大川周明は、昭和十八年の時点で東條政権の覇道アジア主義を批判し、王道アジア主義への回帰の姿勢を鮮明にしていた。その際、大川はアジア諸民族が正しく日本を理解することを切に願っていた。大川は昭和十八年九月に執筆した「亜細亜的言行」で次のように説いている。
〈アジアの諸民族は、決して正しく日本を理解していない。支那人と言わずインド人と言わず、彼らが密室において互いに私語するところは、日本人の面前において声高らかに揚言するところと、甚だしき表裏懸隔がある。吾らは、外交官の新任挨拶の如き空々しき美辞麗句を彼らと交換して、いつまでも自ら安んじ自ら慰めていてはならぬ。大東亜戦争は日に苛烈を加えつつある。この戦争に善勝するためには、アジア諸民族が正しく日本を理解し、積極的に日本に協力することを必須の条件とする。
アジアの諸民族をして正しく日本を理解せしめ、積極的に日本に協力せしめるためには、日本民族はアジア的に自覚し、アジア的に行動せねばならぬ。然るに今日の日本人の言行は善き意味においても、悪き意味においても、余りに日本的である。儒教や仏教をまで否定して、独り『儒仏以前』を高調讃美する如き傾向は、決してアジアの民心を得る所以ではない。
日本民族は、拒むべくもなき事実として、自己の生命裡に支那およびインドの善きものを摂取して今日あるを得た。孔子の理想、釈尊の信仰を、その故国においてよりも一層見事に実現せるところに日本精神の偉大があり、それゆえにまた日本精神は取りも直さずアジア精神である。日本はこの精神を以てアジアにはたらかねばならぬ。徙らに『日本的』なるものを力説しているだけでは、その議論が如何に壮烈で神々しくあろうとも、アジアの心琴に触れ難く、従って大東亜戦争のための対外思想戦としては無力である。希くは国内消費のためのみでなく、大東亜の切なる求めに応ずる理論が一層多く世に出でんことを〉
ただ、大川と東條政権との関係は維持されていたようだ。昭和十八年十一月、大川は大政翼賛会興亜総本部から「興亜使節として上海と南京に赴き、講演する」ことを依頼され、それを引き受けているからだ。翌十二月三日、大川は上海に入った。
上海と南京での講演内容は未だ判明していないが、「亜細亜的言行」に沿ったものであったのではないか。注目すべきは、講演を控えた十二月五日に、大川が東亜連盟協会の木村武雄と面会していたことである。
木村の師石原莞爾と大川には深いつながりがあった。戦後、大川は石原について次のように書いている。
〈前途の多難一層なるべき日本のために、是非生きて居てほしかったと思う人々の中で、第一に私の念頭に浮ぶのは石原莞爾将軍である。……大西郷や頭山翁の如きも、やった仕事を一々漏れなく加算して見ても、決してその面目を彷彿させることができない。この場合でも、人間の方が常にその仕事よりも立派なのである。かような人物は、その魂の中に何ものかを宿して居て、それずその人の現実の行動を超越した或る期待を、吾々の心に起させる。言葉を換えて言えば、その人の力の大部分は潜在的で、実際の言動に現れたものは、唯だ貯蔵された力の一部にすぎないと感じさせるのである。それ故に吾々は、もし因縁が熟するならば、何等か偉大なる仕事が、屹度その人によって成し遂げられるであろうという希望や期待を、その人に対して抱くのである。見渡したところ、今日の日本に斯様な人物は極めて稀であるが、石原将軍はその稀有なる人物の一人であった〉(「二人の法華経行者」昭和二十六年)
大川の王道アジア主義への回帰は、石原莞爾の影響だったかもしれない。いずれにせよ、興亜使節として上海に派遣された大川が木村武雄と面会していた事実は非常に興味深い。石原同様、木村は東條政権にとって極めて厄介な存在だったからだ。
木村武雄は東條の覇道アジア主義に抵抗していたが、いよいよ弾圧が厳しくなり、軍務局の永井八津次大佐の示唆で、昭和十七年九月に上海に渡っていた。木村はチャイナタウンの一角に拠点を置いた。当時、上海では、紡績工場の機械や製品が日本軍に掠奪されていた。また、浙江財閥要人が日本兵によって拘束されていた。木村は、軍と交渉し、掠奪品の返還と浙江財閥要人の貰い下げに奔走したのである。やがて、木村の拠点は「木村公館」と呼ばれるようになり、王道アジア主義の牙城となった。しかし、昭和十八年夏になると、現地陸軍部部長が木村に対して退去命令を突きつけてきた。木村は帰国を決心したが、その直後、辻政信大佐が報道部長の三品隆以中佐を通じて木村に面会を求めてきた。
辻は、二つの要請を木村にした。(一)日中両国人の間に入り、もろもろの問題の調整役を引き受けてほしい、(二)日本軍百万の将兵のために食糧、特にコメを手に入れてほしい──。現地自給の日本軍は、もはや中国人から食料を金では買えなくなっており、掠奪、収奪の策も残されておらず、食料危機に陥っていたのだ。
辻は、「あなたに出ている退去命令を何としても取消させるから、協力してほしい」と頭を下げた。木村は辻の申し出を引き受けることにした。そして、木村は辻の要請に見事に応え、終戦間際まで上海に留まることになるのだが、この微妙な時期に大川は木村と上海で会談していたのである。
「石原莞爾」カテゴリーアーカイブ
石原莞爾の民族協和主義①
ちょうど五十年前の昭和四十七年、田中角栄は日中国交回復に動いた。それを支えたのが元帥と呼ばれた男・木村武雄である。日中国交回復を使命と定めた木村の原点には、師・石原莞爾の民族協和主義があった。
昭和十六年三月、石原は京都の十六師団長を最後に、現役の軍職から退いた。当時、「石原退職の原因は、木村が石原将軍擁立の政治運動をやったことだ」という噂も流れていた。そこで木村は、謝罪もかねて石原を京都の師団長官舎に訪れたのだ。その時、石原は木村に次のように語ったという。
「今までの日本人は、民族独善主義の道を歩いて来た。そしてその結果、日清戦争・日露戦争にも勝ち、更に第一次大戦でも勝利して、日本は世界の三大列強の一つになる事が出来た。然し日本が満州問題に発言して以来、日本の民族独善主義は完全に民族協和主義に変ってしまったのだ。それで民族協和主義に徹しなければ、これからの日本は成り立たない。これからの日本は役に立たなくなるんだ」
では、なぜ民族協和主義に変わったのか。石原は次のように語った。
「日本人は、日本と云う島国に住んでおる時代は民族独善主義でも良かったけれども、日本が大陸に発言して満州に新しい国造りをやってからは、完全に民族協和主義になってしまった。そうならざるを得なくなったのだ。それ以前には、朝鮮半島に新しい日本国を建設して、朝鮮民族と日本民族で手を携えて朝鮮内外の場所で、お互いが仲良くなるよう努力したが、その時にはまだ民族協和主義に日本は徹していなかったのだ。
その証拠には、日本が朝鮮半島で教育を指導するようになったが、その教育を通して、朝鮮民族の使用しておった朝鮮語は使わせないようにした。朝鮮語を教えないようにして日本語だけで朝鮮民族の教育をやった。これをみても、その時代の日本は、やはり日本民族の独善主義がそのままその時代まで横行しておったと思う。ところが、日本が一度満州に足場を造って、そこで満州問題について日本が発言するようになってからは、民族独善主義では通らなくなった。それで民族協和主義に変ったのだ。なぜかと申せば、満州には在来の先住民族として蒙古人が住んでおる。そこに満州民族がどっとおしかけてきて、満州民族も住むようになった。更に漢民族も多数住みつくようになった。それに西の方からはロシア人がやって来て住むようになり、東の方からは朝鮮民族がやって来て住むようになり、そこにまたまた日本人が、日清日露戦争以来、特に日華事変以来やって来て住みつくようになってからは、六族が満州に住むようになった。そこで六族が相共に協和しなければ満州国と云うものを育成、強化する訳にはゆかなくなったのだ。それ以来、日本人は民族独善主義をかなぐり捨てて、民族協和主義を掲げざるを得なくなったのだ」
この話を聞いて、木村は民族協和主義が日本にとっては必要欠くべからざるものである事を確信した。
石原莞爾と南部次郎(木村莞爾『石原莞爾』より)
木村莞爾の『石原莞爾』には興亜の先駆者・南部次郎とその子・襄吉と石原の関係が詳しく記述されている。
〈襄吉の厳父南部次郎が中国に渡ったのは明治六年であるから、副島に先立つこと二年である。彼は、盛岡南部藩主の分家に生まれ、幼にしてその英才を買われて十八歳で藩の執政になったといわれているから、よほどの傑物であったに違いない。だが気骨が禍いして藩主の忌諱に触れ、閉門を仰せつけられている間に照井小平の門をたたたいた。照井は中国人章炳麟が当代随一の中国通と激称しただけに、彼に中国問題を教えられて南部は感奮興起した。
明治二年、廃藩置県で南部藩主の利恭が藩知事となって、彼を大参事に抜擢したが、彼はそれを蹴って中国に赴き、一年余で突如帰国して、征台事務総裁の西郷従道に面接し、「中国は所詮は満州から中国本土に攻め入った清朝のものではない。漢民族の民族意識が鬱勃として勃興しつつある今日、早晩漢民族の革命が起こるに違いない。その際、自分は、南部藩士五百名を引率してその革命に参加するつもりである。」と中国の大勢を説いた。二度目は藩士佐藤昌介、藤森主一郎を同伴し、決意して上海に渡った。台湾問題の最後的解決に乗り出した大久保利通が、五十万元の賠償金を得て問題を妥結し、神奈川丸で帰国する途上、これに便乗した南部は大久保に「清朝政府には聖人の訓えがすたれてアジアの連帯感はなくなった。故に地に堕ちた王道を回復して、日華の提携を計るには革命以外にはない」と熱心に説いた。大久保は彼の言に耳を貸しても、無謀な計画には賛成しないで、それを差し止める方法として、彼を内務省四等属に任命したが、そんなことで決意をかえる彼ではない。
彼は明治九年一月、新たに支那公使となった森有礼を説いて、藩士金子弥兵衛を実費留学生として北京に留学させ、自らは参謀黒田清隆に談判して官費で北京に渡り、金子、伊集院らと交わりを深くして、上海の佐藤、藤森らと連絡をとりながら清朝政府の転覆を画策した。
十三年七月、南部は帰朝命令をうけてやむなく帰国したが、十五年、今度は外務卿井上馨の密命で三度、中国に渡った。そして清朝第一の重臣李鴻章らと盛んに交遊して十六年帰国した。井上は、南部の進言により芝罘(チーフー)に領事館を置くことにして、初代領事に南部を任命した。
この時、彼は四十九歳である。彼は芝罘で領事館を根城に中国の同志を集め、革命を力説して、ここで畠山三郎、白井新太郎らの青年を育成した。
明治十八年二月、仏国クレーベル総督が澎湖島を占領して、北上して天津を衝き、清朝政府に圧迫を加えた。この時、福州にいた同志の陸軍中尉小沢豁郎が、好機到れりと、南部に檄を飛ばして、「われは福州で兵を挙げん。君は芝罘で蹶起せよ」と連絡した。南部は、この蹶起には反対だったので、同伴して福州で小沢にその暴挙を中止させた。これが陸軍当局の耳に入って、小沢は馘になるところだったが、商部は福島安正大佐に頼んで香港転任で事無きを得た。が、こうして政府と関係なしに独自で動く南部の処遇に困った政府は、とうとう十六年十一月、彼を日本に召還した。
この命令に接した彼は長崎から辞表を郵送して、十八年九月東京に帰った。彼は〈中国を改造するには、先王の道を明らかにすれば足りる。必ずしも革命を必要としない。権謀はやむを得ずやったことで、もとより善なるものではない〉として、爾後中国革命を断念し、五十一歳で閑雲野鶴を友とし、花を鑑賞し絵を描き、囲碁を楽しみ、清貧に安んじて、後事を襄吉に託そうとした。襄吉は石原の偉才を父に紹介し、石原は南部から、日華提携の真義を会得した〉
石原莞爾「宮内大臣は三上卓にかぎる」
葦津珍彦は「沈毅猛勇の士」(三上卓追悼文)で次のように書いている。
〈敗戦で東久邇内閣ができて直後、入閣した緒方書記官長が繁忙な自動車の中で問ふた。「石原莞爾将軍が、この皇国非常のときに、宮内大臣は三上卓にかぎると、首相や私共に熱烈にすすめてゐるのだが、君はどう思ふか」と。私は「石原将軍は天才だから常識には乏しい。三上さんも然り。大変いいこともあるが、円満な行政は期待されまい」と。緒方さんも「然う思ふ」と云った。運転台にゐた中村秘書官(後に朝日新聞社の幹部となる)が「三上さんが今日来ました。ボクらにはあの人は全く分らないが、目が澄んでゐますねえ」と云った。卓兄に話したら、ただ黙笑しただけだったので、私はそのままにした。緒方さんが常識的だったのは当然だが、私は顧みて、石原さんの天才に積極的に共感しえなかった自分を、今では凡愚鈍感として恥ぢている。あの時に卓兄が君側に侍しても、おそらく円滑に行かないで、四五週間程度で追放か投獄されるほかなかったのは明らかだ。しかしその後の占領下の現実史の無気力が明白となった今日になって考へれば、卓兄を一週間でも一ヶ月でも君側の高官にしたいと熱望した石原将軍の天才に敬意を表し、私の凡愚を恥ぢざるをえない。
仕事の価値は、年月の時間の長さでは測られない。天才は、しばしば一週間で常識人が十年かかってもできないことをすることがある〉(花房東洋編『民族再生の雄叫び 「青年日本の歌」と三上卓』)
石原莞爾の魂と戦後政治—木村武雄の生涯③
■木村武雄と周恩来の会見
木村は早い時期から、日中の橋渡し役を演じていた。昭和三十九(一九六四)年十一月二十四日には久野忠治とともに訪中し、陳毅外交部長と会談している。そして、日中国交正常化の二年前の昭和四十五年にも北京を訪れ、周恩来首相と会談している。木村莞爾氏は、次のように振り返る。
「日中国交正常化の影の主役は廖承志です。木村武雄は彼とも交流を温めてきました。昭和四十五年の訪中には私も同行しました。香港まで飛行機で行き、香港から広州へ鉄道で行き、広州から北京に飛びました。その時にアレンジしてくれたのが、当時香港副領事だった加藤紘一君です。
石原莞爾先生の思想を受け継いだ木村武雄は、「東亜大同」の夢を抱くとともに、我が国をどの国とも対等に話し合える国にしておかなければいけないとの考えから、日中国交回復を目指したのです。木村武雄は、それを進めようとすれば、台湾との関係を重視する右翼が反対することも想定していました。だからこそ木村武雄は、右翼を自ら抑えるために国家公安委員会委員長のポストを望んだのです。実際、右翼は騒がなかったのです。
東亜連盟には、アウトローから左翼まで共鳴していました。例えば、アウトローでは「東声会」を結成した町井久之。左翼では、市川房枝、佐々木更三、淡谷悠蔵といった人たちです」
平澤光人氏によると、木村と対面した周恩来首相は、開口一番「今、日本の東亜連盟の同志はどうしていますか」と尋ねたという(平澤光人「東亜連盟の理念と実践」『永久平和への道 いま、なぜ石原莞爾か』原書房)。木村莞爾氏も、「周恩来首相は東亜連盟の話をしていました。周恩来は、木村武雄がいかなる人物かを全て調べ上げていたはずです」と語っている。木村は、中国が信頼する数少ない日本人の一人だった。
木村は東條政権に盾突き、昭和十七年四月の翼賛選挙では非推薦で当選した。しかし、東條政権からの圧力が強まる中で、木村は同年九月に上海に逃れた。木村武雄は次のように振り返っている。
〈私は太平洋戦争の四年間を、ほとんど中国で過ごした。……軍は思い上がった一部の指導者たちを先頭に南へ北へ戦線を拡大してしまっている。この戦いを〝聖戦〟と呼ぶことを完全に否定するものではないにしても、現実にはおよそ聖戦とはかけ離れた殺戮と蹂躙とが無限にくりひろげられている。私は、この小躯をもって可能なかぎりの正義を貫いてみたいと希った。
私は活動の本拠を上海地区においた。上海は経済の中心地であり、したがってまた日本軍による掠奪行為の最も激しかった地域である。上海の滬西地豊路のチャイナタウンの一角に、私は木村公館なるものを創始した。……私が創始した木村公館は、紡績業者、本屋といった商人たちから会社や店の顧問になってくれとかあるいは略奪から護ってくれと依頼され、そのために日本内地から私の同志、部下たちを呼び寄せて発足させたものであった。いわば中国人のための萬相談所ともいうべき組織となり、お役所(軍)への陳情、公文書や商取引証書の作成、拘留、留置者の貰い下げといったことを業としたわけだが、料金はとらず、年中無休で働いた。……ところが上海在住一年にして、今度は現地陸軍部部長からの退去命令が私に突きつけられたのである。陸軍部の言い草は、「君は日本人でありながら日本人ではない。中国人からは受けがいいが、日本人は君をひどく嫌っている。したがって上海退去を命令する」というのであった〉(『自伝 米沢そんぴんの詩』)
木村は帰国の準備を始めた。すると、第四課長となった辻政信が木村に面会を求めてきたのだ。辻は木村に上海に留まるよう求めた。その理由は二つあった。一つは、木村に日中両国人の間に入って諸々の問題の調整役を引受けてほしいということだった。もう一つの理由は、日本軍百万の将兵のために食糧、特に米を手に入れてほしいというものだった。木村は次のように述べている。
「辻大佐は、私に出ている退去命令を何としても取消させる、という。どうしても私が必要なのである。中国商人にうんと言わせるためには私を上海にとどめておくしか方法がないことを、大佐は熟知していたのであった。大佐は陸軍の幕僚の中では切れ者で知られ、かつては東条軍閥を支持した主戦派の一人であったが、のちには石原思想に感化され、私たちの東亜連盟運動に深い理解をみせていた男である。私は彼のためにひと肌脱ぐことにやぶさかではなかったから、その申し出を引受けたのであった。
私の呼びかけに応じて、上海のキャセイ・ホテルに八十数人の米穀業者が集まってきた。今や一人の米業者も不在だといわれた当時の上海で、である。米業者たちを動かしたのは私と関係の深かった紡績業者たちであった。その結果、私にとっても、ましてや当時の日本軍にとっても信じられぬほどの米、実に六十万トンが集められたのであった。自分たちの恩人である木村さんを助けよう、その木村さんの兄貴分が困っているのだから、敵も味方もない、何とか策を講じてやろうというのが彼らの考えなのだ」
木村武雄自身はこのように書いているが、木村莞爾氏によると米穀業者の協力は汪兆銘の号令によって得られたのだという。
石原莞爾の魂と戦後政治—木村武雄の生涯②
■「田中さんの人柄に惚れてしまった」
木村武雄は『自伝 米沢そんぴんの詩』で田中を信頼するようになった経緯について述べている。昭和四十五年十一月の山形市長選挙で、社会党などが支持する現職の金沢忠雄に対して、自民党は本田権之助を擁立した。しかし、「本田劣勢」が伝えられていた。そこで山形県県連会長を務めていた木村は、本田勝利を目指して知恵を絞り、山形大学の医学部設置案に目をつけたのだ。木村は次のように振り返る。
〈選挙の直前、東北、北海道の自民党大会を山形県体育館で催す段取りをし、党の三役を担ぎ出した。田中幹事長には事前に「今度の大会は実は市長選のためで、大会で医学部設置の陳情があるので、そのときは、いやだなどと選挙の妨害になるようなことはいわないでほしい」と頼んでいた。役人出身者はこの種の頼みには、決してうんといわないが、田中さんは野人出身である。「よかろう」と返事をしたのである。
大半が山形市の人で、一万人以上の大集会がはじまり、本田市会議員候補が「県民の要望、山形大学に医学部の設置を実現してほしい」と決議を出した。田中さんが立ち「党の三役揃いぶみでこのことを預かり、必ず実現させましょう」と演説した。ほォ、田中という人物は約束を守る男だな、とそのとき思った〉
市長選で本田は落選、木村は医学部設置を諦めかけた。しかし、医学部設置は山形県にとっては大切な問題だと考え直し、医学部設置を実現しようとした。しかし、文部省は一切受けつけず、大蔵省も文部省の要求のないものは了解できないとの姿勢を示した。そこで木村は田中に再び頼み込んだのだ。
〈私は再度田中さんに「長い政治生活にこんなことでケチをつけられたくない。困難なのはわかっている。そこを押して頼む」と強く要望した。
田中さんは私の熱意に負けたのであろう。「わかった、文部省が認めないのなら党の決議案として提出してやろう。そのかわり、これをきっかけに予算編成が大蔵省から党中心になるぞ」という話になった。それを知った大蔵省と文部省は了解をし、無事、山形大学医学部設置案が通ったのである。
私は前にも増して田中さんの人柄に惚れてしまった。そのとき、よし、次期総理に田中さんを担ごう、と初めて決心したわけである〉
佐藤栄作の意中の人物は、田中角栄ではなく福田赳夫だった。だが、佐藤派の木村は田中擁立に動いたのだ。その目的は日中国交正常化にあったのだ。
政府の覇道主義的傾向を戒めた石原莞爾─「東亜連盟建設要綱」
明治期のわが国においては、興亜論、アジア主義が台頭した。アジア諸民族が連携して欧米列強の侵略に抵抗しようという主張であり、欧米の植民地支配を覇道として批判するものだった。しかし、国家の独立を維持するためにわが国は富国強兵を推進し、列強に伍していかねばならなかった。その結果、日本政府の外交は覇道的傾向を帯びざるを得なかった。
そのことを在野の興亜論者たちは理解していた。ところが、やがて在野の興亜論者たちも政府の政策への追随を余儀なくされていく。こうした中で、その思想を維持した興亜論者もいた。例えば石原莞爾である。彼が率いた興亜連盟は、戦時下にあってもその主張を貫いていた。大東亜戦争勃発後に改定された「東亜連盟建設要綱」は以下のように述べている。
〈明治維新以来、他民族を蔑視し、特に日露戦争以後は、急激に高まれる欧米の対日圧迫に対抗するため、日本は已むなく東亜諸民族に対して西洋流の覇道主義的傾向に走らざるを得なかった結果、他の諸民族に対する相互の感情に阻隔を来したのは、躍進のための行き過ぎであり、日本民族の性格からいえば極めて不自然のことである。日本民族が、国体の本義に覚醒し、かつ国家連合に入りつつある時代の大勢を了察するならば直ちにその本性に復帰すべく、東亜諸民族の誤解を一掃することは、極めて容易であると信ずる。そうなれば一つの宣伝を用いることなく、東亜諸民族が歓喜して天皇を盟主と仰ぎ奉ること、あたかも水の低きに流れるが如くであろう。
しかし、遺憾ながら東亜諸民族が心より天皇を仰慕することなお未だしとすべき今日、日本は東亜大同を実現する過程に於て、聖慮を奉じて指導的役割を果す地位に立つべき責務を有する。ただしこの指導的地位は、日本が欧米覇道主義の暴力に対し東亜を防衛する実力を持ち、しかも謙譲にして自ら最大の犠牲を甘受する、即ち徳と力とを兼ね備える自然の結果であらねばならぬ。権力をもって自ら指導国と称するは皇道に反する。(中略)
今や大東亜戦争遂行過程にあり、我が国民が急速に英米依存を清算して、肇国の大精神に立帰りつつあることは、誠に喜ぶべきところであるが、ややもすれば時勢の波に乗じて、軽薄極まる独善的日本主義を高唱するものが少なくない。
天皇の大理想を宣伝せんとする心情やよし。しかれども日本自らが覇道主義思想の残滓を清算する能わず、外地に於ては特に他民族より顰蹙せられるもの多き今日、徒に「皇道宣布」の声のみを大にするは、各民族をして皇道もまた一つの侵略主義なりと誤解せしめるに至ることを深く反省すべきである。「皇道宣布」の宣伝は「皇道の実践」に先行すべきでない。〉
「自ら日本国を東亜の盟主と称するは断じて聖旨に副い奉る所以ではない」─「東亜連盟建設要綱」(昭和18年6月)
在野の興亜論者たちは、アジア諸民族が対等の立場で協力するという理想を追求し続けた。「東亜連盟建設要綱」(改定版 昭和18年6月)にもそれは明確に示されている。同要綱は、次のような章立てとなっている。
序篇 大東亜戦争と東亜連盟
第一篇 東亜連盟の理念
第一章 東亜連盟の名称
第二章 東亜連盟の範囲
第三章 連盟の指導原理
第四章 連盟結成の基礎条件
一、国防の共同 二、経済の一体化 三、政治の独立 四、文化の溝通
第五章 連盟の統制
第六章 東亜連盟の盟主
第二篇 東亜連盟の各国家
第一章 日本皇国
一、国防の担任 二、経済建設の指導 三、国內に於ける民族問題
第二章 満洲帝国
一、満洲国独立の理由 二、満洲国の責務 三、独立の完成
第三章 中華民国
一、支那事変の処理及び中国の連盟加入 二、中国当面の国內問題 三、独立の完成
第四章 南方諸国
一、南方開発の根本方針 二、南方統治に就いて
特に筆者は、「東亜連盟の盟主」の次の一節に注目している。
明治維新は封建制度を打破して民族国家を完成するのが、その政治的目標であった。国内の諸問題については世界史上無比の輝かしき成果を挙げ得たのであるが、一面他民族、特に東亜諸民族に対しては、勢の赴くところ徒に軽侮の悪風潮を生じ、安価な優越感をふりまわし、台湾・朝鮮の統治および満州国の建設に於て、文化の急速なる発展に大なる寄与をなし、諸民族を幸福とせることは否定し難きに拘らず、東亜諸民族の民心把握はむしろ失敗し、今なお漢民族を挙げて抗日に動員せられている現状である。
東亜連盟の結成をその中核問題とする昭和維新のため、我等は先ずこの事実を率直に認めることが第一の急務である。 続きを読む 「自ら日本国を東亜の盟主と称するは断じて聖旨に副い奉る所以ではない」─「東亜連盟建設要綱」(昭和18年6月)
松本健一先生の御冥福をお祈りします
松本健一先生が平成26年11月27日に亡くなった。残念でならない。
『月刊日本』(12月号)掲載の「いま北一輝から何を学ぶか 下」(古賀暹氏との対談)が最後となってしまうとは……。
この対談は9月下旬にやっていただいた。そのとき、げっそり痩せられていたので、体調についてお伺いしたところ、「潰瘍を切ったばかりでまだ調子が悪い。外では食事ができない」と仰っていた。それでも、古賀氏と約3時間にわたって気迫に満ちた対談を展開していただいた。
『月刊日本』では10月号から新連載「天下に求めて足らざれば、古人に求めよ」もスタートしていただいた。ところが10月末に、「まだ体力が回復していないので12月号(11月10日締め切り)は休ませていただきたい」とのご連絡を頂戴していた。亡くなる一週間前に「体調はいかがでしょうか」と手紙を書かせていただいた。お返事がないので、お電話しようと思った矢先に訃報が飛び込んできた。ショックだった。
もう30年ほど前、自分が学生の頃から、松本先生の『若き北一輝』『出口王仁三郎』『大川周明』などを読んで、アジア主義や近代史に目を開かせていただいた。心よりご冥福をお祈りします。
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「日本海側からの興亜思想 明日のアジア望見 第82回」『月刊マレーシア』509号、2010年5月16日
北海道大学教授の松浦正孝氏による千頁を超える大著『「大東亜戦争」はなぜ起きたのか』(名古屋大学出版会)は、戦後の日本企業による海外での大規模な開発プロジェクトは、海外進出型のアジア主義の姿を変えた再現であるとし、戦後、東南アジア開発基金構想を唱えた中谷武世らや、土木事業コンサルタント会社日本工営を設立し、アジア各国の水力発電所建設を手掛けた久保田豊らを具体的事例として挙げている。
一方、松浦氏は内需拡大型の公共事業にもアジア主義の継承を見出し、農村への工場誘致を含む田中角栄の大規模な国内公共土木工事は、歴史的に見れば石原莞爾の発想を引き継いだものだと指摘した(同書、八百五十四頁)。
民族協和の理想に基づいた東亜連盟を目指した石原莞爾は、「都市解体、農工一体、簡素生活」の三原則により、人類次代文化に先駆する新建設を断行すべきだと強調していた。 続きを読む 「日本海側からの興亜思想 明日のアジア望見 第82回」『月刊マレーシア』509号、2010年5月16日