対外的危機意識が生んだ国民的自覚と伊勢神道
日本的自覚、国体への目覚めのきっかけは、対外的危機認識の高まりと密接に関わっています。本連載第二回(平成二十四年九月号)でも、永安幸正氏の主張を援用しながら、隋唐国家の膨張期(五八一~九〇七年)に続く、第二の危機の時代として蒙古襲来の時代を挙げました。文永の役(一二七四年)、弘安の役(一二八一年)と二度にわたる蒙古襲来こそ、日本的覚醒の大きな引き金となり、神道思想においても一大転換をもたらしたのです。
その象徴が伊勢神道の台頭です。それまで、わが国では仏教優位の神道思想が力を持っていました。その有力な思想が、「日本の八百万の神々は、様々な仏が化身として日本の地に現れた権現である」とする「本地垂迹思想」です。仏を主、神を従とした本地垂迹思想に対して、神を本とし仏を従とする教理を体系化したのが、伊勢神道(度会神道)だったのです。
久保田収氏によれば、伊勢神道には密教や老荘思想も吸収されてはいますが、鎌倉新仏教の台頭や、蒙古襲来という未曽有の国難から、神道の宗教的立場と国民的自覚を明らかにする主張が盛り込まれました。
伊勢神道の「神道五部書」(『宝基本記』、『倭姫命世記』、『御鎮座次第記』、『御鎮座伝記』、『御鎮座本記』)は心身の清浄を説き、正直の徳を神道の主要な徳目として強調しました。ここでいう「正直」は、現在我々が使っている意味とは異なり、「神から与えられたままの清浄潔白な姿」を意味します。
『倭姫命世記』には「黒き心を無くして丹き心を以て清く潔く斎り慎しみ、左の物を右に移さず、右の物を左に移さずして、左を左にし右を右にし、左に返り右に廻る事も、万の事、違ふ事なくして、大神に仕へ奉る。元を元にし本を本にする故なり」と書かれています。
右を右とし、左を左とし、各々その位を正して、その分を明らかにして、ほんの少しも違はず、一切の歪曲を許さない。この全く違はない正直とその正直の働きによって、初めて元を元とすることができるということです。
『倭姫命世記』は、度会行忠の『神名秘書』、同家行の『類聚神祇本源』のみならず、北畠親房の『元元集』にも引かれています。『元元集』の書名は、「元を元にし」から出たものにほかなりません。
この伊勢神道を引き継ぎ、さらに吉田神道など広範な神道思想を集大成したのが、山崎闇斎に始まる垂加神道だったのです。垂加神道の理解なしには、『靖献遺言』の真髄も把握できません。
闇斎は、明暦元(一六五五)年、『伊勢大神宮儀式序』を撰し、「伊勢大神宮儀式」について、「少しも仏事を混えていない。なんと万代の亀鑑ではないか」と称えました。これに続けて闇斎は、「嗚呼、神は垂るるに祈祷を以て先と為し、冥は加ふるに正直を以て本と為す」(別の訓みあり)と述べています。
これこそ、闇斎の霊社号「垂加」の二字の典拠となる語で、「己れ本来の正直の心に立ちもどって、ひたすらに神に祈りを捧げれば、自ずから神も感応せられるだろう」という意味です。
自分の心に宿る神の御霊
闇斎がその神道説を発展させる上で極めて重要な概念となったのが、「心神」です。「心神」は「心の神」と読み、自分の心に神の御霊が宿っておられるという意味です。
『倭姫命世記』には「心神は即ち天地の本基」とあります。また、『鎮座伝記』には「人は乃ち天が下の神の物なり、心神を傷ることなかれ」と、『宝基本記』には「心は乃ち神明の主なり」と書かれています。
伊勢神道は「心神」を守るために、明浄正直の精神を強調しましたが、 闇斎は、わが心神が天神から与えられたものであるとともに、天神に連なるものであることを確信しました。近藤啓吾先生は、闇斎が「心神」がわが内なる天神(天人一貫)であって、祖神の霊と自己の霊とが、ひとつながりの生命の流れの中にある(祖孫一体)という信念を持つに至ったと説明しています。
闇斎は、「心神」の具体的事実を大己貴命(大国主神)の説話に見出しました。その過程で『神代巻口訣』(一三六七年)を著した忌部正通の神道説の影響も受けることになったのです。
天孫降臨に先立ち、経津主神・武甕槌神の二神から国土の献上を勧められた大己貴命は、いったんはこれを断りましたが、それが高皇産霊尊の意志だと知ると、直ちにこれを献じ、自らは端の八坂瓊を身につけて隠れられました。大己貴命の説話とはこのことを言います。
近藤先生が指摘している通り、闇斎は、『神代巻口訣』に基づいて、大己貴命が高慢な態度を反省し、これを改めることができたのは、真実の自分の存在、つまり「心神」を発見したからだと理解したわけです。そして、あらゆる物をことごとく天孫に献上し、退居して天孫と国土との守護に任ぜられた大己貴命に、利害の念や功名の心がなく、ただ生死を越えて、所期の具現への祈願だけがあったことに、闇斎は神道の根本義を見たのです。
そして、『神代巻口訣』にいう「心神」という概念が確信に変わる契機こそ、寛文九(一六六九)年九月の伊勢への参宮でした。このとき闇斎は大宮司河辺精長から『中臣祓』の伝を受けたのです。
さらに闇斎は、寛文十一年八月、吉川惟足から吉田神道の伝を受け、十一月には垂加霊社の霊号を受けました。つまり、闇斎は吉田神道の正統の継承者となったのですが、闇斎はそこにとどまってはいませんでした。近藤先生は「恐らく闇斎の得た感動は、一吉田家の神道の継承といふものでなく、同家の祖天児屋神に直接相連なり、その皇統守護の任をもつて、己れの任とせんとするものであつたと思はれる」と書いています。
当初、闇斎は徳川家康を天下の泰平を開いた英主として称え、徳川幕府を支持していました。しかし、闇斎は江戸の繁栄と京都の衰退という状況を目の当たりにする中で、幕府の専横に対する皇室の嘆きを認識するようになっていくのです。やがて尊皇討幕論に至るこの認識を強めたものこそ、自らの皇統守護の任の自覚にほかならなかったと思います。
さて、霊社号を授けられた翌日、闇斎は『藤森弓兵政所記』を草しました。「弓兵政所」とは、延暦十三(七九四)年に藤森神社が桓武天皇より授かった宝称です。『日本書紀』を編纂した舎人親王を奉祀する藤森神社に、闇斎が初めて詣でたのは明暦三(一六五七)年正月のことでした。このとき闇斎が知った伝の一つ「五文字の法」には、『倭姫命世記』の語「神垂祈祷・冥加正直」の八字を書す、とありました。闇斎は、藤森の伝承に「敬」の本義を発見したのです。闇斎が、この「つつしみ」の具現と考えたのが、舎人親王が『日本書紀』を編纂するに当り、古来の伝承をすべて集めてこれを紀し、敢て取捨を加えなかった謙虚な姿勢です。闇斎は『藤森弓兵政所記』において、この「つつしみ」がわが国の歴史を貫いて秀麗の国がらを成し、それを以て開闢以来、神皇の正統が永く続いているのであり、これが天照大神の勅したまうところの本意だと説きました。
闇斎は、主に『日本書紀』「神代巻」については『神代記風葉集』を、「中臣祓」については『中臣祓風水草』を編纂しましたが、親王の編纂態度と同様、広く先学の諸説を蒐集するという姿勢を貫きました。
吉川惟足を乗り越えた闇斎─垂加神道の本義
ここで注目すべきが、祓に関する闇斎独自の思想展開です。
近藤先生は、闇斎が伊勢流の『中臣祓』観を継承するのみならず、そこからさらに進んで、「祓」は本来、君は上に在って下を治め、臣は下に在って上を援ける道を述べたものであり、言い換えれば君臣一体になってわが国を道義に基づく理想の国家にする道を示したものであるとし、その道義を支えているものが罪咎に対する懺悔祓除であると考えたと説明しています。 さらに、『中臣祓風水草』はこの主旨のもとに、まずわが国古代の歴史を述べ、それによってわが国建設の経緯とその理想、そしてその理想実現のために辛苦された神代の神々や歴代天皇、さらに臣民の父祖の足跡を説き、それによって自らに課せられた責務が何であるかを明らかにしようとしていると指摘しています。
闇斎が臣子としての自らの懺悔の究明に至ったことをはっきり示すものこそ、前回紹介した『拘幽操』表章にほかなりません。そこには、紂王を諌めて幽囚されても、自らを責めて決して紂王を恨もうとしなかった文王の孤忠が詠われています。
『拘幽操』表章の心情は、「神籬磐境」についての闇斎独自の考究をもたらします。
『日本書紀』には、高皇産霊尊が天児屋命・太玉命に与えた神勅に、「吾は天津神籬及び天津磐境を起こし樹てて、当に吾孫の為に斎ひ奉らむ。汝、天児屋命・太玉命は天津神籬を持ちて、葦原中国に降りて、亦吾孫の為に斎ひ奉れ」とあります。
闇斎は、神籬磐境の伝を吉川惟足から伝えられたのですが、そこに潜む問題点を看過しませんでした。惟足の子従長が整理した『四重奥秘神籬磐境口授』(『神籬磐境口訣』)には、「君道ハ日ノ徳ヲ以テ心トス、日ノ徳ヲウシナフ時ハ、天命ニ違ヘリ、天命ニ違フ時ハ、其位ニ立ガタシ」と書かれていたのです。
これはまさに易姓革命に通ずる思想であり、『拘幽操』の精神に適うものではありません。ここで闇斎が立ち止まり、「神籬は皇統守護の大道、磐境は堅固不壊の心法」との立場を固めたことは、歴史的な意味を持っていると考えます。近藤先生は、闇斎が惟足の限界を超えて、わが国の道義の本源への考究を進めたことに「闇斎の学問の面目があり、垂加神道の本義がある」と書いています。
闇斎の意志を継いで正親町公通が整理した『持授抄』には次のようにあります。
「口伝に云く、日守木は、日は日なり、日継の君なり。守木は皇孫を覆ひ護り奉ること、なほ樹木の天日を蔽翳するがごとし。児屋命の訓も亦、皇孫を覆ふの義なり。磐境は中なり。〈中は天御中主尊の中、これ君臣相守るの道。君上にありて下を治め、臣下にありて上に奉ず。君臣合体、中を守るの道を表はして、以て中臣と号す。伊賀志杵(いかめしい杵=引用者)を執り持ちて、本末を傾けず。中良布留人(中を守っている人=同)、これを中臣と称するも亦この義なり。臣は君を防ぎ護り奉る。これ日守木なり。〉
天孫の先達として艱難を切り開いて進む、日守木の実践者として闇斎が注目したのが、猿田彦神でした。猿田彦神は天孫の降臨に際し、その道に奉迎して啓行申し上げた神です。
闇斎は、「道は大日孁貴の道、教へは猿田彦神の教へ」と、猿田彦神を天照大神と並称するに至ったのです。
そして、第十一代垂仁天皇の御代、神鏡を奉じて天照大神奉祭の霊地を求めて巡歴される倭姫命に、五十鈴川の川上にある宇遅(宇治)の地をお勧めしたのが同神の裔・太田命でした。
若林強斎と屈原の繾綣惻怛
若林強斎は、闇斎の神道説を発展させましたが、その際、『拘幽操』の講説に象徴される、晩年の浅見絅斎の思想を出発点としていました。
『拘幽操』の精神の核心こそ、「繾綣惻怛」の心です。「繾綣」とは、固く結ばれ離れないさまのことです。強斎は「忘れても忘れられず、その心のほどけぬ、絲口の続いて離れぬというようなこと」と説明しています。「惻怛」はいたみ悲しむことです。
もともと、繾綣惻怛は朱子が屈原(屈平、紀元前三四三~二七八年)を評して使った言葉です。朱子は、「原の人たる、其の志行或ひは中庸に過ぎて以て法となすべからずと雖ども、然れども皆、君に忠に国を愛するの誠心に出づ。原の書たる……皆、繾綣惻怛みづから已む能はざるの至意に生ず」と書いていました。
この屈原の繾綣惻怛の心に感動した絅斎は、『靖献遺言』の第一章に屈原を収めました。
中国戦国時代の紀元前三二九年、楚では懐王が王位に就きました。当時、楚は西の秦にどう対峙するかで国論が分かれていました。秦と同盟することによって安泰を得ようとする「親秦派」に対して、東の斉と同盟して秦に対抗しようとする「親斉派」がいました。
「親斉派」の代表格が、屈原でした。王族の出身で、詩文にも非常に優れていた屈原は、懐王から厚い信頼を得ていました。しかし、同僚から嫉妬されて讒言を受け、懐王から疎んじられるようになってしまいました。
このとき屈原は、懐王が迷いから醒めて正しい道に立ち戻り、自分をもとの位置に戻してくださること(還己)を願いました。これについて強斎は次のように書いています。
「還己は屈原の自身の為ではない。屈原の用いられねば、小人どもがいよいよ熾になって、ついに楚がつぶれる故、そこを憂えてのこと。それで還己というが君を大切にするで、ここが真実の忠を、ここらで一つ見事だというて、もう爵禄に望みはない(の)、跡のことは知らぬのというて、君の国を顧みぬは忠でない。ここが忠臣の情のやむにやまれぬ、繾綣惻怛の心なりに、こういうたら人が笑うかの、さもしがろうかのという様な計較の意はない。只君を愛し国を憂うる心がやまぬによって、自然にこうあるぞ」
さて、紀元前三一三年、楚と斉とを敵対させようとした秦は、張儀を楚に送って工作します。張儀は楚に対し、領地割譲を条件として斉との同盟破棄を迫ります。懐王はこれに応じ、斉との同盟を破棄してしまいます。懐王はやがて張儀に騙されたと悟り、紀元前三一二年、秦に攻め込みましたが、楚は秦に大敗して漢中の地を奪われてしまいます。
その後も、楚が張儀に翻弄され続ける中で、屈原は楚に帰国しました。今度は、秦が懐王との会見を申し入れてきました。屈原は、「秦は信用なりません。先年騙された事を忘れたのですか」と諫めましたが、懐王は秦に行き、秦に監禁されてしまいます。王を捕らえられた楚では頃襄王を立てました。頃襄王は弟の子蘭を令尹(総理大臣)に任命します。屈原のことを警戒した子蘭は、屈原を江南の地に追放してしまいます。絶望した屈原は、『懐沙の賦』を作ってその思いを訴え、石を抱いて汨羅江に入水自殺しました。
絅斎は『懐沙の賦』を『靖献遺言』冒頭に掲げたのですが、強斎はその意味を深く思い、「身を水に沈むる程になってもまだ君の忘れられぬ、そういうなりより外ない忠義のやまれぬ繾綣惻怛の心が『懐沙賦』となって出た…」と述べているのです。
ところで、『靖献遺言』に収められた宋末の忠臣、謝枋得は、節義を貫き、元朝への出仕を拒絶し、ついに食を断って餓死しましたが、彼には元の君を尊ぶような発言がありました。これについて、強斎の門人の山口春水は強斎に不満を語ったのですが、近藤先生は、強斎がそれに対して、自己を第三者の立場に置いて古人の行動を妄りに批判すべきものでなく、その行動の底にある繾綣惻怛の至意を認めねばならぬと教えた事実を指摘し、次のように書いています。
「強斎が『靖献遺言』より得たものは、古人の行動の個々の事実ではなくして、繾綣惻怛の四字を自身に体察自識することであつたのである。而してこれは絅斎晩年の学問をその出発点としながら、それをこの四字に向つて凝固せしめんとする強斎の沈潜思索を示すものに外ならない」
強斎は、享保二(一七一七)年九月から、屈原の作品集『楚辞』の講説を開始します。近藤先生は「強斎の『楚辞』尊重が、その『靖献遺言』への沈潜の結果として、その精神を更に明らかにすべく出で来つたものであることを推量せしめる」と書いています。
強斎の繾綣惻怛体認は、皇統守護の任への自覚を促し、やがて神道への傾斜をもたらします。実際、『楚辞』講説開始後に著した『詩集伝師説』(享保四年)や『中庸章句師説』(享保六年)において、強斎は朱子の説を超えて、神道の説を用いて説明しています。
自らの心の汚れを清める
享保九年、強斎は闇斎以来の神道の諸伝を山本主馬から伝えられます。翌享保十年八月一日、強斎は多賀社に詣でて垂加霊社に拝し、闇斎の『風水草』の書写を開始するとともに、門下のために『神道大意』の講義を始めています。その眼目は次のようなものでした。
「あの天の神より下された面々のこの御霊は、死生存亡の隔てはないゆえ、この大事のものを、即今、忠義の身となして、君父に背き奉らぬ様に其なりにどこまでも八百万神の下座につらなり、君上を護り国土を鎮むる神霊となる様にと云より外、志はないぞ。じゃによって、死生の間に頓着はない。どこまでも此天神よりたまわる幸魂・奇魂を持ちくずさぬ様に、汚し傷つけぬ様にするよりない」(原文はカタカナ)
強斎は絅斎が歿した正徳元(一七一二)年から、その後を継いで子弟の指導に当たっていましたが、享保八、九年頃、塾を「望楠軒」と命名、自ら困苦を求め、その中でそれに打ち克って学問するという闇斎、絅斎以来の学風を実践しました。
強斎には、山口春水、西依成斎といった多数の優れた門下がいましたが、その中に岐阜県揖斐郡出身の廣木忠信という逸材がいました。残念ながら、廣木は享保十五年に亡くなります。その霊に強斎が捧げた祭文は、崎門の学風を鮮やかに描き出しています。
「夏扇がず、冬爐に近づかず、艱難窮乏、日を合わせて食ふ(食べ物がなくて、二日か三日目にやっと食べる=近藤先生訳)こと、時にこれ有り。賢、少しも屈せず、ますます勉めますます励む。而して余も亦た依れり(私も貴下を頼みとした=同)。雪の朝、月の夕、相与に茶を瀹、酒を湲め、経を議し義を論じ…」
この後に続くのが「今を悲しみ古を慕ひ…」。まさにこの言葉は、幕府の専横、皇室の悲惨という現状を悲しみ、天皇親政の輝かしい時代を慕うという意味にほかなりません。
そして強斎は、廣木に捧げた祭文で、「其の学たるや、名利を求めず、文辞を事とせず、たヾ義を是れ務む。いはゆる己の為めにする学とは、蓋し此の如きか。若し夫れ感慨奮激、盃を挙げて悲歌し、死生利害を顧みざる気象は、即ち実に古人義烈の風あり」と書いています。
この崎門の学風の中から、やがて宝暦事件で追放される竹内式部や梅田雲浜といった勤皇の志士が登場してくることになるのです。
いまわが国は、再び未曾有の国難に瀕しています。先達の日本的自覚の歩みを知るだけではなく、それに連なり、自ら実践しようとする志が求められているのだと思います。
皇統一系の維持のために、自ら繾綣惻怛を体察自識すべきと悟った強斎は、国民一人一人の実践の中にこそ、国体は宿ると信じていたに違いありません。そして強斎は、皇統守護の任に当たるために、自らの心を祓い清めて、汚れなき魂に復そうと努めました。それは「神道の大事は、吾心を吾心と思はず、天神の賜じゃと思うが、爰が大事ぞ。そう思いなすではない、真実にそれ、こう云ことを寝ても覚ても大事にするよりない」(『望楠所聞』)という言葉に示されています。
祓を実践した強斎の生き方を手本にし、自ら心の汚れを清めたいとひたすら祈り続けるとき、神に連なるものとしての自分の命を悟る境地が開けるのだと思います。それを経ることなくしては、真の忠も孝も実践できず、国体に適ったいかなる実践もあり得ないと信じます。
主な引用・参考文献
神道大系編纂会編『神道大系 垂加神道 上』1978年
神道大系編纂会編『神道大系 垂加神道 下』1978年
近藤啓吾『崎門三先生の學問 : 垂加神道のこころ』皇學館大学出版部、2006年
近藤啓吾『山崎闇齋の研究』神道史学会、1986年
近藤啓吾『続山崎闇齋の研究』神道史学会、1991年
近藤啓吾『続々山崎闇齋の研究』神道史学会、1995年
近藤啓吾『若林強齋の研究』神道史学会、1979年
近藤啓吾『続若林強齋の研究』臨川書店、1997年
近藤啓吾『若林強齋先生』拾穂書屋蔵版、2011年