「頼春水」カテゴリーアーカイブ

竹原の吉井家と頼家─垂加神道を支えた「浜旦那」

 令和4年7月、広島県竹原市を訪れた。尊皇斥覇を体現した唐崎家とも関わりのあった吉井家、頼家の足跡を辿るためだ。
 まず、照蓮寺を訪れ、山陽の祖父・惟清(これすが)と祖母・仲のお墓にお参りした後、竹原町並み保存地区に移動。
 竹原は平安時代、京都・下鴨神社の荘園として栄えた歴史から、「安芸の小京都」と呼ばれている。江戸時代に入浜式塩田を開いてから、竹原は大いに発展した。竹原は塩作りの町として躍進し、「浜旦那」と呼ばれる塩田経営者たちが栄華を誇った。松阪家、頼家、ニッカウイスキーの竹鶴政孝の竹鶴家(竹鶴酒造)、吉井家、森川家などが浜旦那として知られる。
吉井家は半三郎当徳が第三代当主に就いてから、大俵塩問屋の特権を認められ、質店に加え、酒造・塩業さらに塩問屋と業種を追加し、商家として飛躍的な発展を遂げた。
 実は吉井家と竹原の崎門学の発展を牽引した唐崎家には深い結びつきがあったのだ。
 山崎闇斎に師事した唐崎定信が長生寺(赤斎自決の場所)に、猿田彦神を祀る庚申堂を建てた際、それを支援したのが、半三郎当徳であった。さらに、定信の後を継いだ清継の妻は吉井家から嫁いでいる。赤斎らの遊学費用を負担したのも吉井家であった。しかも、吉井家六代目当主の当聴自身が闇斎の高弟植田艮背に師事している。また、吉井正伴、吉井元庸ら吉井の同族も垂加神道を修めていた。
 一方、頼家の祖先は小早川氏に仕え、三原の頼兼村に住んでいたと伝えられているが、惟清の曾祖父の時に竹原に移住して海運業を営み、祖父の頃に紺屋を始めた。今も惟清が紺屋を営んでいた旧宅が残っている。裏庭には山陽の詩を刻んだ碑が建っている。
 惟清も竹原の崎門派と交わり、晩年には谷川士清に師事していた。つまり、惟清、唐崎赤斎、赤斎の父・信通は同門ということになる。惟清は小半紙に「忠孝」の二文字を書いて守袋に収めていた。この「忠孝」の二文字は、唐崎定信ゆかりのものに違いない。
 惟清には五人の息子が生まれたが、次男と五男は早世。残った3兄弟が、長男春水、三男春風、四男杏坪である。惟清は生涯の望みとして、「男子を学者にすること」「富士山を見ること」「家を新築すること」の三つがあったが、この望みはいずれも子供達によって実現した。
 春水は広島藩主浅野重晟により藩儒および藩校学問所(現修道中学校・修道高等学校)教授として招聘された。
 春風は大阪で医学と儒学を学び、医業を開業し、塩田経営にも乗り出し、天明元(1781)年には春風館を建築した。また、春風の養子である小園の子三郎が分家し、春風館の西側に隣接して復古館を建てた。
 杏坪は春水とともに安芸に移りのち藩儒となった。
 春水もまた崎門学の影響を受けていたようだ。頼成一は、「春水は少年時代から垂加派の主義思想を脳裏に深く強く焼きつけられてゐたに違いない」と書いている。
 なお、道の駅たけはらと交差点を挟んで対角側の本川沿いには頼山陽広場があり山陽の銅像が建っている。

竹原の頼家

頼山陽銅像(竹原の頼山陽広場)
頼山陽銅像(竹原の頼山陽広場)
春風館
春風館
復古館
復古館
頼山陽詩碑(頼惟清旧宅)
頼山陽詩碑(頼惟清旧宅)
頼惟清旧宅
頼惟清旧宅
竹原町並み保存地区
竹原町並み保存地区
頼惟清・仲の墓(照蓮寺)
頼惟清・仲の墓(照蓮寺)
頼惟清・仲の墓(照蓮寺)
頼惟清・仲の墓(照蓮寺)
照蓮寺
照蓮寺

頼春水「贈高山彦九郎」

 『月刊日本』の連載「明日のサムライたちへ」。次回(平成27年1月号)より頼山陽の『日本外史』を取り上げる。その2回目では山陽の父春水と高山彦九郎、崎門学との関係についても書く予定だが、春水の「贈高山彦九郎」が吉村岳城『朗吟詩撰 下巻』(日本芸道聯盟、昭和11年)に収められているのを知った。次のような解釈が載せられている。
 〈私はかねてから高山彦九郎といふ人物はよく知つて居る。上州新田の細谷といふところで寸陰を惜しんで読書したこと、畑で鋤鍬を把る間も経書を放さなかつたのも、折あらば山野を跋渉して英気を養つたことも、孝心深くよく仕へたことも、天下を奔走して傑出した人物には千里を遠しとせず往いて訪ね、尊王の大義を説いたこともまた三條大橋に土下座して草莽の臣高山彦九郎と名乗り、泣いて 皇居を拝したことなどみんな識つて居たのだ。それがかうして相逢ふ仲となつて嬉しい。大に飲まう。そして大に志を論じよう。書を読んで読まないは第二の問題だ、根本第一は志だ。志あつてこそ書を読むんだ。志の無い奴が読書した處で何になる、害はあつても益にはならない。志が無くて読書した奴は腐儒にしかならない。志だ。志だ。〉