』100頁)。
増井の盟友でもあった田中逸平は、「彼の政黨の走狗と爲り、或は權門に出入し、或は不義の財を哀求して、祖國運動とか、日本主義とか、乃至右傾暴力團など自稱する幾多の實行團體中、殉國會の此綱領と、此の勤勞とに依り、益々其所志實現を希望する者なり」と殉国会を賞賛していた。

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「大日本殉国会」への2件のフィードバック

  1. 増井潤一郎は私の祖父にあたりますが、今まで詳しいことがわからずにおりましたが、今回拝読し、足跡を知ることができました。
    なお、文章の3行目、「増田は、新潟県・・・」となっていますが、正しくは、「増井は、・・・」ではないでしょうか。

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