日中国交正常化で重要な役割を果した廖承志の周囲には建国大学出身者がいた。
建国大学は昭和十三年五月に、満州国の首都・新京に設立された。石原莞爾と板垣征四郎の「アジア大学」構想に端を発している。出身者には、次のような人物がいる。
高狄(人民日報社長)
陳抗(中日友好協会副会長、駐札幌初代総領事、マレーシア大使)
李孟競(中日友好協会理事、駐日大使館開設時の書記官)
許宗茂(中国外交部亜細亜局日本処副処長)

早稲田大学名誉教授の木村時夫氏の「松村謙三先生の真面目」(『松村謙三先生二十年祭記念講演録』)には次のように書かれている。
「廖承志の部下として、日中友好に努めている人は意外に嘗ての建国大学の出身者が多いのです。そして日本語に非常に通じて居る人が多いのであります」
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日中関係の鍵を握る「孫文会」(『維新と興亜』第26号)
「日本と中国が同じ青写真を持たなければなりません。持たなければ又二十数年前の日中戦争をくり返す危険があるからです。その共通のアジア政策を作るものは、共通の思想運動、たった一つのものが孫文会なのであります」
王道アジア主義者・木村武雄が昭和四十六(一九七一)年十一月に「日中米三角関係の政治展望」と題して行った講演の中の言葉である。筆者は『木村武雄の日中国交正常化─王道アジア主義者・石原莞爾の魂』で、木村が日中国交正常化を使命として動いた背景に石原莞爾の王道アジア主義があったことを指摘した。そして、日中の国交を正常化させる際に、重要な意味を持ったのが、日本の在野の志士と孫文が王道アジア主義を共有した歴史である。しかも、孫文思想の共有は中台関係安定化の礎ともなりうる。
戦前、木村は石原莞爾の思想に共鳴し、東亜連盟協会を設立、王道アジア主義の旗を掲げて活動した。戦後、木村は日中国交正常化を模索した。昭和三十九(一九六四)年九月に訪中し、中国建国十五周年記念式典に参加、陳毅外交部長と会談した。木村と陳毅の間で、日中国交正常化についての議論が交わされた可能性もある。帰国後、木村は日中国交正常化への思いを次のように語っている。
「日本と中国は両方が好きだから嫌いだからといって如何ともすることが出来ない間柄です。日本は中国を嫌いだからといって、アメリカに引越すわけには参りません。中国が日本を嫌いだからといって、ソ連に引越すわけにも参らない隣り同志なのであります。
その隣り同志が、これから何年間、何十年間、否何百年間対立抗争してお互いにいがみあっておる苦痛よりは晴れやかに手を握って進む事がどれほど幸福だが知れないのであります。本当にこの隣り同志が平和のために手を握りあって古い文化に根ざして新しい時代に貢献してゆく、世界を道徳国家の競争へと導くために、世界一家をつくるために手を握って努力してゆく、これがこれからの日本の政治の方向ではなかろうかと私は思っております」(木村武雄『世界を動かす巨人に会って・中共を視察して祖国日本を想う』昭和三十九年十二月)
木村は、当初佐藤栄作総理を動かして日中の国交を正常化しようとした。そのために、佐藤の自民党総裁四選を敢えて支持した。昭和四十七年七月のインタビューで木村は次のように述べている。
「(佐藤四選に)保利(茂)くんも反対、そういう中でわたしと川島(正次郎)さんは四選すべしと訴えた。
なぜそうしたかと言うと、あの当時、佐藤体制というものは、日本の憲政史上を通じて最強だったわけです。……この強固な体制を利用して、国家的な事業をやらそうというのが、川島さんとわたしの考えだったんですよ」
ここで木村が語った「国家的な事業」とは何か。彼は次のように続ける。
〈日中と日ソの改善をやらせようとした。わたしが四選、四選と言うとるときに、佐藤総理が「お前はおれに四選してなにをやれと言うのか」ときくから、内政は保利くんにまかせて、あんたは外交をやれ。中国とソ連を相手にして男らしい外交をおやんなさい。そのために四選してほしいと言ってるんですよ、と話したんです〉(『週刊文春』昭和四十七年七月三十一日号)
一方、昭和四十六年七月十五日、ニクソン大統領は中国を訪問すると発表した。これを受け、木村をはじめ自民党議員の間でも日中国交正常化を急ぐ必要があるとの考え方が強まった。 続きを読む 日中関係の鍵を握る「孫文会」(『維新と興亜』第26号)