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大川周明と張学良

■支那が真支那を、日本が真日本を回復
 大川周明が、王道を指導原理として、支那が真支那を、日本が真日本を回復することを願っていたことは、昭和三(一九二八)年の張学良との会談に明確に示されている。
 同年六月に父である張作霖が爆殺された後、張学良はその後継者として東北の実権を掌握していた。すでに大川は、同月に張の特使として日本を訪れた総司令部秘書の陶昭銘、前奉天模範隊長で当時総司令部顧問を務めていた黄慕と打ち合わせをし、張との会談の準備を進めていた。
 大川は、同年九月十一日に日本を出発、同月十四日に奉天に到着した。大川には、渋沢正雄、渋沢秀雄、速水一孔、秦真次少将が同行し、張学良側は黄、陶と秘書の王家貞が同席した。大川は「張学良を訪ふの記」(『月刊日本』昭和三年十一月号)で、張との会談に臨んだ時の心境を次のように書き残している。
 「吾々の奉ずる儒教の政治的理想を説き、支那伝統の精神を復興し来りて、王道国家を東三省に実現させたい、少くとも張氏に其の志を抱かせたいばかりに、気長に待構えて居るのでありますから、此の要求に対する諾否を確めることは、張氏の真骨頂を知る上に極めて重要なことであつたのであります」

 張との会談に臨んだ大川は、次のように訴えかけた。
 「今日の支那は新旧争闘の舞台となつて居るが、此の争闘の間から真支那が復活するのであるから、是非その産婆になつて欲しい。……日本も同様の状態で吾々同志は真日本の復活に多年辛苦して居る。而も真支那と真日本との根本指導原理は畢竟王道に外ならぬが故に、吾々は共通の理想のために戦ふものである」
 すると、張は欣然として直ちに共鳴同感し、次のように述べた。
 「自分は貴国に斯くの如き同志あるを知つて意外の感に堪えない。自分が総司令になつてから今日まで幾百の貴国人に会つたけれど、斯様な話は未だ嘗て聴かなかつた。自分は三民主義は過渡的思想で到底支那を救ふに足らぬと信じて居る。従つて自分も先王の道を復興し、之に現代的組織を与へることが、支那統一の唯一の途と考へて居る。今日の支那は混沌乱離の極に在るが、これは止むを得ない。支那は国体と政体とが変更した上に、世界を風靡する革命恩潮に襲はれたものであるから、混沌に陥ることは避くべくもない。日本の如き秩序ある国でさへ、思想の変動は社会的動揺を招いて居るのであるから、秩序ない支那は尚更のことである。而も支那の歴史が証明する如く、此の混沌も孔孟の真精神の復興によつて晩かれ早かれ統一される。自分は、飽迄も儒教の政治的理想を奉じて終始する覚悟である」
 この発言に示されるように、「東三省に王道国家を実現する」という大川の構想に張学良は同意したのだった。

 大川によると、張は会談の中で、自分が陽明学を信奉し、王陽明の伝習録が愛読書であることを明かしている。張はまた、中国東北部にある東北大学とは別に、書院を設立し、儒教の研究・宣揚する道場にするという構想を語っていた。その書院は「国学院」と命名されるだろうと語った。
 さらに張は、王道主義者の結社を設立することを約束した。この構想について、大川は「此の結社は張氏をして儒教政治を遂行せしむる一機関であると同時に、日本と満州とを精神的に結合する一機関たらしめることが出来ます」と述べている。
 大川は張との会談の様子について、「私との会談二時間半といふものは、私は無論恐ろしく真剣になつて居ましたが、張氏も身動きもせぬぐらゐ緊張して応対して居ました。それにも抱らず聊かも疲労の色なく、頭脳も終りまで明晰でありました」と述べ、張が阿片中毒だという風評は、張と敵対する楊宇霆派が流しているデマだと否定している。
 ただし、大川は次のようにつけ加えている。
 「阿片を吸つて健康を害したことも事実であります。無暗にスポーツを好んだり、新奇な振舞をすることも事実で、例へば学校の卒業式に夫婦同伴で臨席し、夫人に賞品を授与させてみる。孔孟の教を格守すると言ひながら、亡父の葬式を簡単に失したり、喪中に拘らず服装其他の点で謹慎の意が欠けて見えることは、誠に面白くないと存じます」

■満蒙をめぐる不幸なすれ違い
 ところが、張学良は大川の期待とは正反対の方向へと進んでいくのである。張学良は、昭和三(一九二八)年十二月二十九日、東三省に一斉に青天白日旗(中華民国の国旗)を掲げ、蔣介石の国民政府に従うことを明らかにした。これは易幟(旗を変えること)と呼ばれている。その二日後、国民政府は、張学良を中国陸軍の司令官にすることを約束した。
張学良
 大川にとって、満蒙の特殊権益は、東洋の平和を保全する必要から獲得した権益に外ならなかった。彼は「満蒙問題の考察」(『月刊日本』昭和六年六月)で次のように書いている。
 〈吾等は東洋の平和を確保する使命と責任とを有つ。而して其のための最も必要なる担保は、実に満蒙の地域であり、満蒙一たび乱るれば極東忽ちにして混沌乱離の巷となる。さればこそ吾等は、十万の生霊と二十億の戦費を犠牲にして、啻に東亜に対するロシアの野心を排撃せるのみならず、之に由って白人世界制覇の行程を挫折せしめ、世界史の新しき第一項を書き初めると同時に、東亜全体の治安を維持し平和を護持する任務を双肩に荷ひて今日に及んだのである。日本は此の重大なる任務を遂行するために、ロシアが曽て支那より得たる権利を継承し、更に大正四年の条約によって必要なる権利を正当に獲得した。所謂日本の特殊権益なるものは、東洋の平和を保全する必要から獲得せる権利利益に外ならない。
 日本が此の重任を負荷してより既に四半世紀、而して此の四半世紀に於ける満洲史は、恐らく世界に比類なかるべき経済的発展の記録である。その人口は倍加し、その貿易額は三十五倍に増加した。昔時の寒村が一切の文明的施設を具備せる都市となつた。旅順は朝日に匂ふ桜の名所となり、乃木将軍の詩によつて名高き金州は林檎の名産地となつた〉
 大川は、その権益が脅かされることを容認できなかったのでする。しかし、中国側にとって満州は中国の領土である。ここに不幸なすれ違いがあった。

■満州事変への道
 やがて、大川は満蒙問題解決には、張学良の排除か武力発動によってしかできないと考えるようになっていく。「満蒙問題の考察」では次のように説いている。
 〈支那は、満腔の敵愾心を以て、満蒙の地域より日本を放逐せんとし、歩々吾が権益を侵害して憚るところない。而して日本の国民的理想を失ひ、従つて明治以来の大陸政策の根本義を忘却し去れる吾が当局は、名を日支親善或は国際協調に藉り、空しく『厳重なる抗議』を繰返すのみにして、ついに其の抗議を徹底せしめたることがない。……
 かくて日本は樽俎(そんす)折衝の間に満蒙問題を解決する見込を失つたと言つてよい。蓋し一切の交渉が談判は、誠意ある両者の間に於てのみ可能である。吾国が如何に誠意を以て交渉しても、支那側が飽くまで敵意と悪意とを以て吾に対する以上、和衷協調の途はついに求め得べくもない。現に今日に至るまで、支那側の不当なる産業圧迫と条約蹂躙の不法行為とに対して、吾国の「厳重なる抗議」は常に有耶無耶の闇に葬り去られ、徒らに譲歩に譲歩を重ね来りて、少くも満蒙問題に関する限り、ついに最後の一線にまで追ひ詰められんとして居る〉
 満蒙問題は軍事的進出によって解決するしかないと決意した大川は、武力の発動を支持する国民世論の形成に取り組む一方、軍への働きかけを強めていく。大川は、すでに大正十五(一九二六)年後半から、参謀本部の将校を行地社の講演会や誌友懇談会等に招くことで多くの部員たちと知り合うようになっていった。
 昭和四年までに、大川は森岡皐・土肥原賢二・根本博・石原莞爾・影佐禎昭・東条英機・和知鷹二らの誌友を獲得した。さらに、大川はほぼ同世代の小磯国昭・岡村寧次・板垣征四郎・多田駿・河本大作・佐々木到一・重藤千秋らとの関係を強めていた。呉懐中氏は次のように書いている。
 「1920年代後半から、不安化しつつある満州問題が徐々に軍の関心事となっていく中て、この面における大川と軍との意見交換も行われるようになる。例えば、1926年秋から板垣征四郎の口演を口火に、松室良孝・重藤・長勇らは行地社で中国問題について講演を行っていく。…大川は大正末から満蒙領有論を主張し出したか、同時にその見解を陸軍の中堅将校に勧める動きも見せた。1926年末、彼は偕行社で板垣・永田鉄山・東条英機・阿南惟幾ら十数名の中堅将校と満蒙問題を討議し、陸軍の力によって満州を独立させるべきことを力説したという。満州独立問題において、彼は早くも軍部中堅層に檄を飛ばす姿勢を示したのである」(『大川周明と近代中国』百七頁)
 大川は昭和四年正月から三月にかけて満州入りした。同年一月、真崎甚三郎宛ての書簡で彼は次のように書いている。
 「三、四月の交、南京政府必ずや大動揺を来すべく、此時こそ皇国が満蒙問題に目鼻をつくべく無二唯一の好機と被存候」
 大川が「大動揺」と書いたことについて、呉懐中氏は、昭和四年初頭の「全国編遣会議」や、三月開催予定の国民党第三次大会において、軍閥・派閥の勢力争いによって反蒋介石的な内乱が起こるというのが大川の予想だったと指摘している。そして、大川はこの好機に乗じて、張学良の独立を説得、実現させようと考えていたようだ。しかし、大川の目論見ははずれた。その結果、大川は武力解決へと一気に傾いていく。昭和六年五月、大川は、板垣征四郎や神田正種ら中堅将校と会合し、互いに覚悟を堅め、要路を武力解決の道へ引きずっていくことを確約したという(『尋問調書』)。こうして、同年九月十八日の満州事変勃発に至る。