我妻栄編『日本政治裁判史録 明治・前』(昭和四十三年)は、明治四年の愛宕通旭事件と久留米藩の反政府運動との関係について次のように述べている。
〈これには高知藩脱藩堀内誠之進が関係している。堀内誠之進は、さきに、大村益次郎を襲撃した刺客らと交わりがあつた。のち、攘夷を夢みて久留米に走り、古松簡二とともに、熊本の高田源兵衛を説いて山口藩兵隊の指揮に当らせようと画策している。さらに堀内は東上し、比企田源二の宅へ逗留し、愛宕にも面識を得ている。この折、愛宕一党の策士、柳河藩の古賀十郎にも会つて、陰謀計画の議に与つている。従つて堀内の行動からは、山口敗兵・久留米藩士・高田源兵衛・愛宕一党の間に、ある程度の人的関連があつたことは明らかである。けれども、それぞれ各党には独立した成立原因があつて、連繋行動をとるまでには至つていない〉
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外山光輔事件の概要─『日本政治裁判史録 明治・前』より
明治四年の外山光輔事件について、我妻栄編『日本政治裁判史録 明治・前』(昭和四十三年)に基づいて、整理しておきたい。
外山は愛宕と同様、西京である京都の凋落に強い不満を抱いていた。そして彼は、西洋風俗が日々各地へ流入し、物価が高騰し、国民生活が困窮していく状況を嘆き、そうした事態を招いた原因を新政府の開国政策に求めた。彼は、先帝孝明天皇が攘夷主義であったと信じ、彼もそれを信奉していた。開国派が幼帝を奉じて西洋化政策を推進し、西洋主義者が次々と新政府に登用されていくにもかかわらず、国粋派の意見が採用さない状況に憤っていた。「言路洞開」(上層部が下層部の意見をくみ取り、意志の疎通を図る)も有名無実であると考え、ついに現状変革を志すに至った。
外山の同志となったのが、外山家家令・高田修、日吉神社神官の息、生源寺敬之らである。明治三年冬、青蓮院宮の家臣であった儒者・三宅瓦全が、外山家を訪れ、外山と時世を論じた。この時三宅は、「十津川郷士や阿波藩士らが、高野山を本拠として事を謀っており、彼らは天皇が鹿児島へ御幸するとの風聞に基づいて、御幸の途中を襲って鳳輦を奪い、天皇を西京に連れ帰ろうとする」動きがあると語った。外山はこの情報に関心を示し、高田とともに、情報の出所である阿波藩士・木下藤吉に面会し、事の真偽を確かめている。 続きを読む 外山光輔事件の概要─『日本政治裁判史録 明治・前』より
愛宕通旭事件の概要─『日本政治裁判史録 明治・前』より
明治四年の愛宕通旭事件について、我妻栄編『日本政治裁判史録 明治・前』(昭和四十三年)などに基づいて、整理しておきたい。
明治二年三月、天皇が東京へ再幸されてから、京都は次第に凋落し始めた。これに京都府民の不満が高まっていた。国学者・比企田源二も、この状態を黙視できなかった。しかも、全国各地で新政府の施政に対する不満の声が起こっていた。
そこで比企田は、東京に行き、新政府の政策を非難する建言を行おうと考えていた。そして、建言が採用されない場合には、兵力をもって天皇を西京へ連れ帰り、その上で政府を変革する企てを断行しようと画策していたのである。
彼は、「国家ノ大基礎今以御確定ニ不被為至故、人心方向ヲ失シ、所々ニ一揆蜂起イタシ、殊ニ西京ハ追々疲弊イタシ、下民ノ難渋見ルニ難堪次第故、同志ノ者申合東京ヘ罷出、見込ノ趣建言イタシ、若シ御採用無之節ハ、不得止兵カヲ以テ闕下ニ迫り御鳳輦ヲ西京へ奉迎、弊風ヲ除キ御政体ヲ一変可致……」と語っていた。
この比企田の企てに参加したのが、愛宕通旭であった。愛宕は新政府に登用され、神祇官判事に任じられていたが、明治二年五月に職を免じられ、京都へ帰った。そこで、比企田に師事し、国学を学んだのである。
受宕は、「華族ハ柔弱・遊惰ニ流レ、更ニ憤発ノ気モ無之間、屹ト輦轂(天子の乗り物)ノ下ニ於テ尽力可致、徒ラニ歳月ヲ送り候ハ有志ノ恥ル処」と語っていた。 続きを読む 愛宕通旭事件の概要─『日本政治裁判史録 明治・前』より
「明治四年國體派排除事件」の背景② 士族反対派政権樹立につながる「脱隊騒動」
石井孝氏は、「脱隊騒動」がはじめから全国的士族反乱の一環として計画されていたと述べ、以下のような事実を指摘する。明治二年十一月、山口藩士三名が熊本藩の飛地、豊後鶴崎に尊皇論者として著名な河上彦斎を訪い、援助を請うている。明治三年一月の常備軍檄文には、脱退の徒が「私かに肥後・久留米・柳川其外へ使者を遣し、国外ニ党を結んで不軌を謀り」とある。
大楽源太郎は明治三年三月五日、山口へ連行される途中で脱走、一時姫島に潜伏し、九州の同志と連絡をとった。大楽は三月下旬、熊本藩の飛地である豊後鶴崎に赴き、この地で藩の兵学校「有終館」を指導している高田源兵の庇護を受けた。高田は、大楽のかつての同志である。
ところが、五月には熊本藩で実学党が政権を掌握し、高田ら尊攘派に対する弾圧が強まった。その結果、大楽らは熊本に潜伏することができなくなり、竹田・日田を経て、筑後川を下り、久留米に向かった。このとき大楽が頼ったのが、久留米藩士族・古松簡二である。古松は安井息軒に師事した後、文久二年に池尻岳五郎とともに脱藩して筑波山挙兵に加わった人物である。
久留米藩の政権は尊攘派が握っていた。久留米藩では明治元年一月に、佐幕派の参政・不破美作が、小河真文ら尊攘派によって暗殺され、同年五月、尊攘派の水野正名の政権が成立していた。久留米藩政権が尊攘派だったからこそ、大楽は庇護を受けることができた。 続きを読む 「明治四年國體派排除事件」の背景② 士族反対派政権樹立につながる「脱隊騒動」
「明治四年國體派排除事件」の背景① 大楽源太郎の動向
明治4年を境にして、國體派の一部が明治新政府によって排除された背景に何があったのか。
以下、東北大学名誉教授の石井孝氏が平成5年11月に刊行した『明治維新と自由民権』(有隣堂)の記述にしたがいつつ考察してみたい。筆者は、石井氏の幕末攘夷思想の評価については異論があるが、明治4年國體派排除事件の核心に迫る材料を提供してくれていると思われるからである。
明治二年十一月、長州藩は政府の兵制改革に従い、従来の諸隊を解散し、新たに常備軍の編成を決定した。長州藩が選抜を行うこととしたところ、遊撃隊の嚮導三人が、藩に上官の弾劾書を提出、私曲不正の多い上官による選抜に反対した。これに対して、藩はこれを無視して選抜を行った。その結果、不平兵士二千人余は山口から防府方面へ脱走して反乱を起こしたのである。
石井氏は、この脱隊騒動に関する二つの見解を紹介する。一つが、士族の封建的特権の削減に反対する「反動的なもの」、すなわち一種の士族反乱とする遠山茂樹氏の説である。もう一つが、「この反乱は攘夷反動士族が指導したとはいえ、たんなる反動的暴動ではなく、人民一揆の性質を帯びていた」とする井上清氏の説(井上清『日本の軍国主義』Ⅰ)である。さらに、原口清氏・田中彰両氏は、それぞれ井上氏の見解に立って、「脱隊騒動」を具体的に分析しようと試みた(原口清「長州藩諸隊の反乱」(明治史料研究連絡会編『明治政権の確立過程』一九五六年、田中彰「明治絶対主義政権成立の一過程」『歴史評論』七十五号、一九五六年)。そして、石井氏は次のように続ける。 続きを読む 「明治四年國體派排除事件」の背景① 大楽源太郎の動向
日本人の歴史に流れる「一つの精神」─平泉澄『明治の源流』
『明治維新という過ち』、『官賊と幕臣たち』などを著した原田伊織氏によって、「明治維新という過ちを犯したことが、その後の国家運営を誤ることになった」という歪んだ歴史観が流布されている。原田氏の一連の著作は、長州に対する会津の恨みに発しているように見受けられるが、その言説が明治維新の意義を覆い隠していることは決して看過できない。
原田氏は江戸幕府体制の弊害を見つめることなく、江戸時代は平穏な社会であったと強調し、明治維新は薩長による大義なき権力奪取だったと主張する。彼の視野にあるのは、江戸と明治の対比のみであり、承久の変、建武の中興、明治維新の連続性は全く視野に置かれていない。これでは歴史に値しない。
明治維新の最大の意義は、700年に及ぶ幕府政治に終止符を打ち、天皇親政に回帰したことにある。その意義は、維新の源流に遡ってこそ明瞭になる。
筆者は、拙著『GHQが恐れた崎門学』においては、原田氏を厳しく批判したが、明治維新の意義を確認し、さらに日本人にとっての歴史とは何か考える際、極めて重要な示唆を与えてくれるのが、以下の平泉澄先生の言葉である。昭和45年4月に書かれたものである。
「歴史は、伝承であり、保持であり、発展である。もしそれ無くして、断絶があり、変易に過ぎないならば、それは厳密なる意味に於いて、最早歴史では無い。這般の道理は、精神の分裂錯乱が、人格の破滅である事を考へる時、おのづから明瞭であらう。
斯くの如く伝承を本質とする歴史の典型的なるものは、実に我が国の歴史であり、その最も光彩陸離たるものは、明治維新である。その原動力が遠く五百年を遡って建武の昔に存し、年暦を経る事久しくして却って感激の白熱化した事は、真に偉観と云って良い。
然るに建武の中興は、更に遡って承久の昔に発源し、承久と建武と明治と、一連の運動であり、一つの精神、脱然として六七百年を貫いて流れてゐる事は、一層大いなる感激で無ければならぬ。
之を理解する上に一つの障碍となるは、鎌倉、特に北条の政治を賞讃し、従って承久・建武の討幕運動を、いはれなく、勝つべき道理なしとする史論の存する事である。蓋し史伝真相を伝へず、泰時・時頼等、誤って賢人の名、善政の誉をほしいままにした為であり、一面には先哲仮託して人々の反省を求めた為に外ならぬ。
よって今本書は、短篇ながら是等の点を究めて、明治維新の源流を明かにしようとした。その時代を降るにしたがって簡略に附したのは、他に之を記述するもの、少なくない為である。前年刊行した父祖の足跡五冊と本書とは、実は相互照応するもの、願はくは聊か以て国史の理解に貢献せむ事を」(『明治の源流』はしがき」)
日本人が日本人の歴史を取り戻す上で最も重要なことは、日本人の歴史に流れる「一つの精神」であり、それを歴史に確認する際の「大いなる感激」であろう。
明治維新の意義についての大川周明の考え方─伊福部隆輝『五・一五事件背後の思想』
鳥取出身の文芸評論家・伊福部隆輝(隆彦)は、五・一五事件から2年後の昭和8年に『五・一五事件背後の思想』(明治図書出版)を刊行し、五・一五事件の背後の思想として西鄕南州、北一輝、権藤成卿、橘孝三郞、大川周明の思想を取り上げた。
伊福部は、徳川幕府に関する以下の大川の主張を引く。
〈徳川家康は国民が再び皇室の神聖を意識し始めてたるに対し、固よりこれを抑止し、又は之に背馳するやうな愚は敢てしなかつた。彼は足利将軍が皇室を無視するに反し、努めて皇室に尊崇の念を示さうとした。彼は皇室の収入を増し、宮廷を修理し、朝廷の儀式を復興し、只管その尊厳を加へることに心を用ひたのであります。
しかも家康の加へんとした尊厳は宗教的尊厳であつて、断じて政治的尊厳ではなかつた。日本の天皇は天神にして皇帝であるにもかゝわらず、家康は天皇の宗教的尊厳の方のみを高めることによつて国民の尊崇心に満足を与へつゝ、他面一切の政権を皇室より自家の掌理に収め、天皇をもつて皇帝にはあらで単なる天神たらしめたのであります〉
そして、伊福部は、〈明治維新とは実にこの徳川によつてなされた歪曲をその正しい位置「天神にして皇帝」たることに天皇をなさしめたところにある〉と大川は主張したと書いている。
明治維新への胎動は、それに遡ること100年以上! 先覚者・竹内式部とは?
徳川幕府の専横に対する皇室の嘆き
徳川幕府成立からおよそ百五十年後の宝暦六(一七五六)年、崎門学派の竹内式部は、桃園天皇の近習である徳大寺公城らに講義をし、熱く訴えかけました。
今の世の中は、将軍がいるのを知っているが、天子様がいるのを知らないありさまである。これは、つまり関白以下の諸臣が学に暗く、不徳であったためにほかならない。もし、諸臣が学問に励み、徳を磨いたならば、天下の人心は朝廷に集まって、将軍も政権をお返しするであろう、と。
式部の言葉を聞いた公卿たちは、ハッと目が覚める思いで、自らの使命を改めて考えたことでしょう。公卿たちが皆、公城のような姿勢であったなら、すでにこのとき王政復古に向けた静かな運動が開始されていたかもしれません。しかし、王政復古が実現する慶応三(一八六八)年まで、徳川幕府はその後百十年も続いていくのです。
いまだ式部の時代には、彼の講義が幕府の忌憚にふれる危険なものだと考え、自己規制してしまう公卿が少なくなかったのです。それほど徳川幕府の朝廷対策は徹底されていました。幕府は、彼らに反感を抱いた大名が朝廷を中心に事を挙げることを強く警戒していたのです。
徳川幕府は、慶長十八(一六一三)年に公家衆法度を出し、行儀、法度に背く公家を流罪に処すことなどを定めました。同年に出された「勅許紫衣の法度」も、朝廷の権限を制限するものでした。「紫衣」とは高僧だけが着用できる紫色の袈裟で、古くからその着衣の許可は朝廷によって下されていました。ところが幕府は、この法度によって、大徳寺・妙心寺・知恩寺・知恩院・浄華院・泉涌寺・栗生光明寺の七カ寺に対して、「紫衣」の勅許を得る場合には、事前に幕府へ願い出て幕府の許可を得るようにと定めたのです。
幕府は元和元(一六一五)年七月十七日に、禁中並公家諸法度を発布しました。この法度は十七条にわたり、その第一条は「天子諸芸能のこと、第一御学問なり」と定めました。第十一条には、「関白・伝奏並びに奉行職事など申し渡す儀、堂上地下の輩相背くにおいては、流罪となすべき事」と謳われています。関白は五摂家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)が就任する朝廷官職のトップですが、その任免は天皇の自由にはならず、すべて幕府との協議と承認を必要とするようになりました。
幕府は、関白とともに、幕府と朝廷の交渉・連絡役の「武家伝奏」、様々な朝儀を執行した蔵人役の公家「奉行職事」らによる朝廷統制体制を固めたのです。さらに、直接朝廷を統制、監視するために京都所司代を置きました。
徳川幕府の専横に対する皇室の嘆きは、例えば、後水尾天皇(在位:一六一一~一六二九年)がお書きになった『御訓誡書』の冒頭にはっきり示されています。
「むかしこそ何事も勅定をばそむかれぬ事のやうに候へ、今は仰出し候事さらにそのかひなく候、武家は権威ほしきままなる時節の事と候へば、仰にしたがひ候はぬも、ことはりと申べく候歟」
宝暦事件に至る朝幕関係において特筆すべきは、霊元天皇(在位:一六六三~一六八七年)による大嘗祭再興です。学習院大学教授の高埜利彦氏は、霊元天皇が目指した朝廷復古の動きは伏流し、「宝暦事件」に際して顕在化したと書いています。
大嘗祭は、文正元(一四六六)年に室町時代の後土御門天皇即位に伴って挙行されて以来、霊元天皇が貞享四(一六八七)年八月十三日に大嘗会を簡略な形で復興するまでの二百四十年間、中断されていたのです。
皇室再興と独自の政策展開を目指した霊元天皇は、幕府と距離をとり、左大臣近衛基煕ら「親幕派」の公卿による統制を退けようとしました。
ここで注目すべきは、霊元天皇と崎門学派との関係です。藤田覚氏によると、闇斎から垂加神道の奥義を伝授された正親町公通は、霊元天皇に山崎闇斎の『中臣祓風水草』を献上していました。また、近藤啓吾先生が指摘している通り、徳川光圀(義公)は延宝八年、平安時代から江戸初期までの各種古典の序・跋・日記などを収録した『扶桑拾葉集』を、後西上皇と霊元天皇に献上しましたが、そのとき水戸から上京した使者は、闇斎の門人だった鵜飼錬斎でした。さらに、中院道茂、土御門泰福らの闇斎門下もこれに協力していました。
近藤先生は、さらに一条兼輝が垂加神道の相伝を得ていた事実や後西天皇の第八皇子、八条宮尚仁親王に師としてお仕えしたのが闇斎高弟の桑名松雲や栗山潜鋒らだった事実を挙げています。潜鋒については、第三章で改めてふれることにします。 続きを読む 明治維新への胎動は、それに遡ること100年以上! 先覚者・竹内式部とは?
尊皇思想を鼓吹した『新葉和歌集』
平泉澄先生門下の鳥巣通明先生は、『恋闕』において、「久しきに亘って醸成された上代思慕に基く尊王論が倒幕論に発展するには、熱と力を与へる他の契機が必要であつた」と指摘し、その一つとして考えるべきものが吉野時代の回顧だと説いた。そして、吉野時代の回顧として重要なものとして、太平記、神皇正統記とともに新葉和歌集を挙げ、次のように書いている。
〈最後に新葉和歌集について考へよう。これは 後醍醐天皇の皇子 宗良親王が撰集し給ひしもの、「かみ元弘のはじめより、しも弘和の今にいたるまで、世は三つぎ、年はいそとせのあひだ」吉野の 朝廷に仕へて、滅私奉公の誠を捧げた人々の歌を含んでゐる(序文)。内容については親しく繙くべきであり、多くの解脱もなされて居るから、こゝでは佐々木信綱博士の雄渾適切なる一文を引用するに止めよう。
新葉集をとつて一首を高唱すると、切つて離した弓弦の高鳴る響が聞える。馬上の武士の草摺に触れて錚鑅たる佩剣の響が聞える。更に暝目して当時を想像すると御簾あらはに板敷寒き行宮の夜、嵐に瞬く燈火の下に侍してもとの都にかへさずらめやと憤り歌つたおもかげが現はれる。皇事に痩盡せる白髪の准后が、敵中ふかき孤城の一室に史筆をとるさまもうかぶ。新葉集は熱烈の作に富んで浮華の調がない、云々。(改造社版『頭註 新葉和歌集』序文)
その立場の相違の故に、新後拾遺集、新続古今集撰集の際には、事大主義の「心なき撰者」により門戸を鎖され、足利政権下を通じて不遇であり、わづかに書写せられて伝はつたが、近世になると、承応二(一六五三)年、寛文二(一六六二)年、宝暦元(一七一五)年と開板せられ、承応二年板と同板で年月不明の版本もあり、ひろろく流布することになつた。そしで光圀卿が扶桑拾葉集を集めた時、二十一代集と同格に待遇されたのであつた。このことについて吉田令世がいみじくも「大日本史に南朝を正統と立給へると、この新葉集を勅撰の中に入れたまへるとはやがておなじ趣」である(歴代和歌勅撰考)と指鏑してゐるのは人のよく知るところである。応永三十二(一四二七)年兵部卿師成親王が「斯書は南朝慶寿院法皇御在位の時、予が叔父中務卿宗良親王に詔して撰せしめらるゝ所なり云々(富岡氏本 新葉集奥書)」と仰せられてゐることを思へば、新葉集は、こゝにはじめて正しき地位を与へられたと云ふべきであらう。然してこの光圀卿と相前後して吉野時代の修史の業を企てた加賀侯前田綱紀が、宗良親王賛辞を作り、その中より今日人口に膾炙せる御歌
君のため世の為なにか惜しからむ 捨ててかひある命なりせば
を抽出し「命を委ねるの志節、所謂君に身を忘れ、国に家を忘れる語にも叶へり」と云つたのは本書が単に史料乏しき吉野時代研究の資料としで重用されたばかりでなく、その内容をなす悲歌が尊王思想鼓吹に役たつー径路を示すものであらう〉
勤皇の志士・栗原孫兵衛
太宰府天満宮の境内には、和魂漢才碑が祀られている。菅公の精神学識を伝えるこの碑の建立に尽力したのが、勤皇の志士・栗原孫兵衛である。栗原のことを、日本経済大学経済学科専任講師の竹川克幸氏が平成29年3月10日の『産経新聞』で詳しく紹介している。
大宰府天満宮の門前町、大町旅館街にある旅館松屋(現在は「維新の庵・松屋」)主人だった栗原は、勤皇の志士たちへの支援を惜しまず、安政の大獄の際には勤皇僧・月照をかくまった。また、文久3(1863)年の八月十八日の政変で長州に逃れた七卿のうちの五卿が太宰府に移送されたときには、栗原が密会の場を提供した。
加藤司書や月形洗蔵ら筑前勤王党が弾圧された慶応元年の(1865)年の「乙丑の変」では栗原も連座している。慶応4(1868)年2月に赦免され、明治13(1880)年に死去。
「維新の庵・松屋」では、かつて志士も食べたという名物梅ヶ枝餅をいまも食べることができる。