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過度の「日本的」思想と一線を画す(大川周明─王道アジア主義への回帰)

 大川周明は、昭和十八年の時点で東條政権の覇道アジア主義を批判し、王道アジア主義への回帰の姿勢を鮮明にしていた。その際、大川はアジア諸民族が正しく日本を理解することを切に願っていた。大川は昭和十八年九月に執筆した「亜細亜的言行」で次のように説いている。
 〈アジアの諸民族は、決して正しく日本を理解していない。支那人と言わずインド人と言わず、彼らが密室において互いに私語するところは、日本人の面前において声高らかに揚言するところと、甚だしき表裏懸隔がある。吾らは、外交官の新任挨拶の如き空々しき美辞麗句を彼らと交換して、いつまでも自ら安んじ自ら慰めていてはならぬ。大東亜戦争は日に苛烈を加えつつある。この戦争に善勝するためには、アジア諸民族が正しく日本を理解し、積極的に日本に協力することを必須の条件とする。
 アジアの諸民族をして正しく日本を理解せしめ、積極的に日本に協力せしめるためには、日本民族はアジア的に自覚し、アジア的に行動せねばならぬ。然るに今日の日本人の言行は善き意味においても、悪き意味においても、余りに日本的である。儒教や仏教をまで否定して、独り『儒仏以前』を高調讃美する如き傾向は、決してアジアの民心を得る所以ではない。
 日本民族は、拒むべくもなき事実として、自己の生命裡に支那およびインドの善きものを摂取して今日あるを得た。孔子の理想、釈尊の信仰を、その故国においてよりも一層見事に実現せるところに日本精神の偉大があり、それゆえにまた日本精神は取りも直さずアジア精神である。日本はこの精神を以てアジアにはたらかねばならぬ。徙らに『日本的』なるものを力説しているだけでは、その議論が如何に壮烈で神々しくあろうとも、アジアの心琴に触れ難く、従って大東亜戦争のための対外思想戦としては無力である。希くは国内消費のためのみでなく、大東亜の切なる求めに応ずる理論が一層多く世に出でんことを〉
 ただ、大川と東條政権との関係は維持されていたようだ。昭和十八年十一月、大川は大政翼賛会興亜総本部から「興亜使節として上海と南京に赴き、講演する」ことを依頼され、それを引き受けているからだ。翌十二月三日、大川は上海に入った。
 上海と南京での講演内容は未だ判明していないが、「亜細亜的言行」に沿ったものであったのではないか。注目すべきは、講演を控えた十二月五日に、大川が東亜連盟協会の木村武雄と面会していたことである。
 木村の師石原莞爾と大川には深いつながりがあった。戦後、大川は石原について次のように書いている。
 〈前途の多難一層なるべき日本のために、是非生きて居てほしかったと思う人々の中で、第一に私の念頭に浮ぶのは石原莞爾将軍である。……大西郷や頭山翁の如きも、やった仕事を一々漏れなく加算して見ても、決してその面目を彷彿させることができない。この場合でも、人間の方が常にその仕事よりも立派なのである。かような人物は、その魂の中に何ものかを宿して居て、それずその人の現実の行動を超越した或る期待を、吾々の心に起させる。言葉を換えて言えば、その人の力の大部分は潜在的で、実際の言動に現れたものは、唯だ貯蔵された力の一部にすぎないと感じさせるのである。それ故に吾々は、もし因縁が熟するならば、何等か偉大なる仕事が、屹度その人によって成し遂げられるであろうという希望や期待を、その人に対して抱くのである。見渡したところ、今日の日本に斯様な人物は極めて稀であるが、石原将軍はその稀有なる人物の一人であった〉(「二人の法華経行者」昭和二十六年)
 大川の王道アジア主義への回帰は、石原莞爾の影響だったかもしれない。いずれにせよ、興亜使節として上海に派遣された大川が木村武雄と面会していた事実は非常に興味深い。石原同様、木村は東條政権にとって極めて厄介な存在だったからだ。
 木村武雄は東條の覇道アジア主義に抵抗していたが、いよいよ弾圧が厳しくなり、軍務局の永井八津次大佐の示唆で、昭和十七年九月に上海に渡っていた。木村はチャイナタウンの一角に拠点を置いた。当時、上海では、紡績工場の機械や製品が日本軍に掠奪されていた。また、浙江財閥要人が日本兵によって拘束されていた。木村は、軍と交渉し、掠奪品の返還と浙江財閥要人の貰い下げに奔走したのである。やがて、木村の拠点は「木村公館」と呼ばれるようになり、王道アジア主義の牙城となった。しかし、昭和十八年夏になると、現地陸軍部部長が木村に対して退去命令を突きつけてきた。木村は帰国を決心したが、その直後、辻政信大佐が報道部長の三品隆以中佐を通じて木村に面会を求めてきた。
 辻は、二つの要請を木村にした。(一)日中両国人の間に入り、もろもろの問題の調整役を引き受けてほしい、(二)日本軍百万の将兵のために食糧、特にコメを手に入れてほしい──。現地自給の日本軍は、もはや中国人から食料を金では買えなくなっており、掠奪、収奪の策も残されておらず、食料危機に陥っていたのだ。
 辻は、「あなたに出ている退去命令を何としても取消させるから、協力してほしい」と頭を下げた。木村は辻の申し出を引き受けることにした。そして、木村は辻の要請に見事に応え、終戦間際まで上海に留まることになるのだが、この微妙な時期に大川は木村と上海で会談していたのである。

石原莞爾の民族協和主義①

 ちょうど五十年前の昭和四十七年、田中角栄は日中国交回復に動いた。それを支えたのが元帥と呼ばれた男・木村武雄である。日中国交回復を使命と定めた木村の原点には、師・石原莞爾の民族協和主義があった。
 昭和十六年三月、石原は京都の十六師団長を最後に、現役の軍職から退いた。当時、「石原退職の原因は、木村が石原将軍擁立の政治運動をやったことだ」という噂も流れていた。そこで木村は、謝罪もかねて石原を京都の師団長官舎に訪れたのだ。その時、石原は木村に次のように語ったという。
 「今までの日本人は、民族独善主義の道を歩いて来た。そしてその結果、日清戦争・日露戦争にも勝ち、更に第一次大戦でも勝利して、日本は世界の三大列強の一つになる事が出来た。然し日本が満州問題に発言して以来、日本の民族独善主義は完全に民族協和主義に変ってしまったのだ。それで民族協和主義に徹しなければ、これからの日本は成り立たない。これからの日本は役に立たなくなるんだ」
石原莞爾木村武雄著『師・石原莞爾先生』
 では、なぜ民族協和主義に変わったのか。石原は次のように語った。
 「日本人は、日本と云う島国に住んでおる時代は民族独善主義でも良かったけれども、日本が大陸に発言して満州に新しい国造りをやってからは、完全に民族協和主義になってしまった。そうならざるを得なくなったのだ。それ以前には、朝鮮半島に新しい日本国を建設して、朝鮮民族と日本民族で手を携えて朝鮮内外の場所で、お互いが仲良くなるよう努力したが、その時にはまだ民族協和主義に日本は徹していなかったのだ。
 その証拠には、日本が朝鮮半島で教育を指導するようになったが、その教育を通して、朝鮮民族の使用しておった朝鮮語は使わせないようにした。朝鮮語を教えないようにして日本語だけで朝鮮民族の教育をやった。これをみても、その時代の日本は、やはり日本民族の独善主義がそのままその時代まで横行しておったと思う。ところが、日本が一度満州に足場を造って、そこで満州問題について日本が発言するようになってからは、民族独善主義では通らなくなった。それで民族協和主義に変ったのだ。なぜかと申せば、満州には在来の先住民族として蒙古人が住んでおる。そこに満州民族がどっとおしかけてきて、満州民族も住むようになった。更に漢民族も多数住みつくようになった。それに西の方からはロシア人がやって来て住むようになり、東の方からは朝鮮民族がやって来て住むようになり、そこにまたまた日本人が、日清日露戦争以来、特に日華事変以来やって来て住みつくようになってからは、六族が満州に住むようになった。そこで六族が相共に協和しなければ満州国と云うものを育成、強化する訳にはゆかなくなったのだ。それ以来、日本人は民族独善主義をかなぐり捨てて、民族協和主義を掲げざるを得なくなったのだ」
 この話を聞いて、木村は民族協和主義が日本にとっては必要欠くべからざるものである事を確信した。

石原莞爾と南部次郎(木村莞爾『石原莞爾』より)

 木村莞爾の『石原莞爾』には興亜の先駆者・南部次郎とその子・襄吉と石原の関係が詳しく記述されている。
 〈襄吉の厳父南部次郎が中国に渡ったのは明治六年であるから、副島に先立つこと二年である。彼は、盛岡南部藩主の分家に生まれ、幼にしてその英才を買われて十八歳で藩の執政になったといわれているから、よほどの傑物であったに違いない。だが気骨が禍いして藩主の忌諱に触れ、閉門を仰せつけられている間に照井小平の門をたたたいた。照井は中国人章炳麟が当代随一の中国通と激称しただけに、彼に中国問題を教えられて南部は感奮興起した。
南部次郎
 明治二年、廃藩置県で南部藩主の利恭が藩知事となって、彼を大参事に抜擢したが、彼はそれを蹴って中国に赴き、一年余で突如帰国して、征台事務総裁の西郷従道に面接し、「中国は所詮は満州から中国本土に攻め入った清朝のものではない。漢民族の民族意識が鬱勃として勃興しつつある今日、早晩漢民族の革命が起こるに違いない。その際、自分は、南部藩士五百名を引率してその革命に参加するつもりである。」と中国の大勢を説いた。二度目は藩士佐藤昌介、藤森主一郎を同伴し、決意して上海に渡った。台湾問題の最後的解決に乗り出した大久保利通が、五十万元の賠償金を得て問題を妥結し、神奈川丸で帰国する途上、これに便乗した南部は大久保に「清朝政府には聖人の訓えがすたれてアジアの連帯感はなくなった。故に地に堕ちた王道を回復して、日華の提携を計るには革命以外にはない」と熱心に説いた。大久保は彼の言に耳を貸しても、無謀な計画には賛成しないで、それを差し止める方法として、彼を内務省四等属に任命したが、そんなことで決意をかえる彼ではない。
 彼は明治九年一月、新たに支那公使となった森有礼を説いて、藩士金子弥兵衛を実費留学生として北京に留学させ、自らは参謀黒田清隆に談判して官費で北京に渡り、金子、伊集院らと交わりを深くして、上海の佐藤、藤森らと連絡をとりながら清朝政府の転覆を画策した。
 十三年七月、南部は帰朝命令をうけてやむなく帰国したが、十五年、今度は外務卿井上馨の密命で三度、中国に渡った。そして清朝第一の重臣李鴻章らと盛んに交遊して十六年帰国した。井上は、南部の進言により芝罘(チーフー)に領事館を置くことにして、初代領事に南部を任命した。
 この時、彼は四十九歳である。彼は芝罘で領事館を根城に中国の同志を集め、革命を力説して、ここで畠山三郎、白井新太郎らの青年を育成した。
 明治十八年二月、仏国クレーベル総督が澎湖島を占領して、北上して天津を衝き、清朝政府に圧迫を加えた。この時、福州にいた同志の陸軍中尉小沢豁郎が、好機到れりと、南部に檄を飛ばして、「われは福州で兵を挙げん。君は芝罘で蹶起せよ」と連絡した。南部は、この蹶起には反対だったので、同伴して福州で小沢にその暴挙を中止させた。これが陸軍当局の耳に入って、小沢は馘になるところだったが、商部は福島安正大佐に頼んで香港転任で事無きを得た。が、こうして政府と関係なしに独自で動く南部の処遇に困った政府は、とうとう十六年十一月、彼を日本に召還した。
 この命令に接した彼は長崎から辞表を郵送して、十八年九月東京に帰った。彼は〈中国を改造するには、先王の道を明らかにすれば足りる。必ずしも革命を必要としない。権謀はやむを得ずやったことで、もとより善なるものではない〉として、爾後中国革命を断念し、五十一歳で閑雲野鶴を友とし、花を鑑賞し絵を描き、囲碁を楽しみ、清貧に安んじて、後事を襄吉に託そうとした。襄吉は石原の偉才を父に紹介し、石原は南部から、日華提携の真義を会得した〉

連載「石原莞爾の理想を体現した男・木村武雄①」(『通信文化新報』)

令和4年1月から『通信文化新報』で連載をさせていただくことになり、10年以上前からの宿題であった「石原莞爾の理想を体現した男・木村武雄」をスタートした(令和4年1月31日付)。木村武雄の取材では、彼の次男で山形県議会議員を務めた木村莞爾氏と、その長男で同県議会議員の木村忠三先生に大変お世話になっている。

連載「石原莞爾の理想を体現した男・木村武雄①」(『通信文化新報』)

石原莞爾の理想を体現した男・木村武雄①

 「今、日本の東亜連盟の同志はどうしていますか」
 昭和47(1972)年に日中国交正常化が実現する数年前、周恩来首相は自らを訪ねてきたある日本人にこう語ったという。周恩来を訪ねた男の名は木村武雄。「元帥」と呼ばれた男である。
 彼は戦前、石原莞爾の思想に基づいて自ら東亜連盟協会を結成した人物であった。知日派であった周恩来は、そのことを良く調べ上げていたのだろう。木村は、石原が残した民族協和の理念、そして都市文明解体後の文明の在り方の理想を保持し続けていた。そんな木村が戦後情熱を燃やし続けたのが、「日中国交の回復」であった。木村は、石原の理想、東亜連盟の理想を戦後政治で生かすためには、日中国交回復が必要だと確信していたのだ。
 木村は、明治35(1902)年に山形県米沢市で生まれた。明治大学を卒業後、米沢市議、山形県議を経て昭和11(1936)年の衆議院議員総選挙で初当選した。戦後、マッカーサー指令により公職追放となったが、昭和27(1952)年4月に解除となり、同年10月の総選挙で衆議院議員に返り咲いた。
 戦後の日本外交は東西冷戦によってその自主性を縛られていたが、木村は対米追随外交を批判し、日本がどの国とも対等に話し合える関係を築くことを目指していた。木村は早い時期から、インドネシアなどの東南アジア諸国との関係強化を主導しつつ、日中の橋渡し役を演じていたのである。
 石原は「我らは東方道義をもって東亜大同の根抵とせねばならぬ。幾多のいまわしい歴史的事実があるにせよ、王道は東亜諸民族数千年来の共同の憧憬であった。我らは、大御心を奉じ、大御心を信仰して東亜の大同を完成し、西洋覇道主義に対抗してこれを屈伏、八紘一宇を実現せねばならない」と訴えていた(『戦争史大観』)。木村の世界観は、まさにこの石原の世界観を引き継いだものであった。
 「石原の理想を戦後政治に体現する」。これが木村の確固たる信念だったのである。木村は昭和39(1964)年9月に訪中し、陳毅外交部長と会談した。やがて、木村は「日中国交正常化をが実現できするのは佐藤栄作政権しかない」と考えるようになった。木村は、佐藤を領袖とする周山会の事務局長を務めていた。昭和45年に佐藤の自民党総裁四選を木村が支持した際、佐藤は木村に「お前は俺に四選して何をやれと言うのか」と語った。すると木村は、「内政は保利(茂)くんにまかせて、あんたは外交をやれ。中国とソ連を相手にして男らしい外交をおやんなさい」(『週刊文春』昭和47年7月31日号)と語り、佐藤を励ましている。この頃、木村は中国を再度訪問し、周恩来首相と会談している。これが冒頭の場面である。木村と対面した周恩来首相は、開口一番「今、日本の東亜連盟の同志はどうしていますか」と尋ねたという(平澤光人『永久平和への道』)。
 この訪中に同行していたのは、木村武雄の次男である木村莞爾氏である。筆者のインタビューに木村莞爾氏はこう語った。
 〈周恩来首相は東亜連盟の話をしていました。周恩来は、木村武雄がいかなる人物かを全て調べ上げていたはずです〉
 しかし、肝心の佐藤栄作は日中国交正常化に動こうとはしなかった。そこで木村は、派閥の領主たる佐藤の意向に逆らってまで、田中角栄擁立に動くのである。田中なら日中国交正常化に踏み切る胆力があるはずだというのが、彼の見立てだったのだろう。木村莞爾氏は語る。
 〈なぜ父が田中角栄さんを総理に擁立したかと言うと、日中国交回復をさせるためですよ。父は佐藤栄作さんにそれをやらせたかった。しかし、佐藤は「笛吹けど踊らず」でした。そこで、父は田中さんを呼んで「君が総理になってくれ」と言って田中さんを擁立しようとしたのです。父と田中さんには約束があったのだと思います。「木村は田中総理誕生のために全力を尽くす。田中総理が誕生した暁には日中国交回復を実現する」という約束です〉
 昭和47年7月5日、田中は福田赳夫を破り自民党総裁に当選、翌6日、第一次田中内閣が成立した。それからわずか2カ月余り後の9月25日、田中は北京を訪問し日中国交正常化を果たした。木村がいたからこそ、日中国交正常化は実現したのである。木村の宿願が叶った瞬間であった。
 実は田中内閣で、木村武雄は国家公安委員長を拝命している。それはなぜか。木村莞爾氏は語る。
 〈父は日中国交回復を進めようとすれば、台湾との関係を重視する右翼が反対することも想定していました。だからこそ木村は、右翼を自ら抑えるために国家公安委員会委員長のポストを望んだのです〉
 木村は何としても日中国交正常化が必要だとの確信を持っていたのである。
 ところで木村武雄と田中角栄の関係は、これだけではない。新潟出身の角栄と、山形出身の武雄とは、ともに「裏日本」とも呼ばれ続けた日本海側の出身であり、地方の苦しみを身をもって知る人間同士だったのである。そうした共感が二人を結び付けた。それは角栄の「日本列島改造論」に木村が共鳴していたことにも表れている。莞爾氏は語る。
 〈田中角栄さんが唱えた日本列島改造論と石原莞爾先生の思想には、深いつながりがあります。日本列島改造論は、石原先生の都市解体論です〉
 木村は、田中の日本列島改造論に、石原莞爾の理想を投影させたのである。日本列島改造論の中には、田園都市構想があるが、その源流の一つには、石原莞爾が独自の文明観に基づいて提唱していた「都市解体」「農工一体」「簡素生活」がある。木村は、この石原の理念を堅持し続けていた。例えば木村は、昭和39年10月には、『国づくりと「農工一体論」』を刊行している。木村は、この石原の理念を日本列島改造論に注入したのだ。昭和47年7月の自民党総裁選直前に田中が刊行した『日本列島改造論』には、「農工一体でよみがえる近代農村」の一節が設けられていた。木村莞爾氏は振り返る。
 〈当初田中さんは父を建設大臣に任命しようとしていました。ところが、父はそれを固辞したのです。そこで田中さんはこう説得したのです。『木村さん、話が違うじゃないか。もともと列島改造によって東北の開発に力を入れようと言ったのはあなたじゃないか』と。この田中さんの言葉からは、日本列島改造論に父の考え方が盛り込まれていたことが窺えます。結局、父は国家公安委員会委員長と建設大臣を兼務することになったのです〉
 こうして田中角栄と木村武雄は一心同体になって政治を進めることとなったのである。
 では、木村武雄はいかにして石原莞爾の理想の体現を決意するに至ったのか。次回以降、元帥と呼ばれた木村の人生を振り返っていきたい。

石原莞爾の魂と戦後政治—木村武雄の生涯③

■木村武雄と周恩来の会見
 木村は早い時期から、日中の橋渡し役を演じていた。昭和三十九(一九六四)年十一月二十四日には久野忠治とともに訪中し、陳毅外交部長と会談している。そして、日中国交正常化の二年前の昭和四十五年にも北京を訪れ、周恩来首相と会談している。木村莞爾氏は、次のように振り返る。
 「日中国交正常化の影の主役は廖承志です。木村武雄は彼とも交流を温めてきました。昭和四十五年の訪中には私も同行しました。香港まで飛行機で行き、香港から広州へ鉄道で行き、広州から北京に飛びました。その時にアレンジしてくれたのが、当時香港副領事だった加藤紘一君です。
周恩来
 石原莞爾先生の思想を受け継いだ木村武雄は、「東亜大同」の夢を抱くとともに、我が国をどの国とも対等に話し合える国にしておかなければいけないとの考えから、日中国交回復を目指したのです。木村武雄は、それを進めようとすれば、台湾との関係を重視する右翼が反対することも想定していました。だからこそ木村武雄は、右翼を自ら抑えるために国家公安委員会委員長のポストを望んだのです。実際、右翼は騒がなかったのです。
 東亜連盟には、アウトローから左翼まで共鳴していました。例えば、アウトローでは「東声会」を結成した町井久之。左翼では、市川房枝、佐々木更三、淡谷悠蔵といった人たちです」
 平澤光人氏によると、木村と対面した周恩来首相は、開口一番「今、日本の東亜連盟の同志はどうしていますか」と尋ねたという(平澤光人「東亜連盟の理念と実践」『永久平和への道 いま、なぜ石原莞爾か』原書房)。木村莞爾氏も、「周恩来首相は東亜連盟の話をしていました。周恩来は、木村武雄がいかなる人物かを全て調べ上げていたはずです」と語っている。木村は、中国が信頼する数少ない日本人の一人だった。
 木村は東條政権に盾突き、昭和十七年四月の翼賛選挙では非推薦で当選した。しかし、東條政権からの圧力が強まる中で、木村は同年九月に上海に逃れた。木村武雄は次のように振り返っている。
 〈私は太平洋戦争の四年間を、ほとんど中国で過ごした。……軍は思い上がった一部の指導者たちを先頭に南へ北へ戦線を拡大してしまっている。この戦いを〝聖戦〟と呼ぶことを完全に否定するものではないにしても、現実にはおよそ聖戦とはかけ離れた殺戮と蹂躙とが無限にくりひろげられている。私は、この小躯をもって可能なかぎりの正義を貫いてみたいと希った。
 私は活動の本拠を上海地区においた。上海は経済の中心地であり、したがってまた日本軍による掠奪行為の最も激しかった地域である。上海の滬西地豊路のチャイナタウンの一角に、私は木村公館なるものを創始した。……私が創始した木村公館は、紡績業者、本屋といった商人たちから会社や店の顧問になってくれとかあるいは略奪から護ってくれと依頼され、そのために日本内地から私の同志、部下たちを呼び寄せて発足させたものであった。いわば中国人のための萬相談所ともいうべき組織となり、お役所(軍)への陳情、公文書や商取引証書の作成、拘留、留置者の貰い下げといったことを業としたわけだが、料金はとらず、年中無休で働いた。……ところが上海在住一年にして、今度は現地陸軍部部長からの退去命令が私に突きつけられたのである。陸軍部の言い草は、「君は日本人でありながら日本人ではない。中国人からは受けがいいが、日本人は君をひどく嫌っている。したがって上海退去を命令する」というのであった〉(『自伝 米沢そんぴんの詩』)
 木村は帰国の準備を始めた。すると、第四課長となった辻政信が木村に面会を求めてきたのだ。辻は木村に上海に留まるよう求めた。その理由は二つあった。一つは、木村に日中両国人の間に入って諸々の問題の調整役を引受けてほしいということだった。もう一つの理由は、日本軍百万の将兵のために食糧、特に米を手に入れてほしいというものだった。木村は次のように述べている。
 「辻大佐は、私に出ている退去命令を何としても取消させる、という。どうしても私が必要なのである。中国商人にうんと言わせるためには私を上海にとどめておくしか方法がないことを、大佐は熟知していたのであった。大佐は陸軍の幕僚の中では切れ者で知られ、かつては東条軍閥を支持した主戦派の一人であったが、のちには石原思想に感化され、私たちの東亜連盟運動に深い理解をみせていた男である。私は彼のためにひと肌脱ぐことにやぶさかではなかったから、その申し出を引受けたのであった。
 私の呼びかけに応じて、上海のキャセイ・ホテルに八十数人の米穀業者が集まってきた。今や一人の米業者も不在だといわれた当時の上海で、である。米業者たちを動かしたのは私と関係の深かった紡績業者たちであった。その結果、私にとっても、ましてや当時の日本軍にとっても信じられぬほどの米、実に六十万トンが集められたのであった。自分たちの恩人である木村さんを助けよう、その木村さんの兄貴分が困っているのだから、敵も味方もない、何とか策を講じてやろうというのが彼らの考えなのだ」
 木村武雄自身はこのように書いているが、木村莞爾氏によると米穀業者の協力は汪兆銘の号令によって得られたのだという。

石原莞爾の魂と戦後政治—木村武雄の生涯②

■「田中さんの人柄に惚れてしまった」
 木村武雄は『自伝 米沢そんぴんの詩』で田中を信頼するようになった経緯について述べている。昭和四十五年十一月の山形市長選挙で、社会党などが支持する現職の金沢忠雄に対して、自民党は本田権之助を擁立した。しかし、「本田劣勢」が伝えられていた。そこで山形県県連会長を務めていた木村は、本田勝利を目指して知恵を絞り、山形大学の医学部設置案に目をつけたのだ。木村は次のように振り返る。
田中角栄
 〈選挙の直前、東北、北海道の自民党大会を山形県体育館で催す段取りをし、党の三役を担ぎ出した。田中幹事長には事前に「今度の大会は実は市長選のためで、大会で医学部設置の陳情があるので、そのときは、いやだなどと選挙の妨害になるようなことはいわないでほしい」と頼んでいた。役人出身者はこの種の頼みには、決してうんといわないが、田中さんは野人出身である。「よかろう」と返事をしたのである。
 大半が山形市の人で、一万人以上の大集会がはじまり、本田市会議員候補が「県民の要望、山形大学に医学部の設置を実現してほしい」と決議を出した。田中さんが立ち「党の三役揃いぶみでこのことを預かり、必ず実現させましょう」と演説した。ほォ、田中という人物は約束を守る男だな、とそのとき思った〉
 市長選で本田は落選、木村は医学部設置を諦めかけた。しかし、医学部設置は山形県にとっては大切な問題だと考え直し、医学部設置を実現しようとした。しかし、文部省は一切受けつけず、大蔵省も文部省の要求のないものは了解できないとの姿勢を示した。そこで木村は田中に再び頼み込んだのだ。
 〈私は再度田中さんに「長い政治生活にこんなことでケチをつけられたくない。困難なのはわかっている。そこを押して頼む」と強く要望した。
 田中さんは私の熱意に負けたのであろう。「わかった、文部省が認めないのなら党の決議案として提出してやろう。そのかわり、これをきっかけに予算編成が大蔵省から党中心になるぞ」という話になった。それを知った大蔵省と文部省は了解をし、無事、山形大学医学部設置案が通ったのである。
 私は前にも増して田中さんの人柄に惚れてしまった。そのとき、よし、次期総理に田中さんを担ごう、と初めて決心したわけである〉
 佐藤栄作の意中の人物は、田中角栄ではなく福田赳夫だった。だが、佐藤派の木村は田中擁立に動いたのだ。その目的は日中国交正常化にあったのだ。

石原莞爾の魂と戦後政治─木村武雄の生涯①

■「アジアの独立と繁栄は、隣国を敵視反目する中国と日本の調整に始まる」
 石原莞爾の理想を戦後政治の中で体現しようとした男・木村武雄。彼は佐藤栄作にも、田中角栄にも直言できる数少ない政治家の一人だった。田中政権では建設大臣と国家公安委員会委員長を兼務し、石原莞爾の理想を追い求めた。
 明治三十五(一九〇二)年に山形県米沢市で生まれた木村は、明治大学を卒業し、米沢市議、山形県議を経て昭和十一年の衆議院議員総選挙で初当選した。同年、中野正剛の東方会に入党したが、昭和十四年に東方会を脱退し、東亜連盟協会を設立した。終生石原莞爾を師と仰ぎ、その理想の体現に奮闘した。
木村武雄
 令和四年一月八日、木村武雄の次男で、山形県議会議員を務めた木村莞爾氏に話を伺うことができた。木村莞爾氏は、木村が尊敬する石原莞爾から名付けられた。冒頭、筆者が「石原莞爾の理想、東亜連盟の理想が、木村武雄氏によって戦後政治にどう活かされたのかを明らかにしたい」と述べたところ、木村莞爾氏は即座に「それは日中国交の回復ですよ」と断言した。
 昭和五十二年七月五日、田中角栄は福田赳夫を破り自民党総裁に当選、翌六日、第一次田中内閣が成立した。それからわずか二カ月余り後の九月二十五日、田中は北京を訪問し日中国交正常化を果たした。
〈なぜ木村武雄が田中角栄さんを総理にしたかと言うと、日中国交回復をさせるためですよ。木村武雄は佐藤栄作にそれをやらせたかった。しかし、佐藤は笛吹けど踊らずでした。そこで、木村武雄は田中さんを呼んで「君が総理になってくれ」と言って田中さんを擁立しようとしたのです。木村武雄は田中支持の流れを作るために、政党政治研究会を立ち上げます。官僚政治には人間味がなく、管理と分配のために上から下に統制しますが、政党政治においては国民が主役であり、下から上へ民意をくみ上げようとします。佐藤総理の後継が福田さんならば、官僚政治の流れが続きます。その流れを断ち切るのが、田中総理の誕生だったのです。
 木村武雄と田中さんには約束があったのだと思います。「木村は田中総理誕生のために全力を尽くす。田中総理が誕生した暁には日中国交回復を実現する」という約束です。田中さんは外交が得意な人ではありませんでしたが、わずか二カ月余りで日中の国交を回復したんです。木村武雄がいたからこそ、それが可能だったのです〉
 木村にとって日中国交正常化は、石原莞爾の理想の体現にほかならなかった。石原は「我らは東方道義をもって東亜大同の根抵とせねばならぬ。幾多のいまわしい歴史的事実があるにせよ、王道は東亜諸民族数千年来の共同の憧憬であった。我らは、大御心を奉じ、大御心を信仰して東亜の大同を完成し、西洋覇道主義に対抗してこれを屈伏、八紘一宇を実現せねばならない」と訴えていた(『戦争史大観』)。
 石原が亡くなったのは、昭和二十四年八月十五日。木村は遺骨を分骨して郷里米沢に持ち帰って埋葬した。それから二十二年後の昭和四十六年八月十五日、埋葬した記念として、御成山に記念碑を建立した。木村が書いた碑文には、次のように書かれている。
 「先生の歴史は昭和六年九月十八日の満州事変と満州建国に要約し得るが、その中に包蔵された先生の思想はこの歴史よりも遥かに雄大で、岡倉天心のアジアは一なりの思想、孫文の大アジア主義と軌を一にする東亜連盟から世界最終戦争論にまで発展する。その総てが世界絶対平和を追求する石原先生の革命思想の発露である。
 岡倉天心は明治二十六年七月、中国に渡って欧州列強の半植民地政策による貧困と苦痛をつぶさに観察して足を印度に延ばし、詩聖タゴールと交ってヨーロッパの繁栄はアジアの恥辱なりと喝破してアジア復興をアジアの団結に求めて印度を追放されたのも、孫文が日本に亡命してアジア主義を提唱して中国の独立を日本の援助に托したのも、石原先生が満州を建国して東亜連盟に踏み出したのも、その真情は総じてアジアの解放にある。
 先生はアジアを直視して、アジアの独立と繁栄が、隣国を敵視反目する中国と日本の調整に始まるとした。そして先の両国の中間にあたる満州に日華民族の協和する王道楽土を建国し、これを橋梁として多年抗争する両国を東亜連盟で結んで欧米勢力と対決して人類歴史の前史を最終戦争の勝利で締めくくり、かくて世界絶対平和の後史をアジア人の道徳を中心として建設せんとした」
 木村はこの石原の精神を自ら体現することを誓ったに違いない。