乃木希典大将と『中朝事実』

元治元年(一八六四)年三月、当時学者を志していた乃木希典は、家出して萩まで徒歩で赴き、吉田松陰の叔父の玉木文之進への弟子入りを試みた。ところが、文之進は乃木が父希次の許しを得ることなく出奔したことを責め、「武士にならないのであれば農民になれ」と言って、弟子入りを拒んだ。それでも、文之進の夫人のとりなしで、乃木はまず文之進の農作業を手伝うことになった。そして、慶應元(一八六五)年、乃木は晴れて文之進から入門を許された。乃木は、文之進から与えられた、松陰直筆の「士規七則」に傾倒し、松陰の精神を必死に学ぼうとした。
乃木にとって、「士規七則」と並ぶ座右の銘が『中朝事実』であった。実は、父希次は密かに文之進に学資を送り、乃木の訓育を依頼していたのである。そして、入門を許されたとき、希次は自ら『中朝事実』を浄書して乃木にそれを送ってやったのである。以来、乃木は同書を生涯の座右の銘とし、戦場に赴くときは必ず肌身離さず携行していた。
日露戦争後の明治三十九年七月、参謀総長の児玉源太郎が急逝すると、山縣有朋は、明治天皇に児玉の後任として乃木を参謀総長に任命されるよう内奏した。ところが、天皇は、「乃木については朕の所存もあることじゃから、参謀総長には他のものを以て補任することにせよ」と仰せられた。そこで、参謀総長には奥保鞏が任命された。
他日、山縣が天皇に拝謁すると、天皇は「先日乃木を参謀総長にとのことであったが、乃木は学習院長に任ずることにするから承知せよ。近く三人の朕の孫達が学習院に学ぶことになるのじゃが、孫達の教育を託するには乃木が最も適任と考えるので、乃木をもってすることにした」
こうして、明治四十年一月、乃木は学習院長に任ぜられた。明治天皇は、就任に際して、次の御製を贈られた。

いさをある人を教への親として おほし立てなむ大和なでしこ

乃木は、学習院の雰囲気を一新するため、全寮制を布き、生徒の生活の細部にわたって指導しようとした。この時代、乃木は自宅へは月に一、二度帰宅するだけで、それ以外の日は寮に入って生徒たちと寝食を共にした。寮の談話室で、乃木は素行と『中朝事実』について、生徒たちに次のように語った。
「この本の著者は山鹿素行先生というて、わしの最も欽慕する先生じゃ。わしは少年時代、玉木文之進という恩師から山鹿先生を紹介せられ、爾来先生の思想、生活から絶大な感化指導を受け、わしが日本人としての天職を悟るに非常に役立つたというものじゃ」
乃木は『中朝事実』に真価について、「要はわが日本国本然の真価値、真骨髄をじゃな、よくよく体認具顕しその国民的大信念の上に日本精神飛躍の機運を醸成し、かくして新日本の将来を指導激励するということが、この本の大眼目をなしておるのじゃ」と述べ、その序文については、次のように語っていた。
「人は愚かな者で幸福に馴れると幸福を忘れ、富貴に馴れると富貴を忘れるものじゃ。高潔なる国土、連綿たる皇統のもとに生を享けても、その国土、その大愛に狃れると自主独往すべき根本精神を忘却し、いたずらに付和雷同して卑屈な人間と堕する者が頻々として続出する。これが国家存立の一大危機というものじゃ」
「どうじゃな、ここの中華とは中朝と同じく日本国家の事じゃ。これは決して頑迷な国粋論を主張しているものではない。
よきをとりあしきをすてて外国におとらぬ国となすよしもがな
と御製にもある通り、広く知識を求め外国の美風良俗を輸入して学ぶことは国勢伸張の秘鍵ではあるが、それは勿論皇道日本の真価値を識り、その大精神を認識した上でのことでなければならぬのじゃ。
盲滅法に外国人に盲従し西洋の糟を舐めて随喜し、いたずらに自国を卑下し罵倒するというのは、その一事すでに奴隷であって大国民たるの資格はない。国家興亡の岐路はそこにあるのじゃ。個人でも国家でも要は毅然たる独立大精神に生き、敢然と自主邁進するにある」(岡田幹彦氏は『乃木希典』展転社、平成十三年)
明治四十五年七月三十日、明治天皇が崩御され、大正元年九月十三日に御大喪が行われることとなった。殉死の二日前の九月十一日、乃木は午前七時に参内して皇太子と淳宮、光宮の三人が揃うのを待って、人ばらいをした。そして、「私がふだん愛読しております書物を殿下に差上げたいと思いましてここに持って参りました。いまに御成長になったら、これをよくお読みになって頂きたい」とお願いし、自ら写本した『中朝事実』を差上げたのだった。

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