投票を9日後に控えた平成26年12月5日、新自由主義者の巣窟「万年野党」(理事長:宮内義彦)が興味深い記事を掲載した。「総選挙版 全衆議院議員の三ツ星評価が完成」と題した記事で、以下のように書かれていた。
「与党議員の中には……改革を進めていかなければいけないと考えている議員たちがいる。こうした事を感じている有権者は、おそらく与党に投票する事になるのだろう。しかし一方で、こうした改革を進めていこうという議員たちの足を引っ張ろうというのは、必ずしも野党だけではない。むしろ、与党の中に、改革に反対する勢力があり、野党以上に足を引っ張るというケースがある。一方で、国会の報道などを見て、与党が進める改革にさえ、なんでも反対するのが野党という印象を持っている人もいるだろう。しかし、野党の中には、与党の改革よりもさらに進んだ改革や、さらに効果的な改革を代案として提案する議員たちもいる。もちろん、野党にはそんな議員ばかりだというわけではない。……政党を選ぶ選挙ではなく、この国の将来のためにも、与党の中でも改革派の議員、野党の中でも改革派の議員をと選んでいくべきではないだろうか」
「改革」というと聞こえはいいが、新自由主義者の望む改革とは、グローバル企業に奉仕し、日本国民の生活、安全を脅かし、日本の伝統文化や国体を破壊することではないか。
いまこそ「規制改革」の正体を暴く必要がある。「規制」とは、国民生活、伝統文化、国体を守るための共同体のルールであり、「改革」とは「破壊」なのだと理解すべきである。
「日本の真価」カテゴリーアーカイブ
若林強斎『雑話筆記』輪読(平成26年12月18日)
平成26年12月18日、崎門学研究会で若林強斎先生の『雑話筆記』61頁(近藤啓吾先生校注の『神道大系 論説編 13 垂加神道 下』収録)から輪読。陰陽五行、国狭槌尊(くにのさつちのみこと)、豊斟渟尊(とよぐもぬのみこと)など。
頼春水「贈高山彦九郎」
『月刊日本』の連載「明日のサムライたちへ」。次回(平成27年1月号)より頼山陽の『日本外史』を取り上げる。その2回目では山陽の父春水と高山彦九郎、崎門学との関係についても書く予定だが、春水の「贈高山彦九郎」が吉村岳城『朗吟詩撰 下巻』(日本芸道聯盟、昭和11年)に収められているのを知った。次のような解釈が載せられている。
〈私はかねてから高山彦九郎といふ人物はよく知つて居る。上州新田の細谷といふところで寸陰を惜しんで読書したこと、畑で鋤鍬を把る間も経書を放さなかつたのも、折あらば山野を跋渉して英気を養つたことも、孝心深くよく仕へたことも、天下を奔走して傑出した人物には千里を遠しとせず往いて訪ね、尊王の大義を説いたこともまた三條大橋に土下座して草莽の臣高山彦九郎と名乗り、泣いて 皇居を拝したことなどみんな識つて居たのだ。それがかうして相逢ふ仲となつて嬉しい。大に飲まう。そして大に志を論じよう。書を読んで読まないは第二の問題だ、根本第一は志だ。志あつてこそ書を読むんだ。志の無い奴が読書した處で何になる、害はあつても益にはならない。志が無くて読書した奴は腐儒にしかならない。志だ。志だ。〉
若林強斎『雑話筆記』輪読(平成26年12月9日)
平成26年12月9日、崎門学研究会で若林強斎先生の『雑話筆記』55頁(近藤啓吾先生校注の『神道大系 論説編 13 垂加神道 下』収録)から輪読を再開。
周敦頤・程明道・程伊川、陰陽についてなど。
山本七平『近代の創造』の中の『靖献遺言』
山本七平は『近代の創造』(PHP研究所、昭和62年)において、渋沢栄一の従兄弟で、その師でもあった尾高藍香のことを論じているが、藍香も手にしたと推測される『靖献遺言』を次のように位置づける。
〈『靖献遺言』『保建大記』『中興鑑言』が、さらに『大日本史』の通俗版ともいえる『日本外史』『日本政記』が明治維新を招来した「思想教科書」であるとは確かに言える。このうち前の三冊は朱子学の系統の崎門学であり、『中興鑑言』の著者三宅観瀾と『保建大記』の著者栗山潜鋒は水戸彰考館の一員で、共に闇斎・絅斎系すなわち崎門学系の思想家である。そしてこの浅見絅斎こそ山崎闇斎の弟子で尊皇の志士のバイブル『靖献遺言』の著者である。だが、これらの人々の思想は……朱子学系統であり、朱子の正統論を絶対化し、正統を護持するためには殉死も辞せずという強い正統論者であったことは共通している。一方水戸には光圀が招聘した中国からの亡命学者朱舜水がおり、その弟子が安積澹泊で水戸彰考館の総裁、要約すればこの二系統を統合したのが初期の水戸学である。しかし観瀾の後は余りたいした学者も出ず、このころは日本の思想に強い影響力をもっていたわけではない。
ところが藤田幽谷とその子東湖、さらに会沢正志などが出、斉昭がこの東湖によって水戸藩主となり、東湖を側用人、正志を侍読とすると共に、水戸は「思想的権威」のような様相を呈して来た。……だが会沢正志であれ、藤田東湖であれ、本来の姿は水戸藩の「お抱え学者」であり、藩に従属して禄をもらっている以上、浅見絅斎のような完全に自由な思想家ではあり得ない。彼らは「尊皇攘夷」は声を大にして口にしたが、「藩」そのものの否定はもちろん、幕藩体制否定の「倒幕」さえ明確には口に出来ず、その点、決して「倒幕のアジテーター」とはいえない。……尊皇思想を研究された三上参次博士は「一方に於て是書(『新論』や『常陸帯』)を読み一方に於て『靖献遺言』の所信を実行せば、皇政復古の大業の明治維新の際に於て成功せるも強ち異とするに足らざるべし」と記されている。いわば「発火点」は『靖献遺言』であって、水戸学はそれにそそぐ油のようなもの、そして外圧はこれを煽ぎ立てる風のようなものであって、油と風だけでは何も起らないわけである。
そして発火点とは……「思想の真髄」いわば、天動説を地動説に変えてしまうような「心的転回」を起したときである。そうなれば『新論』も『常陸帯』も激烈な行動へと燃えあがる油にはなりうる。
そして多くの人の場合は発火点が『靖献遺言』であった〉
『保建大記打聞編注』読了
平成26年11月21日、崎門学研究会で輪読を続けてきた『保建大記打聞編注』(杉崎仁編注)を読了。同書に収められた、平泉澄先生の「保建大記と神皇正統記」を再読した。
ここで、平泉先生は四つの観点から『保建大記』と『神皇正統記』の類似性を論じ、両書にしばしば出てくる不諱不諛について次のように書いている。
「然しながらかくの如き直言不諱の態度は、第一には事実を直視して真相を把握しようとする学者の良心から出た事である上に、第二には諷諌をたてまつつて帝徳を輔翼し奉らうとする忠誠の至情より発する所である事を知らなければならぬ。神皇正統記の著者北畠准后が累代忠烈の家風を承けて、終身王事につくされた赤心は、今更いふまでもない所であるが、保建大記の著者栗山潜鋒にしても、崎門尊王の精神を受けて八条宮に仕へ、王政の衰微を慨歎してやまなかつたのであるから、其の丹誠は、もとより疑ふべくもない。且また……正統記が 後村上天皇に進献し奉つたものであり、大記が八条宮にたてまつつたものである事を思へば、此の不諱の直言は、実に御諌として考へなければならないのであり、従つて之を普通民衆を対衆として述作せられたる書物として考ふべきではなく、後に民間に流伝するに至つたにしても、本来の性質を考慮して読むべきものであり、それを考慮する事なくして、直ちに之を不敬の書とし、忌憚なき文として、非難するは、当らずといはなければならぬ」
栗山潜鋒『保建大記』と華夷の弁
華夷の弁(内外の別)は、山崎闇斎─浅見絅斎─若林強斎と続く崎門学正統派が強調してきたことだが、これは栗山潜鋒の『保建大記』に明確にしめされている。
同書後半で、潜鋒は次のように書いている。
〈臣愿曰く、華夷何の常(つね)か之れ有らん。華にして夷の礼を用ゐれば、則ち夷なり。夷にして華に進めば、則ち之を華にするは、古の制なり。〉
『保建大記』を解説した『保建大記打聞』で、谷秦山のこの箇所について次のように書いている。
〈華夷と云に、何の定りが有んや。孔子春秋の法、中国と云国も、夷狄の作法を用れは、すぐに夷狄とあしらひ、夷狄とあしらふ国も、中華の道にすゝめば、中華とあしらふ。是が古の法也。何釘づけの華夷あらんや。○韓文、原道に曰く、孔子之春秋を作れるを云也。諸侯夷礼を用いれば、則之を夷にす。夷にして中国に進めば、即ち之を中国にす〉(漢文は書き下し、カタカナはひらがなに改めた)
山崎闇斎の「天人唯一」①
儒学の「天人合一」と山崎闇斎の「天人唯一」の違いはどこにあるのか。
近藤啓吾先生は、『山崎闇斎の研究』において次のように書いている。
〈「天人唯一」が宋学で重んじた天人合一の語より出るものであることは明らかである。そして伏義が仰いで天文を観、俯して地理を察て易象を作つた(繋辞伝上)といふのであるから、『易』が天人相応の理によつて構成されたものであることはいふまでもなく、周濂渓の『太極図説』といひ張横渠の『西銘』といひ、ともにこの『易』の理に本づいて天人合一を説くものであつた。闇斎が『闢異』を著はし、『周子書』を編纂し、『西銘』を表章刊行してゐるのも、この天人合一の理に、人のよりて立つ根本かあるを信じ、その理を明らかにしようとしたものである。しかし漢土に於いては、天は所詮、思惟によつて生れたものであり、「乾は父と称し坤は母と称す、予が茲の藐焉、乃い混然として中に処す」(『西銘』。闇斎の加訓による)といつても、それは天人合一をその観念上に体認することであつても、天と人と血統の上に接続するところなきことは自明のことである。朱子学に深く沈潜しながら、最後の依拠を確信することができぬ辛苦と焦心が、闇斎のうちにあつたことは疑ひ得ない。
しかるに眼を『神代巻』に転ずれば、そこに展開されてゐる高天原の世界は、神の世界ではあるが漢土の天と異なり、まさしくわが血脈上の父祖の世界である。血脈に中断なきところ、神代は即現代に継承せられ具現せられてゐるのである。これは歴史と信仰とを統合し一体ならしめるものといつてよい。闇斎はわが国のこの事実を「天人唯一」の語をもって表現したのである〉(316頁)
皇道経済の施策─大日本生産党産業調査部編『日本新経済策 前巻』
以下は、昭和7年末に大日本生産党産業調査部が編んだ『日本新経済策 前巻』の目次。
第一章 總論
一 日本主義の發祥と國家社會主義/1
二 國民思想と經濟社會組織/3
三 資本主義經濟の行詰と經濟組織の改修より建設へ(附圖七頁、九頁)/5
四 企業經營合理化の要/10
五 國家管理に依る統制經濟社會の經營的矛盾性(附圖十三頁)/11
六 中小商工對策の根本問題/14
七 農村對策の根本問題/15
八 金融機關の國家管理の提唱/17
九 國營事業とすべき企業/18
十 我經濟社會の建設大綱(附圖二十頁)/19
十一 企業統制の眞意義と具體的手段/21
十二 產業統制機關の組織と機能 (附圖二十五頁)/24 続きを読む 皇道経済の施策─大日本生産党産業調査部編『日本新経済策 前巻』
会沢正志斎墓参(平成26年7月8日)
平成26年7月8日、茨城県水戸市千波町2367の本法寺跡地にある会沢正志斎の墓にお参りに赴き、『新論』執筆の志に思いを馳せた。
墓表「旌正之碑」は青山延光撰。以下のURLに書き下し文が載っている。
http://www.geocities.jp/sybrma/458seishisaibohyou.kundoku.htm
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