「近藤啓吾」カテゴリーアーカイブ

近藤啓吾先生に見る崎門の学風①

 山崎闇斎─浅見絅斎─若林強斎と伝わる崎門学正統派の直系である近藤啓吾先生は、松本丘氏の『尚仁親王と栗山潜鋒』を評して次のように書いている。
 〈余は今日の学風、みな考証考古の精密を求め、歴史を作り上げた「人」の心への沈潜をせず、その上、新しき資料の発見や新しき解釈の樹立のみを競ひ、古人の人間たりしことを忘却してゐる風潮を慨してゐたが、松本氏はこの世風を追はず、そのどの論考を見ても、その対象としてゐる先人の心に沈潜し、それによつて得たところを率直に筆せんとしてゐる〉(『紹宇文稿』165頁)
 ここには崎門の学風を明確に表されている。

会沢正志斎『新論』①

 文政9(1826)年、会沢正志斎は藩主・徳川斉脩に『新論』を上呈した。その冒頭には「謹んで按ずるに、神州は太陽の出づる所、元気の始る所にして、天日の嗣、世宸極を御し、終古易らず、固より大地の元首にして、万国の綱紀なり。誠に宜しく、宇内を照臨し、皇化の曁ぶ所、遠迩有る無かるべし。今、西荒蛮夷は脛足の賎を以て、四海に奔走し、諸国を蹂躙し、眇視跛履、敢て上国を凌駕せんとす。何ぞそれ驕れるや」とある。
 写真は、近藤啓吾先生より頂戴した『新論』。奥付に「會澤恒蔵著 安政四丁巳年八月」とある。

坪内隆彦「『靖献遺言』連載第7回 崎門学派の志と出処進退」(『月刊日本』平成25年6月号)

御用学者・林羅山
 慶長十(一六〇五)年四月、若き林羅山は徳川家康と初めて対面しました。二度目の会見の際、家康は羅山に「後漢の光武帝は漢の高祖の何代目であるか」、「前漢の武帝の返魂香(伝説上の香)はどの書に出ているか」、「屈原の愛した蘭の品種は何か」と尋ねました。羅山はいずれの質問にも正しく回答しましたが、これらの質問は儒学の本質と関わりのない愚問です。
 『林羅山』を著した堀勇雄氏は、「この難問・愚問はこの後の家康と羅山との関係─聖賢の道を求める師と弟子との関係ではなく、学問知識の切売りをする雇傭関係を表徴するといえる」と書いています。
 さらに、堀氏は、家康は天下の覇権を握り政治を行うために、羅山の該博な知識を利用しようとしただけであり、いわば百科事典代わりに羅山を側近に置こうとしたのであると書いています。
 当時、幕府の官職に儒者を登用した先例はありませんでした。そこで、家康は羅山を僧侶の資格で登用することにしたのです。慶長十二年、羅山は家康の命によって剃髪し、名を道春(僧号)と改めました。堀氏は「廃仏を唱える羅山が剃髪したのは、聖人の道を行おうとする実践的精神を放棄して、単に博学と文才を売物とする職業的学者の立場を選んだことを意味する」と批判しています。家康に取り入った羅山は、家康の権力によって収集された貴重本の充満した書庫を管理するようになり、慶長十五年には幕府の外交文書を起草するようになりました。 続きを読む 坪内隆彦「『靖献遺言』連載第7回 崎門学派の志と出処進退」(『月刊日本』平成25年6月号)

坪内隆彦「『靖献遺言』連載第3回 死生利害を超えて皇統守護の任に当たる」(『月刊日本』平成25年2月号)

対外的危機意識が生んだ国民的自覚と伊勢神道
 日本的自覚、国体への目覚めのきっかけは、対外的危機認識の高まりと密接に関わっています。本連載第二回(平成二十四年九月号)でも、永安幸正氏の主張を援用しながら、隋唐国家の膨張期(五八一~九〇七年)に続く、第二の危機の時代として蒙古襲来の時代を挙げました。文永の役(一二七四年)、弘安の役(一二八一年)と二度にわたる蒙古襲来こそ、日本的覚醒の大きな引き金となり、神道思想においても一大転換をもたらしたのです。
 その象徴が伊勢神道の台頭です。それまで、わが国では仏教優位の神道思想が力を持っていました。その有力な思想が、「日本の八百万の神々は、様々な仏が化身として日本の地に現れた権現である」とする「本地垂迹思想」です。仏を主、神を従とした本地垂迹思想に対して、神を本とし仏を従とする教理を体系化したのが、伊勢神道(度会神道)だったのです。
 久保田収氏によれば、伊勢神道には密教や老荘思想も吸収されてはいますが、鎌倉新仏教の台頭や、蒙古襲来という未曽有の国難から、神道の宗教的立場と国民的自覚を明らかにする主張が盛り込まれました。
 伊勢神道の「神道五部書」(『宝基本記』、『倭姫命世記』、『御鎮座次第記』、『御鎮座伝記』、『御鎮座本記』)は心身の清浄を説き、正直の徳を神道の主要な徳目として強調しました。ここでいう「正直」は、現在我々が使っている意味とは異なり、「神から与えられたままの清浄潔白な姿」を意味します。 続きを読む 坪内隆彦「『靖献遺言』連載第3回 死生利害を超えて皇統守護の任に当たる」(『月刊日本』平成25年2月号)

垂加神道と黒住教

 いまこそ、伊勢神道、垂加神道の視点から黒住教の真髄を考察するときだと考える。それは、近藤啓吾先生が『神道史研究』(平成18年10月)に発表した「黒住宗忠翁と垂加神道」冒頭で、以下のように書いているからにほかならない。
 〈私はかねて黒住宗忠翁が門下に示された和歌や書簡に、「正直」といひ「日の神の御道」といひ「我が本心は天照大神の分身」であるといつて、かの山崎闇斎先生垂加神道によつて継承された古き伊勢神道の信仰が、脈々波打つてゐることを感取し、しかも翁のこの信仰がいづこより伝はり来りしかを考へてつひにその資を求め得ず、歎息すること久しかつた。 続きを読む 垂加神道と黒住教

若林強斎『自首』


2013年8月24日(土)、同志の折本龍則氏(『青年運動』編集委員、崎門学研究会代表)と、近藤啓吾先生のお宅にお邪魔しました。その際頂戴したのが、若林強斎『自首』のコピーです。
自 首
不孝第一之子若林自牧進居、
亡父ニ事ヘ奉養不届之至、
慚悔無身所措候。然ル身
ヲ以、先生ノ号ヲ汚スコト、何ンノ面目ゾヤ。
明日 亡父忌日タルニ因テ、自今
日先生ノ偽号ヲ脱シ候。何レモ必
不孝之刑人ト卑シク御
アイシラヒ被成可被下候。已上
享保十七年壬子正月八日丙寅
過廬陵文山
続きを読む 若林強斎『自首』

『靖献遺言』無刊記本

 平成24年12月5日(水)に続き、平成25年3月27日(水)に、崎門学派直系の近藤啓吾先生のお宅を訪問し、ご指導を賜りました。その際、浅見絅斎『靖献遺言』の刊行変遷がわかる現物をいくつか拝見する機会に恵まれたばかりか、改訂本のうち最も早く刊行された『靖献遺言』を譲り受けました。
近藤先生が『靖献遺言講義』解題で書かれている関係部分を引きます。
 〈『靖献遺言』は貞享四年脱稿の直後に刊行されたが、その初印本は未だ見るを得ず、寓目の諸本はすべて改訂を経てゐるものであるが、そのうちにて最も早く刊せられたものは、美濃版三冊・青色表紙の無刊記本である。思ふに是れは絅斎の家蔵版であつて、後にその板木に「京師二條通衣棚・風月荘左衛門発行」の刊記を加へ、書肆風月堂より発売されたものが、茶色表紙の美濃版三冊本である。この本は元治年間にも補刻されてゐる(表表紙裏に「元治甲子補刻」「京師 三書堂」とあるが、刊記は元のまま)。また右とは別に美濃版半裁の中形本が、慶應元年に新刻され、明治二年、同十三年にも増刷されてをり、更に中形本をまた半裁した小形本が、銅版にて明治九年に版権免許になつてゐる(家蔵本はその明治十二年四月発行の四刻本である)。なほ明治四年には加藤勤の『靖献遺言訓蒙疏義』が新刻されてゐる。
 以上のごとく、幕末より維新にかけていく度も本書が増刷せられ、しかも携帯に便利な中型本・小型本として刊行されてゐるといふことは、常時いかに広く本書が読まれたかを示すものである〉(後略)

清国で刊行された『靖献遺言』

 2013年3月27日(水)、崎門学派直系の近藤啓吾先生のご自宅にお邪魔し、先生が所蔵されている『靖献遺言』各種を拝見する機会に恵まれました。その中に、非常に珍しい『靖献遺言』がありました。
清国が『靖献遺言』に注目していたことを裏付ける、清国による『靖献遺言』復刊本です。

「光緒三十二年孟夏
北洋武備研究所印」
とあります。

その他、わが国における『靖献遺言』普及の後を窺うことのできる『靖献遺言』各種については、別の機会にご紹介いたします。

崎門学(尊皇派)研究書の書棚より


近藤啓吾著『山崎闇齋の研究』續神道史学会、昭和61年
近藤啓吾著『續 山崎闇齋の研究』神道史学会、昭和61年
近藤啓吾・金本正孝編『浅見絅斎集』国書刊行会、平成元年
近藤啓吾著『淺見絅齋の研究 増訂版』臨川書店、平成2年
近藤啓吾著『若林強齋の研究』神道史学会、昭和54年
近藤啓吾著『續 若林強齋の研究』臨川書店、平成9年

法本義弘の『靖献遺言』研究書①

連載「明日のサムライたちへ 志士の魂を揺り動かした十冊」の二冊目(浅見絅斎『靖献遺言』)執筆のために、法本義弘による研究書と向き合っています。700頁を超える『靖献遺言精義』、そのエッセンスを分かりやすくまとめた『淺見絅齋の靖獻遺言』。


近藤啓吾先生による体系的な研究と並んで、これら法本による著作も『靖献遺言』理解に非常に役立ちます。