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荒尾精─皇国の天職としての興亜を追い求めた

菅井誠美の支援と南洲の精神
 東亜同文会として結集する興亜陣営の源流となった荒尾精は、志半ば三十八歳の若さで亡くなった。彼がその後も活躍していれば、アジア情勢は異なる様相を呈していたはずだとする見方も少なくない。荒尾の同志頭山満は、次のように回顧する。
 「余は大に荒尾に惚れて居つた、諺に五百年に一度は天偉人を斯世に下すと云ふことあり、当時最も偉人を憶ふの時に荒尾を得たのであるから、此人は天が下せし偉人其人ならんと信ぜし位に、敬慕して居つた。
 彼の事業は皆其至誠より発し、天下の安危を以て独り自ら任じ、日夜孜々(しし)として其心身を労し、多大の困難辛苦を嘗め益々其志を励まし、其信ずる道を楽しみ毫も一身一家の私事を顧みず、全力を傾倒して東方大局の為め尽くせし報公献身の精神に至つては、実に敬服の外なく、感謝に堪へざる所であつて、世の功名私欲を主とし、区々たる小得喪に齷齪(あくせく)する輩と、全く其選を異にし、誠に偉人の器を具へ大西郷以後の人傑たるを失はなかつた」(井上雅二『巨人荒尾精』(復刻)大空社、平成九年、二百十六、二百十七頁)。
 また、荒尾に傾倒していた井上雅二は、『巨人荒尾精』でその生涯を称え、また報知新聞記者を経て文筆家として活躍した佐藤垢石は、荒尾について「世界の変局を、達観してゐた。そして、熱血漢であった。努力家であつた。包容力があつた」と絶賛した(佐藤垢石『荒尾精 : 興亞の先驅者』鱒書房、昭和十六年、八頁)。
 荒尾は、安政六(一八五九)年四月十日、尾張・琵琶島(名古屋市西区枇杷島、西区花ノ木町の説もあり)に生まれた。明治四年、荒尾一家は上京して荒物屋をはじめたが、うまくいかず家族離散に陥る。そんな荒尾を救ったのが、薩摩藩出身で、後に栃木県知事を務める菅井誠美である。当時麹町警察署に勤務していた菅井は、明治六年に荒尾を引き取り、我が子のように養育したのである。麹町元園町にあった私立学校に通えるようになった荒尾は、菅井の期待に応えるべく必死に勉強した。一日たりとも読書を怠ったことはなかった。
 荒尾を動かしたのは、西郷南洲の精神であった。当時、「征韓論」をめぐって下野した南洲を敬愛していた菅井は、南洲の唱えた東洋経綸と道義外交の価値を正しく理解していたに違いなく、彼は南洲の精神を荒尾に熱く語ったであろう。そんな中で、菅井の家には陸海の軍籍のある友人らが日夜集い、西欧列強の圧力で緊迫する東アジア情勢について議論を戦わせていた。その熱い議論を日々耳にし、荒尾は「支那に渡りアジア諸民族のため力を尽くそう」と決意する。
 興亜を志した荒尾に対して、菅井は語学を習得することが重要だと強調していた。本郷警察署長に転じた菅井は同区に移住、これを機に荒尾は地元の外国語学校に入って、フランス語、オランダ語、スペイン語を修めた。一方、剣道を学び、さらに漢籍を習った。寸暇を惜しんで、文武の道を極めようとしたのである。菅井に引き取られてから五年後の明治十一年、荒尾は菅井に次のように告げる。
 「外国語学校に学ぶは、宿望を達するに迂なるを免かれず、若かず校を退き、さらに軍人となり、兵を練るの術を学び、傍ら清国の事情を研究し、以て他日渡清の便を得たし」(『巨人荒尾精』七頁)
 菅井は、荒尾のこの考えを受け入れた。こうして、彼は同年陸軍教導団に入り、砲兵科を修めて、翌年陸軍軍曹に任命される。荒尾は、明治十三年には陸軍士官学校に入り、歩兵科を講習する。彼は、「他日力を天下に致さん」とする者は、百難に絶えうる気力を培えと説き、行軍などにおいては、背中に数個の鉛塊を入れて赴くなど、豪傑ぶりを発揮していた。

根津一との出会いと靖献派の誕生
 荒尾が入学する一年前に士官学校に入っていたのが、彼の生涯の盟友で、後に東亜同文書院初代院長に就く根津一である。ちなみに、荒尾が本名の「義行」に代えて「精」と名乗るようになったのは、根津との出会いによる。『中庸』の序には、舜が禹に授けた言葉として、「人心惟危 道心惟微 惟精惟一 允執厥中」(人心これ危うし 道心これ微なり これ精これ一 まことにその中をとれ)という言葉が引かれている。後に王陽明は、精米に喩えて、玄米を白くするのが「惟一」で、その加工の努力工程が「惟精」であるとし、「精一」は「致良知」だと説いている。つまり、荒尾が「精」と名乗ることによって、根津の名である「一」とあわせて、「精一」となり、一心同体となって良知に到ることを誓い合った。
 これより先、陸軍教導団時代から、荒尾は日中の忠孝義烈の士の事跡をまとめていたが、その行動を支えたのが浅見絅斎の『靖献遺言』である。荒尾は、忠孝義烈の士の魂にふれることで、臣民としての使命感を掻き立て、同志や部下たちを薫陶しようとしたのであろう。
 やがて、荒尾と根津は『靖献遺言』に示された忠孝義烈の精神によって、陸軍仕官学校において、同志二十人ほどで結束した。ここには、明石元二郎や宇都宮太郎らもいた。彼らは、義に背く者がいれば、それを厳しく戒めるようになり、校内で靖献派と呼ばれるようになる。日曜祝日には、学校の近くの谷中宗泰院に同志を集め、『靖献遺言』のほか『孫子』や『伝習録』を必死に学んだ。夏休みには徹夜でそれらの書物を輪読したほどである。同時に、アジア関係の書物にもあたり、興亜の夢を膨らませた。
 仕官学校を卒業したとき、学友たちが宴を張って有頂天になっているのを見て、荒尾は「我輩は、東洋平和確立し、大亜細亜主義成らずんば、祝福の言葉を受けず」と喝破している(田中正明『大亜細亜先覚伝』象山閣、昭和十七年、十四頁)。
 その後、彼は熊本歩兵連隊に赴任、この時代に結んだのが、紫瞑会の佐々友房や津田静一である。荒尾は、「徳義、倫理」によるアジア同盟論を最も早い時期に唱えていた紫瞑会をしばしば訪れ、中国、東亜の問題について議論を交わしていた(栗田尚弥『上海東亜同文書院』新人物往来社、平成五年、二十三、二十四頁)。

「漢口楽善堂」に集結した興亜の志士
 熊本歩兵連隊時代、荒尾は大陸への志につき動かされ、軍職を擲ってただちに雄飛しようと試みたが、菅井らに戒められ、思いとどまっていたが、ついに大陸雄飛のときが来た。
 明治十八年に仕官学校を卒業した荒尾は陸軍参謀本部支那部付となり、翌明治十九年四月、ついに陸軍中尉として大陸に実地踏査を目的として派遣されることになったのである。
 上海に到着した荒尾は、岸田吟香の「楽善堂薬舗」に急いだ。東京日日新聞主筆としての言論活動などでも知られる岸田は、文久三(一八六三)年に眼病を患い、ヘボン式ローマ字を考案したことで知られるジェームズ・C・ヘボンを訪ねたことから、様々な展開がはじまった。まず、岸田は『和英語林集成』の編纂を手伝うようになり、慶応三(一八六七)年に、同書は完成する。
 明治十年に東京日日新聞社を退社すると、岸田は銀座に楽善堂を設立し、ヘボンからその処方を伝授された目薬「精錡水(せいきすい)」の製造販売を開始した。そして、明治十三年に、いよいよ岸田は上海に楽善堂の支店を開設したのである。ただし、その行動は単なる商売ではなく、慨世憂国の国士としての行動でもあった。岸田にもまた、興亜の志があったからである。岸田と意気投合した荒尾は、ともに東亜百年の長計のために協力することを約束する。
 両者の合意によって、漢口に楽善堂の支店を設け、そこで商売をして資金を稼ぎながら情報収集に当たり、興亜の活動に備えることになった。漢口楽善堂には、三十名近くの興亜の志士たちが次々と集結した。まず、井深彦三郎、高橋謙、宗方小太郎、山内厳らが集まった。さらに、山崎羔三郎(こうざぶろう)、片岡敏彦、石川伍一、藤島武彦、白井新太郎、中野二郎、浦敬一、北御門松二郎、中西正樹、廣岡安太、浅野徳蔵、松田満雄、前田彪、河原角次郎といった面々が訪ねて来た。彼らは、玄洋社のほか、上海の東洋学館の人脈、熊本の佐々友房の人脈、そして明治十六年に芝罘(チーフー)(現煙台)初代領事として赴任し、清国改造の志を抱いていた南部次郎の人脈などからなる(畑中ひろ子「漢口楽善堂の人々」『明治大学大学院紀要』昭和六十三年、大里浩秋「漢口楽善堂の歴史(上)」『人文研究』平成十七年)。
 荒尾は、これらの同志たちと、「世界人類の為に第一着に支那を改造すること」を漢口楽善堂の使命と定めた。楽善堂に集結した志士たちの間では、刻一刻と緊迫化するアジア情勢への危機感が高まっていた。特にシベリア鉄道建設などの動きを見せるロシアの動向に強い関心が向く中で、浦敬一は、対ロシア政策に必要な情報を収集するため、新疆方面の状況調査を企て、明治二十二年九月に藤島武彦とともに蒙古に向かい、果敢にも単独でさらに奥地へと入っていった。藤島と別れるとき、浦は「こゝで別れて、君といつまた遭へるか分からないが、この後三年間我輩の消息がなかつたら、砂漠に骨をさらしたものと思つてくれ」と言い残した。彼はまもなく消息を絶った。探検に出る半年前の明治二十二年三月二十五日、父に宛てて次のようにその思いを綴っている。
 「苟も自ら先んじて亜細亜人民たるものゝ大義を天下に唱へ、亜細亜遠大の策を天下に明に致し候得者、我国小なりと雖ども清国衰へたりと雖ども、必ず風を聞いて起つもの可有之、仮令不肖生前に志を達する能はざるも不肖の志を継ぎ之を達するもの有之候得者満足の至に有之候」

日清貿易研究所の開校
 明治二十二年四月、荒尾は楽善堂を中野二郎らの同志にまかせて東京に戻り、ただちに四年間の経験とその間に収集した情報をまとめて参謀本部に復命書を提出した。復命書において、荒尾は清国の状況を詳細に分析した上で、清国と戦うも和するも、ともに問題があり、革命勢力と結んで滅清興漢の義兵を起こし、革命政府と同盟を結んで東洋の勢を興すことが重要だと主張している。当面の方針としては、列強の勢力を押しとどめるために、日清貿易拡大が必要だと説き、そのための人材養成の必要性を主張した。
 この考えに基づいて構想されたのが、日清貿易研究所である。日清貿易に従事する人材養成の機関を上海に設けようというのである。ただし荒尾は、日清にとどまらず、アジア全域を視野に入れていた。明治二十二年十二月に生徒募集のため遊説した博多で行った演説で、次のように語っている。
 「是よりは更に一歩を進め、亜細亜貿易協会を設立して、之に亜細亜貿易研究所を附属し、総ての手続きは、日清貿易協会、並びに日清貿易研究所に於けるの順序を以てして、其研究生を日本人のみに限らず、普く亜細亜州内の諸邦、即ち支那、朝鮮、安南、暹羅、緬甸、印度等より、俊秀の青年を募り、其学期は前同断三箇年として、各港輸出入の取調より、各地の物産研究等をなさしめ、卒業の上は、初めて実地の演劇に着手し、各国共に亜細亜貿易協会の支店を置き、右の支店には必ず日本人一名を添え、其国の研究生と共に運動せしめます」(『巨人荒尾精』四十五、四十六頁)。
 以下の日清貿易研究所校歌にも、興亜の志が窺われる。

  秋津島根の益荒男が  百と五十うち揃ひ
  大海原に乗り出せば  遠く唐土の呉の空に
  来たりし心人問はば  見よ見よ他日その時を
  雲は晴れたり空澄みて 亜細亜の月も照り出でん

 一年に及ぶ遊説による生徒募集の結果、全国から三百名もの青年が日清貿易研究所を志願したが、収容能力の限界から百五十名が選抜された。明治二十三年九月三日、荒尾は百五十人の生徒と研究所員数十人とともに横浜から横浜丸に乗り込み、同月九日上海に降り立った。開校式は、九月二十日に挙行されている。
 開校にあたり、川上操六将軍らが資金援助したが、まもなく財政的に行き詰った。「民力休養」のスローガンの下、国家予算が大幅に削減され、当てにしていた補助金が頓挫したからである。しかも、上海熱という風土病に生徒、教師のほとんどが感染し、失費がかさみ、食料の確保すらままならない状況に陥った。こうした危機を何とか乗り切りつつ、根津は、実地調査の結果に基づいて、中国の商業地理、運輸、交通、金融、産業などをまとめた『清国通商総覧』の執筆に全精力を注いだ。八カ月間、研究所の一室に閉じこもり、ほとんど外出せず執筆した。根津は大の酒好きであったが、この間だけは完全に禁酒し、毎晩二時過ぎまで書き続けた。『清国通商総覧』は刊行されるや、産業界で高い評価を得た。そして、明治二十六年六月、無事八十九名の第一回卒業生を送り出した。だが、残念ながら研究所は、日清戦争勃発のために閉校を余儀なくされる。
 荒尾の死後の明治三十四年に、日清貿易研究所の精神を受け継いだ東亜同文書院の院長に根津が就任し、「中国を保全して、東亜久安の策を定め、宇内永和の計を立つる」ことを建学の精神として掲げた。昭和十年には、東亜同文書院内に靖亜神社が創建され、東亜同文会会長を務めた近衛篤麿とともに、荒尾と根津が合祀されている。

日清戦争の勃発と九烈士の活躍
 日清戦争勃発前、朝鮮情勢は緊迫化していた。明治二十七年春には東学党の乱が起こり、朝鮮政府は鎮圧のため、清に派兵を要求した。東邦協会は委員を朝鮮半島に特派し、状況の把握に努めようとした。このとき荒尾は同志の井上雅二らと協議、荒尾を隊長として玄洋社の志士二百名で編成する韓国討入隊を派遣する計画を進めていた。荒尾の願いは、朝鮮の自主独立にほかならない。当時、荒尾は、金玉均とともに日本に亡命していた朝鮮の志士、朴泳孝の依頼を受けて、「朝鮮国是大令案」を起草し、朝鮮の自主独立と日本との同盟を説いている。結局、日清開戦となり、荒尾らの計画は幻に終わる。
 日清戦争勃発に直面し、荒尾は根津とともに、日清貿易研究所の卒業生や同志に檄を飛ばし、決起を促した。根津自らは現役に復帰し、第二軍参謀として従軍している。貿易研究所の卒業生や荒尾・根津の同志たちは、通訳官や先導決死隊として従軍した。荒尾らが、通訳志願を薦めたのは、「言語不通より生ずる一般の誤解を避け、殊に無辜の良民との衝突を避け」るためである。貿易研究所からは、藤島武彦、楠内友次郎、福原林平、藤崎秀、大熊鵬(ほう)、猪田正吉、向野(こうの)堅一の七名が軍通訳官に志願した。だが、楠内と福原は上海で捕縛され南京で斬首、藤島は寧波で捕縛、杭州で斬首された。藤崎、大熊、猪田、向野は、第二軍の通訳官となり、別途同軍に属した山崎羔三郎、鐘崎三郎とともに、軍に先行して敵情偵察にあたったが、山崎、鐘崎、藤崎は捕らわれて金州で斬首、大熊、猪田は消息を絶った。唯一生還できたのは向野ただ一人であった。漢口楽善堂の石川伍一は天津で捕らえられ銃殺された。同志九名が死亡・消息不明となった。命がけの従軍は、彼らの興亜の志がいかに強いものだったかを物語っている。日清貿易研究所の関係者は、山崎、鐘崎、藤崎の碑を金州城外の海沿いの丘陵地に建てた。たまたま三人とも苗字に 「崎」 がついていたことから、三人は三崎烈士と呼ばれるようになる(『東亜同文書院大学史』滬友会、昭和五十七年、二百四十六頁)。
 荒尾は、日清戦争を朝鮮独立の好機と見るとともに、戦争目的を「将来の中国のためにこそ撃つ」のだと考えた。彼は、わが国は日清両国の協同を望んでいたが、清国は固陋自尊の態度をとり、東洋の現勢を理解せず、日本国民を蔑視し、無礼を加え、危害を加えようとしたと書いている。また、朝鮮の独立安寧のために日本が努力しているにもかかわらず、清国の官民はそれを妨害し、朝鮮を動揺させていると考えていた。これでは、協同親和を望めないとして、荒尾は一打撃を加えなければならなかったとしたのである。
 だが、荒尾が気がかりだったのは、日清戦争勃発による日本の国民感情の変化であった。清に対する侮蔑的感情が頭をもたげはじめ、長期的に日中関係に弊害をもたらすことを彼は恐れた。こうした思いで執筆を開始したのが、『対清意見』である。
 清国に対する巨額の賠償請求や領土割譲の要求を求める国内の声が大きくなっていたが、彼は長期的な弊害をもたらすとして、それを戒めている。荒尾には、日本が国家利益追求に傾斜することが、アジア諸国から欧米列強の政策と何ら変わらないものと映ることへの警戒感があったのであろう。
 日清戦争後の対清政策については、東洋の平和と興隆とを絶対的に計画するためには、日清両国民間の悪感情を一掃して、これを融合し、さらに進んで両国の交誼を厚くして、交通を便利にし、貿易を拡大し、相互の福利を増進しなければならないと主張し、「亜細亜の衰運を挽回」という長期的使命に立ち返り、次のように説く。
 「余は茲に大声疾呼して我東方の志士仁人に告げん。清国の興亡は決して独り清国の興亡のみにあらず。亜細亜の衰運を挽回して之を振興せんと欲するものは、奮起して此古大帝国を救はざるべからず。清国の志士は勿論、朝鮮の士も、印度、暹羅の士も、亦我国の諸名士も、幸に其心力を此大業の翼賛に注げよ、東方亜細亜に於ける危急存亡の機は、迫りて一髪の間に在り」(『対清意見』東亜文化研究所編『東亜同文会史』霞山会、昭和六十三年、百四十二頁)。
 彼は、「百年の長計」で国家戦略を考えていたのである。だが、中国に寛大過ぎるとして、『対清意見』には百八十通もの疑問反論の手紙が寄せられたという。荒尾が東京を離れ、京都若王子に移ったのも、『対清意見』に対する反論と無関係ではない。

皇国の天職と「百年の長計」
 明治二十七年十二月に宗方小太郎に宛てた手紙で、荒尾は『対清意見』に対する批判に対して、「将来清国の我と共に、興亜の大事業を謀るに足るの国柄にして、国民も亦可然所以と、無暗に要求のみ多きを貪り候ては、将来の大害ある所以」を述べようとしていると、その胸中を打ち明けている。荒尾は『対清意見』に対する疑問に回答するために『対清弁妄』を書き、明治二十八年三月に発表した。ここで彼は、「百年の長計」についての思いを次のように書いている。
 日清戦争が勃発し、わが国が連勝すると、欧米諸国の人は、わが国を東洋の一強国だと持ち上げ、日本人もわが国が東洋の「盟主権」を握るべきだと説き、わが国が天成自然の皇国であり、その国位は雄邦強国よりずっと上に在ることを忘却してしまっている。盟主権などというものは、覇者、智術を闘はす者が求めることだ。自分は、わが国がこのような盟主となることなど期待していない。わが国の将来目的が未だ確定していないから、東洋の覇権を求めようなどとするのだ。
 荒尾は、日本は盟主などよりもっと崇高な目的を抱くべき国なのだと主張しているのである。その主張の根底にあった、彼の皇国日本への思いは次の言葉に明確に示されている。
 「我国は皇国也。天成自然の国家也。我国が四海六合を統一するは天の我国に命ずる所也。 皇祖 皇宗の宏猷大謨を大成するの外に出でず。顧ふに皇道の天下に行はれざるや久し。海外列国、概ね虎呑狼食を以て唯一の計策と為し、射利貪欲を以て最大の目的と為し、其奔競争奪の状況は、恰も群犬の腐肉を争ふが如し。是時に当り、上に天授神聖の真君を戴き、下に忠勇尚武の良民を帥(ひき)ひ、有罪を討して無辜を救ひ、廃邦を興して絶世を継ぎ、天成自然の皇道を以て虎呑狼食の蛮風を攘(はら)ひ、仁義忠孝の倫理を以て射利貪欲の邪念を正し、苟くも天日の照らす所、復た寸土一民の 皇沢に浴せざる者なきに至らしむるは、豈に我皇国の天職に非ずや。豈に我君我民の 祖宗列聖に対する本務に非ずや」(『対清弁妄』(前掲書、百六十頁)
 靖亜神社の村上武氏は、荒尾が清国を日本とともに興亜の大事業を謀れる国柄だと書いた心境について、「『皇道』『至誠一貫の道』の前には、共に大事を謀るに足らざる国など無いからである」と解説している(『東方斎荒尾精先生遺作覆刻出版』靖亜神社先覚志士資料出版会、平成元年、五十二~五十四頁)。あるいは、荒尾は百年どころか千年単位で日中関係の在り方を考えていたのかもしれない。
 むろん、荒尾は中国が強国として現れる事態も想定し、「抑も自尊自大を以て宇内を藐視(びょうし)する性癖と、数千年来遺伝養成したる猜疑嫉妬の情念とは、一般清国民の脳底に蹯結し、頑として揺がず、牢として抜けず。是を以て彼等は国家極衰の今日に於てすら、猶ほ自ら中華と誇称し、動もすれば夷狄を以て他邦人を遇せんとせり」とも指摘していた。
 『対清弁妄』の時代から、すでに百十六年が経過した。いまや中国は強大化しつつある。この間、欧米の植民地支配は終焉したが、いまも世界経済を牛耳る一部の勢力がアジアの富を収奪しようとする構造は残存しているようにも見える。とすれば、「天成自然の皇道を以て虎呑狼食の蛮風を攘ふ」という「百年の長計」は未完のまま残されている。
 荒尾は、百年の長計を命の限り実践しようとした。明治二十九年九月、荒尾は台湾統治の要諦が日本人と台湾人の不和を解くことだと考え、両国人が感情を融合し、双方の利害を調整する機関が必要だと考えた。日本が一方的に利益を追求することを避け、相互利益に基づいて分配しなければならないとの思いから行動を起こす。
 そこで、日台双方の資産、信用のある者が資本をあわせて経営し、利益を分配する「紳商協会」を設けようとしたのである。
 九月二十三日には、「台湾茶葉の父」とも呼ばれた紳商で、荒尾の構想に共鳴する李春生らの発起により、台北の龍山寺で荒尾君招待会が開かれた。ここには、水野遵民政局長、角田秀松海軍部長ら四十名が列席している。翌月十九日、紳商協会の結合式が挙行され、「日本人台湾人両間の親睦を以て、第一の目的と為す、互ひに情実を通じ、懇親を為して隔意の弊を除くことを期すべし」との趣旨が掲げられた。
 無事に「紳商協会」を立ち上げ、次なる使命を果たすべく、南清一帯の巡覧に出るため台南に向かう直前、荒尾はペストに感染した。井上は、「経綸の策既に胸中に成り、人格亦大に円熟して、此より将に大に雄飛を試みんとするに当り、旻天(びんてん)何等の無常ぞ」と嘆いている(『巨人荒尾精』二百六十二頁)。
 門下の者たちは、荒尾を絶対に死なせまいとして、自分の体温で荒尾の病躯を温めるなど、懸命の看護を続けた。ペストと診断され僻病院に送られるという状況になってからも、付き添いを志願して譲らず、結局くじを引いて三人を決定した。いずれも感染と死を覚悟の上であった(大鹿卓「荒尾精小伝」『天地人』昭和二十八年七月、三十四頁)。
 だが、十月三十日荒尾は力尽きた。アジアの将来を憂いて「ああ東洋が、ああ東洋が」と発して、彼は息を引き取った。

丸紅の対中ビジネスの礎を築いた春名和雄

 経済界きっての中国通として知られ、丸紅の対中ビジネスの礎を築いた春名和雄は、大正八(一九一九)年三月十五日に横浜市で生まれた。昭和十五(一九四〇)年に東亜同文書院大学を卒業し、丸紅の前身大同貿易に入社した。戦時中は比島派遣軍の報道要員として徴用され、第十四師団司令部のあるマニラへ赴いた。この時期に、春名は哲学者の三木清と交流している。
 昭和四十三(一九六八)年に取締役に就任し、常務、専務、副社長を歴任し、昭和五十八(一九八三)年に社長に就任した。
春名和雄
 平成三(一九九一)年から平成十一(一九九九)年まで日中経済協会副会長を務めた。平成十三(二〇〇一)年に開催された東亜同文書院設立百周年記念式典で、春名は次のように述べている。
 「東亜同文会が日中輯協(友好協力)のための人材育成を目的として創立経営したのが東亜同文書院(のちに大学)であり、この学園に年々歳々、靖亜の志に燃えた若い俊秀たちが日本全国から集まり、後には志を同じくする中国の青年たちも加わり、共に勉学し、多感な青春時代を過ごしたのであります。
 学生達は、中国に学び、中国に親しみ、日中提携の礎となるべき学問に精進したのでありますが、特に毎年最高学年の学生が実施した中国「大旅行」調査は、他に類を見ない広範多岐なものであり、卒業論文となった厖大なその報告書は「支那経済全書」や「支那省別全誌」などの基礎ともなった貴重な中国資料として、今日においても高い学術的評価を受けているのであります。
 春名は平成十四年三月三日に八十二歳で死去した。同月七日の朝日新聞は〈春名和雄氏は、日中関係を経済面で支えた知中派財界人だった。「友好」という言葉より「互恵」の中身を重んじた。一九九一年から九九年まで日中経済協会の副会長を務め、「隣国とのつきあいも商いと同じで、双方に利益をもたらす関係でないと長続きしない」と説き続けた〉と書いた。

中山優の王道思想

 中山優は、明治二十八(一八九五)年、熊本県来民町笹本(現熊本県山鹿市鹿本町来民笹本)で生まれた。熊本県立鹿本中学を経て、大正四(一九一五)年秋に東亜同文書院政治科に入学している。
 『上海・東亜同文書院─日中を架けんとした男たち』を著した栗田尚弥氏は、「東亜同文書院の入学者には、大陸に〈志〉を抱く豪傑タイプの青年が多かったが、中山の豪傑ぶりはそのなかでも抜きん出ていた」と書いている。後に中山は書院時代を振り返り、「学生時代、私はあまり授業に出ずに、酒を飲んだりテニスをしたり上海の街に先輩を訪れたり、全くいま考えれば厄介千万な学生だったに違いない」と語っている。実際、中山は何度か停学処分を食らっているが、そんな中山を愛したのが院長の根津一だった。中山も根津を尊敬し、他の授業をさぼっても、根津の『大学』講義だけは欠かさず聴講したという。ただ、出席日数が足りなかったため卒業できず、大正八(一九一九)年夏、中退を余儀なくされた。ところが彼は、大阪朝日新聞に入社することができたのである。
 根津が同社社長の上野理一宛に推薦状を書き、「やむなく退学させるが卒業以上の実力をもつ男」と太鼓判を押したからだ。こうして朝日新聞に入社した中山は、北京特派員となった。ところが、彼は結核を患い退社、大正十二(一九二三)年、郷里へ戻った。中山にとってどん底の時代だ。結核は妻と長男にも感染、残念ながら長男は死去した。五年におよぶ闘病の末、中山夫妻は奇跡的に病気を克服した。以来、中山は日中問題に人生を捧げるのである。彼は、昭和三(一九二八)年から東亜同文会機関誌『支那』などに、中国時事評論を寄稿するようになった。中山は同年七月の『支那』に「動く支那と動かざる支那」を発表し、強い言葉で日本人に警告を発した。
 「今日に於ける支那の日本人の支那観の堕落は、同時に日本自身の堕落を語る。……日本は今や岐路に立つてゐる。即ち、西洋と共に、支那を敵とする乎、或は、小事実に拘泥せず、東洋として、支那全体と握手するかである。支那人に対する過度の軽視、支那の新勢力の将来に対する冷眼と蔑視は、世界に於ける最大の生活難に悩む今日の日本人にとりて正に自殺的態度である」
 こうした日本人の支那観に対する厳しい批判は、石原や木村に通ずるものだった。中山は昭和五(一九三〇)年に外務省嘱託となった。中山が石原と出会うのは、その二年後の昭和七(一九三二)年のことである。奉天のホテル・瀋陽館で、中山は石原とソ連問題について意見を交わしたのだ。以来、二人は度々面談し、大陸問題に関して意見を交換する仲となった(『上海・東亜同文書院』)。そして、昭和十二(一九三七)年頃から彼は東亜同文会会長であった近衛文麿のブレーンとなったのである。
 栗田氏は、中山の中国論の背景には、王道思想を生み出した儒教文化に対する尊敬の念があったと指摘している。ここで再び注目すべきが、宮島詠士である。すでに第一章で書いたように、木村武雄は詠士に特別な思いを抱き、笠木良明も詠士を崇拝していたが、中山にとっても詠士は特別な存在だったのである。
 中山に関わる写真を分析した、愛知大学東亜同文書院大学記念センター研究員の石田卓生氏は、南京で撮影されたと推測される一枚の写真に注目する。そこには「望郷廬」という文字が映っている。東京郊外の狛江にあった中山の自宅にも、望郷廬の一軸がかかっていた。これこそ、詠士の書だったのである(石田卓生「中山優写真資料について」『同文書院記念報』二十三巻)

右翼と中東イスラム─イスラエル・ハマス紛争と日本

■日本の右翼・アジア主義者とイスラム
欧米列強による植民地支配の打破とアジアの道義的秩序の回復を目指した戦前日本の右翼・アジア主義者は、東アジアだけでなく、東南アジア、中央アジア、中東などのイスラム教徒(ムスリム)の境遇についても特別な関心を払っていた。その中心にいたのが頭山満らであった。彼らは、欧米に抑圧されるムスリムの惨状を我が事のように考え、欧米列強の植民地支配からの解放を目指してムスリムと協力しようとしていた。
前列右から古島一雄、頭山満、犬養毅、五百木良三、後列右から足羽清美、在神戸回教僧正シヤムグノーフ、在東京回数僧正クルバンガリー、島野三郎
明治三十九(一九〇六)年六月には、亜細亜義会という団体が結成されている。『東亜先覚志士記伝』によると、創設メンバーは、トルコ系ムスリムのアブデュルレシト・イブラヒームと、頭山満、犬養毅、河野広中、大原武慶、青柳勝敏、中野常太郎、山田喜之助、中山逸三。その後、A・H・ムハンマド・バラカトゥッラー、アハマド・ファドリーらのムスリムも参加した。
亜細亜義会の評議員三十一名のうち十八名が外国人で、内訳はアラブ人六名、トルコ人六名、タタール人一名、インド人二名、中国人(清国人)一名、朝鮮人一名、某国人一名となっていた。
亜細亜義会は機関誌『大東』を発行していた。東洋大学教授の三沢伸生氏によると、『大東』の目次欄の注意書きには「本誌(大東)の表紙に大東を包める青色の文字は中央部上より印度、アラビャ、アルメニヤ、西蔵、両側上より蒙古、暹羅の順序に依り其地方文字にて大東と記せるなり」と書かれている。また、『大東』には亜細亜義会主意書のトルコ語訳やタタール語訳も掲載されていた。

亜細亜義会機関誌『大東』

亜細亜義会主意書

亜細亜義会主意書(トルコ語・タタール語)

さらに、『大東』第四年八号巻末の予告によれば、会員を対象に亜拉比亜(アラビア)語、土耳其(トルコ)語、馬来(マレー)語、蒙古語、印度語の五ヶ国語の通信教育、馬来語、印度語、亜拉比亜語、土耳其語の四ヶ国語の夜学教育の実施を計画し、受講生を募っていた。
なお、亜細亜義会に関する学術論文としては、Elmostafa Rezrazi氏の「20世紀初頭のイスラーム世界と日本 : パン・イスラーム主義と大アジア主義の関係を中心に」平成十年、三沢伸生氏の「亜細亜義会機関誌『大東』に所収される二〇世紀初頭の日本におけるイスラーム関係情報」『アジア・アフリカ文化研究所研究年報』平成十三年などがある。

■アラブ・ナショナリズムへの共感─「パレスチナ人の解放が最後の仕事」
アジア主義者のアラブ・ナショナリズムへの共感は、戦後も維持されていた。その代表的な人物が、岸信介の外交ブレーンを務めた中谷武世である。中谷は大正八(一九一九)年に大川周明・満川亀太郎・北一輝らが結成した猶存社の運動にかかわり、アジア主義者として活動するようになった。昭和八(一九三三)年に設立された大亜細亜協会の常任理事も務めていた。そんな中谷が、アジア民族解放運動に生涯を賭ける動機となったのが、以下の「猶存社宣言」であった。
中谷武世(左)と岸信介
「我が神の吾々に指す所は支那に在る、印度に在る、支那と印度と豪州の円心に当る安南、緬甸、暹羅に在る。チグリス・ユーフラテス河の平野を流るゝ所、ナイル河の海に注ぐ所、即ち黄白人種の接壌する所に在る。人類最古の歴史の書かれたる所は、吾々日本民族に依りて人類最新の歴史の書かるゝ所で無いか。吾々は全日本民族を挙げて亜細亜九億民の奴隷の為めに一大リンコルンたらしめなければならぬ」
戦後、中谷は「チグリス・ユーフラテス河の平野を流るるところ、ナイルの大河の海に注ぐところ」を「中東」と定義し、この地域に在住するアラブ民族の独立解放及び近代化推進、とりわけパレスチナ人のそれを「最後の民族運動」として自分の全精力を傾注する課題とした(シナン・レヴェント「戦後日本の対中東外交にみる民族主義―アジア主義の延長線―」)。
特に中谷は、昭和三十(一九五五)年に開催されたバンドン会議を舞台にアジア・アフリカ連帯運動を主導し、翌昭和三十一年七月二十六日にスエズ運河国有化を宣言したエジプトのナセルに共鳴していた。中谷は、ナセルとの面会にむけて準備を開始する。これを助けたのが、バンドン会議以来ナセルとのパイプを築いていた高碕達之助であった。
昭和三十二(一九五七)年、中谷は中曽根康弘、下中弥三郎とともに、イラン、イラク、シリアを経て、カイロに入った。六月六日午後八時、三人はナセルの私邸を訪れた。中谷が高碕の紹介状をナセルに手渡し、続いて中曽根が流暢な英語で切り出した。
「私は日本国民を代表してスエズの国有化の成功を心からお祝い申し上げる、曽て日露戦争に於ける日本の勝利は全有色民族の覚醒の契機をなしたといわれるが、こんどのスエズ国有化の成功はアジア、アフリカの諸民族に強い自信を与えた。日本国民は之によって非常な刺戟を受けた。日本国民の大多数はスエズ国有化に賛成であり、ナセル大統領支持である」
ナセルは力強い語調でこたえる。
「……日露戦争のお話があったが、他のアジア諸国民と同じくエジプトの民族的自覚も日露戦争に於ける日本の勝利に刺戟されたのである。爾来半世紀の歴史は西欧帝国主義と我々アジア・アフリカの民族主義との戦の連続であり、スエズ国有化の戦いも此の西欧の植民主義に対する我々アジア・アフリカ人の闘争の一環である……」(『昭和動乱期の回想』 上)
日露戦争とスエズ国有化が、欧米の帝国主義に対するアジア・アフリカの民族解放闘争という一つの連続した物語として語られたのである。
翌昭和三十三年、中谷らによって、日本とアラブ諸国との親善・友好関係の増進などを目的として日本アラブ協会が創立された(現在、会長はコスモエネルギーホールディングス社長・会長を務めた森川桂造氏が務めている)。同協会は昭和三十九(一九六四)年七月には『季刊アラブ』が創刊している。
『季刊アラブ』創刊号
一般的に、日本外交がアラブ寄りに転換したのは、石油ショックが襲った一九七三年頃とされているが、その下地は中谷らによって作られていたのである。
その後、中谷は一貫してアラブ諸国と日本の橋渡し役として活躍した。シナン・レヴェント氏によると、中谷は、昭和五十三(一九七八)年九月、福田赳夫が首相として初めて中東諸国を訪れる際、特使として下工作を行った(「戦後日本の対中東外交にみる民族主義」)。中谷はまた、昭和五十九(一九八四)年に中曽根首相の特使として中東アラブ諸国を訪れ、同地に関する最新情報を現地政経界の要人から入手したという。
中谷は、亡くなる一年前の平成元(一九八九)年三月に刊行した『昭和動乱期の回想』の中で、まだ独立を成し遂げていない唯一のアラブ民族であるパレスチナ人の解放問題に協力することが、自分の最後の仕事だと述べていた。

日中の不幸なすれ違い─小泉菊枝『東亜聯盟と昭和の民』

小泉菊枝『東亜聯盟と昭和の民』東亜聯盟協会、昭和15年
 小泉菊枝は『東亜聯盟と昭和の民』(東亜聯盟協会、昭和15年)で、以下のように書いている。
〈漸く封建社会の諸制度を清算し、資本主義経済への発展により活発な国富増進へ歩み出した世界の後進国日本は、商品を売りさばく海外市場として残されてゐる所を支那大陸に求めるより仕方がありませんでした。日本は列強に追随しながら友邦支那の中に利権を確立して行きました。かうして一人殖民地と化し去らうとする東亜に於ける唯一の独立国家日本はぐんぐん国力を充実させ、列強の間に伍して進みました。かゝる日本の発展を、列強はたゞ侵略的・野心的進出としてだけ解釈し、東亜のユートピアとして「愛すべき日本」と呼んでゐた人々も「恐るべき日本」からやがて「恐るべき日本」と称してひたすらその成長を抑圧しようとするやうになりました。列強は競つて亜細亜の宝庫を分割しようとし、又この間に割り込む日本を牽制しようとしました。門戸開放・機会均等が屡々支那に要求されましたが、これは取りも直さす、搾取と侵略の自由平等を大亜細亜殖民地の上に確立しようといふ意志表示だつたのです。列強の利権が増大すればする程、利権擁護に名を借りた東亜諸問題への彼等の発言権は強硬になるばかりでした。日本は必死となつてこの間に立ちました。若し日本が支那大陸に利権を確守出来す、発言権を持たなかつたならば、亜細亜大陸は列強の欲するまゝに動かされるより他はなかつたのです。 続きを読む 日中の不幸なすれ違い─小泉菊枝『東亜聯盟と昭和の民』

政府の覇道主義的傾向を戒めた石原莞爾─「東亜連盟建設要綱」

石原莞爾
 明治期のわが国においては、興亜論、アジア主義が台頭した。アジア諸民族が連携して欧米列強の侵略に抵抗しようという主張であり、欧米の植民地支配を覇道として批判するものだった。しかし、国家の独立を維持するためにわが国は富国強兵を推進し、列強に伍していかねばならなかった。その結果、日本政府の外交は覇道的傾向を帯びざるを得なかった。
 そのことを在野の興亜論者たちは理解していた。ところが、やがて在野の興亜論者たちも政府の政策への追随を余儀なくされていく。こうした中で、その思想を維持した興亜論者もいた。例えば石原莞爾である。彼が率いた興亜連盟は、戦時下にあってもその主張を貫いていた。大東亜戦争勃発後に改定された「東亜連盟建設要綱」は以下のように述べている。
 〈明治維新以来、他民族を蔑視し、特に日露戦争以後は、急激に高まれる欧米の対日圧迫に対抗するため、日本は已むなく東亜諸民族に対して西洋流の覇道主義的傾向に走らざるを得なかった結果、他の諸民族に対する相互の感情に阻隔を来したのは、躍進のための行き過ぎであり、日本民族の性格からいえば極めて不自然のことである。日本民族が、国体の本義に覚醒し、かつ国家連合に入りつつある時代の大勢を了察するならば直ちにその本性に復帰すべく、東亜諸民族の誤解を一掃することは、極めて容易であると信ずる。そうなれば一つの宣伝を用いることなく、東亜諸民族が歓喜して天皇を盟主と仰ぎ奉ること、あたかも水の低きに流れるが如くであろう。
 しかし、遺憾ながら東亜諸民族が心より天皇を仰慕することなお未だしとすべき今日、日本は東亜大同を実現する過程に於て、聖慮を奉じて指導的役割を果す地位に立つべき責務を有する。ただしこの指導的地位は、日本が欧米覇道主義の暴力に対し東亜を防衛する実力を持ち、しかも謙譲にして自ら最大の犠牲を甘受する、即ち徳と力とを兼ね備える自然の結果であらねばならぬ。権力をもって自ら指導国と称するは皇道に反する。(中略)
 今や大東亜戦争遂行過程にあり、我が国民が急速に英米依存を清算して、肇国の大精神に立帰りつつあることは、誠に喜ぶべきところであるが、ややもすれば時勢の波に乗じて、軽薄極まる独善的日本主義を高唱するものが少なくない。
 天皇の大理想を宣伝せんとする心情やよし。しかれども日本自らが覇道主義思想の残滓を清算する能わず、外地に於ては特に他民族より顰蹙せられるもの多き今日、徒に「皇道宣布」の声のみを大にするは、各民族をして皇道もまた一つの侵略主義なりと誤解せしめるに至ることを深く反省すべきである。「皇道宣布」の宣伝は「皇道の実践」に先行すべきでない。〉

康有為─もう一つの日中提携論

康有為
日清両国の君主の握手
 「抑も康有為の光緒皇帝を輔弼して変法自強の大策を建つるや我日本の志士にして之れに満腔の同情を傾け此事業の成就を祈るもの少なからず、此等大策士の間には当時日本の明治天皇陛下九州御巡幸中なりしを幸ひ一方気脈を康有為に通じ光緒皇帝を促し遠く海を航して日本に行幸を請ひ奉り茲に日清両国の君主九州薩南の一角に於て固く其手を握り共に心を以て相許す所あらせ給はんには東亜大局の平和期して待つべきのみてふ計画あり、此議大に熟しつつありき、此大計画には清国には康有為始め其一味の人々日本にては時の伯爵大隈重信及び子爵品川弥二郎を始め義に勇める無名の志士之に参加するもの亦少からざりしなり、惜むべし乾坤一擲の快挙一朝にして画餅となる真に千載の恨事なり」
 これは、明治三一(一八九八)年前後に盛り上がった日清連携論について、大隈重信の対中政策顧問の立場にあった青柳篤恒が、『極東外交史概観』において回想した一文である。永井算巳氏は、この青柳の回想から、日清志士の尋常ならざる交渉経緯が推測されると評価している。両国の志士たちは、日本は天皇を中心として、中国は皇帝を中心として、ともに君民同治の理想を求め、ともに手を携えて列強の東亜進出に対抗するというビジョンを描いていたのではあるまいか。
 変法自強運動を主導した康有為は、一八五八年三月に広東省南海県で生まれた。幼くして、数百首の唐詩を暗誦するほど記憶力が良かったという。六歳にして、『大学』、『中庸』、『論語』、『朱注孝経』などを教えられた。一八七六年、一九歳のとき、郷里の大儒・朱九江(次琦)の礼山草堂に入門している。漢学派(実証主義的な考証学)の非政治性・非実践性に不満を感じていた朱九江は、孔子の真の姿に立ち返るべきだと唱えていた1。後に、康有為はこの朱九江の立場について、「漢宋の門戸を掃去して宗を孔子に記す」、「漢を舎て宋を釈て、孔子に源本し」と評している。 続きを読む 康有為─もう一つの日中提携論

内藤正中『自由民権運動の研究―国会開設運動を中心として』①

 土佐中心史観による自由民権運動を、より中立的に分析するために、内藤正中『自由民権運動の研究―国会開設運動を中心として』(昭和39年、青木書店)を入手した。
 自由民権を考えるときに、福岡の向陽社なども十分視野に置かなければならないからである。

玄洋社路線を主導した庄林一正

 愛国交親社には、当初から玄洋社路線に接近する思想的萌芽があった。それを主導していたのが、庄林一正である。
 長谷川昇氏は「変革期における庶民エネルギーの源泉─博徒─草莽隊─『愛国交親社』の系譜に探る─」(『思想』1979年9月号)において、『岐阜日日新聞』の記事に基づいて、愛国交親社の性格を次のように整理する。
 〈一、この組織は、その「社則」に定められている如く「政談演舌会」や「其の筋への建言」を目的とする明らかな「政治結社」であった。
 二、しかし、この組織は実際には「政談演舌会」などを通じて理論的に庶民を組織化してゆくのではなくて「社則」にも定められていない〝撃剣指導〟を通じて村毎に道場を設けることによって驚異的な組織率(例えば東春日井郡の村々では金戸数の六〇─七〇%の参加数を示す)をあげていく。
 三、この組織は、「大野仕合」・「撃剣大会」・「社長の上京送迎」などの際に大規模(数千人に及ぶ)な大衆動員を行い、社号の入った高張提灯を先頭に一種の示戚行進のようなことを挙行する。
 四、この組織は、社長直属の本部幹部の他に、各郡毎に郡幹事長・副幹事長及び剣術取締・同補助・機械係などを置き、更に各村毎に幹事(百人頭)・幹事補(五〇人頭)及び剣術取締・機械係などを任命し、末端組織は一〇名毎に伍に組織されて伍長(一〇人頭)を置くという、「講」もしくは「細胞」に類する様な組織に編成されている。そして役職に任ぜられた者にはその末端に至るまで、大げさな「辞令」が発行されている。
 五、この組織に民衆を加盟させるための「組織者」(これは、本部直属の者、又は郡幹事長に付属する者で弁の達者な者が当てられた)は、次の様な言葉を並べて農民を説得して歩いた。そしてこの「組織者」の説く処が、とりもなおさず「愛国交親社」の主義・主張を表示するものとなっている。新聞の報ずるところによればそれは次の様なものである(いずれも「岐阜日日新聞」より引用)。
 a、「我社に加入する者は何人に限らず其筋より二人扶持の俸米を宛はれ、尚腕力ある者には帯刀を許さるべし」
 b、「明治二十三年に至らば、我政府は国会を開設せられ、社会の財産は一般人民の頭数に平等に分賦せらるれば、此の時に及びては愛国交親社員たるもの苗字帯刀御免となり加ふるに八石二人口を賜る」
 c、「本社に入れば徴兵を免ぜられ、……但しは士族に取立てられる」
 d、「我政府は明治二十三年後は必ず外国と戦争を開く事あるべし、故に我々は今日よりあらかじめ戦争の準備をなさゞる可らすぜとて頻りに撃剣をなし、……又此程発布になりし商標条例は……如何にも苛酷の収歛なれば……我々愛国交親社たるものは必ず……此条例を廃止する様嘆願する〉

 長谷川氏が注目するのは、内藤魯一と庄林一正の路線の違いである。長谷川氏は「愛国交親社創立趣意書」が内藤魯一を領袖とする「三河交親社」の趣意書と末尾の数行を除いて同文のものだと指摘した上で、次のように書いている。
 〈筆者の内藤が民権政社たる性格を方向づけるために最も力を込めて書いたと思われる「開明文化ノ実ヲ挙ゲ……人民所有ノ権理(利)ヲ伸張シ、一身一家ノ幸福ヲ保チ」という一節を、庄林一正は自らの筆で故意に抹殺して、「欧米強国ト対峙シ、国権ヲ挽回スルノ外他志アラザルナリ、夫レ苟モ我国ノ衣ヲ衣、我国ノ食を食スル者ニシテ誰カ斯ノ志ヲ同クセザル者アランヤ」と書き換えている。これは明らかに〝西欧型自由・平等思想〟への抵抗の姿勢を示している。庄林はのちに「愛親社」(明治二十一年に結成された「愛国交親社」の後身)を率いて、頭山満の「玄洋社」・遠藤秀景の「盈進社」と共に対外硬の路線を明確にしてゆく。その右傾化の道を辿る原点はすでに「愛国交親社」の中に用意されていたのである〉

「自ら日本国を東亜の盟主と称するは断じて聖旨に副い奉る所以ではない」─「東亜連盟建設要綱」(昭和18年6月)

 在野の興亜論者たちは、アジア諸民族が対等の立場で協力するという理想を追求し続けた。「東亜連盟建設要綱」(改定版 昭和18年6月)にもそれは明確に示されている。同要綱は、次のような章立てとなっている。

 序篇 大東亜戦争と東亜連盟
 第一篇 東亜連盟の理念
  第一章 東亜連盟の名称
  第二章 東亜連盟の範囲
  第三章 連盟の指導原理
  第四章 連盟結成の基礎条件
   一、国防の共同 二、経済の一体化 三、政治の独立 四、文化の溝通
  第五章 連盟の統制
  第六章 東亜連盟の盟主
 第二篇 東亜連盟の各国家
  第一章 日本皇国
   一、国防の担任 二、経済建設の指導 三、国內に於ける民族問題
  第二章 満洲帝国
   一、満洲国独立の理由 二、満洲国の責務 三、独立の完成
  第三章 中華民国
   一、支那事変の処理及び中国の連盟加入 二、中国当面の国內問題 三、独立の完成
  第四章 南方諸国
   一、南方開発の根本方針 二、南方統治に就いて

 特に筆者は、「東亜連盟の盟主」の次の一節に注目している。

 明治維新は封建制度を打破して民族国家を完成するのが、その政治的目標であった。国内の諸問題については世界史上無比の輝かしき成果を挙げ得たのであるが、一面他民族、特に東亜諸民族に対しては、勢の赴くところ徒に軽侮の悪風潮を生じ、安価な優越感をふりまわし、台湾・朝鮮の統治および満州国の建設に於て、文化の急速なる発展に大なる寄与をなし、諸民族を幸福とせることは否定し難きに拘らず、東亜諸民族の民心把握はむしろ失敗し、今なお漢民族を挙げて抗日に動員せられている現状である。
 東亜連盟の結成をその中核問題とする昭和維新のため、我等は先ずこの事実を率直に認めることが第一の急務である。 続きを読む 「自ら日本国を東亜の盟主と称するは断じて聖旨に副い奉る所以ではない」─「東亜連盟建設要綱」(昭和18年6月)