日中国交正常化で重要な役割を果した廖承志の周囲には建国大学出身者がいた。
建国大学は昭和十三年五月に、満州国の首都・新京に設立された。石原莞爾と板垣征四郎の「アジア大学」構想に端を発している。出身者には、次のような人物がいる。
高狄(人民日報社長)
陳抗(中日友好協会副会長、駐札幌初代総領事、マレーシア大使)
李孟競(中日友好協会理事、駐日大使館開設時の書記官)
許宗茂(中国外交部亜細亜局日本処副処長)

早稲田大学名誉教授の木村時夫氏の「松村謙三先生の真面目」(『松村謙三先生二十年祭記念講演録』)には次のように書かれている。
「廖承志の部下として、日中友好に努めている人は意外に嘗ての建国大学の出身者が多いのです。そして日本語に非常に通じて居る人が多いのであります」
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日中関係の鍵を握る「孫文会」(『維新と興亜』第26号)
「日本と中国が同じ青写真を持たなければなりません。持たなければ又二十数年前の日中戦争をくり返す危険があるからです。その共通のアジア政策を作るものは、共通の思想運動、たった一つのものが孫文会なのであります」
王道アジア主義者・木村武雄が昭和四十六(一九七一)年十一月に「日中米三角関係の政治展望」と題して行った講演の中の言葉である。筆者は『木村武雄の日中国交正常化─王道アジア主義者・石原莞爾の魂』で、木村が日中国交正常化を使命として動いた背景に石原莞爾の王道アジア主義があったことを指摘した。そして、日中の国交を正常化させる際に、重要な意味を持ったのが、日本の在野の志士と孫文が王道アジア主義を共有した歴史である。しかも、孫文思想の共有は中台関係安定化の礎ともなりうる。
戦前、木村は石原莞爾の思想に共鳴し、東亜連盟協会を設立、王道アジア主義の旗を掲げて活動した。戦後、木村は日中国交正常化を模索した。昭和三十九(一九六四)年九月に訪中し、中国建国十五周年記念式典に参加、陳毅外交部長と会談した。木村と陳毅の間で、日中国交正常化についての議論が交わされた可能性もある。帰国後、木村は日中国交正常化への思いを次のように語っている。
「日本と中国は両方が好きだから嫌いだからといって如何ともすることが出来ない間柄です。日本は中国を嫌いだからといって、アメリカに引越すわけには参りません。中国が日本を嫌いだからといって、ソ連に引越すわけにも参らない隣り同志なのであります。
その隣り同志が、これから何年間、何十年間、否何百年間対立抗争してお互いにいがみあっておる苦痛よりは晴れやかに手を握って進む事がどれほど幸福だが知れないのであります。本当にこの隣り同志が平和のために手を握りあって古い文化に根ざして新しい時代に貢献してゆく、世界を道徳国家の競争へと導くために、世界一家をつくるために手を握って努力してゆく、これがこれからの日本の政治の方向ではなかろうかと私は思っております」(木村武雄『世界を動かす巨人に会って・中共を視察して祖国日本を想う』昭和三十九年十二月)
木村は、当初佐藤栄作総理を動かして日中の国交を正常化しようとした。そのために、佐藤の自民党総裁四選を敢えて支持した。昭和四十七年七月のインタビューで木村は次のように述べている。
「(佐藤四選に)保利(茂)くんも反対、そういう中でわたしと川島(正次郎)さんは四選すべしと訴えた。
なぜそうしたかと言うと、あの当時、佐藤体制というものは、日本の憲政史上を通じて最強だったわけです。……この強固な体制を利用して、国家的な事業をやらそうというのが、川島さんとわたしの考えだったんですよ」
ここで木村が語った「国家的な事業」とは何か。彼は次のように続ける。
〈日中と日ソの改善をやらせようとした。わたしが四選、四選と言うとるときに、佐藤総理が「お前はおれに四選してなにをやれと言うのか」ときくから、内政は保利くんにまかせて、あんたは外交をやれ。中国とソ連を相手にして男らしい外交をおやんなさい。そのために四選してほしいと言ってるんですよ、と話したんです〉(『週刊文春』昭和四十七年七月三十一日号)
一方、昭和四十六年七月十五日、ニクソン大統領は中国を訪問すると発表した。これを受け、木村をはじめ自民党議員の間でも日中国交正常化を急ぐ必要があるとの考え方が強まった。 続きを読む 日中関係の鍵を握る「孫文会」(『維新と興亜』第26号)
欧米支配終焉後の新秩序とは?
■「五百年にわたる西洋覇権の終焉か?」
欧米支配の国際秩序が動揺している。トルコのジャーナリスト、ハッサン・エレル(Hasan Erel)氏は「五百年にわたる西洋覇権の終焉か?」と題して、「西洋中心の世界ではなく、アフリカ・ユーラシアを中心とした新しい多極的な世界秩序」の到来を予想している(ATASAM, September 28, 2023)。二月には欧州連合(EU)のジョセップ・ボレル外相が「西側優位の時代は確かに完全に終わった」と認めた。
内戦の危険性さえはらむ熾烈なアメリカ大統領選挙が終盤を迎える中で、十月にはロシアを議長国としてカザンでBRICS首脳会議が開催される。BRICSには今年からイランやエジプトなど五カ国が加わった。タイなど東南アジア諸国も加盟を希望しており、その存在感を急速に拡大しつつある。ブラジル出身で、サステイナビリティ高等研究所研究員を務めるベルナルド・ジュレマ(Bernardo Jurema)氏は、BRICS拡大の動きを、「世界の脱西洋化のプロジェクト」ととらえる。
カザンでの首脳会議では、「BRICSブリッジ」と呼ばれる独立決済システムが議論される見通しで、「脱ドル化」が加速する可能性もある。
これに対して、欧米先進国はBRICSには統一性も結束力もないと過小評価してきた。また、BRICSは中国やロシアに利用されていると批判してきた。もちろん、そうした指摘が間違っているわけではない。しかし、我々が直視すべきは欧米支配の秩序の動揺という現実である。

昨年三月に中国の仲介によってサウジアラビアとイランが国交回復で合意したことは、中東におけるアメリカの影響力の低下を如実に示している。
威信の低下に直面しているのはアメリカだけではない。近年、旧フランス領のアフリカ諸国ではクーデターが相次ぎ、昨年七月にはニジェールで、八月にはガボンで軍部が実権を握った。フランスはこうした流れを食い止めることができなくなっており、マクロン大統領は「もはやアフリカにフランスの勢力圏はない」と述べるに至った。
しかし、欧米支配の終焉の兆候は日本人の目には入ってこない。あるいは、意識的に目を背けているのだろうか。こうした状況は、敗戦によってGHQに占領されたわが国が、「主権回復」後もアメリカの占領継続を受け入れ、属国として歩んできたからにほかならない。その見返りとして、日本は「名誉白人」の地位を与えられ、鬱憤を晴らしてきたのかもしれないが、所詮日本が白人グループに入ることはできない。
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「マハティールは、いまこそ日本へ訴える」(『わーずわーす』平成十六年十一月号)
令和六年五月二十五日、日本郵便元副会長の稲村公望氏と大アジア研究会代表の小野耕資氏とともに来日中のマハティール閣下にインタビューした。
私がマハティール閣下に最初にインタビューしたのは、ちょうど20年前の平成十六(二〇〇四)年十一月。『わーずわーす』に掲載した記事を紹介する。
マハティールは、いまこそ日本へ訴える
■西洋近代文明を批判する舌鋒衰えず
二十二年間にわたってマレーシアを率いてきたマハティール首相は、二〇〇三年十月三十一日、惜しまれながら引退した。それからちょうど一年経った(二〇〇四年)十一月八日、クアラルンプールのプトラジャヤで、前首相に単独インタビューすることができた。
内政の舵取りから離れた前首相には、重責からの解放感といったものも感じられた。首相時代よりも自由に発言できるようになっている。もちろん、歯に衣きせぬマハティール節は健在だ。
執務室の机の上には二台のパソコンが、書棚には分厚い百科事典が、そして書棚の隣の棚には使いこんだコーランが厳かに置かれている。
「慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において」など、コーランの一節を刻んだ木彫は、気品に満ち溢れ、東南アジアの伝統を強く感じさせる。
この光景こそ、マハティールの思想と行動を余すところなく伝えている。彼の思想を支えているのは、イスラームの教えである。だが、それは決して近代化に背を向けるものではない。彼はテクノロジーの発展に力を注ぎ、自らハイテク機器も使いこなす。また、読書家としても知られるマハティールは、貪欲に知識を吸収し、それを生活に生かそうと心がけている。つまり、彼にとってイスタームは、モノの面でもココロの面でも生活を豊かにするための思想の基盤である。
インタビューでは、どの質問に対しても、的確な回答が即座に返ってきた。まもなく七十九歳になる高齢とは思えない反応の速さである。だが、何より私が強く感じたものは、ココロの平静と揺るぎない信念である。それもまた、彼の信仰に支えられているに違いない。
終始穏やかな雰囲気でインタビューは進められたが、二度だけ表情や語気が変わった。一度は、ブッシュ大統領再選に関して質問したときである。一瞬にして厳しい表情に変わり、強い言葉でその対イラク政策を批判、ブッシュ再選は世界にとって大惨事だと言い切った。
もう一度は、東アジア経済グループ(EAEG、後にEAEC)構想を提唱した経緯について説明しているときである。EAECを葬ろうとしたアメリカ自身がNAFAT(北米自由貿易協定)を形成していることに言及したとき、語気が鋭くなるのが感じとれた。また、彼はブッシュ政権に追随する日本にも批判的である。
ただし、我々はマハティールの声を単なる外交政策の次元だけでとらえるべきではない。モノに偏重した西洋近代文明に対する根源的な批判の声として、彼の言葉を受け止めるべきではなかろうか。

(撮影:カミコウベアツシ) 続きを読む 「マハティールは、いまこそ日本へ訴える」(『わーずわーす』平成十六年十一月号)
『わーずわーす』編集長を務めた加藤和彦氏のインタビュー
令和六年五月三十日、毎日新聞は「加藤和彦が語った『イムジン河』への思い 『アジアに帰らないと』」を掲載した。平成十七年の終戦記念日に掲載された記事の再掲だ。
ここで加藤氏は次のように語っている。
「日本ってアジアでしょ。なのに、それを意識してこなかった。西洋世界の末席でやってきた。岡倉天心とか、アジア人である自身をプラウド(誇りあるもの)と思っていた。そうした先達の尺度で考えてみたかった。アジアにはいろんな問題が山ほどある。それを解きほぐしていくにはアジアに帰らないと。日本人にそういう意識が芽生えてくれば、中国も韓国もへそまげないですよ。少しは違ってくると思うんですがね」
記事は、加藤氏が、21世紀のアジア人的ライフスタイルを提案する雑誌『わーずわーす』の編集長を務めていることを紹介している。
平成十七年二月に創刊。フーガ発行、主婦の友社発売。創刊号にマハティール閣下のインタビュー記事を掲載していただいた。しかし、まもなく同誌は廃刊に追い込まれた。いったい何があったのか。
民族派とヘイト
国家安全保障の観点から日本国内に潜伏する海外テロリストに厳しく対処するのは当然のことである。また、日本の社会秩序、伝統文化を維持するためには、野放図な移民受け入れに反対しなければならない。しかし、民族派こそ排外主義やヘイトに陥ってはならないと思う。
大御心にお応えするという崇高な志を抱いていた戦前の民族派は、外国人から尊敬される日本人であろうと努めていた。頭山満らの玄洋社は、時に国家権力と対峙しつつも、欧米列強の植民地支配に喘ぐアジアの志士たちを命がけで守った。
中華民国の孫文、朝鮮の金玉均、インドのビハリ・ボース、フィリピンのアルテミオ・リカルテ、ベニグノ・ラモス、ベトナムのクォン・デ、ファン・ボイ・チャウ、ビルマのウ・オッタマらは、いずれも頭山の献身的な支援に助けられて活躍した。さらに頭山らは、中東・イスラム世界にも視野を拡げ、明治三十九(一九〇六)年六月に亜細亜義会を結成、アブデュルレシト・イブラヒーム、ムハンマド・バラカトゥッラー、アハマド・ファドリーらと連携した。

一方、善隣書院において緒方竹虎、河相達夫、中山優、安岡正篤、笠木良明といった人物を育てた宮島詠士は、日本が世界に誇る人種平等決議案の生みの親でもある。
大正八(一九一九)年、牧野伸顕は第一次世界大戦後のヴェルサイユ講和会議に日本全権として参加するためヨーロッパに渡った。それに先立ち、牧野は詠士と会い、「日本としてこの会議で提言すべきことは何か」と尋ねた。
すると詠士は、尊敬していた勝海舟に思いを馳せつつ、「(海舟ならば)来るべき会議に世界人類はその皮膚の色を超越して無差別平等であるべきことを強調せらるゝことと察せられます」と応えたのだ。牧野が会議で上程した「世界人類平等決議案」の裏に、詠士の助言が秘められていたのである(石川順「宮島大八と張廉卿」『海外事情』第五巻第十号)。
そして、民族派の先人たちは率先してヘイトと闘ってきた。『奪はれたる亜細亜』などの著作で知られる国士満川亀太郎は、黒人差別と闘った先駆者だ。満川は早くも中学時代から黒人差別の問題を意識していた。大正九(一九二〇)年夏、ジャマイカ出身の黒人民族主義の指導者マーカス・ガーベーの運動の盛り上がりを目の当たりにすると、満川は黒人問題についての日本人の認識を高めようとした。大正十五(一九二五)年には『黒人問題』を刊行している。クリストファー・スピルマン教授が指摘しているように、文藝春秋の記者をしていた昭和史研究家の片瀬裕氏によると、黒人の劇団が日本に来た際、満川は北一輝とともにそれを観に行った。劇団の独特な踊りを観た北が、「土人どもが」と馬鹿にすると、満川は烈火のごとく怒ったという。
満川はユダヤ人差別とも果敢に闘った。当時、国内では鹿子木員信のようにヒトラーとナチスの動きを無批判的に礼賛する者もいたが、満川は人種平等の立場から、ヒトラーの人種差別主義を厳しく批判していた。いまだヒトラーが政権を握っていなかった昭和七(一九三二)年に刊行した『激変渦中の世界と日本』の中で、ナチスの反ユダヤ主義を「偉大なる錯覚」と酷評し、ドイツで行われているユダヤ人排斥の流行について「世界に対して恥ずかしき事実である」と述べたヒンデンブルグの言葉を引いていた。
戦後の民族派たちもヘイトと闘ってきた。野村秋介もまた差別を憎んだ民族派の一人だ。
野村は昭和三十八(一九六三)年に河野一郎邸を焼き討ちし、千葉刑務所に服役した。その時、朴判岩という同房の在日朝鮮人が毎日、看守に虐待されていた。寡黙で誠実な朴に心を打たれた野村は、刑務所の管理部長に訴えて、朴への虐待をやめさせたという(『汚れた顔の天使たち』)。
昭和五十八(一九八三)年の衆院選では、石原慎太郎と同じ選挙区から出馬した新井将敬のポスターに、「一九六六年に北朝鮮から帰化」と記した中傷ステッカーが貼られるという事件が起こった。その後、ステッカーを貼ったのが石原の公設第一秘書だったことが判明すると、野村はこれに激怒し、石原の事務所に怒鳴り込み、「石原は、すべての在日朝鮮人に土下座して謝れ」と迫った。
民族派、右派を名乗るのならば、こうした先人の行動の意味をよく学ぶ必要があるのではないか。
『扶桑七十年の夢』が示す大川周明・石原莞爾・蒋君輝三者会談の真実
昭和十八(一九四三)年になると、大川周明は日本占領地域における経済政策を厳しく批判するとともに、中国民衆の惨苦を強調するようになる。この変化をもたらした要因の一つとして、石原莞爾らとの意見交換があったのではないか。そうした仮説に立ち、大川の日記を読み込んでいると、昭和十八年の年明け早々から動きがあったことがわかった。まず、日記を追ってみたい。
昭和十八年一月一日
「蒋君輝・川又務両君上海より上京の電報があつたので東京駅に迎へに往く。午後三時二十五分の富士で安着。中山優君も出て居た。打連れて山王ホテルに往く。約十日間此のホテルに滞在の由。……」
冒頭に出てくる蒋君輝は、国民政府からも汪兆銘政権からも久しくその高風を仰がれた人物だ。彼は明治二十五(一八九二)年七月に江蘇省で生まれ、大正二(一九一三)年に日本に渡り、大正九(一九二〇)年に東京高等師範学校理科を卒業している。昭和十(一九三五)年から国民政府教育部から駐日留学生監督処科長を命じられて日本に渡った。大川を訪れた昭和十八年当時は、中華民国紡織聯合会秘書長を務めていた。
日記は以下のように続く。
一月二日
「夕、蒋君川又君来り晩食を共にす。……いろいろ支那の実情を聴く。石原将軍在鶴ならば打連れて訪問する事とし、将軍に手紙を認む」
一月四日
「午前本間六郎来り、石原将軍五日上京すとの消息を齎す」
一月五日
「石原将軍より今晩上京との来電」
一月六日
「蒋・川又両君来る。東亜連盟協会に電話し、八日午後一時より三時まで石原将軍と会談することに取極む」
一月八日
「十一時蒋・川又両君来り昼食を共にす。一時研究所に石原将軍来り、三時まで談る」
このように、大川は昭和十八年一月二日に蒋君輝を上海から迎え、一月八日に大川周明、蒋君輝、石原莞爾の三者で二時間にわたる会談が行われたことがわかる。では、そこで何が話されたのか。それを明らかにしてくれるのが、蒋君輝自ら著した『扶桑七十年の夢』である。
〈[昭和十八年]一月二日の朝東京着、大川先生と従弟の高橋喜蔵氏の出迎えを戴き、まず目黒の夕陽が丘の大川学院に落着き、川又、海保(勇)両氏はここで辞去され、先生の御案内で同じ目黒台にある先生宅に行った。ここに一筆したいことは大川学院は別称瑞光寮、俗に大川塾ともいい、正式名称は満鉄東亜経済調査局附属研究所という。
(中略)
[昭和十八年一日八日]の午後、私は大川学院で初めて石原将軍に会った。将軍は古い軍服を着ていてまだ何にも喋らないうちに、大川博士は冒頭私に次のように言った。
「将軍は現地軍が皆さんに与えた迷惑を充分伺ってから対策をたてたいといっておられるから、お互い同志と思い、一切遠慮なく話し合って貰いたい」と。
それで私は十二月八日以後、私が目撃した日本軍の暴虐と民衆の憤慨についてつぶさに話した。私はさらに言葉をつづけて、
「中国の民衆はここ四、五年以来日本軍の姦淫焼殺の暴力を忍受してきた。いつかはよくなるだろうと期待して来たが一向によくならないばかりか、日本は『東亜新秩序』という看板を掲げてなお中国の文化を破壊し、財産を奪取して止むところがない。新秩序という看板の内実は暴虐な行動であったと解釈する外なく、そうであるならば、中国で「困獣猶闘(困った獣といえどもなお闘う)」という言葉があるとおり、いつ、どこで何が起るか分らない。この不測の不幸を抑止できる人は東亜聯盟の石原将軍だけであるとわれわれは確信しているので、今日上海から懇請に来た訳である」
と訴えた。将軍は苦しい表情をされて、あのギョロリとした目で私を見られ、
「よく聴かせて下さいました。よく分りました」
と連呼され、続いて
「貴方がた中国人は日本にどんな希望を持っているか」
と聞かれた。私は
「率直に申しますと中国人が全部望んでいることは日本軍の大陸からの全面撤兵で、これが一番効果的な処置であると思う。兵隊が優越感を持ち、商売人は軍人と結託して利権をあさる。一切が日本軍との繋がりで民衆に迷惑をかけている実状である。ゆえに軍の引揚げこそが問題を無くし、根源を絶つもので、最上の策であると思う。もちろん引揚げはタイミングの問題があると思うが今が、一番よいタイミングと思う」
といった。石原将軍は
「分りました」といった。大川博士は私を見て、
「問題は東条だ。石原将軍は中国の皆さんと同じ主張だが、東条が反対している」
といってさらに目玉を廻して、石原氏を見なから次のように話した。
「蒋先生は学者で、日本人の教え子も中国人の教え子も何千人かいる。先生が書かれた日本語教科書は政府の検定教科書として何十万部か出している。蒋先生の教科書を読んだものは誰も蒋先生を知っている。私の知る中国人の友人の中に蒋先生ほど誠意を持っている人は他にいない。蒋先生の率直な話は中国人の気持を代表している」と。
大川先生の話も終り、午後五時頃三人は別れ、石原さんは晩の座談会に行った〉
そして同年六月、大川は次のように占領地域における経済政策を厳しく批判した。
「支那に於ける指導層の反日は…日本の真個の精神に対する誤解又は曲解より来るものであるが、一般民衆が現に日本に対して抱きつゝある反感は、自ら別個の原因によるものである。占領地区に於ける政治・経済・文化の諸方面に於ける日本の諸政策、殊に経済政策が適切有効でなかつたことを、遺憾ながら正直に承認しなければならぬ。……経済方面に於ては、それが直接民衆の生活に関するか故に、政策の適否は影響するところ、最も広汎深刻である。今や日本の占領地区に於ける物資の欠乏、物価の暴騰、従つて民衆生活の困苦悲惨は、人の腸を断つものがある。而も無知なる支那民衆は、是くの如く痛苦を悉く日本の責に帰し、骨に徹する怨を抱いている。……それ故に何人であらうとも日本を敵として戦ふ者に味方する。民衆に此の敵意ある限り、明日蒋介石が死んでも支那事変の真個の解決は期すべくもなく、国民党に代つて共産党が抗戦を続けるであらう。前後七年に亘る戦争に、支那の民衆は惨苦の限りを嘗め尽くして居る。彼等は心の奥底に於て切々と平和を希つて居る。若し日本が適切なる経済政策によつて彼等の生活を些かにても緩和するなら、彼等の抗日感情は次第に薄らくであらう」(「日本と支那」『公論』昭和十八年六月)
大川周明と張学良
■支那が真支那を、日本が真日本を回復
大川周明が、王道を指導原理として、支那が真支那を、日本が真日本を回復することを願っていたことは、昭和三(一九二八)年の張学良との会談に明確に示されている。
同年六月に父である張作霖が爆殺された後、張学良はその後継者として東北の実権を掌握していた。すでに大川は、同月に張の特使として日本を訪れた総司令部秘書の陶昭銘、前奉天模範隊長で当時総司令部顧問を務めていた黄慕と打ち合わせをし、張との会談の準備を進めていた。
大川は、同年九月十一日に日本を出発、同月十四日に奉天に到着した。大川には、渋沢正雄、渋沢秀雄、速水一孔、秦真次少将が同行し、張学良側は黄、陶と秘書の王家貞が同席した。大川は「張学良を訪ふの記」(『月刊日本』昭和三年十一月号)で、張との会談に臨んだ時の心境を次のように書き残している。
「吾々の奉ずる儒教の政治的理想を説き、支那伝統の精神を復興し来りて、王道国家を東三省に実現させたい、少くとも張氏に其の志を抱かせたいばかりに、気長に待構えて居るのでありますから、此の要求に対する諾否を確めることは、張氏の真骨頂を知る上に極めて重要なことであつたのであります」
張との会談に臨んだ大川は、次のように訴えかけた。
「今日の支那は新旧争闘の舞台となつて居るが、此の争闘の間から真支那が復活するのであるから、是非その産婆になつて欲しい。……日本も同様の状態で吾々同志は真日本の復活に多年辛苦して居る。而も真支那と真日本との根本指導原理は畢竟王道に外ならぬが故に、吾々は共通の理想のために戦ふものである」
すると、張は欣然として直ちに共鳴同感し、次のように述べた。
「自分は貴国に斯くの如き同志あるを知つて意外の感に堪えない。自分が総司令になつてから今日まで幾百の貴国人に会つたけれど、斯様な話は未だ嘗て聴かなかつた。自分は三民主義は過渡的思想で到底支那を救ふに足らぬと信じて居る。従つて自分も先王の道を復興し、之に現代的組織を与へることが、支那統一の唯一の途と考へて居る。今日の支那は混沌乱離の極に在るが、これは止むを得ない。支那は国体と政体とが変更した上に、世界を風靡する革命恩潮に襲はれたものであるから、混沌に陥ることは避くべくもない。日本の如き秩序ある国でさへ、思想の変動は社会的動揺を招いて居るのであるから、秩序ない支那は尚更のことである。而も支那の歴史が証明する如く、此の混沌も孔孟の真精神の復興によつて晩かれ早かれ統一される。自分は、飽迄も儒教の政治的理想を奉じて終始する覚悟である」
この発言に示されるように、「東三省に王道国家を実現する」という大川の構想に張学良は同意したのだった。
大川によると、張は会談の中で、自分が陽明学を信奉し、王陽明の伝習録が愛読書であることを明かしている。張はまた、中国東北部にある東北大学とは別に、書院を設立し、儒教の研究・宣揚する道場にするという構想を語っていた。その書院は「国学院」と命名されるだろうと語った。
さらに張は、王道主義者の結社を設立することを約束した。この構想について、大川は「此の結社は張氏をして儒教政治を遂行せしむる一機関であると同時に、日本と満州とを精神的に結合する一機関たらしめることが出来ます」と述べている。
大川は張との会談の様子について、「私との会談二時間半といふものは、私は無論恐ろしく真剣になつて居ましたが、張氏も身動きもせぬぐらゐ緊張して応対して居ました。それにも抱らず聊かも疲労の色なく、頭脳も終りまで明晰でありました」と述べ、張が阿片中毒だという風評は、張と敵対する楊宇霆派が流しているデマだと否定している。
ただし、大川は次のようにつけ加えている。
「阿片を吸つて健康を害したことも事実であります。無暗にスポーツを好んだり、新奇な振舞をすることも事実で、例へば学校の卒業式に夫婦同伴で臨席し、夫人に賞品を授与させてみる。孔孟の教を格守すると言ひながら、亡父の葬式を簡単に失したり、喪中に拘らず服装其他の点で謹慎の意が欠けて見えることは、誠に面白くないと存じます」
■満蒙をめぐる不幸なすれ違い
ところが、張学良は大川の期待とは正反対の方向へと進んでいくのである。張学良は、昭和三(一九二八)年十二月二十九日、東三省に一斉に青天白日旗(中華民国の国旗)を掲げ、蔣介石の国民政府に従うことを明らかにした。これは易幟(旗を変えること)と呼ばれている。その二日後、国民政府は、張学良を中国陸軍の司令官にすることを約束した。

大川にとって、満蒙の特殊権益は、東洋の平和を保全する必要から獲得した権益に外ならなかった。彼は「満蒙問題の考察」(『月刊日本』昭和六年六月)で次のように書いている。
〈吾等は東洋の平和を確保する使命と責任とを有つ。而して其のための最も必要なる担保は、実に満蒙の地域であり、満蒙一たび乱るれば極東忽ちにして混沌乱離の巷となる。さればこそ吾等は、十万の生霊と二十億の戦費を犠牲にして、啻に東亜に対するロシアの野心を排撃せるのみならず、之に由って白人世界制覇の行程を挫折せしめ、世界史の新しき第一項を書き初めると同時に、東亜全体の治安を維持し平和を護持する任務を双肩に荷ひて今日に及んだのである。日本は此の重大なる任務を遂行するために、ロシアが曽て支那より得たる権利を継承し、更に大正四年の条約によって必要なる権利を正当に獲得した。所謂日本の特殊権益なるものは、東洋の平和を保全する必要から獲得せる権利利益に外ならない。
日本が此の重任を負荷してより既に四半世紀、而して此の四半世紀に於ける満洲史は、恐らく世界に比類なかるべき経済的発展の記録である。その人口は倍加し、その貿易額は三十五倍に増加した。昔時の寒村が一切の文明的施設を具備せる都市となつた。旅順は朝日に匂ふ桜の名所となり、乃木将軍の詩によつて名高き金州は林檎の名産地となつた〉
大川は、その権益が脅かされることを容認できなかったのでする。しかし、中国側にとって満州は中国の領土である。ここに不幸なすれ違いがあった。
■満州事変への道
やがて、大川は満蒙問題解決には、張学良の排除か武力発動によってしかできないと考えるようになっていく。「満蒙問題の考察」では次のように説いている。
〈支那は、満腔の敵愾心を以て、満蒙の地域より日本を放逐せんとし、歩々吾が権益を侵害して憚るところない。而して日本の国民的理想を失ひ、従つて明治以来の大陸政策の根本義を忘却し去れる吾が当局は、名を日支親善或は国際協調に藉り、空しく『厳重なる抗議』を繰返すのみにして、ついに其の抗議を徹底せしめたることがない。……
かくて日本は樽俎(そんす)折衝の間に満蒙問題を解決する見込を失つたと言つてよい。蓋し一切の交渉が談判は、誠意ある両者の間に於てのみ可能である。吾国が如何に誠意を以て交渉しても、支那側が飽くまで敵意と悪意とを以て吾に対する以上、和衷協調の途はついに求め得べくもない。現に今日に至るまで、支那側の不当なる産業圧迫と条約蹂躙の不法行為とに対して、吾国の「厳重なる抗議」は常に有耶無耶の闇に葬り去られ、徒らに譲歩に譲歩を重ね来りて、少くも満蒙問題に関する限り、ついに最後の一線にまで追ひ詰められんとして居る〉
満蒙問題は軍事的進出によって解決するしかないと決意した大川は、武力の発動を支持する国民世論の形成に取り組む一方、軍への働きかけを強めていく。大川は、すでに大正十五(一九二六)年後半から、参謀本部の将校を行地社の講演会や誌友懇談会等に招くことで多くの部員たちと知り合うようになっていった。
昭和四年までに、大川は森岡皐・土肥原賢二・根本博・石原莞爾・影佐禎昭・東条英機・和知鷹二らの誌友を獲得した。さらに、大川はほぼ同世代の小磯国昭・岡村寧次・板垣征四郎・多田駿・河本大作・佐々木到一・重藤千秋らとの関係を強めていた。呉懐中氏は次のように書いている。
「1920年代後半から、不安化しつつある満州問題が徐々に軍の関心事となっていく中て、この面における大川と軍との意見交換も行われるようになる。例えば、1926年秋から板垣征四郎の口演を口火に、松室良孝・重藤・長勇らは行地社で中国問題について講演を行っていく。…大川は大正末から満蒙領有論を主張し出したか、同時にその見解を陸軍の中堅将校に勧める動きも見せた。1926年末、彼は偕行社で板垣・永田鉄山・東条英機・阿南惟幾ら十数名の中堅将校と満蒙問題を討議し、陸軍の力によって満州を独立させるべきことを力説したという。満州独立問題において、彼は早くも軍部中堅層に檄を飛ばす姿勢を示したのである」(『大川周明と近代中国』百七頁)
大川は昭和四年正月から三月にかけて満州入りした。同年一月、真崎甚三郎宛ての書簡で彼は次のように書いている。
「三、四月の交、南京政府必ずや大動揺を来すべく、此時こそ皇国が満蒙問題に目鼻をつくべく無二唯一の好機と被存候」
大川が「大動揺」と書いたことについて、呉懐中氏は、昭和四年初頭の「全国編遣会議」や、三月開催予定の国民党第三次大会において、軍閥・派閥の勢力争いによって反蒋介石的な内乱が起こるというのが大川の予想だったと指摘している。そして、大川はこの好機に乗じて、張学良の独立を説得、実現させようと考えていたようだ。しかし、大川の目論見ははずれた。その結果、大川は武力解決へと一気に傾いていく。昭和六年五月、大川は、板垣征四郎や神田正種ら中堅将校と会合し、互いに覚悟を堅め、要路を武力解決の道へ引きずっていくことを確約したという(『尋問調書』)。こうして、同年九月十八日の満州事変勃発に至る。
儒教文明の復興と大川周明
■西本白川と大川周明
東洋文明の復興を志した大川周明にとって「儒教的中華文明の復興」は重要な課題だった。大川は、ほとんど全ての民族にとって、人生全体の規範である「道」が、文化の発達に伴って宗教・道徳・政治の三つに分化したが、中国ではその三者が見事に純化されて儒教となったととらえていた(「支那問題に対する一考察」)。
そして大川は「人生を渾然一体として把握し、別に宗教・道徳・政治を分立せしめず、之を一個の『道』に綜合して、最も具体的に人格の成満を志すところに支那精神の比類なき特徴がある」と書いていた。だからこそ、大川は「道の体得者」が中国政治を動かすことを期待していたのである。呉懐中氏は次のように説いている。
「大川が同時代中国における道の体得者や有徳者として首肯したのは、辜鴻銘・沈子培・張謇・杜天一(日本側は西本白川や大陸浪人の元祖たる金子雪斎)等の面々だったように思われる」
では、大川の中国認識論は以下にして固められたのだろうか。ここで注目すべきが西本白川の影響である。
西本は、東亜同文会が明治三十三(一九〇〇)年に開設した南京同文書院の一期生で、同書院の教授を務め、その後週刊『上海』の編集や春申社の社長を務めた。
当時、在中国の日本人ジャーナリズム界では、「北に橘樸、南に西本白川」と呼ばれていた。王道主義を掲げた西川は、中国の共和政治・デモクラシー思想や新文学運動に反対し、清朝の復辟や国学の復興を期待して、清朝の遺臣で宗社党を組織した沈子培・姚文藻・鄭孝胥らと交遊した。大川は西本の人格を高く評価していた。
「徳のある人間に対しては支那人は非常に尊敬する。私の友人で去年亡くなりましたが、上海に西本白川といふ非常に篤心な学者が居ました。此人は上海に居ること二十何年になるが人間が非常に立派である為に亡くなる迄非常に貧乏であつた。本当に陋巷に窮居して居つた。陋巷に窮居して居りながら支那の経学と真に真面目に勉強して居つたところが、日本人に此の西本君の道を求める非常な熱心な心、其極めて潔白な人格、之に対して殆ど尊敬を払わない。それにも拘らず支那人の方は、西本君を知る程の人々は、非常なる尊敬を払つて居るのであります」(「漢民族と其文明」『月刊日本』昭和五年三月)
そして、大川は西本と中国認識を共有していたのだ。例えば、西本が大川に宛てた書簡には次のように書かれていた。
「支那が昔も今もやはり道の国で、内外を問はず苟も道の大用と其の統を継承する丈けの人格者さへあらば、何時にても乱を治に向はせ廃を興に趨かせることか出来るといふ吾人の対支的信念……」
これは、大川の次の言葉と響き合っている。
「支那の天下は如何なる例外もなく、常に道の体得者によりて平らげられ、而して唯物主義者によりて乱されて来た。唯物主義(者)が支那を支配する時、支那には如何なる平和もなかつた。而してその乱雑混沌は、道の体得者が現れて天下四海を統一するまで続かざるを得なかった」
実際、西川の思想は、大川に強い影響を与えていた。呉懐中氏は次のように指摘している。
〈『現代支那史の考察』(1922)・『大儒沈子培』(1923)・『康煕大帝』(1925)等の西本の著書に見られる、道を中心に中国の思想や歴史を探り、近代中国の事情を批判し、また清朝遺老の沈子培を道統的大儒として尊敬し、偉業を成した康煕帝は王道的政治精神を持つ典型的人物だからこそとして礼讃するという姿勢は、大川の中国論に対し、具体的言説様式にまで影響を与えたように思われる〉
大川は西本の『康煕大帝』について、「道の如何なるものかを具体的に理解する為に」一読すべきもの、「支那研究者の必読」を要する「希有の好著」として推薦していた。
■辜鴻銘と大川周明
西本とならんで、大川の儒教思想に基づく王道主義に強い影響を与えたのが辜鴻銘である。

大正十三(一九二四)年、北京からの書簡で、大川は次のように書いている。
「故に到処恨事徒に繁くして空しく傷心す。御憫察下され度、唯だ北京に於て一老学者と相識り稍々慰むる所有之度候。此人名を辜鴻銘とよび、学漢洋を兼ね識見高遠なり。生をして支那の古道僅に這個老漢の心裡に護持せらるゝを思わしむ。その英文の如き暢達にして而も機智横溢、殆どバーナードショウの筆致あり。兼て独逸語に達し、独逸に於て其著を刊行せることあり。而も満腔これ古道にして、一念たゞ真個支那精神の宣揚にあり。生一見旧知の如く、交すでに断金なり。……壮年の頃より張之洞に侍し、忠を大清朝廷に致し、今に及んで禄を共和政府に食むを肯んぜず、陋巷に寝居せり。生に示して曰く心憂天下食不足と」(『道』第百七十九号、大正十三年)
呉懐中氏は、辜鴻銘が西洋遍歴を経て張之洞の感化によって儒家文化に回帰し、「反西洋文明的復古主義」によって自国の精神性を自国の歴史に求めるようになったと指摘する。そして、辜は儒家文化に回帰してからは儒教的中華文明の復興を唱え、西洋文明への対決や克服を目指す強烈な文化ナショナリストになったのと指摘している。
一方、愛知県立大学の川尻文彦氏は次のように述べている。
〈梁漱溟研究で知られるガイ・アリトー(Guy Allito)は、第一次大戦後の沈んだ雰囲気の中で、タゴールや岡倉天心と並んで東洋の聖哲として知られたのは、梁漱溟でも梁啓超でもなく辜鴻銘であったという。第一次大戦中の一九一五年(一九二二年にも再版)、彼は英文でThe Spirit of the Chinese People(別名『春秋大義』)を発表するとともに、大戦と東西文明の関係について論じ、中国文化によって西洋を救うことを高唱した〉(「辜鴻銘とアーサー・スミス」)
しかも辜は、中国が西洋文明の進出に抵抗できないのは、儒教文明または道徳文化が衰弱した結果であり、日本は中国儒教文明の真精神を体得したことによって国を守り、しかも隆盛させたと考えた。ゆえに日本は自分の保持した中国文明の精髄を再び中国にもたらし、真の中国文明を復興することを自らの天職とすべきだと説いた(「中国文明の復興と日本」『大東文化』大正十四年七月)
こうした辜の考え方は、大川の思想に極めて重大な影響を与えていたのではないか。岡倉天心の東洋文明論から強い影響を受けていた大川は、「儒教文明の貯蔵庫」としての日本の特別な使命を強く自覚していた。だからこそ、辜の言葉は大川を触発し、中国における儒教文明の復興を切望させたに違いない。張学良に対する過剰な期待もその表れだったと考えられる。
石井東吾氏が語る截拳道(ジークンドー)の陰陽理論
ブルース・リーが開発した截拳道(ジークンドー)には老荘思想の陰陽理論が取り入れられていたのではないか。そのことは、ジークンドーのインストラクターとして活躍する石井東吾氏の言葉からも窺える。
石井東吾氏は、1999年9月、18歳の時に、ジークンドーの継承者テッド・ウォンと出会った。石井氏は、参加したセミナーで、テッド・ウォンの武術と人柄に深い感銘を受け、その後、テッド・ウォンの弟子であるヒロ渡邉に弟子入りする。

石井氏は2003年7月に初渡米し、テッド・ウォンからプライベートレッスンを受けている。以来、2010年8月までの間、ヒロ渡邉に同行して渡米を繰り返し、修行を続けた。
石井氏は『陰と陽 歩み続けるジークンドー』(Gakken)の中で次のように述べている。
〈武道の礼儀作法が〝礼に始まり、礼に終わる〟とされているように、ジークンドーで重要視されているのは〝構えに始まり、構えに収まる〟ことである。それが基本スタンスであるオンガードポジションだ。
ジークンドーのオンガードポジションは〝陰陽の理論〟に基づいた、攻撃と防御が融合した中立的な構えをとる。それはとてもシンプルかつコンパクトであり、常にいつでもどの方向へも瞬時に動くことができる、非常に機動力に富んだスタンスだ。
「よいフォームとは、動きとエネルギーの無駄を最小限に抑えて目的を成し遂げる、最も効率的なやり方のことだ。常によいフォームで訓練せよ」と、ブルース・リー始祖は述べている。では、よいフォームで行うために必要不可欠なことは何だろうか?それは〝構え〟である。
ジークンドーの構えは、〝レディポジション〟とも呼ばれる。エネルギーが蓄えられて、いつでも爆発的な動きを繰り出せる準備が整った状態なのだ。この精密な構えの構造が崩れていれば、自ずとそこから発する技は崩れることになり、スピードもパワーも失うこととなる。ジークンドーでは、最短最速でターゲットに拳足をヒットさせることを目的としているため、構えに高い精度が要求されるのだ。
大切なのは、構えが攻撃的、もしくは防御的な形態やマインドに偏ることなく、陰陽の調和のとれたニュートラルな状態でなければならないということだ。肉体的には、脱力して正しい形にセットアップされた状態であること。精神面では、何にも囚われず、深い静寂のなかに心が置かれた無為自然な状態でありながら闘志を内に秘め、しかしそれをいつでも解放できるような状態。つまり、陰陽の調和を肉体と精神で表現し、それを構えのなかで表現すること。このような意識で、僕はオンガードポジシションをジークンドーの最も重要な身体的要素の一つと捉えている〉





