『月刊日本』の新連載「明日のサムライたちへ 志士の魂を揺り動かした十冊」の一冊目(山鹿素行『中朝事実』)執筆のために、平成24年7月15日(日)、明治神宮参集殿において開催された記念講演会に参加しました。「明治天皇と乃木大将」の演題で、国学院大学教授の阪本是丸氏がご講演され、明治天皇と乃木の敬神崇祖の念の篤さを強調しました。その際に配布された資料にある通り、乃木家の祖先を祀る沙沙貴神社(滋賀県近江八幡市)に乃木はしばしば参拝していましたが、殉死に臨んで、集作に三幅の軸を沙沙貴神社に寄進するよう託しました。三幅の軸の一つこそ、乃木が謹書した『中朝事実』の一節だったのです。
明治神宮文化館宝物展示室では、乃木神社との共催により、明治天皇百年祭・乃木神社御祭神百年祭記念展「明治天皇と乃木大将」が開かれており、「君臣一如」のうるわしい事績が紹介されています。乃木の弟・大館集作所蔵の『中朝事実』(乃木神社所蔵)、素行が『中朝事実』の一節を、東宮殿下(大正天皇)の台命を奉じて敬書、奉呈したものの下書き(学習院アーカイブズ所蔵)が目を引きました。
「な行」カテゴリーアーカイブ
学習院に保存される「乃木館」─「明日のサムライたちへ」取材記録
『月刊日本』の新連載「明日のサムライたちへ 志士の魂を揺り動かした十冊」の一冊目(山鹿素行『中朝事実』)執筆のために、乃木希典大将ゆかりの地を訪れました。
明治40年1月、学習院長に任ぜられた乃木は、全寮制を布いて、生徒の生活の細部にわたって指導す
る方針を打ち出し、翌年9月に寄宿舎が完成しました。乃木は自宅へは月に一、二度帰宅するだけで、それ以外の日は寮に入って生徒たちと寝食を共にし、その薫陶に当たりました。乃木の居室であった総寮部は「乃木館」として保存され、昭和19年頃、現在の目白キャンパス内に移築されました。
『月刊日本』編集部の杉原悠人君(学習院卒)の案内で、学習院大学を訪れ、乃木館に向かいました。筆者が乃木館の前に立つと、『中朝事実』を手にし、全身全霊で生徒を指導する乃木院長の姿が目に浮かびました。
服部純雄の『乃木將軍: 育英の父』には、日曜日、寮の談話室に有志を集めて乃木が『中朝事実』を講義した様子が描かれています。
「要は、わが日本国体本然の真価値、真骨髄をじゃな、よくよく体認具顕し、その国民的大信念の上に、日本精神飛躍の機運を醸成し、かくして新日本の将来を指導激励するということが、この本の大眼目をなしておるのじゃ」
南部靖之氏と前原誠司氏
乃木希典大将と『中朝事実』
元治元年(一八六四)年三月、当時学者を志していた乃木希典は、家出して萩まで徒歩で赴き、吉田松陰の叔父の玉木文之進への弟子入りを試みた。ところが、文之進は乃木が父希次の許しを得ることなく出奔したことを責め、「武士にならないのであれば農民になれ」と言って、弟子入りを拒んだ。それでも、文之進の夫人のとりなしで、乃木はまず文之進の農作業を手伝うことになった。そして、慶應元(一八六五)年、乃木は晴れて文之進から入門を許された。乃木は、文之進から与えられた、松陰直筆の「士規七則」に傾倒し、松陰の精神を必死に学ぼうとした。
乃木にとって、「士規七則」と並ぶ座右の銘が『中朝事実』であった。実は、父希次は密かに文之進に学資を送り、乃木の訓育を依頼していたのである。そして、入門を許されたとき、希次は自ら『中朝事実』を浄書して乃木にそれを送ってやったのである。以来、乃木は同書を生涯の座右の銘とし、戦場に赴くときは必ず肌身離さず携行していた。 続きを読む 乃木希典大将と『中朝事実』
神武創業の詔勅
肇国の理想は神武創業の詔勅に示されている。『日本書紀』は次のように伝える。
「我東(あずま)を征ちしより茲に六年になりぬ。皇天(あまつかみ)の威を頼(かゝぶ)りて、凶(あだ)徒(ども)就戮されぬ。邊土(ほとりのくに)未だ清らず、余(のこりの)妖(わざはひ)、尚梗(あれ)たりと雖も、中洲之地(なかつくに)(大和地方=引用者)復(また)風塵(さわぎ)無し。誠に宜しく皇都を恢(ひろめ)廓(ひら)き、大壮(みあらか)を規摸(はかりつく)るべし。而るに、今運(とき)此の屯蒙(わかくくらき)に属(あひ)て、民(おほみたから)の心朴素(すなお)なり。巣に棲み穴に住み習俗(しわざ)惟常となれり。夫れ大人(ひじり)の制(のり)を立つる、義(ことわり)必ず時に随ふ。苟も民に利(さち)有らば、何にぞ聖造(ひじりのわざ)に妨(たが)はむ。且当に山林を披(ひらき)払ひ、宮室を経営(をさめつく)りて、恭みて宝位(たかみくら)に臨み、以て元元(おほみたから)を鎮め、上は則ち乾霊(あまつかみ)の国を授けたまひし德(うつくしび)に答へ、下は則ち皇孫の正(ただしき)を養ひたまひし心を弘むべし。然る後に、六合(くにのうち)を兼ねて都を開き、八紘(あめのした)を掩(おほ)ひて宇(いえ)と為むこと、亦可からず乎。夫の畝傍山の東南(たつみのすみ)橿原の地を観れば、蓋し国の墺區(もなか)か、可治之(みやこつくるべし)」 続きを読む 神武創業の詔勅
能勢岩吉『皇道政治早わかり』読書ノート
皇道精神の普及徹底を目指して中正会を結成した能勢岩吉は、昭和十二年に刊行された『皇道政治早わかり』において、皇道政治の特徴を次の三点に要約した。
一、忠誠 皇室を奉じて国家の発展を図ること
二、民意を愛し之に満足を与へる政治でなければならぬこと
三、国民相和し、協力一致して、国家国民の幸福を図ること
第一の特徴に関して、能勢は、皇道精神の中心となる思想は、忠孝であり、これを煎じつめれば、「中」の精神であると思うと書いている。彼は、「中」という文字が不偏不倚、過不足なく、公平無私の状態を表していると同時に、物の中心を表現していると説く。そして、これをさらに遡って考えると、『古事記』において、天地開闢の際に高天原に最初に出現した神が「天御中主命」であることに鑑みても、この天地の全てを造った働きが「中」であると思われると主張する。
「此の『中』こそ、此の世界に活動してゐる公平無私で、慈悲至らざる無き創造の大生命であると思ふのであります」(能勢岩吉『皇道政治早わかり』中正会、昭和十二年、十七頁) 続きを読む 能勢岩吉『皇道政治早わかり』読書ノート
東亜同文書院大旅行
荒尾精の興亜の精神を引き継いだ近衛篤麿は、興亜のための人材養成という使命に邁進した。明治32年10月、彼は清国を訪れ、清朝体制内での穏健改革を目指す洋務派官僚、劉坤一と会談、東亜同文会の主旨を説明した上で、南京に学校を設立する構想があるので便宜を図ってほしいと要請した。劉坤一は「できるだけの便宜を供与する」と快諾した。こうして、翌明治33年5月、南京同文書院が設立され、荒尾の盟友、根津一が院長に就任した。ところが、北清事変のため同年8月に上海に引き上げなければならなかった。当初は騒乱が収まり次第南京に復帰する予定であったが、根津が抱いていた大規模学院計画を実現することになり、明治34年5月、上海の城外高昌廟桂墅里に東亜同文書院が開校された。以来、終戦までの45年間に約5000名の日中学生が書院で学ぶことになる。 続きを読む 東亜同文書院大旅行
近代デジタルライブラリーで閲覧可能な興亜論関連文献
森本藤吉『大東合邦論』森本藤吉、明治26年
荒尾精『対清意見』博文館、明治27年
副島種臣著、片淵琢編『副島伯閑話』広文堂、明治35年
宮崎滔天『三十三年の夢』国光書房、明治35年
北輝次郎『国体論及び純正社会主義』北輝次郎、明治39年 続きを読む 近代デジタルライブラリーで閲覧可能な興亜論関連文献
中野正剛関連文献
書籍
| 著者 | 書籍写真 | 書名 | 出版社 | 出版年 | 備考 |
|---|---|---|---|---|---|
| 室潔 | 評伝中野正剛 | 早稲田大学出版部 | 2021年 | ||
| 濱地政右衛門 | 憂国の士・中野正剛 | 海鳥社 | 2010年 | ||
| 中野正剛、小島晋治監修 | 我が観たる満鮮 復刻版(大正中国見聞録集成 第1巻) | ゆまに書房 | 1999年 | ||
| 室潔著 | ![]() |
東條討つべし : 中野正剛評伝 | 朝日新聞社 | 1999年 | |
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渡邊行男 |
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中野正剛自決の謎 | 葦書房 | 1996年 | |
| 中野泰雄 | 父・中野正剛 : その時代と思想 | 恒文社 | 1994年 | ||
| 中野正剛 | 明治民權史論 復刻版 | 葦書房 | 1994年 | 続きを読む 中野正剛関連文献 |
中山優関連文献
書籍
| 著者 | 書籍写真 | 書名 | 出版社 | 出版年 | 備考 |
|---|---|---|---|---|---|
| 中山優 | 中山優選集 | 中山優選集刊行委員会 | 1972年 | 東と西─思想論,中国論,日本論,故師近友─人物論,往事茫茫─自叙感懐等 | |
| 中山優 | 中国の素描 | 明徳出版社 | 1957年 | 師友選書 第11 | |
| 大川周明他 | 復興アジア論叢 | 國際日本協會 | 1944年 | 中山優「復興アジアと支那民族」服務 | |
| 中山優 | 支那論と隨筆 | 刀江書院 | 1940年 | ||
| 中山優 | 東亜連盟への途 | 大民社出版部 | 1940年 | 大民文庫 1 続きを読む 中山優関連文献 |









