儒教文明の復興と大川周明

■西本白川と大川周明
 東洋文明の復興を志した大川周明にとって「儒教的中華文明の復興」は重要な課題だった。大川は、ほとんど全ての民族にとって、人生全体の規範である「道」が、文化の発達に伴って宗教・道徳・政治の三つに分化したが、中国ではその三者が見事に純化されて儒教となったととらえていた(「支那問題に対する一考察」)。
 そして大川は「人生を渾然一体として把握し、別に宗教・道徳・政治を分立せしめず、之を一個の『道』に綜合して、最も具体的に人格の成満を志すところに支那精神の比類なき特徴がある」と書いていた。だからこそ、大川は「道の体得者」が中国政治を動かすことを期待していたのである。呉懐中氏は次のように説いている。
 「大川が同時代中国における道の体得者や有徳者として首肯したのは、辜鴻銘・沈子培・張謇・杜天一(日本側は西本白川や大陸浪人の元祖たる金子雪斎)等の面々だったように思われる」
 では、大川の中国認識論は以下にして固められたのだろうか。ここで注目すべきが西本白川の影響である。
 西本は、東亜同文会が明治三十三(一九〇〇)年に開設した南京同文書院の一期生で、同書院の教授を務め、その後週刊『上海』の編集や春申社の社長を務めた。
 当時、在中国の日本人ジャーナリズム界では、「北に橘樸、南に西本白川」と呼ばれていた。王道主義を掲げた西川は、中国の共和政治・デモクラシー思想や新文学運動に反対し、清朝の復辟や国学の復興を期待して、清朝の遺臣で宗社党を組織した沈子培・姚文藻・鄭孝胥らと交遊した。大川は西本の人格を高く評価していた。
 「徳のある人間に対しては支那人は非常に尊敬する。私の友人で去年亡くなりましたが、上海に西本白川といふ非常に篤心な学者が居ました。此人は上海に居ること二十何年になるが人間が非常に立派である為に亡くなる迄非常に貧乏であつた。本当に陋巷に窮居して居つた。陋巷に窮居して居りながら支那の経学と真に真面目に勉強して居つたところが、日本人に此の西本君の道を求める非常な熱心な心、其極めて潔白な人格、之に対して殆ど尊敬を払わない。それにも拘らず支那人の方は、西本君を知る程の人々は、非常なる尊敬を払つて居るのであります」(「漢民族と其文明」『月刊日本』昭和五年三月)
 そして、大川は西本と中国認識を共有していたのだ。例えば、西本が大川に宛てた書簡には次のように書かれていた。
 「支那が昔も今もやはり道の国で、内外を問はず苟も道の大用と其の統を継承する丈けの人格者さへあらば、何時にても乱を治に向はせ廃を興に趨かせることか出来るといふ吾人の対支的信念……」
 これは、大川の次の言葉と響き合っている。
 「支那の天下は如何なる例外もなく、常に道の体得者によりて平らげられ、而して唯物主義者によりて乱されて来た。唯物主義(者)が支那を支配する時、支那には如何なる平和もなかつた。而してその乱雑混沌は、道の体得者が現れて天下四海を統一するまで続かざるを得なかった」
 実際、西川の思想は、大川に強い影響を与えていた。呉懐中氏は次のように指摘している。
 〈『現代支那史の考察』(1922)・『大儒沈子培』(1923)・『康煕大帝』(1925)等の西本の著書に見られる、道を中心に中国の思想や歴史を探り、近代中国の事情を批判し、また清朝遺老の沈子培を道統的大儒として尊敬し、偉業を成した康煕帝は王道的政治精神を持つ典型的人物だからこそとして礼讃するという姿勢は、大川の中国論に対し、具体的言説様式にまで影響を与えたように思われる〉
 大川は西本の『康煕大帝』について、「道の如何なるものかを具体的に理解する為に」一読すべきもの、「支那研究者の必読」を要する「希有の好著」として推薦していた。

■辜鴻銘と大川周明
 西本とならんで、大川の儒教思想に基づく王道主義に強い影響を与えたのが辜鴻銘である。
辜鴻銘
大正十三(一九二四)年、北京からの書簡で、大川は次のように書いている。
 「故に到処恨事徒に繁くして空しく傷心す。御憫察下され度、唯だ北京に於て一老学者と相識り稍々慰むる所有之度候。此人名を辜鴻銘とよび、学漢洋を兼ね識見高遠なり。生をして支那の古道僅に這個老漢の心裡に護持せらるゝを思わしむ。その英文の如き暢達にして而も機智横溢、殆どバーナードショウの筆致あり。兼て独逸語に達し、独逸に於て其著を刊行せることあり。而も満腔これ古道にして、一念たゞ真個支那精神の宣揚にあり。生一見旧知の如く、交すでに断金なり。……壮年の頃より張之洞に侍し、忠を大清朝廷に致し、今に及んで禄を共和政府に食むを肯んぜず、陋巷に寝居せり。生に示して曰く心憂天下食不足と」(『道』第百七十九号、大正十三年)
 呉懐中氏は、辜鴻銘が西洋遍歴を経て張之洞の感化によって儒家文化に回帰し、「反西洋文明的復古主義」によって自国の精神性を自国の歴史に求めるようになったと指摘する。そして、辜は儒家文化に回帰してからは儒教的中華文明の復興を唱え、西洋文明への対決や克服を目指す強烈な文化ナショナリストになったのと指摘している。
 一方、愛知県立大学の川尻文彦氏は次のように述べている。
 〈梁漱溟研究で知られるガイ・アリトー(Guy Allito)は、第一次大戦後の沈んだ雰囲気の中で、タゴールや岡倉天心と並んで東洋の聖哲として知られたのは、梁漱溟でも梁啓超でもなく辜鴻銘であったという。第一次大戦中の一九一五年(一九二二年にも再版)、彼は英文でThe Spirit of the Chinese People(別名『春秋大義』)を発表するとともに、大戦と東西文明の関係について論じ、中国文化によって西洋を救うことを高唱した〉(「辜鴻銘とアーサー・スミス」)
 しかも辜は、中国が西洋文明の進出に抵抗できないのは、儒教文明または道徳文化が衰弱した結果であり、日本は中国儒教文明の真精神を体得したことによって国を守り、しかも隆盛させたと考えた。ゆえに日本は自分の保持した中国文明の精髄を再び中国にもたらし、真の中国文明を復興することを自らの天職とすべきだと説いた(「中国文明の復興と日本」『大東文化』大正十四年七月)
 こうした辜の考え方は、大川の思想に極めて重大な影響を与えていたのではないか。岡倉天心の東洋文明論から強い影響を受けていた大川は、「儒教文明の貯蔵庫」としての日本の特別な使命を強く自覚していた。だからこそ、辜の言葉は大川を触発し、中国における儒教文明の復興を切望させたに違いない。張学良に対する過剰な期待もその表れだったと考えられる。

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